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10信徒の家へ
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ルークとアルブスが暮らす屋敷には二人の騎士が見張りにつけられている。それは吸血鬼が眠っているはずの昼間でも外される事はない。大司教に呼ばれない日であっても必ず日に一度は屋敷の中に二人が留まっているかを確認に来るのだ。なるほどこれではルークたちは外に協力を仰ぐわけにはいかない。
そこで璃久の出番だ。まだ日が昇り始める前の時間に蝙蝠の姿となって屋敷を抜け出すと、『還命の儀式』つまり一年という期限が近付いている信徒の家を訪ねて璃久が儀式の真実を明かすのだ。
延命が起きる仕組みと何故一年という期限が設けられるのか、それらを信徒に詳らかに話して大司教の信用を失わせるのが目的だ。
ルークに聞かされた計画は不安だらけだった。まず信徒の家に直接訪ねるという体当たりな方法を取るしかないルークの孤立無援ぶりが彼の差し迫った状況を説明しており、璃久はもう少し計画を練るべきではないかと思った。二の足を踏みそうになった璃久が結局ルークの計画のまま行動に移した理由は、どうせこの後も似たよう状況が続くのだろうと思ったからだ。
どこにも味方が居ない。それは璃久にはあまりにも馴染みがあり過ぎる感覚だった。味方が居なければ、自分で動くしかないのだ。
それをルークはよく理解していた。だから自分の使えるものは何でも使う。吸血鬼の存在を明かす事で信徒から大司教の信頼を失わせる事が出来るのなら、或いは逆に疑いを掛けられるリスクを取ってでも、自分たちの事を話してほしいとルークは言った。
璃久としては騎士を呼ばれたりしても蝙蝠になって逃げるだけでいい。屋敷に大司教の手の者が来ても、璃久は存在を知られていないのでやはり逃げるのはそう難しくないだろう。
璃久にはルークほど背負うリスクが無い。協力する立場として冷たいかも知れないが、それでもリスクの低さは璃久の足取りをいくらか軽くしてくれた。
昼を待ち、物陰で人間の姿に戻った璃久はとある民家の戸を叩く。
もはや神ではなく大司教を崇めていそうな信徒を相手に璃久がどこまで一人で立ち回れるか不安に思いながら、玄関から出て来た女性に笑顔を作ってみせた。
「……あの?」
残念ながら七年もの間他人との交流を最低限にしてきた璃久の笑顔は引き攣っており、信徒を怯えさせるだけだった。
笑顔はやめて、とにかく真摯な態度を作って、『ジィス教団』の聖職者を騙ってひとまず中に入れてほしいと訴えると、女性は訝しみながらも扉を大きく開けてくれた。
予想はしていた事だが、ルークの屋敷と比べるべくもなく粗末な家は、穴の開いた床が放っておかれ、どちらかと言えば背が高い部類の璃久は梁を潜るようにして奥に進む必要があった。竈の傍にある食器はどれも欠けたものばかりが棚に仕舞われずにテーブルの上に重ねてあり、見えるもの全てが「まだ使えるから使っている」という体裁のものばかりで、『延命の儀式』を施してもらうために相当身を削ってきたのがうかがえる。
この辺りは国の中でも貧困が目立つ地域なのだそうだ。
一つの空間に竈もテーブルもタンスもベッドも全部押し込んだその一番奥に、ベッドに眠る人影を見つける。いきなり一人で異世界の外を歩くというハードルの高さに及び腰になっていたが、苦しげに咳き込む声を聞いて気弱は引っ込んだ。
「単刀直入にお話します。『還命の儀式』から、逃れたくはありませんか?」
女性はさっと顔色を変えてベッドの前に立ちはだかるようにして移動する。
「待って、その、落ち着いて話を聞いてください」
一年という期限は、命の期限ではない。体が弱った眷属が正気を確実に保てる期限でしかなく、血さえ与えれば飢餓に狂う事無く寿命を全うする事が出来るのだ。
吸血鬼であっても病に完全に打ち克つ事は出来ず、死病はやはり死病のままだそうだ。だが、約束されていた期限よりも長く家族が生きていく様を目の当たりにすれば、信徒たちとて大司教を疑わざるを得なくなるだろう。
