僕の名前を

茗荷わさび

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枸櫞の香り

第十七話

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 俺は今日も昇降口で巴を待つ。

 スマホの電話帳に新しく登録された番号を眺めて待つ。ついに手に入れた巴の番号。それに掛けることはまだなくとも、自分のスマホに登録されているだけで顔がほころんでしまう。

 ふと階段を見上げると、踊り場の窓から夕陽が差し込んで黒髪がキラキラと艶を増して巴が降りてくる。

 その隣にはカケルもいる。俺にはカケルを引き離そうとかそういう気は無い。むしろ何年の付き合いかは知らないが、巴も学校では孤独ではなかったということだから。
 あの時転校したあともその先でそれなりにでも話す相手は居たんだろうと希望的観測が出来るから。俺の救いにもなる。
 それに、巴は所有物じゃない。カケルのものでもないし俺だけのものでもない。

 でも独り占めしたいのも本音で……、だからせめてこうやって待つことにしている。


 カケルは黙っている。正しくはシカトだ。俺が透明人間のような気持ちにさせられるくらいに無視だ。それは裏を返せば巴に気があるということで、後から来た俺に対して当然な牽制だ。
 逆の立場なら同じことをしているかもしれないと思えばカケルがかわいくも思えてくる。それに加えて巴もカケルに対して素っ気ない態度であることも俺がカケルに対してそこまで嫉妬していない理由だ。もっと友達らしくカラオケ行ったり日曜に出かけたりしてたならきっと我慢ならなかったかもしれない。

 ここまで観察して、つくづくこの二人の関係が謎に思えてくるし、お互いの気持ちが気にもなってくる。もしかしたら空気みたいな存在にまで達している状態だったりするのだろうか。




「腹減ったな」

 吊革に捕まってる巴がもう片方の手で胃のあたりをさする。

「今夜も夕飯作りたいんだけどママが作ってるからなぁ」
「無理すんなよ」
「作りたいんだよ」

 残念に思ってる俺に巴は困ったような表情を向ける。

「あ、ごめん、俺の飯なんか別に毎日食いたくないか。ママのが栄養バランスもいいしね」
「そんなこと言ってないだろ」

 俺の馬鹿。

 タケルのことばかり考えていて嫉妬がうっすら乗っかってしまった。巴が好きなのはオムライス。オムライスを作ってこその俺への信用じゃないか。




 少々落ち込みながら玄関を開けるとそこには見慣れないローファーがあった。

「おかえりなさい」

 出迎えた母親の腕にしっかり絡んでいる麻里がいた。

「麻里、なんでここに」
「なにって、麻里ちゃんにお土産渡したくて連絡したら長政に会いたいってわざわざ来てくれたの」

 麻里と母親は気が合うのか、俺が麻里との関係が始まった頃にはお互いの番号を交換していた。

「お兄さん初めまして、麻里です」
「……どうも」

 麻里がニコリと笑いかけると巴は身構えて俺の後ろに半身隠れる。

「巴くんは少し人見知りなのよ」

 母親がフォローするもそんなのはお構いなしに巴に急接近して顔を覗き込む。

「おばさん、巴くんめっちゃイケメン! いいなぁ~イケメンに囲まれて暮らしてるだなんて」
「そうなの、巴くんイケメンなのよぉ」

 母親も嬉しそうに麻里の調子に合わせる。巴をチラリと見ると麻里の圧に負けて顔が青ざめてきている。このままでは巴が気絶してしまいそうだ。

「ちょっと麻里」

 俺は麻里の手を引いて自分の部屋に連れて行った。

「なに、もうしたい?」

 首を傾げて俺を覗き込む。いつもの誘ってる顔が今日はやけに胸がむかついた。麻里は俺のネクタイを引っ張り早速キスしてきた。手慣れた手つきでジャケットを肩からおろし、シャツをズボンから引き出して手を滑り込ませてくる。直接肌を触られたそこがゾワゾワと鳥肌が立つ。

 反射的に麻里の顎を掴みキスをし抱き上げた。麻里の口端から小さい声が漏れた途端、俺はその唇から離れ麻里の顔を見た。

 違う、巴じゃない。



 隣の部屋のドアが開く音がして、カタカタと音がしたあと玄関か開く音がして間もなくガチャリと閉まった。

 窓を見れば雨が降っていた。




「ごめん、……帰ってくれ」
「は?」

 麻里の肩を押して身体を離す。

「……なにそれ、なんなの?」
「ごめん」
「だから、なんで謝るの」

 違うって思ってしまった。
 巴じゃなきゃ、嫌だって。

「あんたとは相性良いって思ってたけど?」
「……そうだな」

 身体の相性は良かったかもしれない。
 そこに感情は乗ってなかった、お互いに。

「別れよう」
「は?」
「もう関係を終わりにしたい」
「……別に、付き合ってた訳じゃないし!」

 麻里は目を赤くして泣くのを堪えている。そんな麻里に「そうか」そう言いかけて左頬がバチンと叩かれた。

「馬鹿!」
「……」

 正直こんな時でも巴を追いかけたくて仕方がない俺は麻里を置いて部屋を出た。マンションのエントランスを出ると雨がひどいことを知る。ポケットからスマホをとりだして巴に電話を掛ける。こんな状況で初めて電話をかけるだなんて、最悪だ。

 コンビニ、スーパー、ドラッグストア、本屋。駅ビル。探し回っても巴は居なかった。

 巴が行きそうなところなんて俺は知らない……。

 電話なんて、取ってくれなきゃ意味がなかった。



 どのくらい探し歩いただろう。マンションに引き返すとびしょ濡れの巴が反対から歩いてきた。傘を持っておらず制服も色を変えていた。巴は俺を見ると目を見開いて驚いていて、駆け寄って巴の手を握ればその手は冷え切っていた。

「風邪ひくだろ、帰ろう」

 そのまま手を引いてエントランスを通り過ぎエレベーターを待つ。巴は俯いて手を握られたまま大人しくしている。扉が開いて中に乗り込むと、俺は横から突き飛ばされて壁に背中を打った。肩を押されて背中が壁に貼り付けられる。驚きはしたが痛くはない。本気を出さなくても巴に反撃することは簡単だ。しかし睨みつけている巴の瞳に俺の心は引き裂かれるように痛んだ。

 そして俺の顎を鷲掴み、巴が迫ってきて唇を押し付けられた。辿々しくも俺を制圧したいという欲望がどんどん伝わってくる。思わず巴を抱きしめようとするとまた肩が抑えられてしまい、俺はその力に負けたふりをして巴からのキスを受け入れ続けた。

 巴が怒っている。

 俺にか、麻里にか、……嫉妬か。


 急に一瞬浮遊感があってエレベーターの扉が開くと、巴は俺を突き飛ばして部屋に走っていった。

 この後、部屋から出てくることはなかった。





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