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恋人
第五十六話
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須賀の屋敷へ向かうと滝さんのとびきりの笑顔が待ち受けていた。
「また少しお痩せになったんでは? お食事抜いたりしているんじゃあありません?」
「しっかり食べていますよ」
「そうですか……? 滝にはそうは見えませんが……若旦那さま、本当でございますか?」
「何がだ」
「お痩せになっておりませんか?」
「……何故私に聞く」
「……まったく」
何故かがっかりしたような、怒ったような滝さんがキッチンへ入っていってしまった。
なぜ俺のことを須賀に聞くのだろう、須賀が俺の身体を見たわけでもないのに、とそこまで考えて次の瞬間、点火した。
──滝さんてば! そんなことを思ってたの!?
ちらりと須賀を見るとすました顔をしているだけ。人差し指を差し込んでネクタイをクイッと緩めた。
久しぶりに入る須賀の屋敷はαの香りが漂っていた。自室へ向かう須賀の後ろ姿を見送りながら俺はリビングのソファに座る。
「はぁ……」
落ち着こうとするのに深呼吸をすると須賀の香りが鼻腔をくすぐる。気を散らそうとリビングを見回ると一人掛けのソファが目に入る。須賀が朝新聞を読むときに座っているソファだ。
俺は立ち上がり近寄ると須賀の残り香を求めるかのようにそのソファに座った。身体を横にして背凭れに頬を擦り寄せるようにするとαの香りが濃くなった。
変態みたいなことしてる。どこか脳の一部でそんなことやめろと言ってるけれど、足を座面に上げて背中を丸め自身の膝を抱えて背凭れに身を委ねていると、須賀に寄りかかっているようで安心感が漂い、目を瞑る。
スーツを脱いでリビングへ戻るとリビングはΩのフェロモンで満たされていた。
「こ……れは、」
一瞬にして麻薬のように脳を麻痺させるような痺れが襲うが、まだまだ発情期には乏しい濃度で頭を横に振り理性を呼び起こすことができた。しかし雪を求める須賀にとっては、αを満足させるのには十分な濃さであることには違いない。
雪は私がいつも座る一人掛けのソファに膝を抱えて丸まって眠りについていた。ソファの前に屈んで雪の顔を覗き込むと寝息を立てている。もしや具合が良くないのかとしばらく様子を伺うが辛そうでも、苦しそうでもなくひとまず私は安心した。
そこへちょうど滝がリビングへやってくる。夕食の支度が整ったのだろう。滝に振り向き目配せをすると、滝は私の肩越しに雪を見る。事を察知したのか肩を竦めて含み笑いを浮かべてそろりそろりとリビングを後にした。
ドアが閉まるのを見届けてから雪を振り返る。そして着ていた薄手のカーディガンを雪に掛けてやり、そのまま雪の肩をそうっと撫でる。すると雪はもぞもぞと自身を抱きしめるように腕を擦った。その手がカーディガンに気がついてそれを手探りで握り顔に近づけていった。
カーディガンは引っ張られるようにするすると雪の腕の中にしまわれていく。まるで口付るようにして匂いを嗅ぐと雪は頬ずりをした。
「須賀……さ……ん……」
そして小さく名前を呼んだんだ。少しだけ辛そうにカーディガンをぎゅっと抱き締めて身体を小さく屈めて。
「ここにいるよ」
雪の頬に手のひらをあてて親指で優しく撫でると雪の表情が柔らかくほぐれる。目の前に居るのになと、カーディガンを羨ましく思いながら雪のおでこにキスをすると私はそのまま床に座り直した。
雪の天使のような寝顔を見上げながら愛おしい気持ちを味わう。
αとΩの事故のような夜から始まった。
けれどあれ以来、私たちは会うことが叶わなかった。
1年後再会を果たした時、雪は会いたくなかったという顔をした。
恋人契約だと雪を縛り付けて、私を好きにさせる。
思い返せば酷いことをした。
なのに、雪は懸命にその役を全うしようとしてくれた。
そして、十九の若い雪に発覚したあまりにも辛い過去。
雪を解放してやりたい、幸せになってほしい。
それは私の隣でなくとも雪は幸せだろう。
私じゃなくともいい。
しかし、私は雪でなければ息さえできない。
生きていたくないのだ。
この世に、α財閥の跡取りとして生まれてもその生活は幸せではなかった。ずっと寂しくて満たされない気持ちを抱えてそれを隠しながら、祖父に抗いα世界のしきたりを破りながらここまで駆けてきた。
祖父への反発心、反骨精神で突っ走り続けた私には、取り付く島もなかった。一時でも羽根を休めることは命取りになる。
雪はそんな私のオアシスだ。最後の楽園とも言えるかもしれない。雪さえ居れば私はこの世界を簡単に手放せる。
それくらい、私には雪しか居ないのだ。
雪の笑い声、私を見つめる瞳を私だけのものにしたい。
そして同時に縛り付けてしまうことの罪悪感に苛まれる。
雪は私を心から求めているだろうか。
雪から伝わってくる私への感情を素直に受け止めていいのだろうか。
欲しがっているくせに、信じられない気持ちも僅かにある。
こんな、恐ろしいαを誰が受け止めてくれるだろうと。
雪を信じていないわけではないのに。
土壇場で、意気地がないのだな。
「────────っ」
膨れ上がる気持ちに嗚咽が漏れた。はっとして口を抑えると頬を伝う生ぬるい涙が指先に触れた。それを大雑把に手のひらで拭うと、目の前には私の手ではない白い細い指が差し伸べられていた。
「また少しお痩せになったんでは? お食事抜いたりしているんじゃあありません?」
「しっかり食べていますよ」
「そうですか……? 滝にはそうは見えませんが……若旦那さま、本当でございますか?」
「何がだ」
「お痩せになっておりませんか?」
「……何故私に聞く」
「……まったく」
何故かがっかりしたような、怒ったような滝さんがキッチンへ入っていってしまった。
なぜ俺のことを須賀に聞くのだろう、須賀が俺の身体を見たわけでもないのに、とそこまで考えて次の瞬間、点火した。
──滝さんてば! そんなことを思ってたの!?
