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運命の子
第三十六話
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「でも医師からすると、近い将来人間は完全にデータに変わって肉体を保持しなくなる。そうなると我々医師は無職になってしまう、矛盾だ」
「データに代わるだなんて……」
「メタバースみたいなものだよ。そこが生活全てになってくれば肉体は寝ているだけ。そうなれば肉体は面倒くさいだけだ。アバターで個性は出せるかもしれないしね」
何のキャラがいいかなと堤は面白そうに笑う。
「あと二六年……僕が五六歳、全然生きてる。毎日ゲノムの螺旋を見ている雪クンなら見えるだろう? 道筋が。人間の不老不死の行き着く先は──何か」
「不老不死の行き着く先……?」
ソムリエによって注がれる赤ワインを眺めながら、堤は少し飲むペースが早いように見える。
「αの世界はね、本当に腐ってるよ。雪クンがバース性について研究したいと思う熱意は、ある日突然奪われるかもしれない」
「堤」
「Ω保護法、αの僕達でもその実態は掴めて居ないんだ。雪クンには諦めてほしくないよ、ニ○五○年になって再会したら立派な研究者かプロフェッサーにでもなっていてほしいな」
顎を上げてグラスを飲み干すと堤は雪を見据える。
「ねぇ、雪クン、君が君である証明はなんだろう」
雪はなにも発することなく訝しげに、しかし確かにまっすぐ堤を見つめていた。
「しかしΩの匂いがしないよ、雪クン。僕は感知できない。元親は感じているのか?」
パウダールームへ向かう雪の背を堤と見守る。
「ああ、僅かだがな」
「ホテルの厨房で嗅ぎわけたくらいだもんな」
「警察犬みたいに言うな」
「はは! そう怒るなよ、感心してるんだ。運命の相手なんだなってさ。雪クンも元親の恋人をちゃんと演じていて健気じゃないか、愛くるしいね。嘘でも嬉しいだろ」
「嬉しいよ、幸せとも思える。しかし嘘だからこそ、──苦しい」
「元親」
「……ん?」
堤はグラスをテーブルに置いて改めて私を見据えた。
「僕は専門医じゃないから知り得た知識の中でしか言えないが、βからΩに転換するというのは遺伝子学的に見てあり得ない。おそらく雪クンも自分で判る日が来るよ。誤解を恐れず言うが、Ωなのに勤勉で成績優秀、学者志望。今夜の話もだいぶ遠回しではあるが彼に警告した。きっと彼はこの世の構図を理解するときが来る。ってことは、だ。雪クンはαとΩの番の子なんだろう」
「────え?」
私は言葉を失った。
「雪クンは運命の番の間に出来た子供、つまり運命の子だ」
レストランで堤と別れその時ポツポツと降り出した雨が、帰宅して風呂からあがる頃にはザーザーという音に変わっていて瓦屋根を強く叩いている。
飲み物を取りにキッチンへ向かうと着物用の薄紫色のレインコートを羽織った瀧が居た。
「瀧、帰れるか?」
「ひどくなる前に帰りますよ」
「気をつけてな」
「はい、おやすみなさいまし」
「おやすみ」
勝手口を開けると強い風が吹き込んだ。風も出てきたか。瀧の一人暮らす部屋はここから歩いて十分ほど。引き留めても瀧は泊まらないのが解っているから言わない。ただ、無事に帰宅してほしいとその丸くなった背中に願うだけだ。
いよいよ来月に迫る半導体事業の始動。書斎に戻りラップトップの電源を入れあるデータを開く。企業パンフレットとポスター画像のサンプルデータが届いたのだ。
淡いミントグリーンのブラウスに包まれ優しさが全面に出ているが、まっすぐ先を見据えるような強い意思を持つ横顔。雪の生きる力強さそのものだ。
「前髪を上げたのは正解だったな」
