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新しい仕事
第十話
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昨日は全く眠れなかった。
──キスなんて聞いてないし。
思い出して顔から火が吹きそうで両手で仰ぐ。
仮にこれからするぞなんてあの顔で言われても、うまく出来たかと言われればそんなの分かりきってる。
「無理……」
それに、俺のアパート前でも演技をしなくてはならないのかと思うと、須賀のおじいさんからも認知されてるってことになるんだろうか。
「俺の一挙手一投足が、見張られてる?」
広いキャンパス内の池の周りに置かれているベンチで今朝自分で握ったおにぎりを広げているが、恐怖からかおにぎりが喉を通らない。
「やばい。俺、無職なのに。支配人にもちゃんと挨拶しなくちゃいけないだろうに、なにも考えられない……」
大金を得た代わりに俺はアルバイトを失ったんだ。
次のアルバイトを探さなくてはならないが、まずは支配人に連絡しなければ。あのままでは辞めたことにはならないだろう。
「でも会ったら須賀さんのこと聞かれるんだろうな」
須賀は『恋人』だの『大切な人』だとも俺を形容したけど……俺からは恋人だとはなかなか言いにくい。だって俺と須賀ではどうしたって身分も容姿も雲泥の差。俺が言って誰が信じるんだ。
躊躇っているとスマホが鳴った。佐伯さんからだった。
「はい! 長谷川です」
『今よろしいでしょうか』
「大丈夫です。どうかしましたか?」
『長谷川様の退職手続きをこちらで済ませました。僭越ながらロッカーにあった荷物も取って参りましたので今夜ご自宅にお届けにあがります』
「……えっ、佐伯さんが行ったんですか?」
『須賀から長谷川様が二度とレストランへ行かずに済むようにと仰せつかりましたもので』
「二度と……」
『では、失礼致します』
──これは俺にはもう行くなってことだよな……
こんなにあっさり辞めることができるのは俺が元々役立たずだったからなのだろう。挨拶なんか行っても迷惑なだけかもしれない。
改めてこっそり会いに行くことを心に決めると、前からひとりの女性がやってきた。同じ学部でひとつ年上の夏子だ。
「やっぱりここだ」
「夏子さん」
「実験失敗しちゃって、息抜き」
俺も夏子さんも理工学部で生物科に在籍している。
学部を選ぶとき俺はどうしても遺伝子の勉強がしたくて理工学部を選択した。何故自分が変異してしまったのかそれが知りたくて、いつかはΩの研究をしてみたいそう思っている。
出来れば大学院も出てそのあとも研究が続けられたらいいなと思ってるけどΩのタイムリミットまでどこまでできるのかは分からない。それまでやり続けたい、そう願う。
「培養にうまく行かなかったんですか?」
「全然ダメ! 細胞がピクリともしないんだから。あ、また今日もおにぎりだけ? 今夜もバイトでしょ? また倒れたりしない?」
「また」とは、入学して間もない頃。新生活に慣れない中でアルバイトを始めて体がついていかなかった。もちろんマネージャーからのパワハラもあり胃の痛みとの戦いでもあって、ちゃんと食事が出来ていなかったのだ。
あまりの胃の痛みで研究室で蹲っていた俺を夏子さんが介抱してくれて、夏子さんのお兄さんのクリニックに連れて行ってもらい胃薬を貰った。なにより空腹が長時間続くのが悪いらしく、そのうちごはんをよく奢ってくれるようになった。
夏子さんの家は代々医者のご令嬢らしく、お小遣いは未来に投資しないと、と俺によく奢ってくれるのだ。
実際仲良くなれたのは、夏子と雪という明らかにその季節の生まれですねという名付けのおかげ。
「実は、レストランのアルバイトは辞めたんです」
「えっ、そうなの? にしても、いきなりだね」
「諸事情ありまして……また新しくアルバイトを探します」
「諸事情? それ大丈夫なの? パワハラ上司のせい?」
そう心配そうな顔をして聞いてくるものだからこの際マネージャーのせいにしてやめたことにしよう。
「実は……お客様の前で叱られてしまって。それは俺のせいなんで仕方ないんですが」
「お客様の前でアルバイトを叱るだなんて、そのマネージャーもクビよ。あの老舗ホテルでそんな失態、呆れちゃうわね。支配人もさぞ面子を潰されてガッカリしたでしょうね」
──そうか、夏子さんの見解でもマネージャーはクビでいいのか。
夏子さんが胸の前で腕を組んで怒ってる姿がとてもかわいらしくて、俺はかなり気持ちが楽になった。
「それに体を壊す寸前だったんだから辞められてよかったよ」
「そう……ですね」
「でもお母さんへの仕送り大変になっちゃうね」
「あ……」
「アルバイト辞めたんなら時間も出来るし新しいアルバイト見つかるまでのどこかで実家に帰って顔を見せてあげたらどう?」
「……そう、ですね」
夏子さんは俺を実家にバイト代を仕送りしている苦学生だと思ってる。母親のことをあまり話したくない俺が有耶無耶にしているからなんだけれど。
あのお金は母親には絶対に使いたくない。なんとかアルバイトを見つけなければ。
夕暮れどき、俺はスーパーの帰りエコバッグを手にアパートへ歩いている。
「こんなに早くに家に帰れるの新鮮だな」
六限まである日以外はすべてアルバイトに費やしていたから帰り道はいつも真っ暗。夕焼けを見ながら帰宅するのはいつぶりだろう。
