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焼き菓子と夫の裏側 1
しおりを挟む(どうしてこんなにも会いたいのかしら……)
あのパーティー以降、ルドルフだけでなくアリアーナまで忙しくなってしまった。
朝食をまだ一緒に食べていないというだけでなく、顔を合わせることすらめったになくなってしまったのだ。
「……ルドルフ様、帰ってきていたのね」
夜遅くまで事業計画を練りながら密かにルドルフを待っていたが、結局帰ってくることがなかった。少し眠って目を覚ますと、やはりルドルフはいなかった。
それなのに、会うことができなかった代わりとでもいうように計画書には赤色で印がつけられている。
それに目を通していたアリアーナは首をかしげ、修正された計画書を渡してきたベルマンに質問する。
「確かにこの部分はルドルフ様の指摘通り再検討が必要だと思うの。でも、良い案が浮かばなかった部分なのよね。どうしたらいいのかしら?」
「ルドルフ様に差し入れを持って行かれてはどうですか?」
「……え?」
案が浮かばないことと、ルドルフに差し入れを持って行くということが繋がらず、アリアーナはもう一度首をかしげた。
「ああ、つまり差し入れを持って会いに言って直接相談したら良いということね?」
「ルドルフ様はとてもお喜びになると思います」
(私が差し入れを持って行ったところでルドルフ様が喜ぶとは思えないけど、契約書にはフィンガー商会に自由に出入りして良いと書かれていたわ)
そう思いながら、アリアーナは早速厨房へと向かった。
すでに厨房の料理人たちとは仲良くなっていてアリアーナが向かうと、大歓迎された。
「あの、ルドルフ様に差し入れを持って行きたいのだけど」
「それは素晴らしいお考えだと思います! 何を作ればよろしいですか?」
「そうね。焼き菓子を作るから厨房の隅とオーブンを貸してくれるかしら?」
「え? 奥様が作られるのですか……!?」
もちろん差し入れと言えば、妻が作ったものを持っていくのが常識だろう。
(だって、最新刊にもそう書いてあったもの……!)
通常であれば貴族出身の夫人が自分で差し入れを作ることなどないだろう。
しかし、アリアーナの愛読書の最新刊の一場面には貴族出身のヒロインがヒーローのために焼き菓子を作る場面があった。
(ルドルフ様は甘い物があまりお好きではないみたいだから、甘さ控えめが良いわね)
ふと思い浮かんだのは、ルドルフが融資している菓子店での一幕だ。
あのときクリームを拭われた頬がジンジンと熱を持っている気がして、アリアーナは無意識に頬を押さえ、その記憶を振り払うように首を振る。
「さあ、早速作りましょう」
実はあまりに焼き菓子が美味しかったので、密かにレシピを調べて研究していたアリアーナ。どんなことでも探求する性格の彼女は、自分の食事はいつも自分で作る生活をしていたためお菓子作りもお手の物だ。
時間がないため、作ったのは小さなカップケーキだ。
(きっとあの店ならこれに可愛らしい飾りをするのでしょうけど、そこまで時間はかけられないし、手作りという感じがするからこれはこれでいいわね)
甘さ控えめの焼き菓子からは、香ばしいバターの香りとほのかなレモンの香りが漂っていて食欲をそそる。
お菓子を可愛らしい紙で包んで籠に詰めるとアリアーナはルドルフの商会へと向かったのだった。
***
――ルドルフの商会の本社は、大貴族の屋敷にも匹敵するような規模で、しかも王都の中心部に建てられている。
正面玄関から入ると受付をしていた職員が慌てたように走り寄り、アリアーナにあいさつをした。
「……夫に会いたいのだけれど、予定はどうなっているかしら?」
「今なら外部からのお客さまはいらっしゃらないので、会いに行かれても大丈夫だと思います」
「ありがとう」
その職員に案内されてアリアーナは長い廊下を歩いて行く。
職員が去って行ったあと、突き当たりのドアをノックしようとして、ほんの少し開いていることに気がつき無意識に中をのぞき込む。
