ハンガク!

化野 雫

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第十五話

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 その後は、ただただ学校から無事に抜け出す事だけを考えていたから良く覚えていない。

 幸い、あの前代未聞の告白ショーを観戦していた生徒達は、その事を語り合ったり広めたりするのに夢中で大部分はまだ校舎内に残っていたいたらしい。なので、僕と板額は途中、そう言う連中にとっ捕まることもなく学校の敷地から脱出出来た。

 気がつくと僕は板額の手をしっかり握ったまま、市内を南北に走る市電に乗っていた。


 この市電、僕が生まれるもっと前、戦前からある路面電車で、何度も廃止の危機にさらされながらも市民の愛着が深くかろうじて生き残っていた物だった。僕らの通う葵が丘高校はその名の通り丘の上にあり、そこを歩いて五分ほど下った旧幹線道路をこの市電は走っている。幹線道路と言っても今はバイバスが出来て名実共にそちらが幹線道路になっている。そのおかげで路上を走るともすれば邪魔者扱いされてしまうこの様な市電が生き残れたのだ。

 ちなみに、僕は毎日朝夕、この市電を数駅南方向へ行った停留所と学校下の停留所間で利用している。そして葵高の生徒も多くもこの市電を利用している。北へ下れば終点がJRの東海道本線の駅、南へ数駅上がれば私鉄の駅に接続しているので葵高校の生徒にとってはしごく便利なのだ。欲を言えば学校の前に停留所が良いのだがそれは欲張りと言うものであろう。例え線路を引っ張ってもあの可愛いらしい市電が葵高のある丘を登れるとは僕には思えない。

 決して速い訳ではないが、ことこと走るこの市電が僕は好きだった。昔は朝夕のラッシュ時は乗り切れない程乗客が居たが、さすがに今はそこまでのラッシュがないのがまた良い。適度な混雑具合が僕の様な者にまた心地良いのだ。空き過ぎるとかえって目立ちすぎて居心地が悪いのだ。気配が消せる適度な人数が一番安心できる。


「あっ……ごめん、慌ててお前まで市電に乗せちまった」

 僕は手を握ったまま長椅子に並んでちょこんと座っている板額を見てそう言った。

 そうなのだ。僕はまだ板額の家のある場所を知らない。もしかすると反対方向だったかもしれないし、そもそも市電を利用する必要のない所だったかもしれないのだ。住所などが公開される名簿などと言う物が全校生徒に配布されていた昔ならまだしも、今は個人情報保護とか言ってクラスメイトでも親しくならないと住所や電話番号などは分からないのが普通なのだ

「心配しなくて大丈夫だよ、与一。
 僕もこっちだから」

 そう言った板額はにこにこと嬉しそうな笑みを浮かべていた。

「なんだかうれしそうだな、お前」

 無理やりあの場から拉致した様な格好になったと思っていた僕はそんな板額に尋ねた。

「だって、やっと君と一緒に帰れるんだからね。
 それに、さっき教室で与一が僕の事『板額』って呼んでくれたし」

 そう言って板額はより一層嬉しそうに笑った。本当、こいつの笑顔は男の心を正確に撃ち抜く。さすがの僕もこの笑顔があれば白飯十杯はゆけそうな気になる。

 んっ? 誰だ、白飯じゃなく『夜のおかず』だろうって言う奴は! 誓ってこの時はまだ板額を『夜のおかず』にした事はなかった。少なくともこの時まではな。

 ちなみに僕はさっき教室で板額の事を名前で呼んだのはほとんど無意識だった。めったに話をする事のない女子は言うに及ばず、やたらと僕に絡んでくる緑川だって名前で呼んだ事はない。だいたい、この歳頃の男の子にとって、女子を名前で呼ぶと言う事は特別な意味がある事なのだ。それなのに僕はあの時、何故か板額を初めて名前で呼んだのだ。

「そ、そうだったか?」

 僕は無意識とは言え名で呼んだ事ははっきり覚えていたが、あえてそうとぼけてみた。

「そうだよ、確かに板額って呼んでくれたよ」

 こいつ、本当にうれしそうだな、僕はその時の板額の表情を見てそう思った。

「じゃあ、もう呼ばない。
 やっぱ、他の女子みたいに烏丸さんだな」

 僕はあえて意地悪をしてみたくなった。まあ、これは好きな女の子ほど意地悪したくなるって歳頃の男心って奴だ。
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小説の匣
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