或いは、残酷だが大司教を疑って『還命の儀式』をただすっぽかしてくれるだけでも良い。それで飢餓によって暴れ出した身内を見れば、信徒も大司教への見方を変えるだろう。
大司教と教団を疑うためのきっかけを与えるのが璃久の仕事だ。
それを実行するために、ルークは『吸血鬼』の存在を明かしてほしいと言っていた。『延命の儀式』の仕組みを説明して構わないという。
「その、あー……吸血鬼を知ってるか?」
璃久が急に砕けた態度に変わったので、女性はますます璃久を怪しんだが、変にキャラクターを演じるよりも素のままの方が上手くいくような気がしたのだ。というより、別人のように振る舞うと単純に言葉が出てこなかった。
「俺は、吸血鬼に噛まれた。それで眷属になった半吸血鬼なんだけど、そこで寝てるあなたの家族も、俺と同じ状態のはずなんだ」
やはり馴染まないな、と思う。吸血鬼だの眷属だのそんな事がありえてたまるかと思うのに、蝙蝠の姿になって飛べる事やこの世界に来て血と水以外の物を口にせずとも活動し続けられている璃久が皮肉にも生き証人だった。
だからこそ、ベッドで苦しげに咳を繰り返している『延命の儀式』の被害者が血を飲むだけである程度息を吹き返す事も、感覚的なところで理解出来てしまえるのだ。
「吸血鬼なんて冗談、よして下さい」
女性は疲れたように言って、頭から毛糸のカーチフを外してベッドの傍の椅子に座り込む。
「吸血鬼は大司教様が、『ジィス教団』の人たちが討伐したんです。私が生まれた頃の話です。今はどこにも吸血鬼なんて居ません」
生まれた頃、と心の中で呟く。見たところ女性は二十代後半くらいだ。
そんなに昔からルークは大司教に囚われていたのだ。璃久の前に瑠夏として現れた頃にはもう、とっくに。
ここで感傷的になる訳にはいかないと、拳を握り込む。
「俺だって信じられなかった。でも自分の体で確かめたら、信じるしかなかった」
璃久は視線を巡らし欠けた陶器の皿を竈の横から持って来る。何を、と戸惑う女性の言葉を無視して皿の上に手首を置くと、腰に佩いていた短いナイフを取り出して肌に刃を押し当てた。よく研がれたナイフはそれだけで肌を切り裂き、玉のような血をぷつぷと溢れさせる。皿の上にスプーン一杯程度の血が溜まると、璃久に持たされていたハンカチで傷を圧迫する。
「……これを、そこの人に飲ませてくれ。数日すればあなたの目でも分かるくらい違いが表れるはずだ。でもよく考えてからにしてくれ。吸血鬼になっても病が治る訳じゃない。血を飲んでなまじ体力を取り戻せば、その分苦しむ時間が長引く事にもなる」
他人がナイフで自分を傷付けるところを見てしまい、女性は血の気の引いた顔で絶句していた。申し訳ない事をしてしまったと思うが璃久にはこうする他に思いつかなかった。ルークならもっと言葉巧みに女性の気持ちを宥めながら上手く取り入ったのかも知れない。
また来ると言って家を出て、人の目が周囲に無い事を確認してから蝙蝠の姿になったところで気付いてしまった。最初からこの姿を見せれば良かったのだと。肺に疾患のありそうな浅く繰り返される喘鳴を聞いていたせいで、病を何とかしてやりたいという方向に気持ちが引っ張られてしまったようだ。
「営業職でもやっとけば良かったかな」
詮無い事をひとりごちて次の家に向かう。
せっかく助かったのにどうして一年のうちにまた大切な家族を失う悲しみを、それも自ら神に捧げるような形で味わわなくてはならないのか。そんな苦しみに葛藤していた信徒は思いの外多く、璃久の拙い言葉選びでも真剣に耳を傾けてくれる人は多かった。
五、六軒ほど回ったところで日が暮れ始めたので、地図を確かめながら屋敷の方へ歩き出した時だった。
「なぁあんた、ちょっと待ってくれよ」
たった今訪ねたばかりの家の男だった。四十くらいの壮年の男は息子が『延命の儀式』の犠牲者だ。今日回った家の中で一番反応が芳しくなかった家でもある。少し離れたところで玄関の前に男の妻が立ってこちらの様子をうかがっている。
「あんたも吸血鬼だってんならよ、その血がたくさんあれば息子は治るんじゃないか?」
