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三章 漆黒
侵食の波動
しおりを挟むまるで水の中。
少しぼやけた視界、栓に閉ざされた様な聴覚。思考能力は著しく低下し、状況判断もままならない。
それでもミラは必死に頭を働かせた。
さっきまでの出来事を、振り返る。
――その必要はない。
湧き上がってくる怠惰な感情を無理矢理抑え込む。
いつの間にか現れた魔族。気付いた時にはデヴィスは貫かれていた。魔族の太い腕で。
地に転がったマルスは直ぐに起き上がり目を見開いていた。そこで気付いた事は、デヴィスがマルスを突き飛ばしたという事。彼は誰も気付かなかった気配に、ただ一人勘付いたのだろう。
一瞬止まった空気。
しかし皆幾多もの戦いを経験した者だ。
驚きや哀しみを一旦仕舞い込み、迫る魔物に対応し、三日月の様に歪ませた口で嗤う魔族に警戒する。
しかし戦場の空気が変わった事は事実。
それを感じ取れる力を持った弱き者が、ここにはいた。
勇者スイだ。
彼は誰も感知できない速度でデヴィスの前に現れた。
そして、彼は自分を失った。
時に感情とは、行動に大きく支障をきたす。スイとてそれをわかってはいただろう。
それでもきっと抗えなかったのだ。押し寄せる哀しみに。
ミラは、普段のスイからは想像も出来ない様な叫びを聞いて、急いで走り出した。
だが、何かが自身を通り過ぎた時、ミラはもう動けなくなっていた。否、動きたくなくなった。
歩く事も、座る事も面倒で、立ったまま力を抜いて、見ることも聞くことも喋ることもしたくない。出来れば思考も止めてしまいたいが、辛うじて残った精神力で事態を把握しようとする。
――何もしなくていい。
いけない。油断すると怠惰な感情に押し流されて思考能力まで失いそうだ。
ミラは慌ててぼやけた視界の中で周囲を見回す。身体はどうしても動かない為、範囲は狭い。だが戦場の後方にいた為、おおよそ把握出来た。
どうやら今の戦場で動いているのはスイと魔族、この二人だけだ。他の者は恐らく、自身と同じ状態であろうとミラは判断した。
ぼやける影が一つ、立ち上がる。
あれはスイだ。魔族は楽しそうに揺れている。いや、楽しそうというのはミラの主観であって、理由があって揺れているのかもしれない。ただ、それが不気味な様子である事は間違いない。
直後、揺れていた影が消えた。
低下した視力ではよく見えなかったが、スイが魔族を飛ばしたのだ。手段はわからない。殴ったのか、魔法か。魔族は大きく飛ばされ、砂煙をあげながら立ち上がる。
今度はスイの影が消えた。
急いで探すと、すぐに見つかった。立ち上がった魔族は再び地面を転げ回り、スイはその側に立っていた。二人の影に違和感を抱いたミラは、直後に気が付いた。
魔族の片腕が捥げていた。
そして、それをやったスイは、手に持ったソレを放り投げた――動かない魔物の群れに向かって。
魔族の腕は激しく燃えながら、魔物の群れを焼きながら突き進む。かなりの量が減っただろう。
そしてまた、スイは何かを投げた。
ミラはだんだん思考能力が低下してきて、よくわからなかったが、合計四回、スイは何かを投げていた。その四回の投擲で魔物の群れは一気に数を減らしたし、魔族はコンパクトになり殆ど動かなくなっていた。
それでもスイは魔族を蹴り上げ、殴り飛ばし、地面に叩きつけ、怨みの全てを刻み込もうとしている。しかも魔族は生きたままの様だ。
――全て彼に任せちゃえばいいわ。
このままスイが全てを解決する。少し様子がおかしい様だけど、普段の彼は絶対にしない様な事をしているけど、彼に任せて自分は何もしなければいい。とても素敵な提案だ。
そういえば上位の闇魔法で『侵食の波動』というものがあったとミラは思い出した。
術者を中心に波動を出し、周囲の者の精神汚染を促す魔法だ。しかしスイは闇魔法を使えなかったはずだし、これほど大規模な精神汚染など人族の力で可能なのだろうか。
――どうだっていいじゃない。
そう、どうだっていい。このまま思考を止めて意識も手放してしまえばどんなに心地よいだろうか。きっとこれは精神汚染なんかではない。
もう勝負はついた様なものだし、スイは――スイはどうなるのだろう?
スイは、スイは――
――彼を救える者なんていないんじゃない?
そうか、その通りだ。
ならば仕方がない。
自分にできる事などもうない。
ミラは身体の奥底まで染み渡った波動に身を委ね、そっと瞳を閉じる。
ぼやけた視界の中で黒い影が過ぎるのを確認したが、それの正体など興味はなかったし、それがスイをどうするのかも、どうでもよかった。
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