寡黙な剣道部の幼馴染

茗荷わさび

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喪失

第九話

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 ずっと智さんの剣道スタイルに憧れていた。

 もちろん一番尊敬するのは兄貴だ。警視庁の道場に通うほど剣道にのめりこんでいた。そんな兄貴の人生で唯一黒星を付けた人が智さんだっだ。兄貴たちが高校二年、インターハイ直前。睨み合いが続いたあと、綺麗に兄貴の手首に小手が決まった。兄貴より頭ひとつ分も小さいのに対等に戦えるセンスが羨ましかった。




 中学三年、俺はインターハイ出場をかけた県大会の決勝を辞退した。兄貴が仲間と行ったツーリングで事故を起こしたからだ。即死だった。

 翌年の県大会は一回戦で負けた。一周忌の準備で慌ただしくなるに連れ、俺は面を付けると息が苦しくなる症状に悩まされていた。面を自分の顔に当て、後ろでキュッと面紐をきつく縛ると途端に閉塞感に襲われ心臓の鼓動が早まる。冷や汗がどっと毛穴から溢れ、背筋がゾッと寒くなる。頭から血の気が下がるのを感じた。

 しかしそれを誰にも打ち明けることが出来ず、解消することはないまま予選に出場したが結果は分かりきっていた。

 試合に出たいのに、急に襲われる拘束感。




「残念だったね、楽しみだったのよ」

 ようやく帰宅して玄関に座り込んでいると、母がリビングから出てきて俺にそう静かに言った。俺にさして期待もしていなかったはずだ。一年経っても毎日兄貴の仏壇の前から離れようとはせず、家の中で過ごすだけ。俺のことなど、上の空で聞いているような状態だった。

 なのに、母は帰宅した俺を玄関まで来てそう言ったんだ。それで俺は気がついた。兄貴が居なくなったことで空いてしまった穴を、弟の俺がそれを埋めなければならないと。それが俺の役目なんだ。一回戦敗退は周りの期待を裏切ったんだ。

 俺が弱いからに他ならない。

 それからもっと剣道に明け暮れた。高校の部活、夜は道場。身も心も追い込んだ。閉塞感はやがて恐怖に変わった。恐怖心を消し去るため目の前にいる相手を打ちのめすことを考えるようになった。それは剣道という武道において一番してはならないことだった。

 高校最後のインターハイ前の県大会決勝。ここで勝たなければならない。相手の隙を狙い面を取りにいく。右を狙い体を捻り大きく踏み込み左足を蹴り上げた時、アキレス腱がブチリと音を立てて断裂した。

 手術は成功したがそのまま使い物にはならなくなってしまった。父のおかげでスポーツ専門の有名な外科医にお世話になって、リハビリもすれば選手としての道は閉ざされてはいなかったはずだったが、俺は病室の白い天井を見上げて、もう剣道をしなくてもいいんだと、面を被らなくていいのだと、ホッとしてしまったんだ。

 松葉杖で帰宅し退院祝いの寿司を囲んでも、母は静かに咀嚼するだけ。「まだ痛むの?」とたまにボソリと聞いてくるもののその目には光がない。

 今度こそ、もう母に笑ってもらえない。そんな気がした。剣道をすっかり諦めてしまったことを見透かされているようで、寿司も喉を通らない。楽になったのは病室のベッドの上だけで、解放された気になってしまった自分を責めたくなった。母はこんなに苦しんでいて兄貴を求めているというのに。使命だったはずなのに俺はひとりで逃げたんだ。

 残る道は兄貴がなりたかった医者になることだった。




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