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22法廷にて
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大司教を失脚させるための計画は、少々上手く行き過ぎていると感じていたところだった。
幸福と不幸は必ず二つで一つ。表には裏があるように、成功には失敗が付き纏う。
だからこうなってしまう事を、ルークはどこかで予期していた気がする。
手を引くと、チャリ、と冷たく硬い音が鳴る。足を動かしても同じ音が鳴った。いっそ懐かしささえある感触だ。
ルークは手足に銀の枷を嵌められて、大聖堂の地下牢に繋がれていた。
またここに戻ってきてしまった。しかし何もかもが悪い事ばかりではなかった。
大司教に囚われて打ちひしがれていたルークだったが、地下牢に降りてくると鉄格子の向こうに複数の気配がある事に気が付いた。「ルーク様」と気遣わしげな声がする。すぐに騎士が剣で鉄格子を殴って脅すと声は聞こえなくなったが、同胞がここで辛苦の日々に耐えながらも生きていた事に、ルークは勇気を貰った。
ルークは地下牢の最奥にある懲罰房へと囚われた。ここからでは同胞たちの息遣いさえも聞こえてこないが、「ルーク様」というほんの一言に込められた気遣いのおかげで、自分はまた生きてここから出て、仲間を救わなくてはならないというルークの信念を支えてくれる。
大丈夫だ。きっと璃久なら無事逃げ切って、ハインスと計画を進めてくれるはず。今更ここにルークが捕まったとて、動き出した大司教を排斥する大きなうねりは最早止まらないだろう。
信じていれば良い。それまで、ルークはただ正気を保つだけだ。
大丈夫。何の希望もないまま嘗てこの地下牢に閉じ込められていたあの時に比べれば、ルークの状況は信じられないくらいに好転している。
璃久、と心の中で呼んで、最後に見た彼の姿を思い出す。頭から血を流してルークの事を助けようとしてくれていた。
どれだけあの体に縋って助けてと泣きたかったろう。『瑠夏』ならそうやって素直に弱音を吐いて璃久に甘えたのだろうか。瑠夏として璃久と接していたのはルークなのに、どうしてもあの清らかな瑠夏の体と自分の体を比較しては、同じものだと思えなかった。実際に体は別々だったのだから当然だ。誰にも体を許さなかった瑠夏こそ、璃久に相応しい。
ルークが囚われている懲罰房には嘗て鏡があった。『魔女の気紛れ』によって異世界へとルークを運んだ鏡だ。大司教の信用を勝ち得たルークは大司教に頼み、姿見をルークの屋敷の壁に取り付けてもらった。
璃久は「何故あの頃一緒に連れて行ってくれなかったのか」と涙ながらに苦しんできた思いを吐露したが、あの当時のルークはまだこの地下牢に囚われていた。それから四年かけて大司教に取り入って漸く父が遺した屋敷へと移る事が出来たのだ。自分がもっと早くにこの体を使う覚悟を決めてさえいれば璃久は七年も苦しまずに済んだのかも知れない思うとやるせ無かった。
血を吐く思いで手に入れた屋敷に璃久が現れると、ルークは鏡を割った。璃久を元の世界に返したくないと思ったらそうしていた。だけどそれは何の意味もないのだろう。
『魔女の気紛れ』は二度起こる。幸福と不幸の釣り合いを持たせるために、『魔女の気紛れ』はルークへ与えた幸福を取り返しにやってくる。
別れは訪れる。
最後に、ルークは璃久に何を話そうか。
そんな事を考えながらだったからか、ルークは枷に囚われながらも璃久の夢を見た。彼の薬指を噛んで指輪だと言って笑っていた日の、ルークが瑠夏として最も幸せだった瞬間の夢。実際には吸血衝動が表れた事に怯えてそれを隠して笑った現実から目を背ける夢。
思えばあれは右手だった。あちらの世界の慣わしを真似てみたくて、結局失敗していたのだと気付いたのはこちらの世界に戻った後だった。
璃久の左手の薬指はまだ誰のものでもない。我ながら上手い失敗だった。
