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先輩
第九話
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事務所が休みの水曜日。井上はやってきた。何故僕の家なのかというのは過去問や参考書がそれなりにあるから便利だと思ったから。
他人の空間で勉強に身が入るか少し心配ではあったが、井上はリビングのローテーブルで大人しく勉強をしている。
僕はといえば、ダイニングからその光景をひとりポツンと座って眺めていた。僕が勉強を見てやるだなんて言ったけど、元来井上は頭がいい。というか勉強の仕方を知ってるんだろうな、卒なくこなしているイメージがある。だから、そもそも僕の力なんて不要だったんじゃないかって、後悔し始めているところだ。
……にしても、休みのたびここに居ていいのか疑問が湧いた。
「ねぇ、井上。試験間近なのは分かるけど普段遊びに行ったりしないの?」
「行きませんね」
建築業界は水曜休みが多い。土日に客への営業や施主との打ち合わせがあるためだ。平日休みはどこへ行っても混雑してないし、役所が開いてるとか利点もあるが、他の業種の友達と休みが合わずなかなか遊びに行くことが難しい。
僕は所長の仁と幼馴染だし公私混同もいいとこで、仁が結婚するまでは結構な確率で遊んでた。井上はどうしているのか気になった。
「事務所の中で仲いい奴は?」
「みんなは遊び行ってるみたいっすよ」
「誘われないのか」
思わず笑うと井上が拗ねた。
「……ほんと意地悪ですよね」
「悪い悪い!」
「先輩が居ないから行かないだけですよ、先輩が誘ってくれたらいつでも行きます」
「あ、そう……誘ったら来る?」
「はい」
再び過去問に視線を戻して井上は難しい顔で眉間にシワを寄せながらシャーペンの後ろで髪をポリポリと掻いた。
いつもは整髪料で整えているんだろう、ここへ来るときの井上は少し髪がふわっとしている。いつかもそんなことを思ったような、と記憶を辿ると最近だったことを思い出した。
新人研修の夜だ。なんだか触れたくなって井上の髪に手が伸びてた。井上に妙な誤解を与えてもいけないと試験勉強頑張ってて偉いなって感じに誤魔化した。当の井上は気にしてなくてホッとした。そうだ。井上はむしろ撫でてと言ってきたんだ。
不思議な空間だった。唐突だったんだ。ふっと、井上の存在がハマった。
過去問とにらめっこして三角スケールを持ちながら眉間にしわを寄せてる井上が、ふと視線をこちらに寄越した。井上は焦ったような顔をして視線を戻してしまった。僕と目が合うと思わなかったのか。
翌週、いつものように井上は太陽のような笑顔でやってきた。書いてきたという図面を広げて二人でチェックしていく。
「なぁ、ミュージカルに興味ある?」
「え?」
「業者にさ、チケット貰ったんだ。たまには良いんじゃないか?」
「先輩、オレとミュージカル観に行ってくれんスか?」
「大袈裟だな、今週末なんだけど、行けそう?」
「いけます! 仕事終わらせます!」
「あはは! 打合せは午前中だけの予定だしどうかな」
「行きます! 楽しみっす! ミュージカル初めてだなぁ」
「僕も初めてだから楽しみだよ」
井上が少しリラックスした表情になった。井上は真面目に課題に向き合っていてご褒美があげたくなったんだ。業者に貰ったなんて嘘で、評判になっている現代版ロミオとジュリエットの公演を勢いで予約してしまったんだ。
井上が嬉しそうだから良かった。試験前のリフレッシュになれたらそれでいいし。
見終えた後で、身分違いの恋というテーマについ文哉を重ねて見てしまった自分が情けなかった。というか……
「男二人で見に行く内容じゃなかったな、ごめん」