もう春はやってきていて、須賀との夜からも、あの家を出てからももう一年が経つのだ。
──キスなんて聞いてないし。
思い出して顔から火が吹きそうで両手で仰ぐ。
仮にこれからするぞなんてあの顔で言われても、うまく出来たかと言われればそんなの分かりきってる。
「無理……」
それに、俺のアパート前でも演技をしなくてはならないのかと思うと、須賀のおじいさんからも認知されてるってことになるんだろうか。
「俺の一挙手一投足が、見張られてる?」
広いキャンパス内の池の周りに置かれているベンチで今朝自分で握ったおにぎりを広げているが、恐怖からかおにぎりが喉を通らない。
「やばい。俺、無職なのに。支配人にもちゃんと挨拶しなくちゃいけないだろうに、なにも考えられない……」
大金を得た代わりに俺はアルバイトを失ったんだ。
次のアルバイトを探さなくてはならないが、まずは支配人に連絡しなければ。あのままでは辞めたことにはならないだろう。
「でも会ったら須賀さんのこと聞かれるんだろうな」
須賀は『恋人』だの『大切な人』だとも俺を形容したけど……俺からは恋人だとはなかなか言いにくい。だって俺と須賀ではどうしたって身分も容姿も雲泥の差。俺が言って誰が信じるんだ。
躊躇っているとスマホが鳴った。佐伯さんからだった。
「はい! 長谷川です」
『今よろしいでしょうか』
「大丈夫です。どうかしましたか?」
『長谷川様の退職手続きをこちらで済ませました。僭越ながらロッカーにあった荷物も取って参りましたので今夜ご自宅にお届けにあがります』
「……えっ、佐伯さんが行ったんですか?」
『須賀から長谷川様が二度とレストランへ行かずに済むようにと仰せつかりましたもので』
「二度と……」
『では、失礼致します』
──これは俺にはもう行くなってことだよな……
こんなにあっさり辞めることができるのは俺が元々役立たずだったからなのだろう。挨拶なんか行っても迷惑なだけかもしれない。
改めてこっそり会いに行くことを心に決めると、前からひとりの女性がやってきた。同じ学部でひとつ年上の夏子だ。
「やっぱりここだ」
「夏子さん」
「実験失敗しちゃって、息抜き」
俺も夏子さんも理工学部で生物科に在籍している。
学部を選ぶとき俺はどうしても遺伝子の勉強がしたくて理工学部を選択した。何故自分が変異してしまったのかそれが知りたくて、いつかはΩの研究をしてみたいそう思っている。
出来れば大学院も出てそのあとも研究が続けられたらいいなと思ってるけどΩのタイムリミットまでどこまでできるのかは分からない。それまでやり続けたい、そう願う。
「培養にうまく行かなかったんですか?」
「全然ダメ! 細胞がピクリともしないんだから。あ、また今日もおにぎりだけ? 今夜もバイトでしょ? また倒れたりしない?」
「また」とは、入学して間もない頃。新生活に慣れない中でアルバイトを始めて体がついていかなかった。もちろんマネージャーからのパワハラもあり胃の痛みとの戦いでもあって、ちゃんと食事が出来ていなかったのだ。
あまりの胃の痛みで研究室で蹲っていた俺を夏子さんが介抱してくれて、夏子さんのお兄さんのクリニックに連れて行ってもらい胃薬を貰った。なにより空腹が長時間続くのが悪いらしく、そのうちごはんをよく奢ってくれるようになった。
夏子さんの家は代々医者のご令嬢らしく、お小遣いは未来に投資しないと、と俺によく奢ってくれるのだ。
実際仲良くなれたのは、夏子と雪という明らかにその季節の生まれですねという名付けのおかげ。
「実は、レストランのアルバイトは辞めたんです」
「えっ、そうなの? にしても、いきなりだね」
「諸事情ありまして……また新しくアルバイトを探します」
「諸事情? それ大丈夫なの? パワハラ上司のせい?」
そう心配そうな顔をして聞いてくるものだからこの際マネージャーのせいにしてやめたことにしよう。
「実は……お客様の前で叱られてしまって。それは俺のせいなんで仕方ないんですが」
「お客様の前でアルバイトを叱るだなんて、そのマネージャーもクビよ。あの老舗ホテルでそんな失態、呆れちゃうわね。支配人もさぞ面子を潰されてガッカリしたでしょうね」
──そうか、夏子さんの見解でもマネージャーはクビでいいのか。
夏子さんが胸の前で腕を組んで怒ってる姿がとてもかわいらしくて、俺はかなり気持ちが楽になった。
「それに体を壊す寸前だったんだから辞められてよかったよ」
「そう……ですね」
「でもお母さんへの仕送り大変になっちゃうね」
「あ……」
「アルバイト辞めたんなら時間も出来るし新しいアルバイト見つかるまでのどこかで実家に帰って顔を見せてあげたらどう?」
「……そう、ですね」
夏子さんは俺を実家にバイト代を仕送りしている苦学生だと思ってる。母親のことをあまり話したくない俺が有耶無耶にしているからなんだけれど。
あのお金は母親には絶対に使いたくない。なんとかアルバイトを見つけなければ。
夕暮れどき、俺はスーパーの帰りエコバッグを手にアパートへ歩いている。
「こんなに早くに家に帰れるの新鮮だな」
六限まである日以外はすべてアルバイトに費やしていたから帰り道はいつも真っ暗。夕焼けを見ながら帰宅するのはいつぶりだろう。
もう春はやってきていて、須賀との夜からも、あの家を出てからももう一年が経つのだ。
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