浅い眠りからルークを呼び覚ましたのは、嫌でも覚えてしまった男の足音だった。この男には相応しくない清廉なローブがルークの前で持ち上げられていく。
*
バタバタと気忙しい足音が近付いてくる。いっそ苛立っているかのようにも聞こえるそれは執務室の前で止まり、荒々しく両開きの扉を開け放った。
「リック! いよいよだ! 評議会が動いたぞ!!」
「本当か!?」
「ああ!!」
璃久は万感の思いを込めてハインスと手を叩く。
「全くこの国の法はややこし過ぎる!」
大司教を出廷させるという、たったそれだけの事を成すために、あれから一ヶ月も過ぎていた。
立場のある人間の罪を暴いて審問しようとするとあらゆる人間のあらゆる承認が必要で、それは王であるオークスも同様だった。まがりなりにも国王であるオークスはしかし、本人が罪を全て認めたため異例の速さで判決が下った。
オークスは終身刑になった。ナジーブラが寄付をしていた孤児院から里子に出された子供の行方を追って掴んだ少年への淫行の証拠、王妃自ら目撃する事になった売春、そして実の弟への暴行。
それだけの罪があっても、誰かの命を奪った訳ではなかったオークスは、最後の最後で死刑を免れた。これからオークスは生涯、生き恥を晒す事になる。或いは死刑よりも本人にとって辛い判決だったのかも知れない。
そして、とうとう大司教の番が回ってくる。
国の最高権力者が居ない今、大司教の裁判の最終判断は評議会の意見に大きく左右される。そのためにハインスと王妃が結託する必要がありそれを成した今、最早逆風は止んだと言える。
当日は王都の至るところにナジーブラの私兵が配置された。国民を楯に取らせないための策だ。そして、もし法廷から大司教が逃げ出そうものなら素早く大司教の身を拘束するためでもあった。
開廷すると、ハインスが罪状を読み上げていく。璃久の知っている裁判の仕組みや景色とは些か異なっているようだ。
城の一画にある広間がこの国の裁判所だ。広間の北側に卓を置いた壇上があってそこに裁判官が座っている。広い円卓には評議会の代表者たちが座り、そして召喚された大司教は円卓の南側に立たされた。両脇を騎士に固められているが、恐らく大司教の息のかかった騎士なのだろう。大司教の表情には焦りが感じられない。
満を持して大司教が法廷へと姿を現すと、ざわついていた空気が一瞬でひりついた。様々な立場の人間の様々な思惑が錯綜するその中心で、大司教は疑いを掛けられた者には相応しくない自信を放っていた。その存在は圧倒的で、ハインス派へ鞍替えした者たちの中には気圧されてしまったような表情を浮かべる者も居る。
とうとう年貢の納め時かという声も聞こえてくる。そうだ。もうこれ以上大司教に好きにさせてないけない。その思いを共にした者のうちの一人であるハインスの声が、法廷に朗々と響き渡る。
大司教の重ねた悪事はあまりにも膨大だった。オークスへの脅迫、評議会への賄賂、そして何より、約三十年前に端を発する吸血鬼の正義の無い弾劾と信徒を欺き続けてきた事実に、傍聴席に座る新聞社の人間が一斉にペンを走らせた。
ルークの屋敷の地下から通じていた教会に大聖堂とは別で囚われていた吸血鬼たちを解放する事に成功し、また璃久が説得して回った信徒たちから証言を得られたおかげで吸血鬼たちは寧ろ被害者であった事が明るみになったのだ。
大司教は最後までハインスの読み上げる罪状を黙って聞き終えると笑いながら大仰に拍手をした。すると誰かが「不敬であるぞ!」と叫び、大司教はますます笑みを深める。
「不敬? この場に置いて私は一体どなた様に敬意を示せば良いのでしょうか?」
言うに事欠き大司教は自らがこの中で最も地位が高いと主張した。
「吸血鬼が人の生き血を吸うのは紛れもない事実です! そのような悪しき存在を私はただ討伐するだけでなく、その体を利用して信徒を救いました。証言に立った者たちは、大切な人間の命が延びた事を私に感謝すべきなのです! そして――」
