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柔らかな日々
第五十五話
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年に一回の定期検診に夫婦で受診するのが私達夫婦の約束事。夫は海外出張から昨日帰国して寝不足ながらもクリニックへやってきた。
全ての検診を終えてソファでやっと一息ついた。夫の啓一郎は飲み物を買いにいくと言ってどこかへ行ったところだった。見覚えのあるかわいらしい天使がこちらに歩み寄って来る。私はつい嬉しくなり立ち上がると彼を迎えた。
あの夜よりすこぶる顔色がいい。そのことに安堵した。
「伏見さん!」
「やぁ、雪くん。すごく元気そうだ」
「こんにちは、お久しぶりです、あの……、その節はありがとうございました。そして……ごめんなさい」
「良いんだよ」
頭を下げる雪くんを私は制止した。
「雪くん、今日は何かあってクリニックへ来たのかい?」
「あ、はい、ずっとお腹が痛くて」
「お腹?」
何か患っているのかと聞き返すと、雪くんは下腹部に手を当ててはにかんだ。もしやと嗅覚に少し集中すると雪くんからΩのフェロモンが香る。以前より大幅に増えていることを察知した。そろそろ発情期に入るのかもしれない。それで不調が出ているのかもしれないなと悟る。
なんだかうれしい気持ちになる、赤飯でも炊いてやりたいくらいだ。もう心配はいらないんだとわかると視界に啓一郎が入った。
「雪くん、紹介したい人がいるんだ」
「え」
「私の夫だよ」
「旦那さん……?」
両手にペットボトルを持って戻ってきたところだった。夫の啓一郎は私達を見て一瞬驚いてから急いで笑顔を貼り付けた。
「……これはこれは、話に聞いていたよりずっとかわいらしい」
「そうでしょう?」
啓一郎は一瞬見ただけで雪くんだと理解した。うまく誤魔化してはいるが口角を引くつかせている。それはそうだ、本当に私達の愛してやまない娘にそっくりなのだから。
「それに、……本当によく似ている。君がいつも会いたいと話している気持ちがようやく分かったよ」
啓一郎はようやく私を見た。隠してはいるが目はまさかと私に訴えていた。私は思わず頷いて小さくため息を漏らすとそんな私の肩を抱いてくれた。
「亡くした娘に似ていて、つい懐かしんでしまうよ。すまない、君には気分が悪いだろう」
「い、いえ! そんなことはないですから」
若い人に亡くした人に似ているなどと不謹慎だが、どうしても私達にはそれを止められないんだ。雪くんが笑って受け止めてくれるからなおさらだ。
「息子のところに孫が居るんだ、ようやく社会人になったところでね、君とも年齢は近いかな?」
「俺は十九です」
「そうか……、また、家に来てくれたら嬉しいよ、孫にも会ってくれたらいいな。……私は家を空けがちでね、昨日もトルコから帰ってきたばかりでね。また来月行かねばならない。君が顔を出してくれたら彬の寂しい想いも減るだろう」
啓一郎は雪くんを繋ぎ止めるかのように懸命だ。
「お、俺なんかでよければ、いつでも」
「うれしいな。では須賀くんと、いらっしゃい」
「はい! あ、じゃあ俺は」
「もう、行くのかい?」
「あっちで須賀さんが待ってるので」
「あ、……そういうことか」
外来以外はαは近づけない。私は雪くんの肩にポンと触れて笑顔を向けた。
「大切にしてもらっているかい?」
「はい、とっても」
「そうか、なら急がないと。αは嫉妬深い」
「あはは……。では、失礼します」
雪くんはαの待ってる外来へと帰っていった。早く帰りたい、足早に去る後ろ姿にαへの愛情を感じ取った。それは隣にいる啓一郎も同じだろう。彼を見ると彼も雪くんの後ろ姿を見送っていたのだった。
