象牙の塔

赤井夏

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象牙の塔

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 年中温かい風が体を包み込む悠久の森の先の、陽の光も通さぬ禍々しい樹木が鬱蒼と茂った常闇の森を抜けたもっともっと先の、絶え間なく冷たく乾燥した風が吹きすさぶ、凍てついた大地のど真ん中にその塔はありました。塔は天を貫くほど高く、十リーグ先からでも建っているのが見えるほどでした。装飾のないただつるりとした、でも光を跳ね返さないざらついた質感の乳白色の塔を、悠久の森の人々は象牙の塔と呼んでおりました。象牙の塔の周囲には不毛の荒野が広がっているのみで、他に建物は何一つなく、獰猛な獣や血も涙も無い人喰い野人が徘徊しています。ごく稀に丘の麓にある常闇の森を抜け出すことを成し遂げる旅人がいますが、彼らは不幸にも獣や野人の餌食となる運命にあるのです。

 そんな危険な荒野に一つ寂しくそびえている象牙の塔には、サナッチュという枯れ木のような老人がたった一人で住んでいました。サナッチュというのはこの地方の古い言葉で「現実から目を背ける」といったような意味ですが、これは老人の本当の名前ではありません。例によって悠久の森の住人たちが勝手につけた名前です。彼の本当の名前はインティハージュといいました。

 老人がいつから象牙の塔に住んでいるのかは定かではありません。昔から北方の果てに気のふれた老人が奇妙な白い塔に住んでいるという伝承があるのみです。象牙の塔の由来もよく分かっていません。サナッチュが百年かけて一人で建てたという説や、一攫千金を掴んだ大富豪が道楽で建てた塔に老人が住み着いたという説などがありますが、どれも信ぴょう性はありません。しかしかなり長いこと老人が象牙の塔に居を構えていることは確かです。

 塔の一室には膨大な量の書物が散乱している書斎があり、老人は大体いつもその部屋で書物を読みながら一日の半分を過ごしています。ひとたび揺り椅子に座れば、ほとんどの場合日が落ち始めるまで立ち上がりません。彼はいつしか食べることも飲むこともやめました。だから長い間地下の食物庫は空っぽで、埃にまみれ蜘蛛の巣が張りたい放題です。彼は何十年も地下室に立ち入っていないため定かではありませんが、きっとそうに違いありません。

 そうこうするうちに日が暮れてきました。老人は小窓の外が橙色になったのを見定めると、重い腰をあげて揺り椅子から立ち上がりました。手に持っていた書物は部屋から出て行きがけにポイと床に放りました。老人は片付けるということを知りません。どうりで部屋の床には足の踏み場がないくらいにたくさんの書物が散らばっているわけです。老人は腰を曲げながら書斎の左隣の扉を開けました。埃っぽい部屋に入ってまず目につくのは大きな天球儀です。これは果てしなく広がる空にぽつぽつと光っている名のある星や、それを連ねてできた星座などを象った模型です。幾重にも重なった輪は緯線や黄道を示しており、その中には地球を表す小さな球がありました。くすんだ真鍮で作られた幾何学的な出で立ちをしたそれは、そこにあるだけで雑然とした部屋をたちまち荘厳でしとやかな雰囲気に変えており、老人のお気に入りです。とはいっても長い間本来の使い方はされておらず、それこそただのインテリアと成り果ててはいますが、老人の心の中ではいつまでも特別扱いされている物の一つです。

 さてその部屋の中央にでんと構えている天球儀をぐるりと迂回し、その途中にあったこれまた埃をかぶった二つの天体望遠鏡や、竹の竿や何やらよくわからない刺股のようなもの、広げるとかなり長そうな折畳式のはしごなどを通りすぎ、彼はニスの剥げた古めかしいチェロを手に取って、重たそうに飛び出たエンドピンを引きずりながら部屋を後にしました。

 塔の内部はドーナツ型で、部屋は全て外側に面しており、部屋の外には円形の廊下があって、途中には上下の階に続く梯子がかかってあります。塔の中央、すなわちドーナツの穴にあたるところには、機械仕掛けの昇降機が通るための吹き抜けの空間がありました。老人は石造りの昇降機の架台に乗ると、脇のレバーを目一杯押し上げました。すると、錆びついた歯車と鎖とがギシギシと古めかしい音を立てながら、架台を呆れるほどゆっくりと上へ引っ張り上げ始めました。架台や昇降路に灯はありません。しばらくの間、かび臭い暗闇が老人を覆い隠します。しかし何十分、それとも何時間かすると、頭の上にわずかばかりの光が差し込み始めました。それは象牙の塔でも到底届きやしない、はるか上空に浮かぶ月の明かりでした。もうすっかり外は夜になっていました。すると老人の胸はドキドキと高鳴り、手は震え始めました。それを抑えるかのように老人はチェロを抱きながら胸の前で手を組み「今夜こそ上手くいきますように!」と何やら心の中で神に祈りました。

 そうこうしているうちに、昇降機は彼を塔の屋上まで送り届けました。十リーグ先からでも見える塔は伊達じゃありません。下を見下ろせばどんな屈強な男でも足がすくんでしまうほど地面は遥か遠くにあります。遠くを眺めれば悠久の森でも、もっと奥の大麦町や、もっともっと奥にそびえる天殴山をも見渡せるほどです。でも天気が天気ならばそれすら適いません。塔の下をたくさんの雲が覆ってしまうのですから。とはいえ、さすがに空いっぱいに散りばめられた星や、昇降機の中で見えたよりも大きな月に手は届きません。でも老人はあの綺麗な星をこの手で掴みたいという夢をなんとしてでも叶えようと毎夜屋上へ足を運んでは、書斎に詰め込まれた書物に記述されている星握術を片っ端から試しているのでした。竹の竿で星を突き落とそうとしたり、自分で発明した機械で星をつまもうとしたり、危険をかえりみず梯子を天にかけて登り、直接星を取ろうとしたりなど、ありとあらゆる手を尽くしましたが、一回も成功したことはありません。今夜は遥か東の小さな島に語り継がれている物語をヒントに、チェロの音色で星を降らせようという試みです。早速老人は深呼吸をすると、静かに椅子に座って弦に弓をつがえ、ゆっくりと弾き始めました。きっと今夜も上手くいかないでしょう。でも老人はへこたれることはありません。きっと象牙の塔にこもり、何度でも馬鹿らしい挑戦をし続けては、死ぬまで夢を追うことでしょう。バリトン歌手の歌声のような深みのあるチェロの音が星空の下でそっと鳴っています。その旋律は老人の孤独を現すように悲しくもあり、不屈の精神を現すように雄大で力強くもありました。
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