あのヘアメイク。雪の良さをすぐに見抜いていた。
『運命の子』
堤の言葉がリフレインした。その意味することに覆われた真実。真実というものは詳らかにするのが道理であろう。しかし時にはそのまま伏せておくことも大切なこと。
雪にとって最良はどちらなのだろう。
画面に映るシャープな横顔を画面に触れないようになぞる。
その時だった、いきなり窓がガタッと揺れた。時より吹く強い風が窓を叩いていたのだ。ビュービューとけたたましい音がしたと思った時部屋の明かりが消えたんだ。
「停電か……?」
カーテンを少し開け吹き付ける雨の隙間から外を見ると、普段は外灯や家の明かりが見えるはずの辺りも真っ暗で闇と化している。カーテンを閉じると先程のラップトップだけが光々としている。スマホを手に取りライトを付ける。
そこで雪のことが頭を過る。暗闇が怖いと言っていた。いきなりの停電では怖い思いをしているかもしれない。私はスマホのライトを足元にかざしながら雪の部屋へと向かった。
襖をノックし名を呼ぶが返答がない。寝ているのだろうか。それなら良いのだが……と踵を返すと中でガタリと音がした。
「雪? 入るぞ」
襖を開けスマホのライトをかざし辺りを照らすが、ベッドにもデスクにも雪の姿はない。しかし確かに中から音がしたんだ。
「雪、どこにいるんだ?」
部屋の中に入りベッドに近づくと、ベッドとサイドテーブルの角に隠れるように膝を抱いて小さく蹲っている雪が居た。その身体はガタガタと震えあがり歯がカチカチと音を立てている。
「雪?!」
勢いよく近寄るとその顔は大粒の涙で濡れていた。その涙をそのままに私は雪の頭を胸に抱き寄せた。雪はひっくひっくとしゃくりあげ過呼吸のようだった。カタカタ震えが止まらずその痩せた背中をゆっくり宥めるように擦った。
「データに代わるだなんて……」
「メタバースみたいなものだよ。そこが生活全てになってくれば肉体は寝ているだけ。そうなれば肉体は面倒くさいだけだ。アバターで個性は出せるかもしれないしね」
何のキャラがいいかなと堤は面白そうに笑う。
「あと二六年……僕が五六歳、全然生きてる。毎日ゲノムの螺旋を見ている雪クンなら見えるだろう? 道筋が。人間の不老不死の行き着く先は──何か」
「不老不死の行き着く先……?」
ソムリエによって注がれる赤ワインを眺めながら、堤は少し飲むペースが早いように見える。
「αの世界はね、本当に腐ってるよ。雪クンがバース性について研究したいと思う熱意は、ある日突然奪われるかもしれない」
「堤」
「Ω保護法、αの僕達でもその実態は掴めて居ないんだ。雪クンには諦めてほしくないよ、ニ○五○年になって再会したら立派な研究者かプロフェッサーにでもなっていてほしいな」
顎を上げてグラスを飲み干すと堤は雪を見据える。
「ねぇ、雪クン、君が君である証明はなんだろう」
雪はなにも発することなく訝しげに、しかし確かにまっすぐ堤を見つめていた。
「しかしΩの匂いがしないよ、雪クン。僕は感知できない。元親は感じているのか?」
パウダールームへ向かう雪の背を堤と見守る。
「ああ、僅かだがな」
「ホテルの厨房で嗅ぎわけたくらいだもんな」
「警察犬みたいに言うな」
「はは! そう怒るなよ、感心してるんだ。運命の相手なんだなってさ。雪クンも元親の恋人をちゃんと演じていて健気じゃないか、愛くるしいね。嘘でも嬉しいだろ」
「嬉しいよ、幸せとも思える。しかし嘘だからこそ、──苦しい」
「元親」
「……ん?」
堤はグラスをテーブルに置いて改めて私を見据えた。
