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第1章
運命の赤いリボン 2
しおりを挟む足を踏み入れた途端、私は、反射的に魔法障壁を張る。
今まで、たくさん怖い目にあってきたけれど、こんなにも危機感を間近に感じるのは初めて。
村の姿は、あっという間に廃墟に変わり、先ほどまでの光景は、私たちを誘い込むための幻影だったことに今更ながら気づく。
反射的に、私はレナルド様を振り返る。
レナルド様だけでも、逃さなくては。聖女の魔法の中には、緊急時仲間を逃す術がある。
その魔法を口にしようとした瞬間、ラベンダーの瞳を揺らすこともなく私を見つめるレナルド様が、私の口を手で塞いだ。これでは、魔法を発動することができない。
私も、ほぼ同時に、レナルド様がもう片方の手でつかもうとした、私の首に輝く転移石のはめ込まれたネックレスを使わせまいと握りしめる。
お互いたぶん、同じことを考えた。相手だけでも、逃がそうとした。
もし、レオナルド様だけ逃がしても、どんな手を使っても戻ってきて、私を助けようとする気がした。
違う。この世界に来てから、いつもそうだったのだから、私もそろそろ学んだ方がいいのだろう。
気がするのではなくて、実際にそうなるに違いない。
「…………レナルド様」
「…………先ほどは、逃げて下さいと願いましたが、これは、戦う以外の選択肢は無さそうですね」
ここまで来てしまったら、逃してもらえないだろう。
そして、相手の狙いはたぶん、聖女。
目の前にいるのは、明らかに人とは違う生き物だとわかる。ヤギのようなツノ、鳥のみたいな手。実物を見たのは初めてだけれど……。
一生見ることはないと思っていたのだけれど。
だって、私は、中継ぎの聖女のはずだから。
目の前に、この存在が現れるのは、100年後のはずだったから。
「予言のうそつき」
つぶやいた私と、目の前の存在に即座に斬りかかる選択をしたレナルド様。
その体を守るために、私は魔法障壁をもう一度……。
「…………え?」
瞬きするほどの時間で、私の目の前には魔人がいた。
「――――たしかに、予言は合っているだろう。俺の魔力が、完全に回復するまで、あと100年ある。だが、完全でなくても、芽を摘むくらいは容易だ」
「聖女様!」
「100年後に、聖女は現れない。もう、あちらの世界との扉は、閉じておいた」
何を言っているのだろう……。
だって、私は中継ぎで、だから魔人が世界を壊してしまうのは、まだ100年先で……。
――――どうして、100年魔人が待っていてくれるって思ったのだろう。
そんな都合のいい話、この世界にあるはずないって、不条理に召喚された私は、良く知っていたはずなのに。
「だが、それでも、100年後の未来では…………聖女と守護騎士の」
笑った魔人の口の中に、真っ赤な舌が見える。
私だったら、絶対こんな敵キャラが出てくるゲーム買わない。
「聖女……。おそらく、今の完全に回復していない魔力では、殺すことはできまい。だから、せめて永遠にその名を失えばいい」
淡い緑色の光は、まるでスライムみたいにうごめいて私の足首にまとわりつく。
その瞬間、悍ましいほどの、悪意が私の中に入り込んでくるのを感じた。
「うぁっ……」
恐怖と入り込んでくる悪意の気持ち悪さに、私は小さくうめき声をあげる。
それなのに、いくらたっても、それ以上、私の足元から、呪いが入り込んでくることはなかった。
その意味を理解するのに、少しの時間を要した。
「大丈夫ですから」
私の手首をつかんでいるのは、恐ろしい魔人ではない。
温かいその手が、背中が、いつも私を守ってくれたから。
目の前にいる人が、私の代わりに、その悪意を受け入れていく姿を、信じられない思いで、見つめる。
「――――聖女を守るための、守護騎士の魔法か……。それにしても、予想外だ。魔力がすでに底をつきそうだ……。恐ろしいほど強いのだな。剣聖を越えているのか?」
復活するのには、早かったせいなのか、魔法を使っているせいなのか、魔人がそれ以上私たちを攻撃してくる様子はない。
でも、それは、魔人が放った呪いに、レナルド様が抵抗しているからなのだ。
大丈夫なはずないのに……。どうして、私の身代わりになんてなろうとするの。
私が聖女で、レナルド様が守護騎士だからなの?