「なんでですか? そんなの関係ないじゃないですか。オレはなんとも思いません。それに貰ったチケットは無駄にしたくないですしね」
「あっ、あぁ、そうだな。こんな年上のおっさんだしさ、気まずかったかなと。映画とか、いや、違うな、バッティングセンターとか? そういうとこが良かったかな?」
「先輩」
「えっ、あ……、うん」
駅までの帰り道で井上が振り向いた。
「先輩は身分違いの人好きになったら諦めますか」
いきなりの質問に驚いたが井上がやたら真剣な顔つきだから誤魔化すことも忘れて真面目に考えてしまった。
「え? そうだなぁ……、相手が誰だろうと告白出来ずにいるんだろうな。僕は勇気がないから」
「昔にもそう言ってましたね」
まただ、そうやって僕のことを覚えてる。いつそんな話をしたか、自分じゃ忘れてるというのに。
「井上は自分から言うほうなのかな」
「いえ。オレも言えていません」
まるで現在進行系な恋に言ってるみたいに聞こえてくる。井上は今好きな人がいるということか。胸にチクっとした痛みを覚えた。
「井上が告白して断る人居ないんじゃないか?」
「好きな人から好かれなきゃ意味ないっすよ」
「あぁ、……そうかな。うん……そうだね」
井上の言葉が突き刺さる。ひとりで文哉に片思いをして、勝手に振られた気分で落ち込んでるイタイ奴だ。井上も誰かに片思いしてるんだな。
「井上はさ、いつもストレートに感情を表現する男だろ、カッコイイと思う。僕も女の子だったら惚れて──」
なにを、口走ろうとしているんだ。ヒヤリとして口を噤み井上を見た。駄目だ。井上はゲイじゃない。こんなこと、言ったら不愉快だろうし、セクハラだ。
井上はぐっと唇を噛み締めて僕を見ていた。
「先輩」
「ごめん。セクハラ発言した! もう遅い、帰ろうか」
「だったらオレに惚れてください」
「え────?、──んっ……っ!?」
一瞬、何がどうなったか全く分からなかった。唇から熱が離れて井上の顔が視界いっぱいになってようやくキスされたことに気がついた。
他人の空間で勉強に身が入るか少し心配ではあったが、井上はリビングのローテーブルで大人しく勉強をしている。
僕はといえば、ダイニングからその光景をひとりポツンと座って眺めていた。僕が勉強を見てやるだなんて言ったけど、元来井上は頭がいい。というか勉強の仕方を知ってるんだろうな、卒なくこなしているイメージがある。だから、そもそも僕の力なんて不要だったんじゃないかって、後悔し始めているところだ。
……にしても、休みのたびここに居ていいのか疑問が湧いた。
「ねぇ、井上。試験間近なのは分かるけど普段遊びに行ったりしないの?」
「行きませんね」
建築業界は水曜休みが多い。土日に客への営業や施主との打ち合わせがあるためだ。平日休みはどこへ行っても混雑してないし、役所が開いてるとか利点もあるが、他の業種の友達と休みが合わずなかなか遊びに行くことが難しい。
僕は所長の仁と幼馴染だし公私混同もいいとこで、仁が結婚するまでは結構な確率で遊んでた。井上はどうしているのか気になった。
「事務所の中で仲いい奴は?」
「みんなは遊び行ってるみたいっすよ」
「誘われないのか」
思わず笑うと井上が拗ねた。
「……ほんと意地悪ですよね」
「悪い悪い!」
「先輩が居ないから行かないだけですよ、先輩が誘ってくれたらいつでも行きます」
「あ、そう……誘ったら来る?」
「はい」
再び過去問に視線を戻して井上は難しい顔で眉間にシワを寄せながらシャーペンの後ろで髪をポリポリと掻いた。
いつもは整髪料で整えているんだろう、ここへ来るときの井上は少し髪がふわっとしている。いつかもそんなことを思ったような、と記憶を辿ると最近だったことを思い出した。
