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馬車と商会長
しおりを挟む庶民として過ごしてきたときはほとんど家の外に出るのは許されなかったし、父の元に来てからも一人で外に出る経験なんてほとんどなかった。
(でも、この日のために入念に調べたもの……)
お忍びとしてリリアンと一緒に街に出たときは、父が大騒ぎだった。
(お義兄様も止めようとしたわね。信頼されていないのかしら)
しばらくすると、たくさんの馬車が停まっている場所に着く。
この場所から王国中、いや大陸中へ行くことができる。
「はぁはぁ……」
走り過ぎて息をする度に胸が痛いほどだ。
それでも駆け回る。探しているのは鷹と百合の紋様の着いた馬車だ。
(鷹と百合の紋様!!)
「すみません!!」
銀貨の詰め込まれた革袋を差し出す。
「ん? 馬車に乗りたいのか。ずいぶん奮発……これは」
革袋に入っているのは銀貨だけじゃない。ヴェルディナード侯爵家の紋章であるつる薔薇が刻まれた金貨を見た男性が眉根を寄せた。
「……はあ、シルヴィス殿の危惧した通りか。悪いが馬車は出せない」
「……なぜ」
「お嬢ちゃんを危険な目に遭わせるな、と厳命されている」
「やっぱり、お義兄様は」
義兄は想像していたとおり、父の身代わりになるつもりなのだ。
私はポーチから懐刀を取り出した。
女主人の鍵を使ってヴェルディナード侯爵家の宝物庫から持ち出した懐刀は、優美な飾りなど一つもついていない。
「これはね、持ち主の命を痛み一つなく奪うの」
「は……」
「ほら、指先一つ傷つければ……永遠の眠りにつくわ。さあ、5、4、3、2……」
「わ、わわ!! やめろお嬢ちゃん!!」
「ああ……お義兄様を助けられないなら、私には生きる価値など」
少々芝居がかっている台詞だけれど、私は本気だ。やはり最期のあの瞬間、義兄は泣いていたに違いない。
私はあの日の涙の意味をなんとしても聞かなくてはいけない。
「――お気の毒。お義兄様は、私を見殺しにしたあなたを許さないでしょうね。もちろん、お父様も」
男性は額に手を当て天を仰いだ。
「はあ……いざというときにお嬢ちゃんを逃がす約束なんてするんじゃなかった。仕方ない、運賃はその懐刀だ」
「それがなくても、私を連れて行かなければ他の方法がまだあるわ」
「誰もに膝をつかせるような支配者の目、間違いなくヴェルディナード侯爵の娘だな」
「取引成立ね?」
懐刀を差し出すと、男性は私を軽々抱き上げて馬車に押し込んだ。
「リセル商会、商会長ヴァン・リセルと申します。以後よしなに」
先ほどの荒くれのような言葉遣いは、彼の演技だったのだろう。それともこちらが演技なのか……。
「それで、行き先はお決まりですか?」
「フィートフィア山を越えて、隣国の境へ」
「は……シルヴィス殿は行き先を隠していたはず。どうやって調べたのですか?」
「貴婦人の秘密よ」
「左様でございますか……」
「ところで、あなたは腕は立つの」
「見てのお楽しみですね」
「期待しておくわ」
リセルが恭しく私に礼をした。
そして私は義兄を追いかけ、やり直し前父が死を迎えた因縁の地へと向かうのだった。
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