それなら私は、もう聖女なんてやめてしまいたい。
「――――大丈夫ですから」
レナルド様はもう一度、そう言った。しかも、ほほ笑んで。
だってこれは、ただの呪いじゃない。100年後に世界を滅ぼそうとする、魔人の呪いだ。
どんなにレナルド様が強くたって、無事で済むはずがない。
ボロボロと涙が流れ落ちて、ようやく私は気が付いた。
レナルド様しか、いないのだと。
私が必死で、この世界を守ろうと、聖女でいようとした理由は、目の前にいる守護騎士様の期待にこたえたいという理由しか、なかったのだと。
「思ったよりも、抵抗が激しかったな。そもそも、聖女にかけるための呪いに、ただの騎士がここまで抵抗するとは予想外だ。やはり聖女の…………な、だけあるな」
遠くのほうで、魔人の声が聞こえてくる。
夢だったらいいのに。受け入れたくないと、心の中の大事な場所が、この現実を拒否してる。
「早く、封印の箱を稼働してください」
その声にようやく私は、我に返る。
剣を支えにして、私を背中に隠すようにレナルド様が立ち上がる。
その体を、薄気味悪い淡い緑色の光が包み込んでいく。
無理をすればするほど、抵抗するための魔力は消費され、呪いにその体が蝕まれる。
「――――シスト!」
その瞬間、私の左肩、少し上の空間でクルクル回っていた箱が、ガチャンと音を立てる。
『そう、君の役目を、果たして。僕はそれに答えるだけだから。理沙』
中継ぎ聖女には必要がないと、いつも冷笑を浴びせられていた封印の箱。
血が出るほど、噛み締めた唇。そう、今は目の前の魔人を封印することに、全力をかけるべきだ。
神聖なはずの封印の箱を、プレゼントみたいに見せていた赤いリボンがほどけて、ヤギみたいなツノと鳥みたいな手を持つ魔人の腕に絡みつく。
「――――100年なんて、魔人にとっては、ほんのひと時だ。それでも、力の回復には、少し足りない。まあ、聖女を手にかけることはできなかったが、半分は目的が達成できたようだ。良しとするか」
そのまま、魔人は、赤いリボンを引きちぎって姿を消す。
クルクルと私の斜め上で回る箱は、何事もなかったかのように、再びリボン付きのプレゼントの箱みたいな姿を取り戻した。
ドシャりと、重いものが地面に崩れ落ちる音がする。
レナルド様の鎧が、ガチャリと音を立てる。
片膝をついたレナルド様の魔力を全て食い尽くそうと、ネバついたような感触の呪いが、淡い緑の光を放つ。
「……ご無事ですか。聖女様」
「レナルド様……。はい、無事ですよ」
こんな時まで、私に笑いかけるなんて……。心が粉々に割れてしまいそうだ。
泣きながら私は、守護騎士レナルド様に縋り付いた。
レナルド様がいなければ、この世界を守ろうと思うことができない。
レナルド様だけが、いつも正面から私を守ってくれて、一緒にいる間だけ、たった一人呼び出された、この世界での孤独が薄まったのだから。
「――――すぐに、王都に戻って、魔術師と剣聖に連絡を」
「その前にすることがあります」
「聖女様……。時間がないから」
そう、レナルド様には時間がない。
私は、覚悟を決める。
レナルド様にとっては、不本意に違いないけれど、この力を使うのは、たぶん私の人生で今しかないように思えた。
聖女の初めてには、大きな意味がある。
初めての魔法。
初めての戦い。
初めての祈り。
すべてが、二回目以降のそれと違い、神聖な意味を持つのだ。
「――――え?」
私が、膝をついて、レナルド様と同じ高さに顔を合わせた姿を、焦点が合わなくなったレナルド様のラベンダー色の瞳が見つめる。
