瑠璃色の吸血鬼は異世界で死を誓う

沖弉 えぬ

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19気付け薬

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 教会から戻ってきたルークの体はあまりに酷い傷を負っていた。もう思い出したくもない。
 璃久を拒む姿はあまりに憐れで、だけど本気のそれではないと璃久を跳ね返す弱々しい力が教えてくれていた。
 また、璃久の中で一つ不安が晴れていった。弱っているところにつけ込むようで自分を責める声も聞こえていたが、無視して良かったと思ってしまう。
 瑠夏は璃久の事をちゃんと好きだったのだ。
 あの時感じていた瑠夏からの気持ちが自分の勘違いではなかったと分かっただけで、七年かけて降り積もった疑心が払われていく。
 やはり言葉は必要だと実感した。璃久はあまり言葉を使うのが上手くないが、それでも伝えなくてはと思い、璃久も瑠夏を好きだったと言おうとしたらキスをされた。
 璃久は舞い上がった。自分の指でどうしても気持ち良くなってしまうルークの体を受け止めながら熱烈にキスをされて興奮しないなんてどうかしている。
 しかし、どうやらルークの中では何かが違っているようだった。ひたすら悲しそうに璃久に縋り「瑠夏の事を忘れて」と言うルークは酷く辛そうで、その言葉の意味を訊ねるのを許さないというようにキスで口を塞がれた。
 ルークは、瑠夏と重ねられるのをとても嫌がっている。はっきりとそう言われたわけではないが、瑠夏を褒めて自分を貶すのは、そういう気持ちが根底にあるからではないか。
 それとも、ルークは璃久に好意を寄せられたくなくて、しきりに瑠夏と自分を別の存在だと主張するのだろうか。
「駄目だ頭がこんがらがってきた……」
 それでどうしてキスという行動に繋がるのかまた分からなくなる。『悪魔の印』のせいだと言われたら身も蓋も無くなるが、仮にそうだったとしたら目が覚めた後でルークは昨晩の事を釈明しようとするだろうと思ったが、夕方に起きてきたルークは既に普段通りでまるで昨晩の事は忘れてしまったかのようだった。
 居間でテーブルを囲みながらの団欒が日常になりつつある。だが今日はとても団欒という空気ではない。アルブスが入れてくれた紅茶の中で無意味にティースプーンを揺らしてカップの縁を鳴らす。考える事が多すぎて砂糖を一匙入れてみたが、璃久は何も入れていない紅茶の方が好きだなとぼんやり思う。屋敷のキッチンにあった砂糖は溶けて固まってしまっていたので、この砂糖もハックが持ってきたのだが、今はそんな事にも気が回らない。
「……あー、そうだ。昨日、ハインスの所に行ってきたんだけどさ」
 辺境伯の事を報告した事、ナジーブラに会った事、そして指定の日にルークにも来て欲しいと言われた事をまとめて話す。
「王妃と王を娼館で会わせる? とんでもない事を思い付くな……」
 そうは言いながらもルークの顔に王妃への同情は見えない。
「王妃には気の毒だけど、手っ取り早いのはそうだね」
「お前も大概だな。俺は気の毒過ぎてハインスを止めるべきか悩んだってのに」
「だって、王妃だってある程度は夫の所業を知ってるはずだよ。同じ城で暮らしてるんだから。それを止めようとしてないって事は黙認してるんだ」
「……なるほど」
 城や王と言った世界が璃久には馴染みが無いので漠然と深窓の令嬢のような儚げな王妃を想像してしまっていた。絵本に出てくるピンクのドレスを着たいかにもな王妃は王妃というより恐らくお姫様で、自分の想像力の乏しさに軽く落ち込む。評議会の支持を一部得ているという事は、もっと逞しくて狡猾な感じだろうか。
「可哀想だとは思うよ。でも可哀想だと同情してこのままにしていれば、いつか国は大司教の手に落ちて国はめちゃくちゃだ。いやもう既にめちゃくちゃなんだよ。だから王妃の目を覚まさせるには丁度良い刺激なのかも」
 要約するとルークもハインスに同意で、王妃にとってこれは果たすべき責務というやつのようだ。それでも気の毒なのはやはり変わらないが。
 娼館での事を話し終えると居心地の悪い沈黙が流れる。以前のすぐにギスギスしてしまっていた頃はルークの事を恨んでいたので、璃久の怒りに触れないよう気を遣うルークを見てどこか胸のすく感覚があった。だが今はただただ重苦しく、どうにか払拭したいと頭を悩ませる。自分勝手な事だが、もうルークとは気まずくなりたくない。しかしそう思うのは璃久だけらしい。アルブスが居るので昨晩の話を持ち出す訳にはいかないが、ルークの態度を見る限りそもそも話題にしてほしく無さそうなのだ。
 ぼうっとそんな事ばかり考えているとアルブスが控えめに「リック様」と声を掛けた。
「紅茶がこぼれてしまっています」
「え? あ! 悪いアルブス、せっかく入れてくれたのに」
 つい考え事に夢中になるあまり、手が無意識にスプーンを回して紅茶の水滴が周りに飛び散っていた。
 アルブスが持ってきてくれた布巾を使ってソーサーとその周りを拭いていると「何かお悩みですか?」とアルブスが訊ねてくれる。話せたらなぁとは思うものの内容が内容だけに、少年の外見をしたアルブスには話すのは気が咎めた。
 そんなやり取りをしている横でルークは心ここにあらずの様子で肘掛けに凭れていた。まだ傷も痛むだろうし無理もないが、少なくともいつも通りに戻ったわけではない事は確かだった。



