ハンガク!

化野 雫

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第七十九話

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「平泉君、大変な役を引き受けてもらって本当にありがとう。
 あなたにこの役を引き受けてもらえて、私は本当に嬉しかった。
 あなたならきっとこの役を一番巧く演じてくれると信じてたから。
 実はね、脚本シナリオ書いてる時から主人公は平泉君を想定して書いてたの。
 そしてヒロインはもちろん緑川さん。
 二人以外にないって思ってたから、
 そう決まった時は小躍りしたくなる程嬉しかった」

 そんな僕に白瀬がそっと近寄り、耳元でそう囁いた。

 振り返ると白瀬が少し頬を染めて微笑んでいた。その笑顔がすごく純真で可愛かった事を僕は良く覚えている。

 そして、僕の記憶に刻まれたその笑顔は、『あの日』からずっと僕の心に鋭いナイフの様に突き刺さったまま抜ける事はない。

 そう、それは僕にとって永遠に逃れる事の出来ない『呪い』なったのだ。


 僕らは本番に備えて皆、少し早めに昼食を終えた。

 そして、いよいよ白瀬がシナリオを書いた彼女の作品である舞台が始まる時間がじわじわと迫って来た。

 僕らのクラスは誰もが緊張の頂点に居た。

 それは役者として舞台に立つ者はもちろん、裏方に回った者たちも例外ではない。もう他人の事など考える余裕などなかった。今までの稽古を信じ、クラスメイトを信じ、後はただ一つ、自分に与えられた役割を完璧にこなす事だけを必死考えていた。誰もが頭の中で何度も何度も自身の役割を繰り返しシミュレートしている様だった。


 僕は事前の計画通り、僕がこの時まで一人で練りに練っていた計画を相手役ヒロインの緑川にそっと耳打した。

「えっ……、与一あんた、それ、本気なの!」

 すると、反射的に緑川は素っ頓狂な声を上げた。舞台袖で作業していた裏方班や、シナリオを片手に最終調整をしていた役者班の連中が、その一瞬、僕らを見た。僕は彼らに背を向けたまま緑川に向かい、人差し指を口の前に立てた。僕の意図を察した緑川はすぐさま不自然にならぬようにその場をごまかした。さすがに本番直前だけあって、他の者たちは一度は僕らに向けた注意を再び自身の仕事に戻した。

 さすがこの辺りは頭の回転が速い緑川だ。だから、僕はこの計画を実行する気になったのだ。他の誰でもない緑川が相手役だからこそ、この計画は実行できるのだ。他の者では絶対に無理なのだ。

「大丈夫、他の演出などは今までのままでゆける。
 僕と緑川さえ上手く流せれば観客には不自然さは感じさせない」

 僕は緑川の目をじっと見てそう言った。そして自分自身に言い聞かせるようにもう一言付け加えた。

「絶対にこっちの方が劇としての完成度は高くなる」

「確かに私もそう思わないわけじゃなかったけど……」

 すると緑川も小さな声でそう呟いた。

 この時まで僕は、何となくだけど緑川なら僕の考えに賛同してくれると思っていた。だから、緑川のこの言葉は少し嬉しかった。

「でも京子はそれ知らないでしょ。
 ほかのクラスの人はまだしも、京子に黙ってそれはマズイんじゃない?」

 しかし、さすがこの頃から通称『委員長』の緑川だけあって冷静にすぐさまそう尋ねてきた。

「大丈夫、観客からの拍手と評判が良ければ結果オーライさ。
 僕だって勝手に変更を加えた事は君以外には言わない。
 これで得られる称賛は全部、白瀬の物にする。
 もし観客からブーイングを受ければ、
 その時は僕が勝手に改変してダメにしたって公表するさ」

 僕は緑川以外の者に聞こえない様に声を潜めながらも、一言一言、言葉を選び落ち着いた調子でそう緑川に囁いた。

「分かったわ、あんたがそこまでの覚悟があるなら乗ってあげる。
 私も、こっち方が良いとは思ってた口でもあるしね。
 その代わり、後で京子にはちゃんと謝っておいてね」

 少し考える素振りをした後、自身を納得させるかの様に一度うなづいてから緑川は静かにそう言った。

 この時、衣装を身に着けた緑川がすごく大人びて綺麗だったことを僕はなぜかよく覚えている。

 そしてあの日、僕が白瀬が書いたシナリオ通りにこの劇を終わらせていたら、僕はこれをきっかけに緑川と付き合いを始めていたかもしれないと思うのだ。

 実際、クラスの多くの者から、僕と緑川が密かに付き合ってるんじゃないか? と勘繰られることがあった。そこまで行かずともお互いに単なる友情以上の感情があると思われていた節がある。

 そんな噂を自身では笑って否定しながら、僕はほんの少し、その噂を嬉しく思っていたんだ。
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小説の匣
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