男の息子は足に負った傷が原因で日に日に弱っていったそうだ。璃久の考えだが恐らく傷から細菌が入ったのだろう。早い段階で傷のある足を切除する判断をしていればもしかしたら大司教を頼らずに済んだのかも知れないが、男は五体満足である事にこだわり息子の傷を悪化させてしまった。
確かに病気と比べれば怪我の方が回復の見込みがあるかも知れないが、それとは別に男は何か少し誤解しているようだ。吸血鬼の血を飲むと病や怪我が治るのではなく、吸血鬼にとって血が栄養となるから血を摂取する事で治りやすくなるのだ。が、それを説明して聞いてくれそうな雰囲気ではない。端から璃久の意見を求めておらず、散々無視されてきた璃久にとって苦手なタイプだった。
嫌な感じだと思いつつ、少しでも多く血を分けて納得してもらおうと踵を返した瞬間、男は突然走り出して璃久の腹を殴ってきた。
――いや、違う。これは、刺されたんだ。
「ぐ……ぅっ」
ベランダの五階から飛び降りた経験はあっても他人に腹を刺された経験などなくて俄かに混乱する。
「血どころか肉にも何か効果があるんじゃないか? なぁ隠すなよ。人助けがしてぇんだろうが偽善者がよぉ!!」
逆上した男は理屈の通らない事を叫ぶ。
「あと数日で神に命を還すだって!? ふざけんなよ……あんたらのせいで息子は死ぬんだ!!」
『璃久くんのせいらしいよ』
正体の無い声が、璃久の頭の中でした。その瞬間から腹の痛みさえも分からなくなって、目の前が真っ暗になっていく。
女が必死になって叫ぶ声が聞こえて少しだけ現実に意識が引き戻される。男の妻が璃久の腹を刺した自分の夫をどうにか止めようとしていた。止めるなら、そもそも言いがかりをつける前に止めてほしかった。
騒ぎに気付いた付近の人たちが何人か外へ出てきて男を璃久から引き剥がしてくれる。その時にはもう夥しい出血で地面に血溜まりが出来ていた。
全部自分の体から出たものだと思うと怖くなる。頭の中ではまだ璃久を責める声がしていて、とてもではないが自力で手当て出来るような状況ではない。
やがてすぐに意識は闇へと落ちていった。
次に目が覚めた時にはとっぷりと日が暮れた後だった。璃久が聖職者の格好をしていたおかげで信徒の家に助けられ、腹の傷もきちんと縫われて治療が施されていた。
助かったと思ったが、治療薬に乏しいこの世界で負う傷はあまりにも耐えがたい苦痛となって璃久を襲う。しかし長くここに留まるわけにはいかなかった。早くルークの所に戻らなければ心配をかけてしまう。
――心配?
璃久は自分のおめでたい思考を笑った。
心配しようがしまいが璃久があの男を気遣ってやる必要がどこにある。全てを話せと言っても未だ瑠夏の死んだ理由を話さず、瑠夏がルークだったのかもよく分からないままだ。それさえ分かってしまえば、璃久はもうルークにも瑠夏にも縛られずに済むのに。
むしゃくしゃしてくるとそれが原動力になった。さっさと奇妙な協力関係を終わらせてすっきりしたい。
痛む腹を庇いながら苦労して体を起こし、脱がせてあったブーツに足を通す。
「傷の治療、助かった。俺は金を持ってないからこのナイフを売って足しにしてもらえないか?」
柄に細かな模様が彫ってあり、宝石のような色付きの小さい石がはめ込まれたダガーナイフだ。値打ちは分からないがいくらかにはなるだろうと思って差し出すと医者はとんでもないと言って首を振る。聖職者は無償で神の教えを説いてくれるのだから、民もまた聖職者には無償で尽くすのが当然だと言われてしまう。しかし聖職者を騙っている璃久はその相互扶助の枠には当てはまらない。
上手い言い訳も思いつかずとにかく近隣を騒がせた迷惑料だと思って受け取ってほしいと強引に押し付けて家を出て来た。
一歩ごとにズキズキと痛みが走る腹を押さえながら楓の木が林立した林の中に入り蝙蝠に変身する。地図を頭に思い描きふらふらと今にも落ちそうになりながら飛んで、ほどなくして二階建ての立派な豪邸を見つけると二階の部屋に窓から飛び込んだ。
普段璃久が使っている部屋だが、そこにはルークが椅子に座って待っていた。その姿を見てどうしようもなく安心してしまった。力が抜けてふわりと下降していく。
