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契約妻は優先される 2

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 ***

 ――そして一か月が経過して、パーティー当日が訪れた。

(さっきから一生懸命思い出そうとしているのに、この一か月の出来事がなぜか霞がかったようい思い出せないの……)

 とにかく忙しかった。それだけはすぐに思い出せる。
毎日のように何人もの人たちと面談し、収支計算を行い、ドレスを完成させるために走り回った。
 その合間に帰ってきたルドルフに内容を報告し、時に書類を提出し、事細かに修正を受け、また取り組む。

 そのとき、強めの力で引き寄せられてアリアーナは我に返る。
 顔を上げると、ルドルフがアリアーナを見下ろしていた。

 屋敷では前髪を下ろしているが、正装に身を包んだ今日は前髪をキッチリ撫でつけている。その姿はあまりに格好よくアリアーナは軽く頬を上気させる。
 ふと周囲に視線を向けると、通りすがる女性たちは、みな頬を染めてルドルフを見つめていた。

(そう、私の頬が赤くなってしまうのは、ルドルフ様が素敵すぎるせい。周りの反応を見てもおかしなことではないわ)

 深呼吸をして前を向いたアリアーナを抱き寄せて、ルドルフが耳元でささやく。

「ここから先は戦場だ、気を抜くな」
「……わかっています」

 入場と同時に、会場の視線のほとんどがルドルフとアリアーナに向けられた。

「最大手の取引先に君のことを紹介したい。高位貴族だ、君なら大丈夫だろうが心してくれ」
「ええ、がんばります」

 背筋を伸ばしたアリアーナは、ルドルフに微笑みかけた。
 一瞬だけルドルフが目を見開いて、アリアーナのことを穴が開くほど見つめる。

「ルドルフ様?」
「……いや、言っていなかったな。……今日も君は美しい」
「ありがとうございます」

(来たわね! パーティー限定の社交辞令!)

 思わず口にしそうになった言葉は呑み込んで、アリアーナはもう一度満面の笑みを見せた。なぜかルドルフが目を泳がせて視線をそらす。

「お二人とも、本当に仲がよろしいですね」

 そのとき、どこかあきれたような響きの声が掛けられる。

「カルロス」
「お初にお目にかかります。ルドルフ様の部下、カルロスと申します」
「アリアーナです。お目にかかれて光栄ですわ」

 挨拶をしながら、アリアーナはもう一人まっすぐにこちらに視線を向けている女性に顔を向ける。キッチリとまとめ上げられた焦げ茶色の髪と知的な茶色の瞳をした美女からは、大人の余裕が感じられる。ルドルフが彼女のことをアリアーナに紹介する。

「秘書を務めているセシリアだ」
「セシリアと申します。奥様にお会いできて光栄です」
「こちらこそ。どうぞよろしくお願いします」

 アリアーナが彼女に抱いた第一印象は『仕事ができそうな美女』というものだった。
 そしてなんとなく意味ありげな視線を向けられている気がして軽く首をかしげる。
 もう少し話をしたいと口を開きかけたとき、会場にざわめきが起こった。
 そこに現れたのは、赤いドレスの令嬢だ。

 大輪の薔薇がデザインされたドレスは、過度な飾りが排除され、どこか機能的な美しさを感じる。
 背筋を伸ばした令嬢は、鮮やかで大胆なドレスを完璧に着こなしてアリアーナとルドルフのそばに歩み寄ってくると挑戦的な瞳を向けてくる。

「リリアーヌ・フェルト侯爵令嬢」

 彼女が着ているのはアリアーナが企画、作成したドレスの一つだ。

(さすが似合うわ……。残念なことに私には着こなせなかったけれど)

 アリアーナには、大人びたドレスよりも清楚なドレスが似合う、とルドルフがなぜか熱弁し、赤い薔薇のドレスを着ることはなかった。

(でも、ルドルフ様の言うとおり。大胆なデザインは、リリアーヌ様のために作られたようによく似合っている……)

 社交界の中心に位置する彼女がそのドレスを着ていることの意味を会場の招待客は瞬時に理解する。

「――アリアーナ・フィンガー様」
「お越しいただき嬉しいですわ」
「白々しい……。向こうで話をしたいわ」
「ええ、喜んで」

 あらかじめベルマンから情報を得ていたアリアーナは、リリアーヌがこのような態度で来ることは想定していた。

(もちろん、リリアーヌ様の好みも、性格も、そして弱点も完璧に把握しているわ)