大司教は目を眇めて評議会とハインスを眺める。
「評議会の方々の中には私のおかげでその席に座っている者が居るのではありませんか?」
少なくない人数が、さっと大司教から視線を逸らした。
「何と恩知らずな方々でしょう。一体誰のおかげで上等な絹の服に身を包み、ワインを嗜んで、贅沢の限りを尽くせたのか。今一度我が身に問うべきでは? 放蕩していた王弟と私、一体どちらがあなた方にとって必要な王であるかを」
ハインスは公明正大な王となるだろう。だがそれでは困る者が評議会にも居るという事だ。
大司教が一席ぶつ事によってやましいものを抱える評議会の人間は想像させられた。大司教の次は自分こそがその罪を暴かれるのではないかと。社会的地位をなくし、財を取り上げられ、その腕には罪の石だけを抱えて水底に沈む――。
自らを王と宣っても、もはや誰からも糾弾の声が上がらない。ハインスが悔しげに歯噛みして、罪状を記した紙を握りつぶす。
傍聴する事しか出来ない璃久は、証人として連れてこられた信徒の後ろで立ち尽くす。誰か何か言ってくれと祈ったが、大司教を追求する誰かの言葉より先に裁判官のガベルが鳴った。カンカンと木槌が台を打ち鳴らし、衆目の視線を集めながら裁判官が沙汰を言い渡す。
「大司教を無罪放免と――」
「待ちたまえ!」
大司教の勝ちが確定しようかというその時、西側の扉が開け放たれて騎士に剣を向けられながら一人の男が法廷に姿を現した。
「ハック兄さん……」
ハインスの呟きは本人には届かずに消えていく。
「そこの裁判官は大司教に買収されている。証言もある! 大司教は裁判官の妻を吸血鬼に噛ませて、妻だけは『還命の儀式』をしなくても良いと言ってこの裁判で無罪にするよう吹き込んだ。証人は裁判官の妻本人さ!」
ハックの後ろから女性が審問官の騎士に支えられながら出てくると、裁判官はガベルを取り落とした。鈍い音を立てて床にぶつかり滑ってハインスの足元で止まる。それを拾ったハインスはガベルを鳴らしてなりふり構わず声を張り上げた。
「大司教に極刑を求める! 俺に賛同するものは席を立て!」
最初の一人は傍聴していた王妃だった。自分の夫を陥れた大司教を彼女は許さない。王妃に呼応するようにぞろぞろと王妃派が立ち上がると、ごく少ないハック派が続いて、ハインスに流れつつある無派閥が続いてと、大司教に極刑を求める票が次から次へと集まった。
最後には、この場に居る全員が起立していた。
五十はくだらない人間から自身の断罪を望まれ、大司教は震えるようにして笑い始める。腹の底から込み上げてくる笑い声は身の毛がよだつほどおぞましく、醜悪に歪めた顔で大声で笑った。
「良いでしょう! ならば実力行使に出るまで」
大司教が踵を返すと、大司教派ではない王が直接指揮を取る城内警備の騎士が一名駆け込んで来る。
「大変です! 城に押し入った賊に玉璽を強奪されました! 犯人は大司教派の騎士の一派です!」
ハインスの持ったガベルが怒りによって鳴らされる。
「やってくれたな……さっきまでの余裕な態度はそのための時間稼ぎもあったのか? 大司教を追え! 玉璽を持ち去ったなら、もう遠慮はいらない。殺してでも捕らえろ!!」
ハインスに従う一部の騎士とナジーブラの私兵が一斉に動き出す。
璃久はハインスが指示を飛ばすより一拍早く、法廷を飛び出していた。大司教を追って南側の扉を抜けて城下を目指す。
既に城内は戦闘状態に入っていた。同じ甲冑を身に着けた騎士同士が剣で争う光景がこの国の歪みを如実に描く。
璃久は間違っても刺されないために蝙蝠に姿を変えて一気に城の正門に向かったがどこにも大司教は見当たらない。隠し通路でもあったのか、或いは璃久の知らないルートを通って別の扉から逃げたのか。
一旦正門まで出ると、そこにはゴドウィン辺境伯が待機していた。辺境伯の前で減速して人間に戻って着地すると辺境伯は驚いていたがすぐに思考を切り替える。
