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第一章 ブラウンヘアの男
第一話
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「この身長差ってキスするのにちょうどいいよね」
「揶揄うのも……っ」いい加減にしろ……
深夜のキッチンで、にじり寄ってくるブラウンヘアに僕の言葉は飲み込まれてしまった。強引な唇を離したくとも両頬を鷲掴みにされて逃げられない。
男の大きな身体を押して、抵抗する。
「んんっ…!」
口端からどちらのものか分からない唾液が漏れる。
男の荒々しく熱い鼻息が僕の頬をかすめたとき、押していた手を止めた。
合わせたかのように自然と男の手も緩み、それまでとは違う包み込むような温かさへと温度を変えた。
優しく何度も何度も唇を吸い取られる。
僕が男の手首に手を添えると男はふと唇を離した。
僕はこの隙に目一杯空気を取り込む。
擦り合わされるおでこの間で挟まった前髪がザリザリと音を立てた。
「なんて色っぽい顔してんの、……かわい」
あっという間に耳の縁まで血が巡る。
一瞬でもこの男の唇を受け入れてしまった恥ずかしさに、男を突き飛ばして部屋に逃げた。
一ヶ月前、僕はいきなり兄になった。
高校三年になる春休み。塾からの帰り道いつものように弁当チェーンに寄って、好きな海苔弁と豚汁を注文する。出来上がった弁当を受け取ると家路についた。
しかしこの日は違っていた。
家の鍵を開けると無いはずの父親の高級な革靴がある。帰国は来週じゃなかったかなと首をかしげながらリビングのドアを開けると、父親が風呂上がりのようで上下スェットに缶ビールを煽りながら僕の前を通過した。僕に気づくとおかえりと何気ない顔でソファに座る。
「帰り、来週じゃなかった?」
「予定を早めてきたんだよ、弁当か?俺のはないか」
「知らせてくれたら買ってきたよ」
「冗談だよ」
僕は父親に構わずダイニングテーブルに弁当を広げ椅子に座った。
「せめて温めて食べたらどうだ」
父親の声を無視し弁当を頬張る。父親はやれやれとビールを飲んだ。
今日の弁当はまだ温かなほうだ。
僕は買ってきた弁当に美味しく食べようという気持ちはない。冷たくなったのならそのまま食べる。温めたとて、ひとりテレビの音しかない家でどう食べても味はしないことを随分前に知ったから。
父親は商社に勤めていてエネルギーの輸出入をする部門に所属しており、一年の殆どは海外を飛びまわっている。本来は赴任するところを父子家庭ということで出張にしていた。僕としては父親の赴任に付いて行ってドバイやマレーシアなど世界を回っても良かったんだけど、何故か父親は日本に居るほうがいいと思い込んでいる。
生活費は月に一度僕の口座に振り込まれ、そこから食費や参考書代、お小遣いなどを引き出して生活している。
母親はいない、顔も知らない。僕を産んですぐ離婚した。
これが僕の暮らしだ。
僕が食べ終わるのを見計らったように父親が向かいの椅子に座る。
「なぁ、巴。俺、再婚しようと思う」
僕は言葉が出なかった。
僕があまりに黙っているもんだから父親はバツが悪い顔をした。でも本当に言葉が出ない、頭が真っ白だ。父親には女性の影さえなかった。
それもそうか、影を感じさせるほど僕と父親は一緒には居ない。この家に帰らずにその女性と会っていたんだったら、僕にはわかりようがない。
「わかった」
僕は喉に動けと命令をするとふり絞るようにそれだけが出た。そして空になった弁当を持ち立ち上がる。弁当を食べたあとでよかった、その前だったら平らげることは出来なかっただろう。
「巴、お前が嫌なら」
「嫌ってなに、もう決めてるんでしょう?」
「話そう」
「違う、そうじゃない、反対してるんじゃない」
「そうは見えんがな」
──僕には報告だけ、そうなんでしょ。
それをゴミ箱に捨てる背中に向かってまだ続ける父親。
「巴、今度の日曜、開けといてくれ」
僕は自室に戻りそのままふて寝した。
日曜日が、来てしまった。
ホテルの高級レストランの個室で父親と僕が並んで座る。しばらくして相手の女性がやってきた。上品な光沢感のあるクリーム色のワンピースとパールのアクセサリー。
こういうのが好みなのか。
父親に背中を叩かれ立ち上がると再婚相手に会釈をする。
「巴くんとてもハンサムでびっくり! 背も大きくて」
名前を知られている。
僕は再婚相手の名前を知らない。
「図体だけは俺よりデカくなったな」
「大学はK大学へ進学するとか」
「入れれば、だな」
黙っている僕に代わり父親が全て答えていく。というよりその逆で全て父親の都合の良いように塗り替えているようで僕は何も言えなくなる。再婚相手は父親に合わせて笑ってはいるが、時より心配そうに眉を下げて僕を見る。