 どうやって調べ上げたのかと唖然とすると同時に空恐ろしさを感じるほど、ベルマンから渡されたリリアーヌに関する資料は公私ともに多岐にわたっていた。
 そのまま会場の端に向かった二人は、よそ行きの笑顔で向かい合う。

「そのドレス、よくお似合いです。着ていただけてうれしいです」
「……お父様に言われて仕方なく着たのよ」
「気に入っていただけなかったでしょうか?」
「――っ、気に入らないドレスだったら何があっても絶対に着ない! 気に入ったからこそなおさら腹が立つの」

 二人の会話は小声で、しかも扇で口元を隠して目は微笑んでいるので周囲からはこんなにも剣呑であるとわからないに違いない。

「魔鉱石の事業とお金で私を動かそうなんて」
「……それは単に利害が一致しただけの話です。それでも、リリアーヌ様なら気に入ったドレスしかお召しにならないと私は信じていましたわ」
「――あなた」

 ゴテゴテとフリルやリボン、キラキラ輝く装飾品で彩られた今の流行のドレスは可愛らしいが、大人びて派手な印象のリリアーヌにはあまり似合っていなかった。
 もちろんセンスの良い彼女はそれすら自分流にアレンジして完璧に着こなしていた。しかし大輪の薔薇以外一切の装飾を排除したドレスに身を包めば本来の彼女に似合うのはどちらのデザインかは明白だった。

「……残念だわ」

 眉を寄せて視線を外したリリアーヌの様子に、アリアーナは密かに緊張を走らせた。
 けれど、扇を畳んでこちらを見つめたリリアーヌの口元は弧を描いている。

「私とデザインを近くすることを意識したのでしょうけれど、あなたはもう少し可愛らしいドレスのほうが似合うわ」
「……それはどういうことでしょうか」
「首元までレースで隠してしまっているのは、大人びた印象を意識しているのかもしれないけれど、大きく開いてフリルを使った方が似合うと思うの……」
「こっ、これは……」

 実はアリアーナは当初そういったデザインを身につけようとしていた。
 しかしなぜか完成間近に現れたルドルフが『胸元が開いたデザインではない方がアリアーナには似合う』と言い出したのだ。

 ここまでアリアーナが希望すればその意見を優先していたルドルフ。彼がこんなにも主張するのは初めてだったため、よほど似合わないのかと急遽変更したのだが……。

「あら、その反応は夫が嫉妬してあなたが肌を見せるのを嫌がったのかしら……」
「……それはありえません」
「そう? 先ほどからこちらにチラチラと向けられる視線からはあなたへの興味と執着を感じるけれど?」

 その言葉に先ほどから招待客と歓談しているルドルフに視線を向けたアリアーナ。
 けれどルドルフは全くこちらなど見ていなかった。

(見たことがない穏やかな表情……。それにとても会話が弾んでいるみたい)

 ルドルフの視線は、先ほど紹介された秘書のセシリアに向けられていた。
 彼女に向ける表情からは警戒感が感じられず、普段アリアーナと仕事以外ではほとんど言葉を交さないのが嘘のように長く話をしているようだ。
 アリアーナはため息を一つついて、別の話題をリリアーヌに振ることにした。

「こちらに来ていただけますか?」
「何かしら……?」

 リリアーヌと一緒に休憩室へと向かったアリアーナは、そこに用意してあった一冊の本を手にした。
 その題名を見たリリアーヌが目を見開く。

「……男女の仲というものは、他人の目からはわからないものです。そう、この小説のように」
「あなた……!」
「リリアーヌ様がこのパーティーに参加してくださったのは、もちろんお父上に言われてのことやドレスの件もあると思いますが、こちらも理由の一つだったのでは?」
「まだ発売どころか告知すらされていないはず」
「私が誰の妻なのか、お忘れですか?」

 ここで初めてアリアーナは密かな優越感を感じた。
 もちろんアリアーナは、この物語をすでに読んでいる。控えめに言って最高だった。

(ベルマンが手に入れてきた情報は多岐にわたったわ……。もちろんその中には、リリアーヌ様の好みも入っていた)

