神在月の忘れ物

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3章

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「なるほど、そういうことじゃったんか。これは嫉妬神様に怒られるぞ」

 嫉妬神様の紳士さんは僕の説明を受け、深く項垂れる。
  
「大丈夫ですよ。これは神さんの力が暴走した結果です。嫉妬神様の紳士さんの所為ではありません」

フックさんの優しさに嫉妬神様の紳士さんは頷くだけだった。それほど、嫉妬神様は怒ると怖いのか。

「おう!酒はまだか!」

 嫉妬神様の紳士さんの背中に乗った神さんは、江戸っ子のように大声を出す。僕とフックさんはその度、ため息を漏らす。
  
「フックさん、神さんは本当に凄い方なんですか。自分の力を制御出来ないようですが、何時になったら本当の神さんに出会えるんですか?」
「公平さん、神さんのことを信じませんね?」

 さっきまでの笑顔は無く、フックさんは真顔で僕に問い掛ける。僕はその圧力に負けて何も返事が出来ない。フックさんはそんな僕を見て、微笑みながら口を開く。
  
「無理もありませんね。公平さんはまだ神さんに会ってませんから。神さんの力は本当に大きい力なのです。神さんは自分の力を使いこなすことが出来る方です。ただ生きていく上で失敗は付き物です。神さんもちょっとした失敗で自分の力が暴走したのです。まぁ簡単に言うと、おっちょこちょいと言うか、ドジっ子と言いますか。そのようなものです。でも神さんだってやる時はやる方ですよ。気長に待ちましょう。神さんの記憶が戻ってくることを」
「分かりました。気長に待ちます」
「おい、待っても酒は来ないぞ。早く酒屋に行け!」

 僕とフックさんは再びため息を吐いた。この酔っ払いを早くどうにかしなければ。

 時刻は七時を過ぎ、大勢の観光客は本島へと帰って行く。それに合わせてお土産屋や、飲食店もシャッターを閉める。商店街は昼間ほどの賑やかさは無く、祭りの後にも似た風景が広がる。そんな寂しい商店街の真ん中に一人の少年が膝を抱えて座り込んでいる。明らかに不自然な光景だ。その少年の横を人々は知らん顔で通り過ぎている。
 どうしたのだろうかか。僕は気になって少年に話しかける。
  
「どうしたの。お腹でも痛いの?」

 僕の声に気づいた、少年は僕の顔を見て徐々に顔を歪ませ、最終的には大声を上げて泣き叫ぶ。
  
「ど、どうしたの?僕は怖い人じゃないよ。優しい人だよ」

 僕の声は少年には届かず、ひたすら泣き続ける。僕は周りの視線を気にする。しかし、周りの人達は何も無いかのように通り過ぎている。
  
「何泣かしとんじゃ。お前は?」

 嫉妬神様の紳士さんが僕を睨む。違います、僕は優しく呼びかけただけです。僕は少年と同じ視線になるため、膝を曲げる。
  
「どうしたの?迷子になったの。お兄さんが助けてあげるよ」
「マッ、ママが…」

 少年は泣きながら説明する。きっとお母さんと別れて迷子になってしまったのだろう。
  
「フックさん、どうしますか。交番に連れて行きますか?」
「そうですね。ただの迷子なら交番に連れて行けるのですが…」

 フックさんは僕の肩から飛び降り、少年の目の前で止まる。
  
「ボク、自分の名前分かる。それとお家の場所とかお母さんの顔とか分かる?何でも良いから教えて下さい」
「お母さんは正義のヒーローなんだ…それ以外は分かんない」

 梟が喋ることに驚いた少年は泣くことを忘れて小さく呟く。これはもしかして。
  
「きっと神さんの力で忘れてしまったのでしょう。これでは交番に行ってもどうすることは出来ません。ここは私達で、この子の母親を探しましょう」
「分かりました。でも神さんはどうしましょう?」

 神さんは酔い潰れて寝てしまった。このままだと正直言って邪魔だ。
  
「そうですね。嫉妬神様の紳士さん、神さんを嫉妬神様のお家まで運んで下さい。この子は私達で解決しますので」
「俺も早く、背中の荷物を降ろしたいと思っていたんじゃ」

 嫉妬神様の紳士さんは、神さんの事を荷物という失礼な表現をしてその場を去っていた。あの馬鹿、嫉妬神様に怒られてしまえばいいんだ。
  
「それでは私達も行きますか?」

 嫉妬神様の紳士さんを見送った後、フックさんが僕の肩に飛び乗る。
  
「行くって何処にですか?この子の母親を見つけるには何も分かりませんよ。強いて分かっている事は、お母さんが正義のヒーローだということだけ」

 ヒーローとは一体何のことなのだろうか。何かのアニメなどと勘違いしているのではないだろうか。
  
「私に考えがあります。まずはフェリー乗り場に行きましょう」
「はい」

 フックさんの言葉の真意が分からないまま、僕達はフェリー乗り場へと足を動かした。
  
「ボク、何か覚えていること有る?」

 フェリー乗り場に向かいながら、少年に尋ねる。少年は少し考えて頭を四五度傾ける。流石にこの質問は分かりにくかっただろうか。
  
「公平さん、その質問は難しいですよ」

 僕が思っていたことをフックさんに指摘される。僕はすみません、と謝る。
 しばらくして、僕達はフェリー乗り場に到着した。もう夜だということで、観光客は少ない。僕達はフックさんの指示通り、そのまま本島が見える、海沿いの道に向かう。
  
「フックさん、ここで良いんですか?」
「はい、ここで充分です。もう少しだけ待ちましょう」

 何を待つのだろうか。僕がそう思っていると、フェリー乗り場からちょうどフェリーが出てきた。するとフックさんは少年の頭へと乗り移る。
  
「ボク、あの船に乗ったことがありますか?」
「…無いよ。でも乗ってみたい」

 少年はそう言って、フェリーが見えなくなるまで、その姿を目に焼き付けていた。
  
「これで分かりましたね」

 フックさんが僕の肩へと戻ってくる。
  
「何が分かったんですか?」

 僕にはさっぱり意味が分からない。
  
「公平さん、少しは頭を使いましょう。この子はあのフェリーに乗ったことが無いと言っています。それはこの島から出たことが無いという意味ですよ。だからこの子の母親は宮島の何処かに居る筈ですよ」
「なるほど!そういう事か」

 僕は納得、と手を叩く。流石はフックさんだ。僕は少しばかり諦めかけていたのに、これでお母さんを見つけやすくなった。
  
「でも、この宮島の中に居ると言いましたが、これからどうするんですか。まさか宮島を歩き回るつもりですか?」
「そうですね。とりあえずは、そういうことになります」
「そうですか…」

