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続編の扉は開かれ、悪役令嬢は部屋の扉を閉める。
しおりを挟む雷が去って行っても、身動き一つとれずに立ち尽くす私の手を、不意に誰かが掴んだ。
「――――探した。セリーヌ」
振り返った瞬間、その何よりも赤い色彩が目に入る。
その色彩は、ある場所では戦場を駆ける鬼人のものだと恐れられていて、ある時は冷酷で誰より強い騎士団長を表す色だと畏怖されていることを知っている。
息が上がっているところを見ると、走り回って探してくれていたに違いない。
……この赤色は、私にとっては、幼い頃からいつも守ってくれた、安心できる色彩だ。
「アルト様……」
「はぁ……。王太子妃殿下にしても、フェンディス公爵夫人にしても、どうして単独で行動されるのですか。役目を終えて早めに返してもらったら、屋敷にいないから心臓が止まるかと思いました」
幼馴染としての顔を一瞬のぞかせたアルト様は、すぐにその態度を騎士としてのものに変えた。
こんな瞬間だけは、一線を引かれてしまったようでさみしく思う。
「さあ、戻りましょう。とりあえず、部屋の鏡の前に行かないと」
「……鏡って?」
「鏡は鏡です。このままだと、どんな無茶をしても、来てしまうと思うから」
「は……?」
どんな手を使っても、駆け付けてしまいそうな人を、私は若干一名知っている。
白い手袋をしたままのその手は、エスコートするように差し出されるのではなく、私の手をしっかりとつかんだ。そう、まるで幼い頃に、一緒に走り回った時みたいに。
時間が巻き戻っていくようだ。乙女ゲームのことも、自分が悪役令嬢であることも、何も知らなかった幼い時間は、たしかにそこにあった。
私は、黙ったまま一つ頷く。なぜか、私に用意された部屋に運び込まれた鏡には、やはり秘密があるようだ。そう、おそらくそれは、薄茶色の毛並みをした、あの人に関する秘密に違いない。
漠然と感じていた違和感が、形になっていく。
そもそもおかしいと思ったのだ。いくら、アルト様が付き添ってくれるからって、私とアイリ様で辺境に行くのを、あの人が黙って許すなんて。
「――――のぞき見していたということですか」
そういえば、乙女ゲームの中には、遠方の仲間と連絡を取ることができる、魔法の鏡が存在していた。あまりに当たり前に使っていたから、よく考えていなかったけれど、魔道具には必ず作者がいる。
そして、エルディオ様が現在住んでいる、イースランド領主の館は、ベルン公爵の設計だ。
それなら、そうと言ってくれてもいいのに。
いつもなら、歩幅を合わせてくれている幼馴染が、今日はズンズン進んでいくということは、本気でこちらに来てしまう直前ということなのだろうか。
即位式の準備があるから、来れないと言っていたくせに。
エルディオ様の屋敷について、部屋の扉を開けたとたん、しかし予想外に聞こえてきたのは、ベルン公爵の声ではなかった。それは、聞きなれた、いつもであれば冷静さを感じさせる穏やかで知的な声。
「どうして、アイリは、そうやって物事を複雑にするんだ!」
なぜか、鏡の前には、アイリ様が正座している。
正座するヒロインと、兄の声でしゃべる鏡。
それは、どこか非現実的だ。
「だって……。まさか、潜入先にメインヒーローがいるとか、思わないじゃない」
そうだった。アイリ様は、隣国の大使館に単独潜入してしまったのだ。
国際問題どころか、紛争や戦争を引き起こしてもおかしくなかったのだ。
止められなかった私も悪いけれど、ここは現実で、ゲームの中とは違う。
「それに、あの時急に、そうしなければいけないような気になってしまったのだもの」
聞いている側からすれば、言い訳にしか聞こえないだろうその言葉。けれど、その言葉を聞いた私の脳裏には、青い空にまるで白鳥のように舞い上がった、白い帽子が浮かぶ。
まるで、プロローグをなぞるような出来事。たぶん、原作のゲームのシナリオは、私たちのせいで、すでに改変されつつあるのだろう。
それとも、隠しシナリオが、解放されたとでもいうのだろうか。
だとすれば、それは間違いなく前作ヒロインと悪役令嬢の乱入イベントに違いない。
頭垂れるピンクブロンドの艶やかな髪。正座してうなだれる後ろ姿すら絵になるのが、アイリ様のすごいところだと私は思う。
ため息一つついた後に、「アイリが心配なんだ」という、この後は聞いてはいけない展開になりそうな兄の台詞。この部屋は、しばらく入室しないほうがいいに違いない。
鏡の秘密をいったん忘れよう……。
そう決めた私は、二人の邪魔をしないよう、そっと扉を閉めたのだった。
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