「城下は駄目だ。噂を聞いて民衆の人だかりが出来てしまっとる。城の裏手に船を回してあるから、海から大司教を追え」
「でもどこに行ったか分からないんだ!」
「逃げるなら大聖堂だろう。大聖堂の建つ崖裏に船着き場があるのを知ってるか? あそこから海に逃げる可能性が高い。もちろん、海路側はうちの護衛団が見張っちゃいるが、ルークさんを取り返しに行きたいだろ?」
事情を伝えられていた辺境伯は璃久を先導して城の裏手にある小さな船着き場に回ると、自ら縄を切って小舟に乗り込んだ。璃久が舟に飛び移るのに手を貸して櫂で舟を漕ぎ出し、陸に沿って北西方面に進んでいく。
「どのくらいかかる?」
「一時間もかからん。それまで精神集中でもしてな。それとこいつは餞別だ。ナジーブラの奴が俺に預けていきやがった」
留め具がついた三角形の革の袋を軽く放り投げられて慌てて受け取った。ずしりとしっかりした重さのある中身は金属の塊のようだ。
「あいつが扱ってる品の中でも最高級品だそうだ。使い方は分かるか?」
留め具を外して袋の口を開けて中身を取り出し、璃久は危うくそれを取り落としかける。
「拳銃……!? こんなもん投げて寄越すなよ!!」
吠える璃久を見て辺境伯が笑う。戦闘で片腕を無くした男は伊達ではない。
「弾も火薬も込めてある。後は撃鉄を起こして引き金を引くだけ。最近の拳銃は随分小さくなったもんだ」
弾も火薬も入っているという事はつまりさっき辺境伯が投げた時に璃久が掴みそこねれば暴発が十分にありえたという事だ。寒気がした。
「弾は六発、打ち切ったら仕舞いだ」
銃に造詣は深くないが、璃久の世界の拳銃よりもずっと不便そうな形をしている事は分かる。予め弾薬が入っている弾倉を交換するだけで弾の補充が出来る拳銃は、璃久のイメージではグリップの底に蓋がついているがこれにはそれがない。銃身の下には用途不明の謎の細い鉄の棒がついており、それがなければもっと軽いのではないかと思ってしまう。
試しに真っ直ぐ片手で構えてみるが、十秒もすると腕が下がってきてしまう。あまりにも重い。水がパンパンに入った一リットルのペットボトルよりも重いくらいだ。
辺境伯は大聖堂に着くまでに銃の使い方を璃久に教えた。何度も構えを取っていると腕が疲れるからやめろと言われたが、こんなもので実際に人を撃てと言われても恐らく璃久は躊躇ってしまうだろう。これは、精々障害物を取り除くのに使うのが精一杯かも知れない。
「そろそろ見えてくるぞ」
波で抉られたように三日月型になった断崖の下に、ランプが吊るされた波止場が見えてくる。断崖の反対側である沖の方には何隻もの海賊船が見えた。これでは確かに海に逃げ出すのは難しい。先に停まっていた一艘の小舟はあまりに心許なく、大司教が海に逃げる可能性をほとんど消していた。
船首が岸壁にぶつかって止まると、岩と岩に渡した簀子のような場所に飛び移る。
「悪いが俺はこの腕じゃお荷物だ。そこの階段から上に行け。ナジーブラの私兵が待機してるはすだ。だが騎士と戦いになってるかも知れん。腹を括っていけ、リック」
しかと頷いて、崖上に続く階段を駆け上っていく。
もう少しでルークを救える。早く、早くと思うと躓きそうになりながら足を動かした。
幸福と不幸は必ず二つで一つ。表には裏があるように、成功には失敗が付き纏う。
だからこうなってしまう事を、ルークはどこかで予期していた気がする。
手を引くと、チャリ、と冷たく硬い音が鳴る。足を動かしても同じ音が鳴った。いっそ懐かしささえある感触だ。
ルークは手足に銀の枷を嵌められて、大聖堂の地下牢に繋がれていた。
またここに戻ってきてしまった。しかし何もかもが悪い事ばかりではなかった。
大司教に囚われて打ちひしがれていたルークだったが、地下牢に降りてくると鉄格子の向こうに複数の気配がある事に気が付いた。「ルーク様」と気遣わしげな声がする。すぐに騎士が剣で鉄格子を殴って脅すと声は聞こえなくなったが、同胞がここで辛苦の日々に耐えながらも生きていた事に、ルークは勇気を貰った。