 フックさんの言葉を聞いて、僕の足は悲鳴を上げる。今日はもう歩きっぱなしで、足が攣りそうだ。
  
「それでは行きましょう」

 フックさんの掛け声で僕達は再び歩き始めた。しかし、少年はその場を動かない。
  
「どうしたの、まだフェリー見たいの?」

 少年は違う、と首を横に振る。
  
「なら疲れたの?」

 少年は首を縦に振る。どうやら母親を探して歩き疲れたようだ。しかし、こんな時間にゆっくりとしている暇はない。早くお母さんを見つけないと、警察沙汰になってしまう。僕は少年の身体を持ち上げ、自分の肩へと乗せる。肩に乗っていたフックさんは慌てて飛び降りる。
  
「これで大丈夫。しっかりと頭を掴んでいるんだよ」
「分かった」

 少年は僕の頭、ではなく髪の毛を力強く握り締める。
  
「痛い、痛い!」

 僕が痛がるも少年は、力強くその手を離さなかった。僕の髪の毛はどれぐらい抜けるのだろうか。

 かれこれ一時間は歩いただろうか。少年のお母さんは見つからず、ただ時計の針だけが動く。
  
「ちょっと休憩しましょう」

 流石に歩き疲れた僕は、公園のベンチに座り込む。少年は僕の肩が気にいったのか、降りようとしない。仕方がないので肩車したままベンチに座る。
  
「フックさん、このままだと一生見つからないですよ。どうしましょう」
「どうしましょうと言っても探すしかありません。せめて何か手がかりがあれば…ヒーローだけでは、私も考えようがありません」

 フックさんも半分諦めたように天を仰ぐ。
 僕は何かヒントをと思い、少年に話しかける。
  
「ねぇ、もうちょっと知っていることない?何でも良いよ」
「………」

 肩に乗っている少年から返答が無い。僕は少し腹が立ち、少年の足を持ち揺らしてみる。
 少年の足に力はなく、ブラブラと靡くだけだった。
  
「こ、公平さん!ちょっと待ってください」

 そんな僕の行動を見ていたフックさんが急遽叫ぶ。その瞬間、僕の肩から少年が崩れ落ちる。地面に落ちるか瀬戸際で、何とかキャッチする。
  
「ど、どうしたの急に!」

 驚きながら少年の顔を見る。すると、少年は息遣いが荒く、顔を真っ赤にしているのが分かる。汗も尋常ではないほど溢れ出ている。額に手を当てると燃えるような熱さだと分かる。
  
「フックさん!熱ですよ。それも高熱です!」

 僕は慌ててフックさんに助けを求める。
  
「ほ、本当ですか?さっきまで元気よく公平さんの髪の毛で遊んでいたのに」

 フックさんは驚いているが、僕はフックさんの言葉にも驚く。一体僕の髪の毛でどんな遊びをしていたんだ。
  
「とりあえず、病院に行きましょう!」

 僕は急いで少年を担いで、公園を出る。しかし、病院の場所が分からず立ち往生。
  
「どうしますか?救急車呼びますか?」
「大丈夫です。病院の場所は分かっています。ここからすぐなので、急ぎましょう。私に着いてきてください」
「分かりました」

 僕は目の前を飛ぶフックさんを追う。フックさんの言う通り、病院はすぐ近くにあった。病院というより、診療所と言った方が分かりやすいか、海沿いの道にある小さな建物だ。
 診療所の横で寝ている鹿を横目に診療所の入口に向かう。こんな時間に空いているか心配だったが、入口に鍵は掛かっていなかった。
  
「私が中に入ると皆さんが困るので外で待っています」

 僕は少年を抱えたまま、中に入る。中に入って驚きの光景を見る。そこに広がっていたのは、何十人もの人が床に寝ていたのだった。床に寝ている人達は皆、少年と同じように顔を真っ赤になっている。高熱に魘されているようだった。看護婦や先生が診療所内を走り回っていた。患者の家族であろう人達は皆、心配そうに眺めている。
  
「すみません。この子も診てください!」

 僕は近くを通りかかった看護婦さんを呼び止める。看護婦さんは驚くことなく「こちらに寝かせてください」と指示する。僕は言われたまま、何も敷かれてない床に少年を仰向けにさせる。枕が無いことに気づき、僕は上着のシャツを脱いで枕の代用とさせる。
  
「先生!新しい患者です!」

 看護婦さんは奥の部屋から先生を呼ぶ。奥の部屋から女性の先生が急いで出てくる。
  
「何があったんですか?」

 女医さんは患者と同じぐらい汗を掻いている。
  
「はい、この子が迷子になっていたのを見つけたんですが、急に熱を出したので連れてきました」
「迷子?じゃあ家族の方じゃないのね」

 僕が頷くと、女医さんは困った顔になる。僕は女医さんの考えていることが分かった。
  
「大丈夫です。お金ならあります」
「そうじゃないわよ!こんな小さい子は親が居ないと寂しくなるのよ」
「…すみません」

 僕は怒られて凹んでしまう。穴があったら埋まりたい気分だ。女医さんは小さく舌打ちをして、聴診器を手に取り、少年の身体を見ようとする。女医さんが少年の顔を見た瞬間、手に持っていた聴診器が地面に落ちる。
「拓也?拓也!」

 女医さんは名前を叫んで、少年の頬を撫でる。
  
「知り合いですか?」
「私の子よ!どうして?お家でお留守番していた筈なのに」

 何という偶然か、この少年のお母さんは病院の先生だったとは。そういえば、拓也君はお母さんのことを正義のヒーローと言っていた。病院の先生は病気の患者を治すからヒーローという意味だったのか。
  
「何処でこの子を?」

 お母さんは慌てふためきながら僕に向かって叫ぶ。
  
「すぐそこの商店街にいました。お母さんを探して泣いていました」
「そんな…どうして拓也までウイルスに…」

 お母さんは驚きながらも、拓也君の服を脱がし、聴診器を胸に当てる。
  
「ウイルス?これって熱ではないんですか?」
「まだ明確には分からないわ。でもこんな状況よ。こんな急に大勢の人が高熱にうなされるなんて、ウイルスの可能性が大きいわ」

 手を止めないお母さんの説明に僕は少し背筋が凍る。映画などでは見ていたが、現実でこんな事が起きるなんて、想像もしていない。
  
「祟り神じゃ。祟り神が来たんじゃ」

 僕から少し離れ椅子に座っていた老婆が声を震わせる。その手には数珠が握られている。
 老婆は念仏を唱えながら、数珠を両手で挟んでいる。
  
「拓也!お母さんよ。分かる!」

 老婆の念仏をかき消すように、お母さんが叫ぶ。しかし、拓也君はお母さんの記憶を失っている。もしかしたら、お母さんに向かって「誰?」と言ってしまうかもしれない。
 拓也君はお母さんの声に反応して、目を薄らと明ける。そしてお母さんの顔を見て、小さく「ママ」と呟いた。どうやら記憶が戻ったらしい。僕は胸を撫で下ろす。
  