ちらりと須賀を見るとすました顔をしているだけ。人差し指を差し込んでネクタイをクイッと緩めた。
久しぶりに入る須賀の屋敷はαの香りが漂っていた。自室へ向かう須賀の後ろ姿を見送りながら俺はリビングのソファに座る。
「はぁ……」
落ち着こうとするのに深呼吸をすると須賀の香りが鼻腔をくすぐる。気を散らそうとリビングを見回ると一人掛けのソファが目に入る。須賀が朝新聞を読むときに座っているソファだ。
俺は立ち上がり近寄ると須賀の残り香を求めるかのようにそのソファに座った。身体を横にして背凭れに頬を擦り寄せるようにするとαの香りが濃くなった。
変態みたいなことしてる。どこか脳の一部でそんなことやめろと言ってるけれど、足を座面に上げて背中を丸め自身の膝を抱えて背凭れに身を委ねていると、須賀に寄りかかっているようで安心感が漂い、目を瞑る。
スーツを脱いでリビングへ戻るとリビングはΩのフェロモンで満たされていた。
「こ……れは、」
一瞬にして麻薬のように脳を麻痺させるような痺れが襲うが、まだまだ発情期には乏しい濃度で頭を横に振り理性を呼び起こすことができた。しかし雪を求める須賀にとっては、αを満足させるのには十分な濃さであることには違いない。
雪は私がいつも座る一人掛けのソファに膝を抱えて丸まって眠りについていた。ソファの前に屈んで雪の顔を覗き込むと寝息を立てている。もしや具合が良くないのかとしばらく様子を伺うが辛そうでも、苦しそうでもなくひとまず私は安心した。
そこへちょうど滝がリビングへやってくる。夕食の支度が整ったのだろう。滝に振り向き目配せをすると、滝は私の肩越しに雪を見る。事を察知したのか肩を竦めて含み笑いを浮かべてそろりそろりとリビングを後にした。
ドアが閉まるのを見届けてから雪を振り返る。そして着ていた薄手のカーディガンを雪に掛けてやり、そのまま雪の肩をそうっと撫でる。すると雪はもぞもぞと自身を抱きしめるように腕を擦った。その手がカーディガンに気がついてそれを手探りで握り顔に近づけていった。
カーディガンは引っ張られるようにするすると雪の腕の中にしまわれていく。まるで口付るようにして匂いを嗅ぐと雪は頬ずりをした。
「須賀……さ……ん……」
そして小さく名前を呼んだんだ。少しだけ辛そうにカーディガンをぎゅっと抱き締めて身体を小さく屈めて。
「ここにいるよ」
雪の頬に手のひらをあてて親指で優しく撫でると雪の表情が柔らかくほぐれる。目の前に居るのになと、カーディガンを羨ましく思いながら雪のおでこにキスをすると私はそのまま床に座り直した。
雪の天使のような寝顔を見上げながら愛おしい気持ちを味わう。
αとΩの事故のような夜から始まった。
けれどあれ以来、私たちは会うことが叶わなかった。
1年後再会を果たした時、雪は会いたくなかったという顔をした。
恋人契約だと雪を縛り付けて、私を好きにさせる。
思い返せば酷いことをした。
なのに、雪は懸命にその役を全うしようとしてくれた。
そして、十九の若い雪に発覚したあまりにも辛い過去。
雪を解放してやりたい、幸せになってほしい。
それは私の隣でなくとも雪は幸せだろう。
私じゃなくともいい。
しかし、私は雪でなければ息さえできない。
生きていたくないのだ。
この世に、α財閥の跡取りとして生まれてもその生活は幸せではなかった。ずっと寂しくて満たされない気持ちを抱えてそれを隠しながら、祖父に抗いα世界のしきたりを破りながらここまで駆けてきた。
祖父への反発心、反骨精神で突っ走り続けた私には、取り付く島もなかった。一時でも羽根を休めることは命取りになる。
雪はそんな私のオアシスだ。最後の楽園とも言えるかもしれない。雪さえ居れば私はこの世界を簡単に手放せる。
それくらい、私には雪しか居ないのだ。
雪の笑い声、私を見つめる瞳を私だけのものにしたい。
そして同時に縛り付けてしまうことの罪悪感に苛まれる。
雪は私を心から求めているだろうか。
雪から伝わってくる私への感情を素直に受け止めていいのだろうか。
欲しがっているくせに、信じられない気持ちも僅かにある。
こんな、恐ろしいαを誰が受け止めてくれるだろうと。
雪を信じていないわけではないのに。
土壇場で、意気地がないのだな。
「────────っ」
膨れ上がる気持ちに嗚咽が漏れた。はっとして口を抑えると頬を伝う生ぬるい涙が指先に触れた。それを大雑把に手のひらで拭うと、目の前には私の手ではない白い細い指が差し伸べられていた。
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