途切れた相思の仲

稲葉真乎人

文字の大きさ
上 下
3 / 20

東福寺の女性

しおりを挟む
日曜日の午前中。
優士は開発グループのプレゼン資料担当で、グループの最年少、二十六歳の吉田麻理奈に送信させた資料のチェックをして過ごした。
麻理奈は優士の大学工学部の後輩で、工学部情報学科で計算機科学コースを学んだ才媛である。
麻理奈の今回の仕事は、開発グループ内でユーロ圏を担当する近藤俊介から提供された資料の編集だったが、何時もながらの合格点の出来だった。
近藤俊介は英語とスペイン語はできるが、資料の依頼はドイツ語を要望していた。
麻理奈は英語は堪能だったが、ドイツ語はビジネスで通用するレベルまでは今一歩の処にある。
グループ内の海外文書整理を担当するのは、高校時代と大学時代を海外留学で過ごした経験のある中谷友梨佳だ。彼女は英語、ドイツ語、ポルトガル語に長けている。
読み終えた資料は、要求言語のドイツ語に翻訳する為、友梨佳に回される。
因みに語学能力に関しては、南北アメリカ地域担当で、優士に次いで年長になる三十五歳の佐々木洋輔は、英語とフランス語に堪能である。

麻理奈の資料を読み終えたのは、正午を少し回った頃だった。
優士はティーシャツに麻のジャケットを羽織り、パナマハットを被ると、帆布製のショルダーバッグを肩に、歩いて鴨川方面に向かった。
河原町通に差し掛かり、河原町三条交差点近くの寿司屋で、昼食限定の〈上握りと赤出汁〉セットで腹ごしらえをした。
寿司屋を出て、近くのコーヒーショップで、ブラックコーヒーのLカップを頼むと、窓越しに道行く人を眺めながら、握り寿司が腹に落ち着くのを待った。

エアコンが効いていたコーヒーショップを出ても、梅雨にしては涼風があり、湿度も
高いとは思えない。体感としては、ショップ内との温度差を感じない、気持ちのいい陽気だった。
優士は三条大橋を渡ると、川端通が並行する鴨川の土手道に下りた。
川沿いに舗装された歩道は、南の八条辺りに架かる東海道本線の鉄橋より先まで続いている。
梅雨明けとは云え、二日前まで、北の山間部に降っていた雨のせいか、少し水嵩の増した鴨川の流れに沿って、のんびりと歩いた。
インドのデリーで見た、汚染されたヤムナー川が頭を掠める。
日本の京都に居ることに感謝しなければと思いながら、五条大橋の下を潜る。
七條大橋を潜り抜けた時、久しぶりに東福寺まで行ってみようと思い立った。
真っ直ぐ南下して流れて来た鴨川は、九条通を過ぎた辺りで南西方向に曲がり、羽束師橋の辺りで桂川に合流する。
優士は七條大橋辺りで鴨川河岸を離れると、何度も来たことのある東福寺方面に足を向けた。
鎌倉時代に創建された東福寺は、奈良の大寺院、東大寺と、強い勢力を持っていた興福寺の夫々の一字から名付けられた。
広い境内に数多くの大伽藍が立ち並び「東福寺の伽藍面」と称され、現在でも、広い境内に大伽藍が多く残っている。
電車を利用して東福寺に行くのには、東福寺駅で降りて、広い敷地の北から下ってくる道をたどる。
多くのひと達は、秋になると紅葉の絶景を眺められる通天橋の対面に在る臥雲橋を渡る。
臥雲橋から更に進むと日下門に着く、此処まで来れば、左斜め前方に禅堂が見える。
日下門を通ると、正面に本堂(仏殿)が姿を見せる。
通路を進むと本堂の手前左に参拝受付があり、その先には渓谷(洗玉澗)に架かる通天橋の長い廊下に繋がる。
この時季に多くの参拝者や観光客の姿は見えない。
優士は南門から願成寺の前を通り、東福寺の南側の勅使門に向かう。
勅使門は閉鎖されていて、手前の六波羅門から東福寺の境内に入れるようになっている。
優士は、軽く礼をして境内に入ると、通天橋の入口が正面に見える通路から、右に逸れて直ぐに在る、放生池(思遠池)の南縁に向かい、国宝の三門が正面に見える位置に立った。
三門の前の思遠池は方形を二つに分ける中央の位置に石橋が架かり、左右に方形の池が形造られている。
柵が設けられており、橋を渡ることことは出来ないが、池を二分する石橋の延長線に立って見ると、池の向こうの三門が大きく見えて間近に迫ってくる。
三門の向こうに仏殿、方丈と続くのだが、優士の背後は塀壁である。
優士は建仁寺の配置が似ていると思ったが、違うのは建仁寺は勅使門が三門の正面に在ることに気が付いた。
国宝の立派な三門の正面から、どうして勅使門がずれているのか、来るたびに疑問に思うのだが、歴史を紐解けば解ると思いながら、深く調べる機会を失している。
池の右側には、梅雨季の水分を十分に吸った木々が枝を伸ばし、少しだが新葉を出しつつある。
新緑が美しいと云うのには、まだ早いようだ。思遠池の蓮の葉だけは、まだ花は付けていないが、若い緑の立派な葉が池の全面を覆い、陽光を受けて生き生きとしている。
蓮にとっては余程環境が良いのか、水面が僅かにしか見えないほどに育っている。
優士は三門の向こう側には行かず、その場に佇み、静かに直立したままで、何度か深呼吸をした。
無心になろうとしたが、断片的に色々なことが思い出されて、無心にはなれなかった。
一時間以上も居ただろうか……。
六波羅門の外の、道路の向かいに自販機があったのを見ていた優士は、何か冷たい物を飲もうと思い、その場を動き、通天橋に向かう通路に戻ろうとしたときだった。
前方左の東司(日本最古の便所)の向こうに建つ禅堂と法堂の間に、日下門から入って参拝受付を通り、通天橋へと向かう数人の女性たちが目に留まった。
優士の目を惹いたのは、夏服姿の四、五人の中年女性の、直ぐ後ろを歩いて行く女性のひとりだけが和服だったのと、その女性の着こなしと、淑やかな動きから感じ取れる物静かな雰囲気だった。
遠めで顔の表情は見えないが、優士は通天橋の先に、和服姿が消えるまで見ていた。
藤色の単衣の着物に、帯は白に近い極薄い生成り色とでも云うのか、その帯を二分する、紫色に細く見える帯紐が目に残る。
幼い頃から母親の着物を見て育った優士にも、詳しい色の名は良く解らなかったが、何故か記憶に残しておきたいと思った。
その、見も知らぬ女性の、表情が分からないまま、姿と動きの全体から受ける印象だけに惹かれていた。
そんな気持ちを持ったことは、七年前に離婚をして後、一度も無かったような気がする。
自販機の傍で、冷たい缶コーヒーを飲み干すと、もう一度境内に戻った。特に意味は無かった。
暫く、女性が消えて行った通天橋の方を見ていたが、再び姿を目にすることなく境内を後にした。

