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絵に描いたような契約結婚 3

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 アリナーナは、時代遅れのデザインの緑色のドレスを着て、髪をキッチリとまとめた。
 このドレスはコルセットを強く締めなければ着ることができない。

 いつもであればアリアーナの着替えを手伝うことなどないメイディン伯爵家の侍女が、不機嫌な様子で強くコルセットを締め上げた。

(こんなに締め付けてしまっては、何の仕事もできないわね)

 アリアーナは、締め付けられながらふとそんなことを思う。
 すでに社会進出しつつある平民の女性は、コルセットを着けることはないらしい。
 それに引き換え彼女を締め付けるコルセットは、自由を奪うしがらみそのものに思えるのだった。

 ――約束の時間のきっちり五分前にルドルフ・フィンガーは屋敷を訪れた。

 金色の髪は少しの乱れもなく撫でつけられ、夜空のような青い瞳は知的だが、無表情なことも相まって夜風のように冷ややかだ。

 丈の長いコートに質の良いスーツ、白いシャツ。クラバットの結び方にもこだわりを感じる。形や色合いは華美ではないが一目で上質な素材を使用していることがわかるものだった。

「お会いできて光栄です。ルドルフ・フィンガーと申します」

 その礼は美しく、高位貴族の作法を熟知しているようだった。
 値踏みするような視線を向けていたアリアーナの義母が作り笑いを浮かべる。

「フィンガー様。お待ちしておりましたわ」
「ええ、このたびは求婚の申し出に良い返事をいただけることを祈っております」

 ルドルフは『良い返事が欲しい』と言いながらもあまりに無表情だ。

(少しも微笑まないなんて……。この結婚はやっぱり彼にとってあくまで貴族界との繋がりを得るためのものなのね)

 わかっていたつもりだったが、ほんの少しの落胆を感じながらアリアーナはルドルフに視線を送る。
 深くて吸い込まれそうな青色の瞳が、一瞬だけアリアーナの瞳をのぞき込んだ気がした。

 そのあまりの美貌にアリアーナの心臓が音を立てて高鳴る。
 しかしルドルフはアリアーナに興味がないように視線をそらしてしまった。

「早速ですが結婚の条件を提示します」
「ほら、アリアーナ!」
「は、はい」

 渡された結婚の条件を記した紙の束は、昨日受け取った手紙に負けないほど分厚かった。

(また、魔法紙を使っているわ……)

 几帳面な文字でしたためられた文面は、やはり契約書のように事務的だ。
 義母は手紙に一瞬だけ視線を向けると、露骨に眉根を寄せ、直後それを隠すように愛想笑いを浮かべる。

「アリアーナ。あとは二人で話し合いなさい」
「はい、お義母様」

 アリアーナはその文面に速やかに目を通していく。

(本当に、契約書そのものだわ。自由に暮らせると思ったけれど、これだけ細かく書かれているのですもの。しかも、双方の合意なしには破ることも燃やすこともできない魔法紙……。ここにはきっとお飾りの妻の自由を制限する内容が書かれているのね)

 そんなことを想像しながら読み進めていくアリアーナ。けれど、その表情が徐々に困惑に染まっていく。

 一つ、アリアーナはルドルフとできる限り朝食をともにする

 この文章からしてすでにおかしい。アリアーナの認識では、そもそも夫婦であればできる限り朝食をともにするのは、あまりに当然のことだ。

(……えっ、朝食の他にも日常生活の項目、まだ続くの!?)

 一つ、アリアーナは体調が悪くなければルドルフが仕事に行く際に見送りをする。但し忙しい場合や早朝の場合はその限りではない
 一つ、アリアーナは屋敷内の設備を自由に使うことが出来る
 一つ、アリアーナは屋敷の使用人を管理し雇用と解雇する権利を持つ
 一つ、アリアーナは必要な社交にはルドルフとともに参加する
 一つ、アリアーナが社交に参加する際の装飾品や服については全てルドルフが用意する
 一つ、アリアーナはルドルフの職場を自由に訪れることができる

(どこまで続くのかしら……!?)

 書かれている文面は、ルドルフの妻としての過ごし方を細かく指定しているものだった。その内容は生活や社交全般にわたり非常に、いや異常に細かい。

「……契約書を全部読み終わったようだが、質問はないのか」
「とくにありません……」

(あっ、契約書って言った!? やっぱり契約書なの!? 魔法紙に書いたのもこれが契約書だからなの!?)