「お帰り。遅かったね。もしかして道に迷った?」
羽ばたく力もなく落ちるようにして着地し人間の姿に戻ると、ルークがぎょっとして駆け寄ってくる。
「璃久!?」
「ベッドまででいい。肩を貸してくれ」
呻くような声で言ってルークの肩を借りてベッドに転がると、もう瞼を開ける事すら億劫で、何かを問いたげなルークの気配を無視して眠ってしまう事にした。
そこで璃久の出番だ。まだ日が昇り始める前の時間に蝙蝠の姿となって屋敷を抜け出すと、『還命の儀式』つまり一年という期限が近付いている信徒の家を訪ねて璃久が儀式の真実を明かすのだ。
延命が起きる仕組みと何故一年という期限が設けられるのか、それらを信徒に詳らかに話して大司教の信用を失わせるのが目的だ。
ルークに聞かされた計画は不安だらけだった。まず信徒の家に直接訪ねるという体当たりな方法を取るしかないルークの孤立無援ぶりが彼の差し迫った状況を説明しており、璃久はもう少し計画を練るべきではないかと思った。二の足を踏みそうになった璃久が結局ルークの計画のまま行動に移した理由は、どうせこの後も似たよう状況が続くのだろうと思ったからだ。
どこにも味方が居ない。それは璃久にはあまりにも馴染みがあり過ぎる感覚だった。味方が居なければ、自分で動くしかないのだ。
それをルークはよく理解していた。だから自分の使えるものは何でも使う。吸血鬼の存在を明かす事で信徒から大司教の信頼を失わせる事が出来るのなら、或いは逆に疑いを掛けられるリスクを取ってでも、自分たちの事を話してほしいとルークは言った。
璃久としては騎士を呼ばれたりしても蝙蝠になって逃げるだけでいい。屋敷に大司教の手の者が来ても、璃久は存在を知られていないのでやはり逃げるのはそう難しくないだろう。
璃久にはルークほど背負うリスクが無い。協力する立場として冷たいかも知れないが、それでもリスクの低さは璃久の足取りをいくらか軽くしてくれた。
昼を待ち、物陰で人間の姿に戻った璃久はとある民家の戸を叩く。
もはや神ではなく大司教を崇めていそうな信徒を相手に璃久がどこまで一人で立ち回れるか不安に思いながら、玄関から出て来た女性に笑顔を作ってみせた。
「……あの?」
残念ながら七年もの間他人との交流を最低限にしてきた璃久の笑顔は引き攣っており、信徒を怯えさせるだけだった。
笑顔はやめて、とにかく真摯な態度を作って、『ジィス教団』の聖職者を騙ってひとまず中に入れてほしいと訴えると、女性は訝しみながらも扉を大きく開けてくれた。
予想はしていた事だが、ルークの屋敷と比べるべくもなく粗末な家は、穴の開いた床が放っておかれ、どちらかと言えば背が高い部類の璃久は梁を潜るようにして奥に進む必要があった。竈の傍にある食器はどれも欠けたものばかりが棚に仕舞われずにテーブルの上に重ねてあり、見えるもの全てが「まだ使えるから使っている」という体裁のものばかりで、『延命の儀式』を施してもらうために相当身を削ってきたのがうかがえる。
この辺りは国の中でも貧困が目立つ地域なのだそうだ。
一つの空間に竈もテーブルもタンスもベッドも全部押し込んだその一番奥に、ベッドに眠る人影を見つける。いきなり一人で異世界の外を歩くというハードルの高さに及び腰になっていたが、苦しげに咳き込む声を聞いて気弱は引っ込んだ。
「単刀直入にお話します。『還命の儀式』から、逃れたくはありませんか?」
女性はさっと顔色を変えてベッドの前に立ちはだかるようにして移動する。
「待って、その、落ち着いて話を聞いてください」
一年という期限は、命の期限ではない。体が弱った眷属が正気を確実に保てる期限でしかなく、血さえ与えれば飢餓に狂う事無く寿命を全うする事が出来るのだ。
吸血鬼であっても病に完全に打ち克つ事は出来ず、死病はやはり死病のままだそうだ。だが、約束されていた期限よりも長く家族が生きていく様を目の当たりにすれば、信徒たちとて大司教を疑わざるを得なくなるだろう。
或いは、残酷だが大司教を疑って『還命の儀式』をただすっぽかしてくれるだけでも良い。それで飢餓によって暴れ出した身内を見れば、信徒も大司教への見方を変えるだろう。