東福寺の境内を出て、北の五条通まで続く本町通に向かう。
蒸し暑さを感じるようになっていた優士は、帰りは電車で帰ることにした。
東福寺の最寄り駅はJR奈良線と京阪本線の両駅が隣接している。どちらでも良かったが、京阪本線は川端通りに沿って地下を走る。三条駅から出町柳駅までは、鴨東(おうとう)線と呼ばれて三駅在るが、その出町柳駅と三条駅の中間の一駅が神宮丸太町駅である。
地下鉄丸太町駅から家までは徒歩で12分程だが、神宮丸太町駅からだと2分ほど遠い距離になる。
JRを利用して京都駅から地下鉄に乗り換えて帰るより、乗り換えなしの京阪電車で帰ることにしたのだ。
東福寺南門を通って、本町通に出た直ぐの処に在る酒屋の前に『地酒あります』の幟が目に入る。
優士は、自分で日本酒を買うことは無いし飲むこともないが、父の謙作は日本酒党である。
火曜日に北大路小山に在る実家を訪ねる手土産にと考えて店に入った。
優士に日本酒の知識はない、店主に銘柄の選択を任せ、750ml入り瓶3本を化粧箱に詰めて貰った。

自宅に戻ったのは午後4時過ぎだった。
提げて帰った地酒をキッチンのテーブルに置くと、直ぐに折りたたみの買い物バッグを脇に抱えて家を出る。
柳馬場通を南に下がると、東西に通る御池通の、すぐ手前に目的の場所がある。
そこに向うのは、ほぼ毎週の土曜か日曜の優士のルーティンである。
食品スーパーでの、一週間分の食料買い出しは、優士がインド駐在から帰って、この五年の間ずっと続いている。
毎週末訪れる身長190㎝を越える、ダンディな買物客を知らない店員は居ない。
レジスターを担当するパートの女性達も男性店長も、みんな顔馴染みである。
馴染みであることは有難く、色々と恩恵に与ることもあり、感謝はしている。
週末に子供連れの家族で来る客や、帰宅途中に寄る多くの女性客に混じり、食料品を買い求める、見栄えも良い大の男の優士は、常連客にも知られた存在だった。
最近の優士は、店内での居づらさと同時に、一抹の侘しさを感じるようになっていた。
しおりを挟む

処理中です...