ルークは地下牢の最奥にある懲罰房へと囚われた。ここからでは同胞たちの息遣いさえも聞こえてこないが、「ルーク様」というほんの一言に込められた気遣いのおかげで、自分はまた生きてここから出て、仲間を救わなくてはならないというルークの信念を支えてくれる。
大丈夫だ。きっと璃久なら無事逃げ切って、ハインスと計画を進めてくれるはず。今更ここにルークが捕まったとて、動き出した大司教を排斥する大きなうねりは最早止まらないだろう。
信じていれば良い。それまで、ルークはただ正気を保つだけだ。
大丈夫。何の希望もないまま嘗てこの地下牢に閉じ込められていたあの時に比べれば、ルークの状況は信じられないくらいに好転している。
璃久、と心の中で呼んで、最後に見た彼の姿を思い出す。頭から血を流してルークの事を助けようとしてくれていた。
どれだけあの体に縋って助けてと泣きたかったろう。『瑠夏』ならそうやって素直に弱音を吐いて璃久に甘えたのだろうか。瑠夏として璃久と接していたのはルークなのに、どうしてもあの清らかな瑠夏の体と自分の体を比較しては、同じものだと思えなかった。実際に体は別々だったのだから当然だ。誰にも体を許さなかった瑠夏こそ、璃久に相応しい。
ルークが囚われている懲罰房には嘗て鏡があった。『魔女の気紛れ』によって異世界へとルークを運んだ鏡だ。大司教の信用を勝ち得たルークは大司教に頼み、姿見をルークの屋敷の壁に取り付けてもらった。
璃久は「何故あの頃一緒に連れて行ってくれなかったのか」と涙ながらに苦しんできた思いを吐露したが、あの当時のルークはまだこの地下牢に囚われていた。それから四年かけて大司教に取り入って漸く父が遺した屋敷へと移る事が出来たのだ。自分がもっと早くにこの体を使う覚悟を決めてさえいれば璃久は七年も苦しまずに済んだのかも知れない思うとやるせ無かった。
血を吐く思いで手に入れた屋敷に璃久が現れると、ルークは鏡を割った。璃久を元の世界に返したくないと思ったらそうしていた。だけどそれは何の意味もないのだろう。
『魔女の気紛れ』は二度起こる。幸福と不幸の釣り合いを持たせるために、『魔女の気紛れ』はルークへ与えた幸福を取り返しにやってくる。
別れは訪れる。
最後に、ルークは璃久に何を話そうか。
そんな事を考えながらだったからか、ルークは枷に囚われながらも璃久の夢を見た。彼の薬指を噛んで指輪だと言って笑っていた日の、ルークが瑠夏として最も幸せだった瞬間の夢。実際には吸血衝動が表れた事に怯えてそれを隠して笑った現実から目を背ける夢。
思えばあれは右手だった。あちらの世界の慣わしを真似てみたくて、結局失敗していたのだと気付いたのはこちらの世界に戻った後だった。
璃久の左手の薬指はまだ誰のものでもない。我ながら上手い失敗だった。
浅い眠りからルークを呼び覚ましたのは、嫌でも覚えてしまった男の足音だった。この男には相応しくない清廉なローブがルークの前で持ち上げられていく。
*
バタバタと気忙しい足音が近付いてくる。いっそ苛立っているかのようにも聞こえるそれは執務室の前で止まり、荒々しく両開きの扉を開け放った。
「リック! いよいよだ! 評議会が動いたぞ!!」
「本当か!?」
「ああ!!」
璃久は万感の思いを込めてハインスと手を叩く。
「全くこの国の法はややこし過ぎる!」
大司教を出廷させるという、たったそれだけの事を成すために、あれから一ヶ月も過ぎていた。
立場のある人間の罪を暴いて審問しようとするとあらゆる人間のあらゆる承認が必要で、それは王であるオークスも同様だった。まがりなりにも国王であるオークスはしかし、本人が罪を全て認めたため異例の速さで判決が下った。
オークスは終身刑になった。ナジーブラが寄付をしていた孤児院から里子に出された子供の行方を追って掴んだ少年への淫行の証拠、王妃自ら目撃する事になった売春、そして実の弟への暴行。