「大丈夫よ。ママがいるから心配しないでね」

 お母さんは優しく伝える。拓也君は笑顔で頷き、再び瞳を閉じる。お母さんはそれを確認して、立ち上がる。
  
「息子を連れてきてくれてありがとう。もう大丈夫だから帰っていいわ。ここにいると、あなたもウイルスに感染する可能性が出るわ」

 お母さんにそう言われ、僕は追い出されるかのように、診療所を出る。
 診療所を出ると、フックさんが飛んでくる。
  
「どうでした?」

 僕は中で起きた出来事を伝える。拓也君のお母さんが見つかったこと、大勢の人が謎のウイルスに伝染した可能性があること。拓也君もその中の一人かもしれないこと。
  
「そうですか。それは一大事ですね。でも私達が出来るのはここまでです。後は医療のスペシャリストに任せましょう」
「分かりました。それにウイルスだとしたら、神さんにも伝染している可能性があります。早く帰って確認しましょう」

 僕とフックさんは診療所で苦しんでいる人達が、無事健康になることを祈って、その場を後にした。

「ただいま帰りました!」
「もう遅いわよ!何してたの?お腹ペコペコよ!」

 嫉妬神様の家に行くと、嫉妬神様と神さんがお酒を飲みながら待っていた。ウイルスに伝染した様子は無い。
  
「すみません、待っていてくれて」

 僕は頭を下げる。数時間も待っていてくれて、正直嬉しかった。
  
「迷子のお母さんは見つかったの?」
「はい、無事見つかることが出来ました」
「それは良かったわ。もう牡蠣鍋の用意は出来てるわ。準備するから、手洗い嗽をしなさい。なんだかウイルスが来て大変なことになってるってニュースがあったわ」

 もうニュースにまで取り上げられていたのか。拓也君は無事だろうか。僕は心配しながら、手を洗う。居間に戻ると嫉妬神様が鍋を持って台所から出てくる。うん。良い匂いだ。

「それじゃあ、皆お疲れ様!」

 嫉妬神様が炬燵の上に鍋を置く。僕と神さんは鍋の中を見て思わず拍手をした。
 牡蠣が鍋の半分を占めており、春菊、白菜、白葱と色鮮やかな野菜も入っている。
  
「凄いですね。僕牡蠣鍋なんて初めてです。牡蠣なんてフライでしか食べたことありませんよ」

 僕の言葉に嫉妬神様は嬉しそうに口角を上げる。
  
「それは残念ね。この牡蠣鍋を食べたらもう牡蠣は鍋でしか食べれないわよ」
「そんなこといいから、早くお酒も持ってきなさいよ」

 未だ酔いが覚めてない神さんが机を叩く。さっきまで飲んでいたではないか。
  
「はいはい、何がいいの?大体のお酒はあるから言ってみなさい」

 神さんの言葉に怒らず、嫉妬神様は優しく問い掛ける。
  
「そうね~鍛高譚!」
「はいはい」

 嫉妬神様はキッチンから一升瓶を持ってくる。
  
「公平君も飲むよね?」
「は、はい」

 嫉妬神様はグラス一杯にお酒を注ぐ。僕は水割りでお願いします。
 各々にお酒が入ったグラスが渡る。そこであることに気付く。
  
「あれフックさんと嫉妬神様の紳士さんがいませんよ?」
「あー、あの馬鹿鹿なら外よ。私を忘れた罰で今晩はご飯抜き」

 嫉妬神様はそう言って窓の外を指差す。窓の外には嫉妬神様の紳士さんが羨ましそうに、僕達を見ている。今にも泣き出しそうだ。それにしても馬鹿鹿では鹿が二つ並んでいる。それなら、もう馬鹿だけではいいのではないのか。
  
「私はここにいますよ」

 炬燵の中からフックさんの声が聞こえた。中を覗くとフックさんが炬燵の中で丸まっている。どうやら炬燵を気に入ったようだ。フックさんの口には既に魚肉ソーセージが加えられており、満足そうに食事を始めている。
  
「そろそろ乾杯するとしましょう。では私達の出会いと、うちの馬鹿鹿を連れ戻してきたことに感謝を込めて、乾杯!」

 嫉妬神様の音頭によって、グラスの重なる音を鳴らす。神さんはすぐにグラスを口に運び、勢い良くお酒を飲む。まるで水道水を飲んでいるかのようだ。
 僕はグラスを置き、鍋の具材を取り皿に入れる。まずは牡蠣、春菊に白菜、しめじも忘れてはいけない。
  
「いただきます」

 そう言い、牡蠣を口に入れる。
  
「とても美味しいです。こんなにも美味しい牡蠣食べたことがありません。流石海のミルクと呼ばれているだけはあります。とても濃厚で優しい味です。まるで海の宝石箱です」
「ほらね、言ったでしょ。私が作った牡蠣鍋は最高なんだから」

 嫉妬神様は嬉しそうにお酒を飲む。神さんも2杯目を飲みきっている。僕も二人に釣られてお酒を飲む。鍛高譚は何だか紫蘇の味がする。
  
「それにしても公平君はお酒が弱いわね。もう顔が真っ赤よ」

 グラスのお酒を飲みきった後、嫉妬神様が僕の顔を見て笑う。
  
「そもそも水割りでしょ。なのに何でそんなに真っ赤なのよ。この下戸!」

 神さんも牡蠣鍋をつまみにお酒を次々へと飲み干す。
  
「別に僕は弱くはありませんよ。ただ一杯飲んだら身体が真っ赤になるだけです。断じて弱いわけではないです。嫉妬神様もう注がなくていいですよ。お水でいいです」
「弱いんじゃない!」

 神さんの言葉に男としてのプライドをズタズタにされ、僕は悲しく牡蠣を口に入れる。
 神さんと嫉妬神様は鍋を食べるより、お酒を飲む方がメインとなっている。
  
「だから私はカップルや夫婦を見て腹が立つわけじゃないのよ。ただ人前でイチャつくのが大嫌いなのよ」
「それがもう嫉妬じゃない。そんなに嫌だったら早く自分も彼氏でも作ればいいのに」
「それが出来ないから嫌なのよ!」

