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契約

第三話

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 二十二時が俺の終業時間。ホテルの従業員ドアから表に出ると顔にポツポツと冷たいものが降る。

「え? 雨……?」

 出勤前に巨大モニターで確認した天気予報が頭を過ぎる。脳に浮かぶ切り取られた記憶は確かに雨マークだった。

 ──あのニュースのせいか……。

 気にしないつもりでもオメガ保護法にかなり動揺していることに自嘲しため息をついた。更衣室のロッカーに折りたたみ傘があるはず。しかし不必要に出入りをしてはいけない。セキュリティーの観点かららしいが一度退勤したらよほどの理由がない限り戻れないのだった。

 だからといって入れない訳はなく、嫌味を聞き流せばいいだけのことなんだけれど、俺は濡れながら帰ることを選んだ。肩から下げていたトートバッグを頭にかざし駅まで走ることにした。



 するとコートのポケットでスマホが震えるのに気がついた。俺に連絡してくる相手は限定されていて、どれも俺を喜ばせたりはしない。せめて駅に着いてから確認しようと歩みを止めずにいると、もうじき駅というところで俺の行く手を塞ぐ大きなシルエットがあった。

 トートバッグの持ち手が垂れ下がりその隙間から前を伺うとビシッとした紺のスーツを着た長身の男が黒い傘を差して立っている。

 俺に用があるのは雰囲気で分かるが、もし用があっても良い事ではない。そう思った俺は目だけきょろきょろとさせてその男性の脇を通り過ぎようと、一歩を踏み出そうと意を決する。

「お待ちください」

 男性の思いがけない優しいトーンに体がびくりと跳ねる。先程の決意は呆気なく消え失せる。足がすくみ止まってしまったのだ。もっと、こう……強めな圧でくるのかと思った。

「驚かせて申し訳ありません、お時間頂戴できますか?」

 本当に申し訳なさげにこれまた丁寧に言葉をかけられ、俺の頭上に傘を差してくれる。どうしたらいい、どう答えればいいんだ。

 近くで見れば本当に上等な布地のスーツだ。こんなスーツを着こなす人にホテル以外で声をかけられるようなことはない。

 ──だから怖いんだ。

「あ、の、俺、急ぎますので、ごめんなさい」
「決して傷つけようなどということはありません、お話しだけ」
「……?」

 ──この人、今にも泣きそうなんですけど。

「雨も降っていますし、ひとまず車へ乗っていただけませんか?」

 誰かに頼まれて俺を連れていかなければならないのかな。俺が着いていかなければ、この人はクビにでもなるのかな。ふとそんなことが浮かぶ。

 停まっている車を見れば国産車の中でも最高級ランク。家が買えてしまう金額だ。そのボディはよく雨を弾いていた。

「へ、変なことはしませんか?」
「決して致しません」

 ──こんなことを聞いても無意味なんだけど。

 その人に少し同情してしまったからか、結局高級車に促されるとそのまま乗ることにした。男が遅れて運転席に乗り込む。ドアが閉まると外気音が遮断され静かになった。そしていくらか空調が暖かい。

「どこかに売り飛ばされるんですか?」

 後部座席から運転席に声をかけると「こちらから失礼します」と名刺を渡してきた。


 名刺には須賀ホールディングスと記されていた。

 須賀といえば日本の財閥のひとつ、須賀財閥だ。須賀銀行をはじめ須賀物産、須賀不動産などグループ会社がある。この男の名前が真ん中にあってその少し上に秘書課 課長という役職がついている。

 こんなこともあのホテルで働くようになってから知ったことで普通に生きていたら『財閥』という言葉は外国の話だと思うかもしれない。

 須賀財閥……銀行が俺になんの用があるのだろう。銀行にお金は借りたことはないし、取り立てだとしてもこんな上の人間が取り立てに来ることなんてありえないし……まさか母親が借金でも作ったのだろうか。自分の想像が幼稚すぎて恥ずかしくなる。

「佐伯さん、こんな俺にどのような用があるのですか?」
「それは、……私の口からは申し上げられません」
「これから誰かに会うってこと?」
「はい、私の上司が貴方様を連れてくるようにと」
「俺のことを知ってるってことですよね」
「はい、長谷川 雪さま、でおられますね」
「……」

 フルネームを言い当てられ、ぞくりとする。

 ──やっぱり怖い。

 しかし、この人に同情して車に乗ってしまったのは俺。 

 人生はなるようにしかならない。

 なにか酷いことが起こる前触れに、いつも自分に言い聞かせている言葉だ。



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