それだけの罪があっても、誰かの命を奪った訳ではなかったオークスは、最後の最後で死刑を免れた。これからオークスは生涯、生き恥を晒す事になる。或いは死刑よりも本人にとって辛い判決だったのかも知れない。
そして、とうとう大司教の番が回ってくる。
国の最高権力者が居ない今、大司教の裁判の最終判断は評議会の意見に大きく左右される。そのためにハインスと王妃が結託する必要がありそれを成した今、最早逆風は止んだと言える。
当日は王都の至るところにナジーブラの私兵が配置された。国民を楯に取らせないための策だ。そして、もし法廷から大司教が逃げ出そうものなら素早く大司教の身を拘束するためでもあった。
開廷すると、ハインスが罪状を読み上げていく。璃久の知っている裁判の仕組みや景色とは些か異なっているようだ。
城の一画にある広間がこの国の裁判所だ。広間の北側に卓を置いた壇上があってそこに裁判官が座っている。広い円卓には評議会の代表者たちが座り、そして召喚された大司教は円卓の南側に立たされた。両脇を騎士に固められているが、恐らく大司教の息のかかった騎士なのだろう。大司教の表情には焦りが感じられない。
満を持して大司教が法廷へと姿を現すと、ざわついていた空気が一瞬でひりついた。様々な立場の人間の様々な思惑が錯綜するその中心で、大司教は疑いを掛けられた者には相応しくない自信を放っていた。その存在は圧倒的で、ハインス派へ鞍替えした者たちの中には気圧されてしまったような表情を浮かべる者も居る。
とうとう年貢の納め時かという声も聞こえてくる。そうだ。もうこれ以上大司教に好きにさせてないけない。その思いを共にした者のうちの一人であるハインスの声が、法廷に朗々と響き渡る。
大司教の重ねた悪事はあまりにも膨大だった。オークスへの脅迫、評議会への賄賂、そして何より、約三十年前に端を発する吸血鬼の正義の無い弾劾と信徒を欺き続けてきた事実に、傍聴席に座る新聞社の人間が一斉にペンを走らせた。
ルークの屋敷の地下から通じていた教会に大聖堂とは別で囚われていた吸血鬼たちを解放する事に成功し、また璃久が説得して回った信徒たちから証言を得られたおかげで吸血鬼たちは寧ろ被害者であった事が明るみになったのだ。
大司教は最後までハインスの読み上げる罪状を黙って聞き終えると笑いながら大仰に拍手をした。すると誰かが「不敬であるぞ!」と叫び、大司教はますます笑みを深める。
「不敬? この場に置いて私は一体どなた様に敬意を示せば良いのでしょうか?」
言うに事欠き大司教は自らがこの中で最も地位が高いと主張した。
「吸血鬼が人の生き血を吸うのは紛れもない事実です! そのような悪しき存在を私はただ討伐するだけでなく、その体を利用して信徒を救いました。証言に立った者たちは、大切な人間の命が延びた事を私に感謝すべきなのです! そして――」
大司教は目を眇めて評議会とハインスを眺める。
「評議会の方々の中には私のおかげでその席に座っている者が居るのではありませんか?」
少なくない人数が、さっと大司教から視線を逸らした。
「何と恩知らずな方々でしょう。一体誰のおかげで上等な絹の服に身を包み、ワインを嗜んで、贅沢の限りを尽くせたのか。今一度我が身に問うべきでは? 放蕩していた王弟と私、一体どちらがあなた方にとって必要な王であるかを」
ハインスは公明正大な王となるだろう。だがそれでは困る者が評議会にも居るという事だ。
大司教が一席ぶつ事によってやましいものを抱える評議会の人間は想像させられた。大司教の次は自分こそがその罪を暴かれるのではないかと。社会的地位をなくし、財を取り上げられ、その腕には罪の石だけを抱えて水底に沈む――。
自らを王と宣っても、もはや誰からも糾弾の声が上がらない。ハインスが悔しげに歯噛みして、罪状を記した紙を握りつぶす。