そこには秘書セシリアと彼女に笑顔を向けるルドルフの姿があった。
(あんな顔……見せてもらったことない)
参加したパーティーで優しくしてもらい、バラードに迫られているときに助けてもらい、そしていつも真摯に事業の相談に乗ってもらった。
だからアリアーナはルドルフとの距離が近づいたのではないかと勘違いしてしまったのだ。
「……なにしているんだろう、私」
籠に目を向ける。味見をした焼き菓子はとても上手にできていた。
けれどルドルフはお飾りの妻からこんなものをもらっても喜ばないに違いない。
「帰ろう……」
部屋から背を向けたアリアーナは出口に向かい、平静を装って受付の職員に微笑みかけた。
「もう要件は終わったのですか?」
「ええ。よろしかったら皆さんでどうぞ」
差し出した焼き菓子を職員に押しつけるように渡すとアリアーナは建物の外に出た。
そこには馬車が停車している。すでに馬車の扉を開けて控えていたベルマンがアリアーナの顔を見て何かを察したのだろう。表情を曇らせる。
「旦那様にお会いできなかったのですか?」
「……ええ。忙しそうにされていたから、またの機会にするわ」
「……奥様」
ため息と共に馬車に乗り込もうとしたアリアーナ。
「アリアーナ!」
「え……?」
聞き間違いかと思って振り返る。しかしそこには、全力でこちらに走ってくるルドルフがいた。
「ルドルフ、様?」
よほど急いでかけてきたのか、ルドルフの息は完全に上がってしまっている。
アリアーナの視線はルドルフが持っている籠に釘付けになった。
呼吸が落ち着いてきたのだろう、ルドルフがようやく口を開いた。
「――君は自由にフィンガー商会に来ても良いという契約内容だったはずだ」
「確かにそう書かれていましたね」
「では、なぜ俺に会いに来ていながら声も掛けずに帰ろうとする。……この菓子は差し入れではなかったのか?」
「忙しそうだったので……」
それは半分嘘だ。アリアーナが諦めてしまったのは、ルドルフが秘書セシリアに笑顔を向けているのを見てしまったからなのだから。
「会いたかったのは、俺だけか」
「えっ!?」
ルドルフがアリアーナに紙の束を差し出した。
「……これは」
「少々時間が足りず、今朝の計画書に具体的な改善案を伝えることができなかったからな。仕事の合間に軽くまとめておいたんだ」
(ああ、会いたかったって、事業に関する意見を早く伝えたかっただけなのね……。勘違いしてしまいそうになったわ)
赤くなってしまった顔に気がつかれたくないと俯いていると、なぜかルドルフが籠から焼き菓子を一つ取り出し口に放り込んだ。
驚いて顔を上げると、ルドルフが軽く指先で口を拭い、こちらを見つめていた。
その行動はあまりに色気があって、アリアーナの頬が今度こそ隠しようがないほど赤く染まる。
「あ、あの……」
「今度から差し入れは俺に直接渡すように」
「――契約書には書かれていません」
我ながら可愛くないな、と思いながらも先ほどの秘書に向けていた笑顔を思い出してアリアーナはそう口にしてしまった。
ルドルフは少しだけ考え込んだような素振りを見せたあと、口を開く。
「……そうだな。では、君が合意してくれるのなら契約更新だ。アリアーナはルドルフに時々差し入れをする。なお、その際差し入れはルドルフに直接渡す。――異論は?」
「ありません」
「ところで、君は菓子作りの才能もあったんだな? 今まで食べたどんな菓子よりも旨い」
「褒めすぎです」
「――また食べたい」
「こんなもので良いのならいつでも」
その瞬間、ここまで無表情だったルドルフが、なぜか嬉しそうに笑った。
アリアーナは、今まで見たことがない笑顔にその場に縫い止められてしまったように身動きがとれなくなる。
「君の無理がない範囲で良い。……さて、まもなく重要な客が来る予定なんだ。君は帰って、たまにはのんびり過ごせ」
背中を向けて足早に去って行くルドルフ。よほど時間がないのだろう、振り返ることはなかった。
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