 酔いが回った嫉妬神様は神さんと熱い口論を続ける。既に僕に話を振ることはなく、二人しかいないようだ。フックさんも炬燵の中で寝息を立てている。嫉妬神様の紳士さんも窓の外から姿を消している。僕は黙々と鍋を食す。
  
「公平!お酒が切れたわ。持ってきて!」
「僕はもう飲まないんですけど…」
「いいから持ってきなさい。わたしの部下でしょ!」

 そう言われたら断れず、僕は台所へ向かう。嫉妬神様の家はとても綺麗で、キッチンも例外ではない。和風な作りの台所には、ありとあらゆる一升瓶が並んでいる。僕は適当に選んで持っていく。
  
「吉助の赤ね。あなたにしては中々やるわね。でも黒の方がもっと良かったわ」

 神さんに褒められたが、内容はいまいち分からない。赤?黒?お酒が赤色なのだろうか。
  
「だから私の前に良い男が現れないのよ。もし現れたらすぐに結婚よ!」
「そんなんだから何百年も嫉妬神やってるのよ。もう妥協すればいいのよ」

 お酒をガソリン変わりに二人はますますヒートアップしていく。酔いが回った僕は横になる。疲れもあったのか、僕はすぐに眠りに入ってしまった。

 窓の外から奏でる小鳥の鳴き声に僕は目を覚ます。起きた瞬間に朝が来ていることが分かる。重たい身体をむりやり起こし、周りの様子を確認する。炬燵の上には昨晩、鍋を食べたままである。僕の反対側には嫉妬神様と神さんが頬を抓りあったまま寝ている。どうやら話し合いだけではなく、実力行使になったらしい。
 炬燵の中を覗くとフックさんの姿はない。何処に行ったのだろうか。時計の時刻は10時を過ぎている。
  
「お二方、起きてください。朝ですよー」

 僕の言葉に嫉妬神様が小さく唸る。
  
「もう朝?さっき寝たばかりよ」

 一体何時まで飲んでいたのだろうか。僕は聞くことは出来なかった。
  
「もうこんな時間?鍋は出しっぱなしだわ。ごめんね。すぐ片付けるから」

 嫉妬神様は起きたばかりなのに、直ぐに立ち上がり鍋をキッチンへと持って行く。僕も手伝おうと立ち上がるが、嫉妬神様に止められる。
  
「こっちはいいから、そこで寝ているお嬢さんを起こしてあげて」

 神さんは未だ寝息を立てている。
  
「神さん、神さん、起きてください」

 僕は肩を少し叩く。神さんはゆっくりと瞼を開ける。焦点が序々に定まってくる。
  
「大丈夫ですか?お水飲みますか?」

 僕が喋り掛けると神さんは黙ったままで僕を睨む。そして急に目を大きく開き、顔が真っ赤になった。
 神さんはまるで鬼から逃げるように炬燵から飛び出て、台所へと消えていった。
  
「どうしたの?そんな慌てて。公平君に何かされたの?」
 台所から嫉妬神様の声が聞こえる。その声が聞こえた瞬間、神さんは走って僕の方へ走ってくる。僕と目が合った神さんは再び顔を真っ赤にして、炬燵の中へと姿を消してしまった。
  
「これは…まさか?」
「そのまさかです。きっと神さんは何か忘れてしまったのでしょう」

 僕が後ろを向くとフックさんが深刻な表情で立っている。
  
「フックさん…そこにいたんですね」
「はい、全部見てましたよ」
「それで今度は何を忘れたんでしょうか?」
「私の推測ですが、きっと人と接していたということを忘れてしまったのでしょう。今の神様は初めて人と会うように、緊張して上手くコミュニケーションが取れないようですね」
「…そうですか」

 流石フックさん素早い判断。僕も納得してしまう。
  
「でもどうするんですか?このままだと神さんは炬燵から出れませんよ」
「私に任せて下さい」

 フックさんは胸を叩き、そのまま炬燵の中へと消えていった。
 炬燵の中では何が起きているか分からず、僕はただ炬燵を見守ることしか出来ない。しばらくして、炬燵の中からフックさんが出てきた。
  
「大丈夫ですよ。出てきて下さい」

 フックさんが炬燵に優しく呼び掛けると、炬燵の中から神さんが出てきた。緊張した面持ちで目も泳いでいる。
  
「フックさん、何をしたんですか?」
「ただ私達は悪い人間じゃないということを説明しただけですよ」
「でも凄いですね。人と接するのが苦手なのに、よく話合えましたね」
「もちろんですよ。だって私は梟ですから」

 堂々と発表するフックさんに僕は思い出す。フックさんは人間ではないのだった。
  
「どうしたの?何かあった」

 洗い物を終えた嫉妬神様が戻ってくる。僕達は神さんが新しい忘れ物をしたことを伝える。
  
「そうだったの!急に可愛くなって~」

 嫉妬神様は怯えている神さんを抱きつく。神さんはあまりの怖さに震えながら「や、やめてください~」と今にも消えそうな声で呟く。
  
「嫉妬神様、そのへんで勘弁してください。このままだと神さんが倒れてしまいます」

 僕が神さんを助ける。嫉妬神様の手から解放された神さんは、フックさんの後ろに隠れる。しかし明らかに隠れきれてない。ただフックさんの後ろに座っているだけに見える。
  
「大丈夫ですよ。ここにいる人達は悪い人じゃありませんから」
「そうよ。私達は優しい人達よ。昨晩も仲良くお酒を飲みあったじゃない」

 神さんはフックさんの後ろで大きく頷く。しかし、未だ僕達を見ようとしない。これはしばらく時間が掛かりそうだ。
  
「大丈夫ですよ。また時間が経てば元に戻りますよ。このまま旅に出ましょう。身支度を整えたら、フェリー乗り場に行きましょう」

 フックさんは慌てず、もうすっかりと慣れた感じだ。
  
「えー!もう帰るの!」

 フックさんの言葉に嫉妬神様が反応する。
  
「昨日来たばかりじゃない。もう一泊してよ。今晩も飲みたいのよ」
「でも私達には忘れ物を届ける仕事があります。忘れ物した神様達が困っているでしょう」
「大丈夫よ。どうせ忘れ物をしていること自体、忘れているわよ」
「でも…」