 なぜそこまで調べ上げたのかと不思議に思ったが、ベルマンは『気になることがあれば旦那様にお聞きください』と微笑むばかりだった。
 その情報の隅に書かれていたのがリリアーヌの愛読書だったのだ。

(そう、リリアーヌ様と私は共通の本が好きなの。だからきっと……)

「実は私もこの本は第一巻の初版から読んでいるんですよ?」
「……恋愛小説を読むことは淑女にとって隠すべきもの、という風潮が強いのにこんなに堂々と言うなんて変わっているわ」
「ふふ。庶民に嫁ぐような女ですから」

 これは初対面の時に庶民はコルセットを着けないとドレスを馬鹿にされた意趣返しだ。
 そのことに気がついたのだろう、リリアーヌは扇を再び拡げると愉快そうに笑った。

「物怖じしないのね。……気に入ったわ。今度我が家でお茶会を開くの。あなたを招待するわ」
「まあ……。ありがとうございます!」
「さあ、そろそろ会場に戻りましょう。あなたの夫が心配しているわよ」
「ルドルフ様が私のことを心配……?」
「……あの視線に気がつかないあなたもあなただわ。本当の恋愛を知るのは、まだ先みたいね」
「……?」

 アリアーナは首をかしげた。ルドルフはもしかしてアリアーナが失敗するのではないかと気がつかれないようにこちらを伺っているのだろうか。

「それでは、招待状を送るわ。また会いましょうね」
「ええ、楽しみにしています」

 会場に入るとリリアーヌは颯爽と去って行った。
 視線を向ければ先ほどの場所でまだルドルフはたくさんの人に囲まれていた。

(別世界の人みたい……)

 伯爵令嬢とは名ばかりだったアリアーナに比べて、ルドルフは社交慣れしている。
 話術も巧みで見目も良く、会場中の女性が彼にチラチラと視線を送っている。
 ぼんやりと眺めていると、こちらに気がついたのだろう。秘書のセシリアが足早に近づいてきた。

「アリアーナ様、新聞、出版関連の役員と実業家たちが集まっています。こちらにいらしてください」
「は、はい……」

 セシリアは、ドレスまでも大人っぽい印象だ。装飾がないシンプルなドレスに大粒のパールが彼女の美しさを際立たせている。

(もしかして、ルドルフ様の帰りがいつも遅いのはこの方と会っているからかしら……)

 契約結婚だと宣言されたのだから、もちろんルドルフには外に愛人がいるのだろう。
 知的なセシリアとルドルフはとてもお似合いのように思えてくる。

(本当に私は、お飾りの妻でしかないのね)

 けれど、アリアーナはその気持ちを表に出さずに口元に笑みを作る。
 やはりルドルフは外では夫婦仲が円満であることをアピールしたいのだろう。
 アリアーナを妻として周囲に紹介し、腰に手を回して抱き寄せてくる。

「初めまして。出版事業で広告を担当しています。ボルトと申します」
「お会いできて光栄です。アリアーナと申します」
「……早速ですが、今回の事業の計画書を拝見しました。素晴らしいですね」
「まあ……。ありがとうございます」

 計画書は確かにアリアーナが作成したものだ。だが、幾たびもの修正により初めとは見違えるような仕上がりになっている。
 そのことについて伝えるべきか悩んでいるうちに、我先にと質問や感想を述べてくる周囲の人たちにアリアーナは取り囲まれてしまった。

 ようやく解放されたとき、ルドルフは遠くで大手の取引先の男性と会話をしているところだった。ルドルフが一瞬だけこちらに視線を向けたように思えたが、やはり無表情なままですぐに視線がそらされてしまう。そんな行動の一つからも、アリアーナは自分がお飾りの妻なのだと思い知らされるようだった。

(あれは宰相閣下……。最大の取引相手って、宰相閣下のことだったのかしら? 大事なお話中に邪魔したら申し訳ないわね……。今のうちに少しだけ何か飲もうかしら……)

 端の方に置かれたグラスをとるためにアリアーナはテラスへと続く会場の端へと向かった。そのとき、急に手が掴まれてアリアーナはテラスへと連れ出されてしまう。

「レイドル様……」

 そのままテラスへ連れ出されたアリアーナは、目を見開いた。
 目の前に立っているのは、義妹の婚約者バラード・レイドルだった。
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