「ごめんなさい」
たぶん、私みたいな、聖女であること以外取り柄がない人間が、これからすることは、レナルド様にとって不本意だろう。それでも。
聖女の口づけは、たった一人にしか与えられない。
中継ぎの聖女といっても、聖女の最初の口づけだけは、王族も欲しがった。
みんながその恩恵を欲しがった。でも、レナルド様は「好きな人とするときに、取っておくものでしょう?」と言って、私の初めてを守ってくれた。
塩辛い……。
初めての口づけは、もっとロマンチックな場所で、そして甘いのだと思っていた。
でも、私が、それを捧げたいと思った人は、一人しかいない。
涙でべちゃべちゃで、ひどい顔してる、きっと。
それでも、足元に浮かんだ桃色の光を帯びた魔法陣は、かわいらしくて神聖な雰囲気だ。
守護騎士の誓いをしてくれた時に、桃色の光と一緒に浮かんだ魔法陣。
あの時、光を吸い込んだ、レナルド様の剣が、淡く桃色の光を帯びる。
中心に描かれているのは、聖女を表す暁に光る一番星。
上には太陽、下には月が描かれて、周囲を取り囲む円は、世界を表す。
断末魔の悲鳴のように、気味の悪い地の底から聞こえるような音を立てながら、レナルド様にまとわりつく呪いが解けて力を失っていく。
魔法陣が完全に発動したのを横目に見て、私はレナルド様から、唇を離した。
「くぅ……?!」
私の魔法の隙間を縫って、悪意が入り込もうとしてくる。
寒い、怖い、でも……。
「レナルドさま……」
「やめてくれ! このままでは、リサまで」
久しぶりに呼ばれた、懐かしいその名前。
きっと、あの時すぐに、私に守護騎士の誓いを立ててくれたのは、その儀式だけは名前を呼ぶことが許されるからだったに違いない。
神につけられた聖女の名前を呼ぶことは、この国では禁忌とされているから。
『そ、理沙。このままじゃ、二人とも助からない。それは僕も困るんだけど』
プレゼントボックス、ではなく封印の箱が私に話しかける。
きっと、シストは魔人と私たちが出会うことを知っていたのだろう。
無条件に信じていた。それでも、今、縋ることができるのはシストの存在だけだ。
『聖女がこの世界からいなくなるのだとしても、理沙は守護騎士を助けたい?』
――――助けたいに、決まってる。
そもそも、私は聖女なんかじゃない。
つい数年前まで、ただの女の子だった。
そう、私は聖女なんかじゃない。ただの理沙だ。
私は、決意を込めて、どこか緊張感のない声音の、封印の箱、シストを見つめる。
『……いいよ? それなら助けてあげる。その代わり、このあと、すご~く大変だと思うけど、がんばってくれるよね?』
ぴょこんと、プレゼントの箱の三角形にとがったリボンが、白いフワフワの耳に変わる。後ろ側からしっぽが現れて、箱はあっという間に、空に浮かぶ小さな二足歩行の猫に変わった。
もう一度、現れた魔法陣は、今度は桃色の光を強めて、私たちを包み込む。
そのまま、私はぼんやりと、自分の目の前に表示されたステータスの『聖女』という文字が、桃色の光の中で、猫の爪にがりがりと削られて消されていくのを見た。
聖女の文字が消えると、何もなかった空間から赤いリボンがフワフワと現れて、くるくると私とレナルド様の小指に絡みついた。
運命の赤い糸みたい……。
『聖女の名の代わりに、君の名前を返そう。がんばってね? 理沙』
私が意識を保っていられたのは、残念ながらそこまでだった。
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