 嫉妬神様の言葉にフックさんは困ってしまう。僕は本心、もう少しだけ宮島にいたいかな、と思っている。まだ厳島神社にも行ってない。
  
「そこのお嬢さんに聞いてみなさい。きっともう一晩飲みたいと思っているわ」

 神さんは嫉妬神様に名指しされ、自分の顔を指差し驚く。
  
「神様、どうしましょうか?もう一泊しますか?」

 フックさんは神さんに優しく問い掛ける。神さんは少し考える素振りをして、小さく頷く。
  
「もう一泊したいです」

 神さんの一言により、僕達はもう一泊、宮島に泊まることになった。フックさんは仕方がないですね、と少し嬉しそうだった。
  
「決まりね。なら今日は観光でもしてきたら?昨日は観光する時間なんてなかったでしょ」

 嫉妬神様が良いことを言った。これは厳島神社に行ける。しかし、続く言葉で僕の希望は打ち砕けられた。
  
「そうだ、弥山の頂上にでも行ってきたらいいわ。あそこは瀬戸内海の美しい風景が一覧できるわ」

 この言葉にフックさんが反応する。
  
「それはいいですね。私も何度か宮島に来てますが、弥山の山頂には行ったことがありません。瀬戸内海の美しい景色!いいですね。公平さん、よろしいですか?」
「…はい」

 上司の希望を叶えるのが部下である、僕の仕事。ここは涙を飲んで従うことにした。
  
「じゃあ、決定ね。私は晩ご飯の準備をしているわ。今日はお好み焼きにするわ」

 お好み焼きという言葉に反応する。お好み焼き、ここは宮島、勿論広島風のお好み焼きだろ。これまで広島風というお好み焼きは食べたことはない。至って作りやすい関西風を食べていた。これは楽しみだ。想像するだけで涎が出てくる。
  
「それでは私達は早速出かけましょう。山頂は遠いですよ」

 こうして僕達は宮島にある弥山の山頂を目指すことになった。

「それで山頂に行くには何処の道から行くんですか?」
「少し歩いて、ロープウエーに乗ります。そこからまた少し歩いたら頂上です」

 嫉妬神様の家を出た後僕達は、ロープウエー乗り場を目指すことになった。
  
「神さん大丈夫ですか?歩きづらくないですか?」

 山道を登るということで、神さんは嫉妬神様のジャージを着ている。靴も嫉妬神様の物であって、サイズは合ってないようだ。
  
「は、はい」

 神さんはようやく、僕と会話出来るようになった。でも緊張しているのは目に見えて分かる。でも昨日までの強気な神さんより、こっちの神さんの方が可愛げがある。もう昨日みたいな品の無い女性には戻って欲しくない。
  
「ここから少し坂道になりますよ。頑張りましょう」

 僕の肩に乗っているフックさんが忠告をする。
  
「ほら公平さん、足が動いていませんよ。頑張りましょう。まだ始まったばかりです。神さんも靴は違いますけど、頑張りましょう。1、2、1、2」

 僕の肩で意気揚々とフックさんが声を出す。僕と神さんは序々に顔が下がる。これは少しばかり腹が立つ。ここは少し意地悪をしたくなってきた。
  
「頑張るんだったらフックさんも一緒に歩きましょう」

 そう言い、僕はフックさんを地面に降ろす。
  
「ちなみに飛ぶのは禁止ですよ。ちゃんと歩いてください」
「む、無理ですよ。私の足じゃ坂道なんて登れませんよ」

 僕と神さんはフックさんより少し進み振り返る。まるで子供が歩いてくるのを待つ両親のようだ。
  
「さぁフックさん!どうぞ歩いてみてください」

 僕の掛け声でフックさんは急ぎ足で僕達の下を目指す。丸い身体を揺さぎながら、可愛らしく走っている。しかし、僕から見ると、ゆっくりと転ばないように歩いているようだ。思わず写真を撮りたくなる姿だ。
 1メートル程進んだ所で、フックさんの足が止まる。息を切らして、今にも倒れそうだ。
  
「も、もう限界です。どうか御慈悲をー」

 流石に可哀想だと思い、僕はフックさんを抱き抱える。これにて僕の最初で最後の謀反は終わった。ただ言いたいのは、神さんが横で小さく「可愛い」と呟いていた。これはフックさんには内緒にしておこう。
  フックさんは自分のことを渋いお爺さんだと思っている。そのプライドを崩すのは酷なものである。

「見えてきましたよ。あそこがロープウエー乗り場です」

 山道を歩くこと三十分、僕達はようやくロープウエー乗り場に辿り着くことが出来た。もう僕の足は既に震えている。
  
 ロープウエー乗り場には紅葉谷駅と看板に書かれてある。
  
「公平さん、あの看板に書かれている漢字読めますか?」
「馬鹿にしないでくださいよ。もみじや駅ですよね」
「………」
「何か言ってくださいよ」
「さぁ公平さんチケットを買ってきてください」
「…はい」

 フックさんに言われるがまま、僕はチケット売り場に向かう。チケット売り場では、窓越しにおじちゃんが愛想よく笑顔で待っていた。
  
「いらっしゃい、往復千八百円になります。何人分ですか?」
「三人…いや二人分です」

 危ない、もう少しでフックさんを数に入れるところだった。愛想のいいおじちゃんからチケットを受け取る。どうやらすぐにロープウエーに乗れるようだ。僕はベンチに座っている神さんとフックさんを呼ぶ。
 ロープウエーに乗る為、階段を上り乗り場に向かうと、作業員の若いお兄さんが僕達を待っていた。お兄さんは神さんの腕にいるフックさんをずっと見つめている。フックさんも危険を察知したのか、身動き一つせず黙り込んでいる。
  
「可愛い人形ですね。まるで本物みたいですね。何処で買ったんですか?」

 お兄さんは神さんに尋ねる。神さんは見知らぬ男性に喋りかけられ戸惑っている。
  
「海外に行った友人からのお土産です」

 僕が慌ててフォローする。お兄さんは「凄いですね」、と言って僕達をロープウエーに入れてくれた。
  
「危なかったですね。フックさんも演技上手でしたよ」

 ロープウエーの扉が閉まったのを確認して、僕は拍手する。
  
「そんな褒められることじゃありませんよ」

 フックさんはそう言っているが、少し嬉しそうだ。そんなフックさんを抱いている神さんの手が震えているのに気付く。もしかしたらロープウエーに乗るのが怖いのかもしれない。乗り場の写真には随分高い所を行くらしく、怖がるのも無理ではない。僕もロープウエーは初めてで少し不安である。
  