 混乱するアリアーナを前に、ルドルフは不服そうに眉間にしわを寄せた。

「それは良くない。きちんと吟味して不明点や不審な点があれば相手に質問を投げかけるべきだ」

 契約書という単語だけでなく、それはまるで上司が部下に投げかけるような言葉だ。
 たしかにこの手紙に疑問がないと言えば嘘になる。アリアーナは最初の一文をもう一度確認した。

「えっと、できる限り朝食をともにするのですね?」
「――そうだ。ただ、俺は仕事で不在のことが多い。実際それほど回数はないと思うが……不服か?」

 日常生活のあれこれまで指定されているのだ。結局のところここに書かれたこと以外もルドルフはアリアーナの私生活に口を出して、日々の自由は今以上にないに違いない。

 それでも、バラードのこともあってアリアーナにはあとがない。

「いいえ……。えっと、早朝や体調が悪いときは見送らなくて良いのですか?」
「は? 当然だろう。部下にも体調が悪いときには休みを取るように伝えている。それに朝早いときに君まで無理に起きるなんて非効率的だ」
「非効率的……」

 ここに書いてある内容は、一つだってアリアーナに不利になるものがない。
 それより、どちらかといえばその内容は……。

「……これ、普通の夫婦の決め事みたいですが、わざわざこんなにも細かく書かなくてはいけませんか」
「もちろん。契約があってこそ権利が守られるんだ。事細かに決めておいた方が良いに決まっているだろう」
「そういうものですか」

 アリアーナは細かすぎる文字で書かれた手紙をもう一度見つめた。

(ルドルフ様が少し、いやかなり変わり者、という噂は本当なのかもしれないわね)

 手紙には主に屋敷内の衣食住、社交についての決め事、妻としての権利が書かれている。
 契約結婚というのなら、その期間はおそらくルドルフが貴族界との繋がりを作るまでのものだろう。

 たとえ日常生活まで細かに口を出されるのだとしても、実業家のルドルフのそばにいればアリアーナも一人で生きていくための基盤を整えることができるかもしれない。

(少しだけ、ほんの少しだけ、私を愛してくれる誰かがここから連れ出してくれることを夢見ていたけれど……。でも、もしも自分の力で生きていけるなら)

 アリアーナは今までの生活とこれからの生活を秤にかける。
 愛のない結婚生活にむなしさを感じながらも、その先に待つ未来はそこまで悪くないものに思えてくる。

 ルドルフは無表情なままだが、まっすぐにアリアーナを見つめている。
 アリアーナもまっすぐにルドルフを見つめ返す。

(無表情だから冷たく感じるけれど、とても美しくて澄んだ瞳だわ……)

 なぜかルドルフの喉が、水を求めるように上下した。

「私……求婚を受け入れます」
「そうか。不自由はさせない、よろしく頼む」

 差し出された手は大きく温かい。しかしルドルフは愛想笑いすら浮かべず無表情なままだ。

(にこりともしないのね……。つまりこれは契約相手に対する単なる礼儀)

 けれど、アリアーナの荒れた小さな手を握ったルドルフの手は力強かった。
 ルドルフは冷たい表情のまま、まっすぐにアリアーナを見つめてくる。

 アリアーナは、自分の心臓が高鳴っていることに気がつかないことにした。

(――私は、自分の足で立って、そして自由を手に入れる)

 こうしてアリアーナとルドルフの婚約が決まった。

「三日後に迎えに来る。式はあとになるが、すぐに書類上の結婚を済ませよう」

 慌ただしくなるだろう日々を想像していたアリアーナだが、ルドルフが口にした衝撃のひと言に目を見開く。

「三日後!?」」
「そう、三日後から君は俺の妻だ。もちろん俺の屋敷で暮らしてもらう」
「展開が早すぎませんか……!?」
「契約を結んだなら可及的速やかに履行する。当たり前のことだ」

 通常であれば、貴族同士の結婚は半年以上の期間をおくのが当たり前だ。
 しかしルドルフは三日後には結婚をして、即日屋敷で暮らすことをアリアーナに強制した。

(ルドルフ様の常識は、私とはずいぶん違うみたい。私、これから一体どうなるのかしら……)

 あっという間に決まってしまった結婚。
 アリアーナは呆然と、振り返ることもなく去って行くルドルフの背中を見送ったのだった。
 
 ***

 ルドルフは、アリアーナの屋敷を足早に出て馬車に乗り込んだ。
 馬車の扉を執事の服装に身を包んだ老齢の男性が開く。

「いかがでしたか」
「……求婚は受け入れられた。三日後に神殿に婚姻届を出し、彼女は屋敷に住むことになる。引き続き準備をすすめるように」
「かしこまりました」

 必要最低限の会話だけを交してルドルフは馬車へと乗り込む。
 そして胸ポケットから貴族の若い女性が好むようなブローチを取り出す。
 そのブローチは細かい細工がされており、一目で高級であることが分かる。
 しかし緑色の宝石には、大きなひびが入っていて宝飾品としての価値はないだろう。

「……」

 ルドルフはそのブローチを胸ポケットにしまい込むと、馬車の窓からメイディン伯爵家の屋敷を表情を変えることなく見つめるのだった。
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