大司教と教団を疑うためのきっかけを与えるのが璃久の仕事だ。
それを実行するために、ルークは『吸血鬼』の存在を明かしてほしいと言っていた。『延命の儀式』の仕組みを説明して構わないという。
「その、あー……吸血鬼を知ってるか?」
璃久が急に砕けた態度に変わったので、女性はますます璃久を怪しんだが、変にキャラクターを演じるよりも素のままの方が上手くいくような気がしたのだ。というより、別人のように振る舞うと単純に言葉が出てこなかった。
「俺は、吸血鬼に噛まれた。それで眷属になった半吸血鬼なんだけど、そこで寝てるあなたの家族も、俺と同じ状態のはずなんだ」
やはり馴染まないな、と思う。吸血鬼だの眷属だのそんな事がありえてたまるかと思うのに、蝙蝠の姿になって飛べる事やこの世界に来て血と水以外の物を口にせずとも活動し続けられている璃久が皮肉にも生き証人だった。
だからこそ、ベッドで苦しげに咳を繰り返している『延命の儀式』の被害者が血を飲むだけである程度息を吹き返す事も、感覚的なところで理解出来てしまえるのだ。
「吸血鬼なんて冗談、よして下さい」
女性は疲れたように言って、頭から毛糸のカーチフを外してベッドの傍の椅子に座り込む。
「吸血鬼は大司教様が、『ジィス教団』の人たちが討伐したんです。私が生まれた頃の話です。今はどこにも吸血鬼なんて居ません」
生まれた頃、と心の中で呟く。見たところ女性は二十代後半くらいだ。
そんなに昔からルークは大司教に囚われていたのだ。璃久の前に瑠夏として現れた頃にはもう、とっくに。
ここで感傷的になる訳にはいかないと、拳を握り込む。
「俺だって信じられなかった。でも自分の体で確かめたら、信じるしかなかった」
璃久は視線を巡らし欠けた陶器の皿を竈の横から持って来る。何を、と戸惑う女性の言葉を無視して皿の上に手首を置くと、腰に佩いていた短いナイフを取り出して肌に刃を押し当てた。よく研がれたナイフはそれだけで肌を切り裂き、玉のような血をぷつぷと溢れさせる。皿の上にスプーン一杯程度の血が溜まると、璃久に持たされていたハンカチで傷を圧迫する。
「……これを、そこの人に飲ませてくれ。数日すればあなたの目でも分かるくらい違いが表れるはずだ。でもよく考えてからにしてくれ。吸血鬼になっても病が治る訳じゃない。血を飲んでなまじ体力を取り戻せば、その分苦しむ時間が長引く事にもなる」
他人がナイフで自分を傷付けるところを見てしまい、女性は血の気の引いた顔で絶句していた。申し訳ない事をしてしまったと思うが璃久にはこうする他に思いつかなかった。ルークならもっと言葉巧みに女性の気持ちを宥めながら上手く取り入ったのかも知れない。
また来ると言って家を出て、人の目が周囲に無い事を確認してから蝙蝠の姿になったところで気付いてしまった。最初からこの姿を見せれば良かったのだと。肺に疾患のありそうな浅く繰り返される喘鳴を聞いていたせいで、病を何とかしてやりたいという方向に気持ちが引っ張られてしまったようだ。
「営業職でもやっとけば良かったかな」
詮無い事をひとりごちて次の家に向かう。
せっかく助かったのにどうして一年のうちにまた大切な家族を失う悲しみを、それも自ら神に捧げるような形で味わわなくてはならないのか。そんな苦しみに葛藤していた信徒は思いの外多く、璃久の拙い言葉選びでも真剣に耳を傾けてくれる人は多かった。
五、六軒ほど回ったところで日が暮れ始めたので、地図を確かめながら屋敷の方へ歩き出した時だった。
「なぁあんた、ちょっと待ってくれよ」
たった今訪ねたばかりの家の男だった。四十くらいの壮年の男は息子が『延命の儀式』の犠牲者だ。今日回った家の中で一番反応が芳しくなかった家でもある。少し離れたところで玄関の前に男の妻が立ってこちらの様子をうかがっている。
「あんたも吸血鬼だってんならよ、その血がたくさんあれば息子は治るんじゃないか?」
男の息子は足に負った傷が原因で日に日に弱っていったそうだ。璃久の考えだが恐らく傷から細菌が入ったのだろう。早い段階で傷のある足を切除する判断をしていればもしかしたら大司教を頼らずに済んだのかも知れないが、男は五体満足である事にこだわり息子の傷を悪化させてしまった。