「大丈夫ですよ神さん、もしも怖くなったらフックさんを抱けば怖さは紛れますよ」

 僕がそう言うとロープウエーは駅を出発した。
  
「い、痛いです。あまり強く抱きしめないでください」

 フックさんが苦痛で顔を歪ませる。
  
「公平さん!男の子なんだから怖がらないでくださいよ」

 フックさんが僕の腕で顔を顰める。ロープウエーに乗って五分、想像以上の高さに僕は神さんからフックさんを奪ってしまった。
  
「見てくださいよ。神さんなんて窓の外を眺めていますよ。この紅葉の景色を楽しみましょう」

 フックさんの言葉に僕は神さんを見る。神さんは楽しそうに窓の外を見ている。僕も窓の外を見ようと試みるが、あまりの高さに目を瞑ってしまう。
  
「ほら、もう少しで駅に着きますよ。頑張ってください」

 フックさんの言葉通り、ロープウエーは駅に止まる。僕は飛び降り、自分が生きていることを確認する。もうロープウエーになんて乗りたくない。帰りは歩いて帰ろう。
  
「ほら公平さん、早くしないと次のロープウエーに乗り遅れますよ」
「つ、次?」
「はい、ここは乗り換え駅です。頂上に行くにはもう一回ロープウエーに乗りますよ」

 フックさんの説明で、僕は言葉にならない悲鳴を上げた。横では神さんがもう一回乗れると微笑んでいる。
  
 二度目のロープウエーを乗り終えた僕は、見事なままに足が震えている。フックさんは僕が強く抱きしめたせいで毛並みが乱れている。
  
「もう次は止めてくださいよ」

 自分の毛並みを整えるフックさん。僕はただ謝ることしか出来なかった。
  
「それでは山頂目指して歩きますか。ここから歩いて三十分ぐらいですよ」

 フックさんの言葉を聞き、僕の膝は笑いから泣くように震えた。

 歩くこと三十分、僕達は遂に山頂へとたどり着いた。山頂には大きな岩が何個もあり、観光客はその岩に乗って景色を楽しんでいる。
  
「わー綺麗ですね。本島が見えますよ。神さん見てますか?」
「は、はい!」

 僕の言葉に驚きながら神さんは返事をする。今まで登山をしたことは無いが、登山者の気持ちが分かる。皆はこの充実感を味わう為に山に登っているのか。
  
「そうだ、売店で使い捨てカメラを買ったので、撮りましょう」

 美しい風景をバックに神さんとフックさんをレンズに入れてシャッターを押す。
  
「どうぞ公平さん。私が撮りますよ」
「押すってどうやってですか?」

 フックさんにはシャッターを押す指は無い。しかし、フックさんはカメラを岩の上に置くよう指示する。言われた通り、岩の上にカメラを置く。
  
「それでは押しますよ。もっと笑ってください」

 神さんと並んでいると、フックさんは写真屋のように僕達をディレクションする。
  
「それじゃ行きますよ。はい、チーズ」

 フックさんは掛け声と共に、シャッターボタンを嘴で叩く。カメラからカシャっと音を立てる。これは上手く考えたものだと感心してしまった。周りの観光客も、そんなフックさんを見て盛大な拍手をしていた。

 瀬戸内海の美しい風景に見とれていると、一人の男性が近づいて来た。
 その男は僕より年上に見え、整った顔に高い鼻、顎鬚がワイルドに感じる。何より目立つのはその格好だ。山頂だというのにスーツ姿なのは、この男性だけだ。指輪や腕輪、ネックレスなど、身体中がピカピカに光っている。そんな男性が僕達に近づいてくる。
  
「どうも!俺は宮島に住んでいるものだ。君達は初めてかい?」

 その男性は僕に握手を求める。フックさんはすぐに固まり、ぬいぐるみの真似をする。それを見て、僕は握手に応じて答える。
  
「はい、初めてです。綺麗な場所ですね」
「そうだろ。宮島は厳島神社ばかり注目されるが、ここもいい所だよ」

 広島弁前回の男はそう言うと、隣の神さんを見る。
  
「これはまた、どえらい別嬪さんなこと。こんな場所でお目にかかれるなんて!」

 神さんを見て変質者は目を大きく開けて驚いた姿を見せる。そして握手を求める為、手を差し出す。しかし、今は人間恐怖症の神さんは身体を震わせて怯えている。
  
「神さん、ここは我慢しましょう」

 僕が小言で神さんに耳打ちする。ここは人間恐怖症を解消させ、記憶も戻して欲しい。
 神さんは下唇を噛み締める。どうやら覚悟を決めているようだ。そして意を決して手を差し伸べた。いいぞ神さん、凄いぞ神さん。でも目を瞑っているぞ。
 変質者は神さんの手を取る。握手した手を上下に振っている。神さんはなすがままだ。変質者がようやく手を離す。その瞬間、変質者は神さんに抱きつく。
  
「あなたのような綺麗な人に会えて、本当に嬉しいです」

 変質者は抱きつきながら喋っている。神さんはあまりの恐怖に失神しているのではないか。僕は緊急出動、神さんと変質者を引き離す。神さんは僕の背にすぐ隠れる。
  
「な、何やってるんですか!警察呼びますよ」

 ほら見ろ、神さんが震えおののいているではないか。変質者はやれやれと、乱れた服を治す。
  
「ただの挨拶だよ。外国では普通だぞ」

 ここは日本だと言いたいが、ここは我慢するしかない。ここは大人の対応をしよう。
  
「あなた名前は何て言うんですか?」
「名前?そんなん覚えてない」
「覚えてない?」

 これはもしかして、神さんの力で忘れているのだろうか。僕はフックさんに相談しようと、手に持ったフックさんに聞こうとするが、両手はすっかり空いていた。どうやら神さんと変質者を引き離した際に、地面に落としてしまったらしい。
 周りを見渡すと、フックさんが横たわっているのを確認出来た。すぐに拾いに行きたいが、今行くと神さんが変質者と二人っきりになってしまう。
  
「何処見てるんだ?」

 視線を外した僕に変質者が訊いてくる。
  
「いや、素晴らしい景色に見とれてしまって」
「そうだろ。でも俺はお前の後ろの女性も見とれてしまうよ。くっくっく」

 変質者は腹を抱えて笑う。どこがそんなに面白いのだろうか。神さんは笑い声に反応して、小さく悲鳴を上げる。
  
「それより華麗な女性とお前はどんな関係なんだ?」

 よっぽど神さんのことが気に入ったのか、変質者が尋ねてくる。
  
「上司と部下ですよ。言うなれば神様と神使ですね」
「そうか、じゃったら別に恋仲という関係ではないということか。どうだ、ちょっと紹介してくれないか?」

 僕は背中に隠れている神さんを横目で見る。神さんは僕の服を強く握り締めたまま、震えている。
  
「すみません。この方はあなたに興味がないそうです」

 流石に人間恐怖症と伝えたところで信じてはもらえないだろう。
  
「そうか…お前もしかして俺にその女性が盗られることに恐れ抱いているな?こんなワイルドでダンディな俺に紹介でもすれば、その女性を奪われてしまうと思っているんだろ?」