 悩みは解消されなくとも時は無情に過ぎていくものである。璃久はよくよくそんな経験を七年も続けてきたので問題は放っておいても無くならない事を身に沁みて理解していた。
 外はすっかり冬めいて裸の枝に残った一枚の黄色い葉が寒々しく木枯らしに吹かれている。見張りの騎士たちも厚手のコートを羽織るようになった。璃久がこの世界に来た時は屋敷のすぐ傍にある楓がまだ紅葉が始まったくらいの季節だったので、恐らく二ヶ月以上が経っている。
 しかし問題は中々尽きてはくれない。
『延命の儀式』に騙されて吸血鬼になってしまった信徒たちの説得は今も続けている。彼らには大司教を裁くための証人になってもらうのだ。
 ハインスの所は言わずもがな、辺境伯の所にも丸一日かけて何度か璃久一人で足を運んだ。おかげで町の歩き方が少しずつ分かってきたところだ。辺境伯と良い関係を築いている海の護衛団、その正体である海賊とも話がついていた。大司教を海に逃がさないために包囲網を築き、万が一にも海軍を動かされた時に応戦するための戦力になってくれる。海賊と一口に言っても船ごとに毛色が違うようで海の護衛団に乗る水夫は善良なのだそうだ。
 そうして少しずつ場が整っていく一方で、璃久とルークの距離は縮まらないままだった。これが一番の悩みの種だった。ルークが璃久を避けているのだ。
 何度か教会から戻った時にまた体を洗わせてくれと言ってみたが案の定頑なに断られて、関係はますます悪化した。
 どこで間違えたのかを考えるとやはり瑠夏の事に辿り着く。彼はどこまでも璃久の事を振り回してくれるらしい。だがそれは同時にルークの事でもあるのだ。璃久はルークに振り回されている。仕方がない。惚れた弱みというやつだ。
 璃久はもう、ルークへの気持ちを自覚し、認めていた。ルークから解放される事など彼の胸に抱かれて大泣きした日に諦めていた。大の男が七年抑えつけてきた弱音を容易く吐き出させたのだから、後にも先にもルーク以上に心を預けられる相手はいないと自信を持って断言出来る。
 大泣きしたあの日から丁度鏡が反転しているように、強がっていた璃久の心は表に返った。そしてルークの体を洗った日、瑠夏が璃久の事を好きだったと分かった日に、璃久は観念した。
 ルークが好きだ。
 だけど今のルークにそれを伝えたところで、璃久の想いを真っ直ぐ受け取ってもらえないのがひしひしと感じられて、璃久は参っていた。フラれるにしても、勘違いされたままフラれたのでは納得出来ないだろう。
 そも話をしようにも上手く避けられて、手の打ち様が無かった。
 そうして璃久が煩悶する日々を送っている間にとうとう王妃を娼館に呼ぶ日がやってきた。
 ハックに見張りの騎士を無くしてもらい、蝙蝠姿でルークの肩に留まって屋敷を出る。
 ハックに関しても随分甲斐甲斐しい奴だと感心する。ルークの望んだ事のほとんどを叶えながらルークを手篭めにするでもなくほんのひととき会話して、ルークに笑顔で感謝されるだけで満足しているのである。博田という嘗てのクラスメイトの事を思い出しながら、きっと一生童貞なんだろうなと下世話な事を考えた。