「うちの子も巴くんみたいに勉強がんばってくれたら……」
子供がいるのか?思わず父親の顔を見た。しかし父親はこちらを見ない。こういうことをするのだ、肝心なことは話さない、話せない。よくこれで仕事ができているものだ。
「まさかあなた、話してないの?」
ついに再婚相手も心配になったらしい。
「いいんだ」
「いいって……ごめんなさい」
再婚相手は父親のやったことを僕に謝る。
どういうつもりの謝罪なんだろうか。
立ち話もなんだから座ろうと父親が僕らを座らせ、自己紹介が始まる。名前はありきたりな名前だったと思う。
「それにしてもなにをやっているのかしら。遅刻でごめんなさい。同い年だから仲良くなってくれたらいいんだけど……」
こういう席で遅刻してくるやつだ、とんでもない不良息子なのか。あるいは母親の再婚に反対しているマザコンなのか。どっちにしろ大人の迷惑になることをやってる。
……そう心の中で笑ってはっと気づく。
自分もさほど変わらないな、と。
いや、むしろそいつのほうがまともだ。ちゃんと嫌だと主張しているじゃないか。
数分して店の人に案内されてやってきたのは背の高いブラウンヘアでやたら良い男だった。
「忙しいのにすまないね」
「いえいえ」
なんで謝るのかと思わず父親を見た。
「ん?」
「………」
「巴くんも、部活とか忙しいんじゃなかった?」
代わりに空気を読んだ再婚相手がいう。
「大丈夫だよ、だからこうして来ているんだか」
父親は僕の背中を叩いて笑った。自分の矛盾に気がついていない。僕の向かいに座った再婚相手の連れ子を見ればまっすぐ僕を見ていた。
なぜそんなに見るんだ?今朝髪型が決まらなかったがやはり変だったかな。にしてもなんだか堂々としている様が悔しい。
「巴くん、息子の長政よ」
「こっちは巴だ」
互いに息子を紹介すると長政は僕ににこりと笑う。
「よろしく!」
「……どうも」
不良感はあるが、再婚に反対しているマザコン息子ではなさそうだ。なら単なるだらしない男になってしまうが…。
よく見ると長政は色素が薄い、瞳もブラウンだ。
不良感があるのは毛色のせいなだけ?
「巴くん、この子、身体は大きいしこの見た目だしガサツなのだけれど宜しくお願いします」
再婚相手の手が長政の腕に添えられている。なんでかそれをじっと見つめてしまった。
「よろしくね、おにーちゃん」
そう言われて長政の顔に視線を移すとニヤリと挑戦的に笑った。
「揶揄うのも……っ」いい加減にしろ……
深夜のキッチンで、にじり寄ってくるブラウンヘアに僕の言葉は飲み込まれてしまった。強引な唇を離したくとも両頬を鷲掴みにされて逃げられない。
男の大きな身体を押して、抵抗する。
「んんっ…!」
口端からどちらのものか分からない唾液が漏れる。
男の荒々しく熱い鼻息が僕の頬をかすめたとき、押していた手を止めた。
合わせたかのように自然と男の手も緩み、それまでとは違う包み込むような温かさへと温度を変えた。
優しく何度も何度も唇を吸い取られる。
僕が男の手首に手を添えると男はふと唇を離した。
僕はこの隙に目一杯空気を取り込む。
擦り合わされるおでこの間で挟まった前髪がザリザリと音を立てた。
「なんて色っぽい顔してんの、……かわい」
あっという間に耳の縁まで血が巡る。
一瞬でもこの男の唇を受け入れてしまった恥ずかしさに、男を突き飛ばして部屋に逃げた。
一ヶ月前、僕はいきなり兄になった。
高校三年になる春休み。塾からの帰り道いつものように弁当チェーンに寄って、好きな海苔弁と豚汁を注文する。出来上がった弁当を受け取ると家路についた。
しかしこの日は違っていた。
家の鍵を開けると無いはずの父親の高級な革靴がある。帰国は来週じゃなかったかなと首をかしげながらリビングのドアを開けると、父親が風呂上がりのようで上下スェットに缶ビールを煽りながら僕の前を通過した。僕に気づくとおかえりと何気ない顔でソファに座る。
「帰り、来週じゃなかった?」
「予定を早めてきたんだよ、弁当か?俺のはないか」
「知らせてくれたら買ってきたよ」
「冗談だよ」
僕は父親に構わずダイニングテーブルに弁当を広げ椅子に座った。
「せめて温めて食べたらどうだ」
父親の声を無視し弁当を頬張る。父親はやれやれとビールを飲んだ。
今日の弁当はまだ温かなほうだ。
僕は買ってきた弁当に美味しく食べようという気持ちはない。冷たくなったのならそのまま食べる。温めたとて、ひとりテレビの音しかない家でどう食べても味はしないことを随分前に知ったから。
父親は商社に勤めていてエネルギーの輸出入をする部門に所属しており、一年の殆どは海外を飛びまわっている。本来は赴任するところを父子家庭ということで出張にしていた。僕としては父親の赴任に付いて行ってドバイやマレーシアなど世界を回っても良かったんだけど、何故か父親は日本に居るほうがいいと思い込んでいる。