傍聴する事しか出来ない璃久は、証人として連れてこられた信徒の後ろで立ち尽くす。誰か何か言ってくれと祈ったが、大司教を追求する誰かの言葉より先に裁判官のガベルが鳴った。カンカンと木槌が台を打ち鳴らし、衆目の視線を集めながら裁判官が沙汰を言い渡す。
「大司教を無罪放免と――」
「待ちたまえ!」
大司教の勝ちが確定しようかというその時、西側の扉が開け放たれて騎士に剣を向けられながら一人の男が法廷に姿を現した。
「ハック兄さん……」
ハインスの呟きは本人には届かずに消えていく。
「そこの裁判官は大司教に買収されている。証言もある! 大司教は裁判官の妻を吸血鬼に噛ませて、妻だけは『還命の儀式』をしなくても良いと言ってこの裁判で無罪にするよう吹き込んだ。証人は裁判官の妻本人さ!」
ハックの後ろから女性が審問官の騎士に支えられながら出てくると、裁判官はガベルを取り落とした。鈍い音を立てて床にぶつかり滑ってハインスの足元で止まる。それを拾ったハインスはガベルを鳴らしてなりふり構わず声を張り上げた。
「大司教に極刑を求める! 俺に賛同するものは席を立て!」
最初の一人は傍聴していた王妃だった。自分の夫を陥れた大司教を彼女は許さない。王妃に呼応するようにぞろぞろと王妃派が立ち上がると、ごく少ないハック派が続いて、ハインスに流れつつある無派閥が続いてと、大司教に極刑を求める票が次から次へと集まった。
最後には、この場に居る全員が起立していた。
五十はくだらない人間から自身の断罪を望まれ、大司教は震えるようにして笑い始める。腹の底から込み上げてくる笑い声は身の毛がよだつほどおぞましく、醜悪に歪めた顔で大声で笑った。
「良いでしょう! ならば実力行使に出るまで」
大司教が踵を返すと、大司教派ではない王が直接指揮を取る城内警備の騎士が一名駆け込んで来る。
「大変です! 城に押し入った賊に玉璽を強奪されました! 犯人は大司教派の騎士の一派です!」
ハインスの持ったガベルが怒りによって鳴らされる。
「やってくれたな……さっきまでの余裕な態度はそのための時間稼ぎもあったのか? 大司教を追え! 玉璽を持ち去ったなら、もう遠慮はいらない。殺してでも捕らえろ!!」
ハインスに従う一部の騎士とナジーブラの私兵が一斉に動き出す。
璃久はハインスが指示を飛ばすより一拍早く、法廷を飛び出していた。大司教を追って南側の扉を抜けて城下を目指す。
既に城内は戦闘状態に入っていた。同じ甲冑を身に着けた騎士同士が剣で争う光景がこの国の歪みを如実に描く。
璃久は間違っても刺されないために蝙蝠に姿を変えて一気に城の正門に向かったがどこにも大司教は見当たらない。隠し通路でもあったのか、或いは璃久の知らないルートを通って別の扉から逃げたのか。
一旦正門まで出ると、そこにはゴドウィン辺境伯が待機していた。辺境伯の前で減速して人間に戻って着地すると辺境伯は驚いていたがすぐに思考を切り替える。
「城下は駄目だ。噂を聞いて民衆の人だかりが出来てしまっとる。城の裏手に船を回してあるから、海から大司教を追え」
「でもどこに行ったか分からないんだ!」
「逃げるなら大聖堂だろう。大聖堂の建つ崖裏に船着き場があるのを知ってるか? あそこから海に逃げる可能性が高い。もちろん、海路側はうちの護衛団が見張っちゃいるが、ルークさんを取り返しに行きたいだろ?」
事情を伝えられていた辺境伯は璃久を先導して城の裏手にある小さな船着き場に回ると、自ら縄を切って小舟に乗り込んだ。璃久が舟に飛び移るのに手を貸して櫂で舟を漕ぎ出し、陸に沿って北西方面に進んでいく。
「どのくらいかかる?」
「一時間もかからん。それまで精神集中でもしてな。それとこいつは餞別だ。ナジーブラの奴が俺に預けていきやがった」
留め具がついた三角形の革の袋を軽く放り投げられて慌てて受け取った。ずしりとしっかりした重さのある中身は金属の塊のようだ。