 満月が空の真上にくる頃に、その女は馬車に乗って現れた。目隠しはしなくて良いのかと問うとハインスは「客じゃねぇしな」とどうでも良さそうに言う。
 娼婦が襲われる時、客の男が犯人であるケースが大半だそうだ。黒い布を客に被せるのはそうした犯罪から娼婦を守るためと、これから女を買ってやましい事をするという背徳感と高揚感を煽るためのちょっとした余興だそうだ。しかしそれがウケているそうなので、ハインスには案外商才があるのかも知れない。
 馬車を降りて姿を見せた王妃は三十代後半くらいに見えた。実年齢は三十五なので当たらずとも遠からずだが、老けて見えてしまったのは苦労が絶えないせいだろう。
 娼館一階のホールで直に顔を合わせると、王妃はやおらドレスを広げて挨拶をする。身に着けている物が物なのでそれだけで上品に見えるが、そうでなくとも綺麗な人だ。緩いカーブのある栗色の髪が華やかでよく似合っている。それだけに影があってどこか疲れたように見えるのが惜しい。
「お招きありがとう、と言うべきかしら? 久しぶりねハインス」
「お久しぶりですカレン王妃」
 一言交わしただけだったが、二人の関係がさほど良くは無かった事がうかがえた。
「見せたい物があると聞いたわ。何かしら?」
 単刀直入なところを見る限り、王妃はあまり長居したくない様子だ。従者も付けずに一人で、という条件を飲んでここに居るだけでもほとんど奇跡のような状況なので仕方がないだろう。ハインスが掛けてくれと椅子を引いたが、首を振って断った。
「その前に、これを」
 ハインスは、王妃に紙を渡した。中にはオークスのこれまでの非人道的な行いが大まかに記されている。璃久とルークも確認したものだ。
 オークスは嘗てある男を大司教に唆されて犯した。以来、孤児の少年を同様にし、また月に一度、娼館に女を買いに訪れる。オークスが璃久のようなどこにでも居るごく普通の男なら、風俗で遊んでいようが罪にはならない。だが、王族は暮らしの全てが国税で賄われている。民の血税が、王の夜遊びに使われるなどあってはならない事だ。
 読んでいくうちに王妃はみるみる顔色を悪くさせていった。しかし取り乱したりするような事もなく案外冷静に言い返してくる。
「これが本当なら王は民を裏切った事になります。しかし、証拠は無いのでしょう?」
 王妃の言葉を聞いて璃久はなるほどと得心する。確かに彼女には少々気付け薬が必要なようだ。
 夫の痴情を書き連ねた文書を読んで即座に言い返してくる気丈さはやはり璃久の思い描いていた王妃像とはかけ離れている。少年を連れ込み女を買いに来る王の噂などとっくに評議会に広まっているのだろうが、それを王妃が庇っている構図が璃久の頭に浮かんだ。
「証拠も証言もある。あの男はもう言い逃れを出来る段階じゃあないんですよ、カレン様。それから見せたいものですが……」
 こちらへ、と言って手を差し出し紳士然と振る舞うハインスは様になっていた。璃久たちと初めて会った時もやたら芝居がかった仕草をしていたのを思い出す。ハインスは顔が物凄く整っているというわけではないのだが、生まれ持った華があるのだ。それは訓練や勉強で身につけられるものではなく、璃久の世界では『カリスマ性』と言われるものだ。人の目を自然と引き付ける不思議な魅力がある。
 しかし王妃はハインスの差し出した手を無視して一人で階段を上がっていく。ハインスは一気につまらない顔をして王妃の後ろ姿を睨んだ。そういうところはまだまだお子様だ。それが消えて隙がなくなれば、彼は強い王になれるだろう。
 ハインスは王妃をある一室へ連れて行くと、いつか自分がしたように、王妃にクローゼットへ隠れろと言った。中はハインスが隠れた時とは違い全て片付けて空っぽになっている。そしてお誂向きに取っ手の傍に覗き穴が開けてあった。
「こ、こんな辱めを受けるなんて! 何年も遊蕩して頭がおかしくなったのではなくて!」
「辱めだって? その言葉の意味をこれからきちんと教えてやるよカレン様。ほら見ろよ」
 ハインスが窓を顎で示すと、王妃はハインスを警戒しながらも窓の外に目を向ける。
 窓の下には黒い目隠し用の布を被った男がどこからともなく連れて来られるところだった。王妃には男の体格だけで、それが誰なのか分かってしまったらしい。手袋を付けた手で口元を覆い驚愕に目を剥いている。
「見るんだよ、あんたの夫がどれだけ情けない男なのかをな」
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