「僕は専門医じゃないから知り得た知識の中でしか言えないが、βからΩに転換するというのは遺伝子学的に見てあり得ない。おそらく雪クンも自分で判る日が来るよ。誤解を恐れず言うが、Ωなのに勤勉で成績優秀、学者志望。今夜の話もだいぶ遠回しではあるが彼に警告した。きっと彼はこの世の構図を理解するときが来る。ってことは、だ。雪クンはαとΩの番の子なんだろう」
「────え?」
私は言葉を失った。
「雪クンは運命の番の間に出来た子供、つまり運命の子だ」
レストランで堤と別れその時ポツポツと降り出した雨が、帰宅して風呂からあがる頃にはザーザーという音に変わっていて瓦屋根を強く叩いている。
飲み物を取りにキッチンへ向かうと着物用の薄紫色のレインコートを羽織った瀧が居た。
「瀧、帰れるか?」
「ひどくなる前に帰りますよ」
「気をつけてな」
「はい、おやすみなさいまし」
「おやすみ」
勝手口を開けると強い風が吹き込んだ。風も出てきたか。瀧の一人暮らす部屋はここから歩いて十分ほど。引き留めても瀧は泊まらないのが解っているから言わない。ただ、無事に帰宅してほしいとその丸くなった背中に願うだけだ。
いよいよ来月に迫る半導体事業の始動。書斎に戻りラップトップの電源を入れあるデータを開く。企業パンフレットとポスター画像のサンプルデータが届いたのだ。
淡いミントグリーンのブラウスに包まれ優しさが全面に出ているが、まっすぐ先を見据えるような強い意思を持つ横顔。雪の生きる力強さそのものだ。
「前髪を上げたのは正解だったな」
あのヘアメイク。雪の良さをすぐに見抜いていた。
『運命の子』
堤の言葉がリフレインした。その意味することに覆われた真実。真実というものは詳らかにするのが道理であろう。しかし時にはそのまま伏せておくことも大切なこと。
雪にとって最良はどちらなのだろう。
画面に映るシャープな横顔を画面に触れないようになぞる。
その時だった、いきなり窓がガタッと揺れた。時より吹く強い風が窓を叩いていたのだ。ビュービューとけたたましい音がしたと思った時部屋の明かりが消えたんだ。
「停電か……?」
カーテンを少し開け吹き付ける雨の隙間から外を見ると、普段は外灯や家の明かりが見えるはずの辺りも真っ暗で闇と化している。カーテンを閉じると先程のラップトップだけが光々としている。スマホを手に取りライトを付ける。
そこで雪のことが頭を過る。暗闇が怖いと言っていた。いきなりの停電では怖い思いをしているかもしれない。私はスマホのライトを足元にかざしながら雪の部屋へと向かった。
襖をノックし名を呼ぶが返答がない。寝ているのだろうか。それなら良いのだが……と踵を返すと中でガタリと音がした。
「雪? 入るぞ」
襖を開けスマホのライトをかざし辺りを照らすが、ベッドにもデスクにも雪の姿はない。しかし確かに中から音がしたんだ。
「雪、どこにいるんだ?」
部屋の中に入りベッドに近づくと、ベッドとサイドテーブルの角に隠れるように膝を抱いて小さく蹲っている雪が居た。その身体はガタガタと震えあがり歯がカチカチと音を立てている。
「雪?!」
勢いよく近寄るとその顔は大粒の涙で濡れていた。その涙をそのままに私は雪の頭を胸に抱き寄せた。雪はひっくひっくとしゃくりあげ過呼吸のようだった。カタカタ震えが止まらずその痩せた背中をゆっくり宥めるように擦った。
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初めて挑戦しましたオメガバース作品です。この世界にもαとΩが居たらどんな世界なのだろうと思って書きはじめました。『Maybe Love』の九条吾妻くんと、そのお父さんが友情出演致しました。須賀の幼馴染の堤の恋の話最後の恋煩いもあります。合わせてお楽しみください。
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