 この男は何を言っているのだろうか。こんな男に神さんが心惹かれることはないに決まっている。
  
「人に尋ねる時は自分からですよ。自己紹介ぐらいしてくださいよ」
「自己紹介?生憎、今は自分の名前すら忘れてしまってな。それほどその女性に胸がときめいている」

 これは神さんの力が影響しているかもしれない。こんなことを本気で言える奴なんて、頭がおかしい奴か、本当のナルシストだ。
  
「だったら神さんを紹介出来ません。自分の名前を思い出してから来てください」

 僕はそう言って立ち去ろうとする。勿論、神さんを連れて。
  
「ほう、かみさんと言うのか。これは良いことを教えてもらったぞ」

 僕としたことが、つい口走ってしまった。
  
「そうか、かみさん、いやさん付けなど失礼。かみ様と呼ばせてください。まるで本当の神様のようだ」

 本当も何も、ここにいる方は本当の神様。忘れ神様だぞ。これ以上こいつと話すと、無駄な情報を教えてしまう。ここは早く立ち去るとしよう。
  
「それでは僕達はもう帰るんで」

 僕は会釈して、その場を立ち去ろうとする。まずはフックさんを拾いに行かなければならない。
  
「ちょっと待ってくれ。まだ連絡先を教えてもらってないぞ。メールアドレス、いや電話番号だけでいいから教えてくれ」

 変質者は僕の腕を掴む。離してくれ、馬鹿が伝染る。
  
「連絡先なんてありませんよ。神さんは携帯電話なんて持ってませんから」

 僕は嘘を教える。もし電話番号なんて教えたら、この男毎日連絡を取るに決まっている。
  
「この時代に持ってないだと…分かった、なら家の電話番号でいい。教えてくれ」

 しつこい男に僕は痺れを切らす。
  
「分かりました。僕の電話番号を教えるんで、それで我慢してください。これからも神さんと一緒にいるんで、何かあれば僕に電話してください」
「…まぁいいだろ」

 男は渋々納得する。僕だって本当は教えたくないんだぞ。
 変質者と電話番号を交換する。僕の携帯電話に容量の無駄が生じた。
  
「これで満足ですね。なら僕達は帰るので失礼します」
「おう!またすぐに連絡するからな。それではかみ様、またお会いしましょう」

 変質者はそのまま飛んでいくかの如く、颯爽と消えていった。一体何だったんだ。
  
「神さん大丈夫ですか?」
「な、何とか。でももう二度とあの人とは会いたくないです」

 ここまで言うのだから、神さんはよっぽどあの男に恐怖心を抱いてしまったのだろう。
  
「大丈夫ですよ。明日になれば宮島を出るので、もう会うことはないでしょう。さぁ早くフックさんを連れて帰りましょう」

 そう言い、フックさんの居場所を探す。先ほどまでフックさんが倒れている場所を見ると、そこにフックさんの姿をなくなっていった。
  
「何処に行ったんだろう」

 僕は空を含めて、周囲を見渡す。もしかして、飛んで帰ったのだろうか。
  
「あ、あそこです。あっ」

 フックさんの居場所に気づいた神さんは愕然とする。
 倒れていたフックさんはいつの間にか仁王立ちへと変わっていた。さらに不思議なのは、フックさんの前に小銭が沢山落ちているのだ。どうやら誰かがフックさんのことを、神聖な置物と勘違いして、お賽銭を置いたのだろう。現に観光客が小銭をフックさんの前に置いている。外国人観光客は手を合わせて拝んでいる。
 フックさんの前から人が居なくなるのを計らって、僕はフックさんを連れ戻す。
  
「何してるんですか?このままだと山頂の名物になるとこでしたよ」
「すみません、隠れていたつもりが大事になってしまって…」

 反省しているフックさんを抱えて、僕達はすぐにその場を去る。

「そんなことがあったんですか。もしかしたら、その人も記憶を忘れた人かもしれませんね」

 ロープウエー乗り場まで帰る間、先ほど出会った変質者の話をする。
「でもあんな変人なんて助けなくていいですよ。神さんに手を出そうとしたんですよ」
「公平さん、そのようなことを言っては駄目ですよ。私達は忘れ神様の紳士、忘れ神様の力で忘れ物をした人達を助けるのが私達の仕事ですよ。悪いからと言って、そのままにしては駄目です。このようなことを続けていると、忘れ神様は人から恐れられ、厄病神になってしましいますよ」

 フックさんは眉間に皺を寄せる。優しい口調だが、確実に怒っている。僕は思わず足を止める。まさか怒られるとは想像していなかっただけに、心が痛んでしまった。
  
「す、すみませんでした。自分の考えが間違ってました」
「分かればいいんですよ。それでは、今から戻りましょう。その男性に会って、真相を確かめてみましょう。これも忘れ神様の紳士である私達の仕事ですよ」
「はい!」

 僕は踵を返す。しかし神さんはその場から微動だにしない。
  
「どうしたんですか?神さん」

 僕が尋ねると、神さんは恥ずかしそうに、身体を揺らす。
  
「何処か痛いんですか」
「い、いえ」
「トイレですか」

 神さんは首を横に振る。
  
「どうしたんですか?」
「も、もう疲れたので帰りたいです。それにあの人には会いたくありません!」

 神さんは堂々と言い切る。確かに山頂から既に二十分は歩いている。今から戻るとなると、想像しただけで足が震えてしまう。
  
「そ、そうですか。なら私だけ山頂に戻ります。公平さんは忘れ神様と一緒に帰ってください」

 フックさんはそう言い残し、僕の腕から羽ばたく。
  
「分かりました。でも気をつけてください。何をされるか分かりませんから」

 フックさんは僕の忠告に「分かりました」と返事をして、山頂へと飛んでいった。
  
「さぁ神さん、僕達は帰りましょう」

 フックさんと別れた僕達は、早々にロープウエー乗り場に向かった。
 切符を買い、ロープウエーに乗り込む。またロープウエーに乗る怖さがあったが、僕は歩き疲れたのもあり、少しの間だけ眠りについてしまった。
  
「すまない、少し話を聞いてくれないか?」

 遠くから声が聞こえるのに気付き、僕は目を覚ます。目の前には、神さんが驚いた表情で僕を見ていた。
  
「神さん何か言いました?」
「いいえ、わたしは何も…」

 どうやら僕の聞き違いのようだ、多分夢でも見ていたのだろう。僕はもう一度瞼を閉じる。
  
「すまない、起きてくれ」

 また声が聞こえた。目を開けて周囲を確認する。ロープウエーの中は僕と神さんしかいない。
  
「神さん聞こえました?」
「聞こえました」

 どうやら神さんも何が起きているのか、分かっていない様子だ。僕は恐怖心と戦いながら窓の外を確認する。山の上をゆっくりと動くロープウエー、こんな場所に人なんていない。
  
