ハンガク!

化野 雫

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第三十七話

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 そして僕はこの時、その身長以外に板額と緑川の決定的な違いに気がついた。それは僕の胸よりやや下あたりに当たっている二つの膨らみの存在感だった。板額のは何だか控えめな感じだったのに、緑川のそれは、はっきりとその存在を僕にアピールしていた。

 普通に制服の上から見ていると板額のそれと、緑川のそれはここまで違うと僕は思っていなかった。前にも触れたが僕のクラスには歩くだけでゆさゆさ揺れるのが分かるほど圧倒的な存在感を見せる『躍動する肉団子』なんて呼ばれる女の子がいる。そう言う娘たちと比べて緑川のは明らかに控えめだった。実際、今の今まで僕は緑川のそれもきっと板額と似たり寄ったりだろうなんて漠然と思っていたのだ。しかし、こうして触れてみると僕が知っている板額のそれは緑川のとは明らかに存在感が違っていた。

 そして僕は板額の時とは違う胸のもやもやと言うかどきどきを感じた。それは僕を見上げる潤んだ瞳と相まって、なんて言うか板額の時よりと強く緑川に『異性』を感じたのだ。もちろん、それは決して板額の女の子としての魅力が、緑川に劣るって意味じゃない。板額はそれでもすごく魅力的な女の子だ。少なくとも僕はマジでそう思っている。でもその魅力が緑川のとちょっと違うというか、何だか異質の物みたいだと、僕はその時、漠然と感じたのだ。

 冷静に考えればこれはかなりの緊急事態なのに、何故か僕はぼんやりそんな事を悠長に考えていた。人間ていう奴はこう言う時、パニックを起こして半狂乱になるか、あるいは今の僕の様に妙に落ち着き払ってどうでも良い事を長々と考えてしまうか、の両極端になる生き物なのかもしれない。


 そして、事態はこれで収まる事はなかった。さらに複雑な事態へと突入していったのだ。

「好きなの、与一、あなたの事が……」

 緑川のリップクリームさえ塗られてない質素な唇が小さく動いた。喉の奥から必死に絞り出した様な小さな声だったが僕の耳には確実に届いた。でも、その時の僕にはその言葉の意味がすぐには理解できていなかった。

「板額なんかに与一を渡さない。
 私の方がずっと長く、そしてずっと深くあなたの事を愛してるだもの」

 そう囁くと、緑川はつま先立ちになり背伸びをした。緑川の目が僕と合った。今にも泣き出しそうな売るん瞳がゆっくりと閉じられた。そして顔を少し傾けつつ緑川はさらにその顔を僕に近づけて来た。

 ああそうか……僕は緑川の言葉がいまだにはっきりと理解出来てはいないのに、ここから起こる事だけははっきりと分かった。ほとんど無意識に僕は緑川の背中に両手を回しその細い体を抱き寄せていた。

 こう言う事はやはり一度でも経験があると違うものだと僕は思った。こんな時男は何をどうすれば良いのかが自然と分かってしまうのだ。

 緑川の柔らかい唇が僕の唇に触れた。そして、触れた途端、すぐに離れた。板額のそれと違って緑川の唇は柔らかかったけど乾いていた。きっと彼女はすごく緊張していたのだろう。

 僕は緑川の背中に回した手の力を緩めようとした。

 ところがである。一度は離れた緑川の唇が再び僕の唇に押し当てられたのだ。同時に緑川の両手が僕の首に巻き付いて来た。そしてするりと歯の間に柔らかい物が入って来た。

 あとはもう板額との経験があるだけに、こっちだって自然と何をどうすれば良いか分かっていた。少しおおどおどしてる緑川を僕がリードした。すごく長い間、僕と緑川は大人のキスをしていた様に思えた。でも後で分かったのだが、この時もまた瞬きする程の短い間でしかなかったらしい。まったく、何故、こう言うう時の時間はすごく長く感じるんだろう。嫌な事は長く感じると言うが、こんなに良い事でも長く感じるのはすごく不思議だった。


「私にこんな事したんだから責任取ってよね、与一」

 唇を離すと同時に緑川は僕から一歩後ろに離れておっそろしい事言い放った。

 同時に僕はとんでもない事をしてしまった事に気がついた。

『これは浮気では?
 僕は板額を裏切った事になるんじゃないのか?』

 同時に僕の背中に冷たい汗がつぅっと一筋流れ落ちた。板額にバレた殺されるかもしれない、とマジで僕はその時思った。男なら誰しもが憧れる心地よい背徳感ではなく、僕は何故か恐怖の方を強く感じていた。

 緑川が板額には知られるな、と言った理由を今初めて僕は正しく理解した。
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小説の匣
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