雪くんを追いかけるようにひとつ角を曲がり外来を覗くと、Ω専門クリニックの中でひときわ大きな体の須賀くんの姿が見えた。そのαににこやかに駆け寄る雪くん。須賀くんは雪くんの持っているトートバッグを当たり前のように肩から外して自身で持った。それを嬉しそうにして見上げる雪くんに、娘の顔が重なる。
「あまりに似ていて驚いたよ」
ソファに戻り啓一郎がつぶやいた。買ってきたペットボトルの封も切らずに手持ち無沙汰に持つだけ。
「本当に私達の孫ではないのか?」
「それは……、深追いしないと決めたではありませんか」
私が雪くんと初めて会ったパーティーでは娘に似ているなと思ったくらいだった。しかし二度目須賀くんから連絡があって雪くんと再会したとき、須賀くんの大切なΩという一線を超えて疑い始めていた。
調べていくうちに雪くんがΩの児童養護施設にいた事、αとΩの運命の子だということ、雪くんの生まれた年が娘の亡くなった年だということ。どんどん偶然が重なっていく。その疑いは徐々に核心へ迫ろうとしていた。
その時ようやく私は啓一郎に雪くんの存在を知らせたんだ。そこで夫婦で出した結論はこれ以上深追いしないこと、真実がどちらに転んでも、みんなが幸せになるという保証はない。
いつか抗えないほどの神様の采配があるとすれば、その時を待とうと啓一郎は言った。おそらく私を気遣ってのことだ、私もそれを飲むことにした。
「うん……。君から話を聞いていたときはそう思ったよ。似ているだけの人は居るだろう」
「えぇ」
「しかし、あの子から放たれるΩのフェロモン……」
「あなたもお感じになりましたか?」
「こんな、偶然をやはりただの偶然とは思いたくないなと思ってしまったよ」
啓一郎の乾いた笑い声に、私達の心に出来た傷が痛み始める。私は啓一郎を抱き寄せそして背中を撫でた。
全ての検診を終えてソファでやっと一息ついた。夫の啓一郎は飲み物を買いにいくと言ってどこかへ行ったところだった。見覚えのあるかわいらしい天使がこちらに歩み寄って来る。私はつい嬉しくなり立ち上がると彼を迎えた。
あの夜よりすこぶる顔色がいい。そのことに安堵した。
「伏見さん!」
「やぁ、雪くん。すごく元気そうだ」
「こんにちは、お久しぶりです、あの……、その節はありがとうございました。そして……ごめんなさい」
「良いんだよ」
頭を下げる雪くんを私は制止した。
「雪くん、今日は何かあってクリニックへ来たのかい?」
「あ、はい、ずっとお腹が痛くて」
「お腹?」
何か患っているのかと聞き返すと、雪くんは下腹部に手を当ててはにかんだ。もしやと嗅覚に少し集中すると雪くんからΩのフェロモンが香る。以前より大幅に増えていることを察知した。そろそろ発情期に入るのかもしれない。それで不調が出ているのかもしれないなと悟る。
なんだかうれしい気持ちになる、赤飯でも炊いてやりたいくらいだ。もう心配はいらないんだとわかると視界に啓一郎が入った。
「雪くん、紹介したい人がいるんだ」
「え」
「私の夫だよ」
「旦那さん……?」
両手にペットボトルを持って戻ってきたところだった。夫の啓一郎は私達を見て一瞬驚いてから急いで笑顔を貼り付けた。
「……これはこれは、話に聞いていたよりずっとかわいらしい」
「そうでしょう?」
啓一郎は一瞬見ただけで雪くんだと理解した。うまく誤魔化してはいるが口角を引くつかせている。それはそうだ、本当に私達の愛してやまない娘にそっくりなのだから。
「それに、……本当によく似ている。君がいつも会いたいと話している気持ちがようやく分かったよ」
啓一郎はようやく私を見た。隠してはいるが目はまさかと私に訴えていた。私は思わず頷いて小さくため息を漏らすとそんな私の肩を抱いてくれた。
「亡くした娘に似ていて、つい懐かしんでしまうよ。すまない、君には気分が悪いだろう」