確かに病気と比べれば怪我の方が回復の見込みがあるかも知れないが、それとは別に男は何か少し誤解しているようだ。吸血鬼の血を飲むと病や怪我が治るのではなく、吸血鬼にとって血が栄養となるから血を摂取する事で治りやすくなるのだ。が、それを説明して聞いてくれそうな雰囲気ではない。端から璃久の意見を求めておらず、散々無視されてきた璃久にとって苦手なタイプだった。
嫌な感じだと思いつつ、少しでも多く血を分けて納得してもらおうと踵を返した瞬間、男は突然走り出して璃久の腹を殴ってきた。
――いや、違う。これは、刺されたんだ。
「ぐ……ぅっ」
ベランダの五階から飛び降りた経験はあっても他人に腹を刺された経験などなくて俄かに混乱する。
「血どころか肉にも何か効果があるんじゃないか? なぁ隠すなよ。人助けがしてぇんだろうが偽善者がよぉ!!」
逆上した男は理屈の通らない事を叫ぶ。
「あと数日で神に命を還すだって!? ふざけんなよ……あんたらのせいで息子は死ぬんだ!!」
『璃久くんのせいらしいよ』
正体の無い声が、璃久の頭の中でした。その瞬間から腹の痛みさえも分からなくなって、目の前が真っ暗になっていく。
女が必死になって叫ぶ声が聞こえて少しだけ現実に意識が引き戻される。男の妻が璃久の腹を刺した自分の夫をどうにか止めようとしていた。止めるなら、そもそも言いがかりをつける前に止めてほしかった。
騒ぎに気付いた付近の人たちが何人か外へ出てきて男を璃久から引き剥がしてくれる。その時にはもう夥しい出血で地面に血溜まりが出来ていた。
全部自分の体から出たものだと思うと怖くなる。頭の中ではまだ璃久を責める声がしていて、とてもではないが自力で手当て出来るような状況ではない。
やがてすぐに意識は闇へと落ちていった。
次に目が覚めた時にはとっぷりと日が暮れた後だった。璃久が聖職者の格好をしていたおかげで信徒の家に助けられ、腹の傷もきちんと縫われて治療が施されていた。
助かったと思ったが、治療薬に乏しいこの世界で負う傷はあまりにも耐えがたい苦痛となって璃久を襲う。しかし長くここに留まるわけにはいかなかった。早くルークの所に戻らなければ心配をかけてしまう。
――心配?
璃久は自分のおめでたい思考を笑った。
心配しようがしまいが璃久があの男を気遣ってやる必要がどこにある。全てを話せと言っても未だ瑠夏の死んだ理由を話さず、瑠夏がルークだったのかもよく分からないままだ。それさえ分かってしまえば、璃久はもうルークにも瑠夏にも縛られずに済むのに。
むしゃくしゃしてくるとそれが原動力になった。さっさと奇妙な協力関係を終わらせてすっきりしたい。
痛む腹を庇いながら苦労して体を起こし、脱がせてあったブーツに足を通す。
「傷の治療、助かった。俺は金を持ってないからこのナイフを売って足しにしてもらえないか?」
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上手い言い訳も思いつかずとにかく近隣を騒がせた迷惑料だと思って受け取ってほしいと強引に押し付けて家を出て来た。
一歩ごとにズキズキと痛みが走る腹を押さえながら楓の木が林立した林の中に入り蝙蝠に変身する。地図を頭に思い描きふらふらと今にも落ちそうになりながら飛んで、ほどなくして二階建ての立派な豪邸を見つけると二階の部屋に窓から飛び込んだ。
普段璃久が使っている部屋だが、そこにはルークが椅子に座って待っていた。その姿を見てどうしようもなく安心してしまった。力が抜けてふわりと下降していく。
「お帰り。遅かったね。もしかして道に迷った?」
羽ばたく力もなく落ちるようにして着地し人間の姿に戻ると、ルークがぎょっとして駆け寄ってくる。
「璃久!?」
「ベッドまででいい。肩を貸してくれ」
呻くような声で言ってルークの肩を借りてベッドに転がると、もう瞼を開ける事すら億劫で、何かを問いたげなルークの気配を無視して眠ってしまう事にした。
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