「君達、どうか私の願いを訊いてくれないか?」

 また声が聞こえた。僕と神さんは周りを見渡す。
  
「神さん、これ何ですか?」
「わたしにも何が何だか…」

 神さんと話し合い僕はようやく、この声は神様だと悟る。こんな不可解なものは神様が関係しているに決まっている。
  
「あなたは神様ですか?」

 僕は恐る恐る尋ねる。
  
「そうだ、私は神様だ。訳あって詳しくは言えないが、君達にお願いしたいことがあって、話を掛けた。訊いてくれるか?」

 僕は神さんと目を合わせる。神さんも驚いている。どうやらこんなことは初めての経験らしい。
  
「お願いって何ですか?」

 僕は上を見ながら答える。どうも話す相手が居ないと上を向いてしまう。
「実は厳島神社まで連れていって欲しいんだ。恥ずかしいながら、何処にあるか忘れてしまってね」

 忘れた?宮島で一番有名な厳島神社を忘れただと。流石に有り得ない、これは神さんの力の所為だろう。
  
「分かりました。ちょうど帰り道にありますから。一緒に行きましょう」

 一緒に行こうとも何も、声だけでは一緒に歩けるのだろうか。僕は不安になってきた。
  
「ありがとう、君達はデートかい?すまないね。邪魔しちゃって」
「違いますよ。僕と神さんは上司と部下の関係ですよ。例えるなら神様と紳士ですかね」

 お決まりの言葉を言うと、形の無い神様は大きく笑う。何が可笑しいんだ。
  
「そうか、神様と紳士か。上手いこと言うな」
「あなたには紳士は居ないんですか?」

 神さんが怯えながら尋ねる。どうやら人の姿ではない分、喋りやすいようだ。
  
「実はそれも忘れてしまってね。きっと居ると思うよ」

 そう言って大きく笑う。何といい加減というか、大雑把な人なのだろう。もしかしたら、神さんの力で形が無くなってしまったのかもしれない。自分の姿を忘れることなんて、信じられないが、この状況はそうだと考えることしか出来ない。すると、これは大変なことだ。これは早くフックさんに相談しなければ。早く帰ってきてください。

 それからロープウエーはすぐに終点に到着、僕達は折角休めた足をもう一度動かす。
  
「着いて来てますか?」

 形が無い神様に尋ねる。黙っていると、置いて行ったか不安になってしまう。
  
「ちゃんと着いてますよ」

 陽気な声で返事が飛ぶ。何が楽しいのだろうか。
  
「あのー姿が見えないのって、そういう仕様なんですか?それとも…忘れたとか?」
「忘れた?何を言っているんだい?私ならここに居るじゃないか」
「えっ?」

 思いもよらない答えが返ってくる。どういうことだ。自分の姿が消えていることに気付いてないのか。
  
「それで厳島神社は後どれぐらいかい?」
「もうすぐです。この坂道を降りて、曲がればあります」

 この会話を最後に僕達は無言で歩き続ける。観光客の挨拶に神さんが驚く以外、変わったことは起きなかった。
  
「着きましたよ。ここが厳島神社です。どうしますか?中に入ります?」

 僕達は厳島神社の入口に止まる。
  
「いや、ここまでで充分だ。そうか、この部分だったか…」

 この部分?一体どういう意味だろうか。
  
「ありがとう、この恩は忘れない。ここでお別れだ」

 形の無い神様はそう言って、黙り込んだ。どうやらもう行ったらしい。その場は沈黙に包まれる。
  
「一体何だったんでしょうか?」

 辺りを確認しながら神さんが質問。
  
「さっぱり分かりませんね。フックさんが帰ったら訊いてみましょう」

「空腹は最大の調味料」とは上手く言ったものだ。
 弥山の山頂に登り、既にお腹は音を立てて怒っている。嫉妬神様の家で、僕達は空腹で倒れそうになっている。
  
「もう出来るから待ってなさい」

 嫉妬神様がホットプレートの前で、お好み焼きを作りながら僕達を宥める。しかし、ホットプレートの上で焼かれてある豚肉から漂う、匂いを嗅ぐことは拷問に近い。
 当初はフックさんが帰ってくるまで待っていたが、あまりの遅さにご飯を食べることにした。神さんもお腹を空いているのか、お腹に手を当てたままだ。
 嫉妬神様はまるでお好み焼き屋のお母さんのような動きだ。ただその手に持っているのが、ヘラではなく僕達が届けたシャモジなのは驚きだ。本当にそれでお好み焼きを引っくり返せることが出来るのか。
 そんな心配もなく、嫉妬神様は鼻歌交じりでお好み焼きを器用に返す。僕は思わず拍手する。
  
「はい!出来たわよ!」
「本当ですか!」

 ようやく飯にありつける。僕はホットプレートを覗き込む。そこには僕の顔より大きいのではないか、というぐらい特大のお好み焼きがあった。
  
「す、すごいですね。お店のお好み焼きみたいです」
「そう?味も絶品だから召し上がれ」
「頂きます!」

 僕と神さんは手を合わせる。お好み焼きの上では鰹節が勢いよく踊っている。まるでブレイクダンスのようだ。
 僕はお好み焼きを口に入れる。ちょっと濃い目のソースの味とソバが上手くマッチしている。少しカリカリに焼けている豚肉も良い歯ごたえだ。
  
「美味しい!嫉妬神様、本当にお店のみたいです」
「美味しい」

 神さんと絶賛をしていると、神さんの姿が無い。何処に行ったのか探していると、台所から出てきた。片手で一升瓶を持ち、もう片手には器用にコップを三つ持っている。
  
「お好み焼きには冷酒よ!これは絶対だわ」

 意気揚々と神さんはコップにお酒を注ぐ。流石に冷酒は舐めない僕は、断ろうとするが上機嫌の嫉妬神様には届かない叫びとなる。
  
「広島のお酒よ。賀茂鶴って言って美味しいんだから。それじゃあ乾杯!」

 乾杯の音頭と同時に、神さんはお酒を飲み干す。まるで居酒屋のカウンターにいるオジさんのようだ。僕も一口飲むが、あまりにも度数が強く喉が焼けるようだ。思わず噎せてしまう。
  
「さぁ、お好み焼きもジャンジャン作るから食べて飲むわよ!」

 既に酔っ払った嫉妬神様は再びお好み焼きを作り始める。神さんは二杯目のお酒を口に入れる。僕は酒を飲む振りをしながらお好み焼きを食べることにした。
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