新人研修の夜だ。なんだか触れたくなって井上の髪に手が伸びてた。井上に妙な誤解を与えてもいけないと試験勉強頑張ってて偉いなって感じに誤魔化した。当の井上は気にしてなくてホッとした。そうだ。井上はむしろ撫でてと言ってきたんだ。
不思議な空間だった。唐突だったんだ。ふっと、井上の存在がハマった。
過去問とにらめっこして三角スケールを持ちながら眉間にしわを寄せてる井上が、ふと視線をこちらに寄越した。井上は焦ったような顔をして視線を戻してしまった。僕と目が合うと思わなかったのか。
翌週、いつものように井上は太陽のような笑顔でやってきた。書いてきたという図面を広げて二人でチェックしていく。
「なぁ、ミュージカルに興味ある?」
「え?」
「業者にさ、チケット貰ったんだ。たまには良いんじゃないか?」
「先輩、オレとミュージカル観に行ってくれんスか?」
「大袈裟だな、今週末なんだけど、行けそう?」
「いけます! 仕事終わらせます!」
「あはは! 打合せは午前中だけの予定だしどうかな」
「行きます! 楽しみっす! ミュージカル初めてだなぁ」
「僕も初めてだから楽しみだよ」
井上が少しリラックスした表情になった。井上は真面目に課題に向き合っていてご褒美があげたくなったんだ。業者に貰ったなんて嘘で、評判になっている現代版ロミオとジュリエットの公演を勢いで予約してしまったんだ。
井上が嬉しそうだから良かった。試験前のリフレッシュになれたらそれでいいし。
見終えた後で、身分違いの恋というテーマについ文哉を重ねて見てしまった自分が情けなかった。というか……
「男二人で見に行く内容じゃなかったな、ごめん」
「なんでですか? そんなの関係ないじゃないですか。オレはなんとも思いません。それに貰ったチケットは無駄にしたくないですしね」
「あっ、あぁ、そうだな。こんな年上のおっさんだしさ、気まずかったかなと。映画とか、いや、違うな、バッティングセンターとか? そういうとこが良かったかな?」
「先輩」
「えっ、あ……、うん」
駅までの帰り道で井上が振り向いた。
「先輩は身分違いの人好きになったら諦めますか」
いきなりの質問に驚いたが井上がやたら真剣な顔つきだから誤魔化すことも忘れて真面目に考えてしまった。
「え? そうだなぁ……、相手が誰だろうと告白出来ずにいるんだろうな。僕は勇気がないから」
「昔にもそう言ってましたね」
まただ、そうやって僕のことを覚えてる。いつそんな話をしたか、自分じゃ忘れてるというのに。
「井上は自分から言うほうなのかな」
「いえ。オレも言えていません」
まるで現在進行系な恋に言ってるみたいに聞こえてくる。井上は今好きな人がいるということか。胸にチクっとした痛みを覚えた。
「井上が告白して断る人居ないんじゃないか?」
「好きな人から好かれなきゃ意味ないっすよ」
「あぁ、……そうかな。うん……そうだね」
井上の言葉が突き刺さる。ひとりで文哉に片思いをして、勝手に振られた気分で落ち込んでるイタイ奴だ。井上も誰かに片思いしてるんだな。
「井上はさ、いつもストレートに感情を表現する男だろ、カッコイイと思う。僕も女の子だったら惚れて──」
なにを、口走ろうとしているんだ。ヒヤリとして口を噤み井上を見た。駄目だ。井上はゲイじゃない。こんなこと、言ったら不愉快だろうし、セクハラだ。
井上はぐっと唇を噛み締めて僕を見ていた。
「先輩」
「ごめん。セクハラ発言した! もう遅い、帰ろうか」
「だったらオレに惚れてください」
「え────?、──んっ……っ!?」
一瞬、何がどうなったか全く分からなかった。唇から熱が離れて井上の顔が視界いっぱいになってようやくキスされたことに気がついた。
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