「あいつが扱ってる品の中でも最高級品だそうだ。使い方は分かるか?」
留め具を外して袋の口を開けて中身を取り出し、璃久は危うくそれを取り落としかける。
「拳銃……!? こんなもん投げて寄越すなよ!!」
吠える璃久を見て辺境伯が笑う。戦闘で片腕を無くした男は伊達ではない。
「弾も火薬も込めてある。後は撃鉄を起こして引き金を引くだけ。最近の拳銃は随分小さくなったもんだ」
弾も火薬も入っているという事はつまりさっき辺境伯が投げた時に璃久が掴みそこねれば暴発が十分にありえたという事だ。寒気がした。
「弾は六発、打ち切ったら仕舞いだ」
銃に造詣は深くないが、璃久の世界の拳銃よりもずっと不便そうな形をしている事は分かる。予め弾薬が入っている弾倉を交換するだけで弾の補充が出来る拳銃は、璃久のイメージではグリップの底に蓋がついているがこれにはそれがない。銃身の下には用途不明の謎の細い鉄の棒がついており、それがなければもっと軽いのではないかと思ってしまう。
試しに真っ直ぐ片手で構えてみるが、十秒もすると腕が下がってきてしまう。あまりにも重い。水がパンパンに入った一リットルのペットボトルよりも重いくらいだ。
辺境伯は大聖堂に着くまでに銃の使い方を璃久に教えた。何度も構えを取っていると腕が疲れるからやめろと言われたが、こんなもので実際に人を撃てと言われても恐らく璃久は躊躇ってしまうだろう。これは、精々障害物を取り除くのに使うのが精一杯かも知れない。
「そろそろ見えてくるぞ」
波で抉られたように三日月型になった断崖の下に、ランプが吊るされた波止場が見えてくる。断崖の反対側である沖の方には何隻もの海賊船が見えた。これでは確かに海に逃げ出すのは難しい。先に停まっていた一艘の小舟はあまりに心許なく、大司教が海に逃げる可能性をほとんど消していた。
船首が岸壁にぶつかって止まると、岩と岩に渡した簀子のような場所に飛び移る。
「悪いが俺はこの腕じゃお荷物だ。そこの階段から上に行け。ナジーブラの私兵が待機してるはすだ。だが騎士と戦いになってるかも知れん。腹を括っていけ、リック」
しかと頷いて、崖上に続く階段を駆け上っていく。
もう少しでルークを救える。早く、早くと思うと躓きそうになりながら足を動かした。
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でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。
桜月夜
BL
前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。
思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

オッサン、エルフの森の歌姫【ディーバ】になる
クロタ
BL
召喚儀式の失敗で、現代日本から異世界に飛ばされて捨てられたオッサン(39歳)と、彼を拾って過保護に庇護するエルフ(300歳、外見年齢20代)のお話です。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

ポンコツアルファを拾いました。
おもちDX
BL
オメガのほうが優秀な世界。会社を立ち上げたばかりの渚は、しくしく泣いているアルファを拾った。すぐにラットを起こす梨杜は、社員に馬鹿にされながらも渚のそばで一生懸命働く。渚はそんな梨杜が可愛くなってきて……
ポンコツアルファをエリートオメガがヨシヨシする話です。
オメガバースのアルファが『優秀』という部分を、オメガにあげたい!と思いついた世界観。
※特殊設定の現代オメガバースです

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!


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