ハンガク!

化野 雫

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第十六話

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「与一の意地悪……」

 いつもは男言葉の僕っ子なのに、この時の板額は何故か急に可愛らしい女の子言葉でそう言った。そして、少しすねたような顔をした。笑顔も可愛いが、こいつのこんな顔もまた、たまらなく可愛い。黙ってれば緑川みたいなクールビューティーなのに、この変わり様は何んなんだ。ホント、頼むからそんな顔、僕以外に見せるんじゃないぞって、すごく言いたかったけど僕はぐっと我慢した。だって、それ言ったらなんか負けの様な気がしたのだ。

「他の奴が居ない時なら『板額』って呼んでやっても良いぞ」

 そして僕は、そんな板額の表情に負けて、顔を逸らしながらも小声でそう答えていた。

「嬉しいな……」

 板額はすごくやわらかで女の子らしい微笑みを浮かべてそう僕の耳元で囁いた。板額の息が耳にふわりと当たってすごくくすぐったかった。でも何だか耳以上に股間がむずむずとむず痒く感じた。白状すると、その夜、僕は初めて、くどいようだが神に誓って初めて、板額を『夜のおかず』にしたのだった。

 たまたま一緒に市電に乗り合わせた葵高の生徒の何人かはそんな僕らをちらちら横目で見ていた。きっと彼らにはリア充の羨ましいカップのいちゃラブに見えるのだろう。見る事はあっても見られる経験のなかった僕には今まで人前でああいう事をする連中の気持ちが理解できなかった。でも今なら少し分かる気がする。確かに見られるのは恥ずかしいが、少し誇らしい気もあるのだ。これが『持つ者の優越感』って奴だろうか。


「与一の手って暖かいね。
 昔のまんまだね」

 不意に板額がそう呟いた。気がつくと板額の手を握る僕の手を、もう片方の板額の手が愛おしそうにさすっていた。僕はこの時まで自分がいまだに板額の手をしっかり握ったままなのをすっかり忘れていたのだ。

「うわっ……ごめん……」

 僕は思わず板額の手を離した。

 そして、板額の『昔のままだね』って言葉が心に引っかかった。少なくともこの日まで僕は板額の手を握った事などなかったはずだ。なのに何故、板額あんな事言ったのかすごく不思議だった。

「良いじゃないか、与一。このままで!
 僕らは、今日の事で全校生徒公認の仲なんだからね」

 板額は少し怒った様にほおを膨らませてそう言うと今度は自分から僕の手を握った。

「なんかちょっと恥ずかしいだろうが……」

 僕はそう言いながらも板額の手を払う事はせず、逆に自分からも板額の柔らかいけど少しだけ冷たい手を握り返した。そして同時にさっき感じた疑問もすぐにどっかに消し飛んでしまった。


 やがて市電はこの街を南北に流れる川を跨ぐ橋を渡った。

 この橋を渡ればもう二駅で僕の降りる停留所になる。

 この停留所から歩いて十分でこの街のシンボルでもあるお城まで行ける。そしてかつてはここがこの市最大にして一番栄えていた繁華街だった。しかし、十年ほど前だろうか学校の近くにシネコンまで入る大型ショッピングモールに出来て人の流れは完全にそっちに流れてしまった。その為、ここの商店街はかつての賑わいもなく、閑散としてしまった。お城もお城で、市としては色々手は打っているのだが、江戸幕府を開いた英雄の生まれた城としてはメジャーになり切れていない感が強い。

 かく言う僕の住むマンションはこのお城と国道一号線を挟んだ向かいにある。街自体は確かに寂れてしまい、このマンションも名古屋の百貨店が撤退した跡地に出来たシロモノだ。しかしながら、このマンション、市のシンボルお城の真向かい、有名な夏の花火会場のすぐそばと言う事もあり、市民からは『億ション』と言われる高級マンションである。

 もともと僕は転勤の多いサラリーマンの息子だった。少し前まではこんな高級マンションなど縁遠い物だった。ところが親父が中学一年生の時に病気で突然亡くなった後、残された母が何をトチ狂ったかいきなり小説を書いてとある新人賞に投稿したのだ。残念ながら新人賞は逃したものの、ある編集者の目に止まりそれが出版されてまさかの馬鹿当たり。今では結構売れっ子の大衆娯楽作品の作家になって印税で結構な収入がある。それで、借家住まいから思い切ってこのマンションの一室を買ったのだ。
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小説の匣
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