「い、いえ! そんなことはないですから」
若い人に亡くした人に似ているなどと不謹慎だが、どうしても私達にはそれを止められないんだ。雪くんが笑って受け止めてくれるからなおさらだ。
「息子のところに孫が居るんだ、ようやく社会人になったところでね、君とも年齢は近いかな?」
「俺は十九です」
「そうか……、また、家に来てくれたら嬉しいよ、孫にも会ってくれたらいいな。……私は家を空けがちでね、昨日もトルコから帰ってきたばかりでね。また来月行かねばならない。君が顔を出してくれたら彬の寂しい想いも減るだろう」
啓一郎は雪くんを繋ぎ止めるかのように懸命だ。
「お、俺なんかでよければ、いつでも」
「うれしいな。では須賀くんと、いらっしゃい」
「はい! あ、じゃあ俺は」
「もう、行くのかい?」
「あっちで須賀さんが待ってるので」
「あ、……そういうことか」
外来以外はαは近づけない。私は雪くんの肩にポンと触れて笑顔を向けた。
「大切にしてもらっているかい?」
「はい、とっても」
「そうか、なら急がないと。αは嫉妬深い」
「あはは……。では、失礼します」
雪くんはαの待ってる外来へと帰っていった。早く帰りたい、足早に去る後ろ姿にαへの愛情を感じ取った。それは隣にいる啓一郎も同じだろう。彼を見ると彼も雪くんの後ろ姿を見送っていたのだった。
雪くんを追いかけるようにひとつ角を曲がり外来を覗くと、Ω専門クリニックの中でひときわ大きな体の須賀くんの姿が見えた。そのαににこやかに駆け寄る雪くん。須賀くんは雪くんの持っているトートバッグを当たり前のように肩から外して自身で持った。それを嬉しそうにして見上げる雪くんに、娘の顔が重なる。
「あまりに似ていて驚いたよ」
ソファに戻り啓一郎がつぶやいた。買ってきたペットボトルの封も切らずに手持ち無沙汰に持つだけ。
「本当に私達の孫ではないのか?」
「それは……、深追いしないと決めたではありませんか」
私が雪くんと初めて会ったパーティーでは娘に似ているなと思ったくらいだった。しかし二度目須賀くんから連絡があって雪くんと再会したとき、須賀くんの大切なΩという一線を超えて疑い始めていた。
調べていくうちに雪くんがΩの児童養護施設にいた事、αとΩの運命の子だということ、雪くんの生まれた年が娘の亡くなった年だということ。どんどん偶然が重なっていく。その疑いは徐々に核心へ迫ろうとしていた。
その時ようやく私は啓一郎に雪くんの存在を知らせたんだ。そこで夫婦で出した結論はこれ以上深追いしないこと、真実がどちらに転んでも、みんなが幸せになるという保証はない。
いつか抗えないほどの神様の采配があるとすれば、その時を待とうと啓一郎は言った。おそらく私を気遣ってのことだ、私もそれを飲むことにした。
「うん……。君から話を聞いていたときはそう思ったよ。似ているだけの人は居るだろう」
「えぇ」
「しかし、あの子から放たれるΩのフェロモン……」
「あなたもお感じになりましたか?」
「こんな、偶然をやはりただの偶然とは思いたくないなと思ってしまったよ」
啓一郎の乾いた笑い声に、私達の心に出来た傷が痛み始める。私は啓一郎を抱き寄せそして背中を撫でた。
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初めて挑戦しましたオメガバース作品です。この世界にもαとΩが居たらどんな世界なのだろうと思って書きはじめました。『Maybe Love』の九条吾妻くんと、そのお父さんが友情出演致しました。須賀の幼馴染の堤の恋の話最後の恋煩いもあります。合わせてお楽しみください。
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