生活費は月に一度僕の口座に振り込まれ、そこから食費や参考書代、お小遣いなどを引き出して生活している。
母親はいない、顔も知らない。僕を産んですぐ離婚した。
これが僕の暮らしだ。
僕が食べ終わるのを見計らったように父親が向かいの椅子に座る。
「なぁ、巴。俺、再婚しようと思う」
僕は言葉が出なかった。
僕があまりに黙っているもんだから父親はバツが悪い顔をした。でも本当に言葉が出ない、頭が真っ白だ。父親には女性の影さえなかった。
それもそうか、影を感じさせるほど僕と父親は一緒には居ない。この家に帰らずにその女性と会っていたんだったら、僕にはわかりようがない。
「わかった」
僕は喉に動けと命令をするとふり絞るようにそれだけが出た。そして空になった弁当を持ち立ち上がる。弁当を食べたあとでよかった、その前だったら平らげることは出来なかっただろう。
「巴、お前が嫌なら」
「嫌ってなに、もう決めてるんでしょう?」
「話そう」
「違う、そうじゃない、反対してるんじゃない」
「そうは見えんがな」
──僕には報告だけ、そうなんでしょ。
それをゴミ箱に捨てる背中に向かってまだ続ける父親。
「巴、今度の日曜、開けといてくれ」
僕は自室に戻りそのままふて寝した。
日曜日が、来てしまった。
ホテルの高級レストランの個室で父親と僕が並んで座る。しばらくして相手の女性がやってきた。上品な光沢感のあるクリーム色のワンピースとパールのアクセサリー。
こういうのが好みなのか。
父親に背中を叩かれ立ち上がると再婚相手に会釈をする。
「巴くんとてもハンサムでびっくり! 背も大きくて」
名前を知られている。
僕は再婚相手の名前を知らない。
「図体だけは俺よりデカくなったな」
「大学はK大学へ進学するとか」
「入れれば、だな」
黙っている僕に代わり父親が全て答えていく。というよりその逆で全て父親の都合の良いように塗り替えているようで僕は何も言えなくなる。再婚相手は父親に合わせて笑ってはいるが、時より心配そうに眉を下げて僕を見る。
「うちの子も巴くんみたいに勉強がんばってくれたら……」
子供がいるのか?思わず父親の顔を見た。しかし父親はこちらを見ない。こういうことをするのだ、肝心なことは話さない、話せない。よくこれで仕事ができているものだ。
「まさかあなた、話してないの?」
ついに再婚相手も心配になったらしい。
「いいんだ」
「いいって……ごめんなさい」
再婚相手は父親のやったことを僕に謝る。
どういうつもりの謝罪なんだろうか。
立ち話もなんだから座ろうと父親が僕らを座らせ、自己紹介が始まる。名前はありきたりな名前だったと思う。
「それにしてもなにをやっているのかしら。遅刻でごめんなさい。同い年だから仲良くなってくれたらいいんだけど……」
こういう席で遅刻してくるやつだ、とんでもない不良息子なのか。あるいは母親の再婚に反対しているマザコンなのか。どっちにしろ大人の迷惑になることをやってる。
……そう心の中で笑ってはっと気づく。
自分もさほど変わらないな、と。
いや、むしろそいつのほうがまともだ。ちゃんと嫌だと主張しているじゃないか。
数分して店の人に案内されてやってきたのは背の高いブラウンヘアでやたら良い男だった。
「忙しいのにすまないね」
「いえいえ」
なんで謝るのかと思わず父親を見た。
「ん?」
「………」
「巴くんも、部活とか忙しいんじゃなかった?」
代わりに空気を読んだ再婚相手がいう。
「大丈夫だよ、だからこうして来ているんだか」
父親は僕の背中を叩いて笑った。自分の矛盾に気がついていない。僕の向かいに座った再婚相手の連れ子を見ればまっすぐ僕を見ていた。
なぜそんなに見るんだ?今朝髪型が決まらなかったがやはり変だったかな。にしてもなんだか堂々としている様が悔しい。
「巴くん、息子の長政よ」
「こっちは巴だ」
互いに息子を紹介すると長政は僕ににこりと笑う。
「よろしく!」
「……どうも」
不良感はあるが、再婚に反対しているマザコン息子ではなさそうだ。なら単なるだらしない男になってしまうが…。
よく見ると長政は色素が薄い、瞳もブラウンだ。
不良感があるのは毛色のせいなだけ?
「巴くん、この子、身体は大きいしこの見た目だしガサツなのだけれど宜しくお願いします」
再婚相手の手が長政の腕に添えられている。なんでかそれをじっと見つめてしまった。
「よろしくね、おにーちゃん」
そう言われて長政の顔に視線を移すとニヤリと挑戦的に笑った。
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