ハンガク!

化野 雫

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第四十話

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 思えば緑川は僕が一番苦しい時もいつも傍に居てくれた。しかし緑川は僕の傷だらけになった心を甘い言葉や愛撫で慰めてはくれたわけではなかった。それでも、誰もが僕に近づこうとしなかった時でも、緑川だけはそれまでと変わらずいつも笑いながら僕にちょかいを掛けてくれてたんだ。僕は今の今まで気がつかなかったけれど、それは緑川なりの深い深い、そうとても深い愛情表現だったのだ。

「僕は……」

 でも、ここで僕はその先の言葉が出なくなった。

 そう、この先の言葉を口にするなら、僕は確かに緑川を救う事が出来るかもしれない。でも、その代わりに僕は板額を失う事になるのだ。

 確かに、その愛の深さと時間を比べれば、板額より緑川を選ぶ事に正義はあるだろう。しかも今、緑川を異性として意識した僕には緑川を愛してゆく自信もある。

 一方、板額は緑川程僕の事を知ってる訳じゃない。板額自身は色々言ってるが、僕が板額の事を知ったのは、ほんの一週間前だ。しかも全部が板額ペースで、なし崩し的に板額は僕の彼女に収まった。その事を想えば、緑川が言った様に板額こそまさに『泥棒猫』なのだ。

 僕はだからと言って、何故か板額の事をどうしても諦める事が出来ないのだ。僕の心の奥底、本能に近い部分が板額を手放なしてはダメだ、と静かに囁き続けている気がしていた。


「ここまで来たら与一の判断に任せよう。
 巴も、そして僕も、それなら諦めがつくんじゃないかな?」

 そんな僕の心の葛藤を知ってか知らずか、板額が静かにそう僕を促した。そして、その言葉を聞いた緑川もゆっくりと立ち上がり涙をすすりながら頷いた。

「さあ、与一、君はどうするんだい?」

 それを見て板額が僕を向き直って尋ねた。その表情は微笑みを浮かべ柔らかい物だったけれど、その瞳には嘘やうわべの言葉を許さぬかの様な鋭い光が宿っていた。


「ごめん、板額、緑川……僕は選べないよ。
 どっちも好きなんだ。
 信じてもらえないかもしれないけど、
 今の僕は二人とも同じくらい大切なんだ。
 それはただ単に彼女としてじゃない。
 傍に居て欲しい人として、とてもとても大切に想えるんだ」

 一度大きく深呼吸をしてから僕は、都合の良い訳に聞こえるかもしれないけれど、ここで思ったことを思い切ってそのまま口にした。

「与一……」

 緑川はそう囁いて僕を涙に濡れた目で見た。その表情は嬉しく微笑んでいる様でもあり、また深い悲しみをその瞳に浮かべている様でもあった。

「まったく君はどうしてそう正直なんだろうねぇ」

 ところが板額の方は、僕を見てそう言うと笑った。こっちが死ぬほど悩んで出した言葉を笑われて僕は少しむっとした。これなら緑川を選ぶって言っちゃえば良かった、とこの瞬間僕はマジで思った。

「どう言う意味だよ、板額」

 僕はあからさまに不機嫌な表情を浮かべて板額に言った。

「何で君は僕と緑川の二択なんだい?」

 板額は思いもよらぬことを言った。

「それ以外にどんな選択があるんだ、板額」

 僕は率直にそう尋ねた。そう尋ねながら、今僕が言ったどっちも選ばないって選択もあるから三択だって言おうとも思ったけどやめた。そりゃへ理屈って奴だ。そう言う議論では板額に敵わないことぐらいもう僕は分かってる。

「人愛する事に関して君はもっと欲張りになって良いんだ。
 今の君の気持が本当なら、君の答えはそうじゃないだろ?」

 僕の問い掛けに板額はそう質問で返して来た。

 そりゃ僕だって分かってる。選べなければ選ばなければ良い。それは一見僕の出した答えと同じの様に見えて板額が言わんとしてるのは全然違う。僕は選べないで立ち止まってしまった。板額の言ってるのはもう一歩進めた答えだ。

 そう、板額が言ってる事は、選べぬなら両方とも手にすれば良いって事だ。

 しかし、そうしかしだ。

「それは不誠実って奴だろ、板額。
 それは世間一般じゃ許されぬ事じゃないのか?」

「確かにこの国の法律は重婚を禁じているよ。
 でも一度に二人以上の人を愛する事を禁じてるわけじゃない。
 君が、僕と巴の両方に誠実である事が出来るのであれば、
 無理に一人を選ぶことはない。
 二人とも選んでしまえば良いんだ」

 板額は笑いながらそう言った。

 その言葉に僕も巴も一瞬、唖然としてしまった。
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小説の匣
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