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初めての旅行

第七十五話

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「明日チェックアウトしたら島へ渡るよ」
「島?」
「私も離島は初めてだ」
「俺も……っ、っていうか旅行自体が初めてだけど……」

 はにかみながら雪がサンドイッチを齧る。ルームサービスを頼みソファでだらしなくランチだ。雪は私の隣でスリッパを脱いで胡座をかいてすわっている。両手でサンドイッチを頬張る雪を私はブラックコーヒーを飲みながら眺めている。


 撮影が沖縄に決まったという報告を私にしたとき、旅行に行ったことがないから楽しみだと言っていたのを思い出していた。
 そういえば私自身、旅行というのはしたことがなかったかもしれない。仕事で世界中飛び回っているもののそれはαの会合や国のトップとの会談ばかりで、その土地の観光地へ出向いたりのんびりしたことはなかった。

「私も仕事で行くだけ旅行とは言えないな……」
「え……? この前もイギリス行ってたのに?」
「仕事しかしてないんだ、旅行とは言えんだろ」
「そういうもの?」

 小リスのように首を傾げる雪。

「細かく言えばな。……今回は仕事じゃなく雪と二人で過ごすための旅行だ。なにかしたいことがあれば──……」
「海っ! 入りたいです!」

 いきなりの高揚に持っていたサンドイッチの中身がぷにっと外に押し出され、慌ててそれを口でキャッチする雪。「セーフでした」とはにかんだ。

 ──こんなひと時が私の人生にも訪れたのか。

「わかった」と言うと満面の笑みを私に寄越す。

「もう日焼けも気にしなくていいし! うわー! 楽しみぃぃ! 泳げないけど平気かな、浮き輪必要?」
「シュノーケリングとかダイビングしてみるか?」
「ダイビングもできるんですか?」
「雪が望めば」
「……」
「どうした?」

 さっきまでの笑顔がどこかへ行って、今度は神妙な面持ちに変わる。

「あの、……」
「うん」
「なんていうか、全部須賀さんにしてもらってばかりで。俺も働いたし給料入るし」
「うん」

 ──気にするなと言っても雪は遠慮してしまうんだろうな。

「ずっと甘えるわけにもいかないというか」
「恋人なのに?」
「……?」

 雪が困った顔でこちらを見た。

「恋人というのは相手を甘やかすことだ、甘えてくれることで私は喜びを得られる。金は持ってるやつが払えばいい、ただの紙だ。今価値のあるうちに使ってしまったほうがいい」
「……」
「仕事を辞めてしまって明日から世界中を回ってもいい。そうだ、一生旅を続けるのもいいなぁ」
「旅を……?」
「それでも使い切れない、金は湧くんだ。この世をαが支配している限りはな」

 視線を横にずらして何か考えているような雪、その頬を擦ってこちらを向かせる。

「私にとって金はそういうものだという例えだよ」


 αが支配する世界はアングロサクソンの築いた資本主義で構成されている。その中で確立した貨幣価値。はじめは銀や金など等価値のものとの交換だったものを、最終的にはただの紙にその価値を置いた。

 燃えてしまえば終わる紙。世界の皆に共通認識を持たせることが出来た。それはαの功績とも言えるが、人間はそれによって人生の豊かさを見失った。

 金は人間の根本を満たさない。雪はそれを分かってる。金で得られる対価に雪自身喜びを得ていないからだ。

 雪の前では本当の紙になってしまう。

 私自身は正直湯水のように湧く金という化け物を持て余しているのが現状だ。仕事は自身のプライドを保つためのもの、稼ぐためのものではない。
 しかし共通認識のおかげで金がある者が「偉い」とされる。それを利用してαが君臨できている。



「俺は……」

 雪は肩を落とし項垂れる。

「あなたと一緒にいられたらそれでいい」

 淋しげにそう言った。

「本当にお金が紙切れなら、もっといい事に使ったほうがいいと思うし、その……お金が必要な人にあげるとか」
「雪にじゃなく?」
「俺はもう、十分だから……」

 雪の髪をくしゃっと撫でると困り顔で見上げる雪。

「じゃあ、その案を考えてといてくれな?」
「え……?」
「有効に使えということだろう? しかし雪が喜ぶことに使いたい、だから一緒に考えよう」

 目をぱちくりさせる雪の頬にキスをして「さぁお金の話はこれで終わりだ」と私もサンドイッチに手を伸ばす。

 そんな私の口元を見て雪がふと笑った。そしてサイドテーブルにあるナフキンを取り私の口元を拭ってくれた。

「須賀さん、ありがとうございます」
「お礼を言うのは私だろう?」


 雪が私に笑いかけてくれる、このひと時。

 サンドイッチの味。

 私は忘れないと思った。




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