9 / 25
9大司教の狙い
しおりを挟む
『もういい分かった。お前は俺を恨んでたのかも知れない。でも俺は、何も知らなかった。許してくれ。頼むから、もう死なせてくれ』
酷く疲れ切った様子で吐き出された言葉にルークはショックを受けた。
二十四という若さで死なねばならなかった彼の人生が決して楽なものではない事くらい想像が出来たが、璃久は激しく瑠夏の事を憎んでいた。璃久はまだ生きているのだという事実は彼に希望を与えるどころか疲弊を加速させるだけだった。
離れていた七年の間に何があったのだろう。だけど璃久には訊いたところでまともに答えてくれないような雰囲気が漂っていた。璃久はルークの事を拒絶していた。
勝手に異世界に呼んでしまった事への責めはあるだろうと覚悟していたけれど、想像を上回る嫌われぶりにはルークも困惑した。それでも彼をこちらへ呼んだ責任を果たすため、そして目的を達成するために、彼の正義感に付け入るようにこの世界の事を説明していった。
その一方で、憎悪の感情を向けられ続けるうちに、ルークは罪悪感に苛まれるようになった。
どうやら璃久の死には、瑠夏が関わっているらしい。
勝手に異世界に呼んだ事も含めて璃久が辛く当たるのをルークは受け入れるべきだと思ったが、激昂する璃久の目の奥に葛藤するものを見つけて、ああやはり彼なのだと思わずにはいられなかった。それはルークが惹かれた璃久という男の強さと優しさだった。
こちらの世界に来てすぐの窶れ荒んでしまった璃久の変貌ぶりには驚いたが、ルークが瑠夏として惚れ込んだ璃久の根幹を成す部分はそのままだった事が分かって嬉しくなった。
ルークは思い出していた。瑠夏を通して璃久へ恋をした短い夏の事を。
璃久と出会う前のルークは、大聖堂の地下にある牢獄で、季節も時間も分からない中を生きていた。大司教やあの男の息のかかった騎士に呼ばれて枷を嵌めたまま牢を連れ出され、彼らの好きに体を弄ばれる毎日。
食事は管理され、『悪魔の印』で強制的に発情させられて、自分が自分ではなくなっていくのを、早く正気ではなくなってしまうのを祈る毎日だった。
ある時大司教は、特別気に入った吸血鬼を閉じ込めておくための懲罰房に大きな鏡を取り付けた。大司教や男たちの手によって犯される吸血鬼を本人にも見せるための悪趣味なもので、それは専らルークのために使われた。
来る日も来る日も、よく磨かれた綺麗な鏡に映る金髪で青い目をした薄汚れた吸血鬼を見せられ、ルークはある時子供の頃に読んだ童話を思い出した。鏡は魔女に繋がる扉だという不思議な童話だ。それを思い出したのは、大司教がよく魔女の事を口にしていたからかも知れない。
この世界で魔術を使えるのは魔女だけだ。そんな超人的な力の一端である『悪魔の印』を使う事の出来る大司教はよく自画自賛していた。自分は魔女にも匹敵する選ばれた人間なのだと。
魔女に纏わる童話を思い出したルークは、くすんでしまった虚ろな青い目を鏡に映し祈った。
僕を助けてほしい。同胞の吸血鬼たちを助けてほしい。
『魔女の気紛れ』という童話は、幸福の奇跡と不幸の奇跡を魔女が起こすという話だ。世の中には人知の及ばない事がある。それらは全て魔女の気紛れによって起こるのだから必要以上に喜ぶ事も嘆く事もしてはならない、という教訓を示す物語だ。
願ったところで魔女は応えない。何故なら魔女は気紛れだから。
それでもルークは懲罰房へ連れてこられる度に祈った。
そして奇跡は起こるのだ。『魔女の気紛れ』によって、幸福の奇跡がルークに与えられた。
鏡を通して繋がった異世界はあまりにも平和で、いっそこのまま瑠夏として異世界で暮らす事も考えた。けれども聞こえてくるのだ。仲間の吸血鬼たちの悲哀と憎悪の籠った嘆きが。
ルークの一族は吸血鬼たちの王を務めてきた由緒ある一族で、父母亡き今、ルークが事実上最後の王であった。
王として同胞を見捨てて自分だけが平和な世界で生きていく事はどうしても出来なかった。
ルークは考えた。そもそもこの鏡には自分だけではなく、仲間を助けてほしいとも願ってきた。そうして開いた異世界への道。ならばこの道の先には同胞を救う手段がきっとあるのだろう。
そして出会ったのが璃久だった。
彼は誰かを助ける時に、気負ったり照れたりする事なくごく自然に手を伸べる事が出来る人だった。
ルークが体を借りていた瑠夏は高校二年生になっていた。春から璃久の事を見ていくうちに、彼の見返りを求めない何気ない優しさにどんどん惹かれていくのが分かった。
璃久ならきっと、ルークたちに手を貸してくれる。
もしかしたらあまりに平和な世界にルークはのぼせていたのかも知れない。璃久にだって優しさの限界はある。彼は決して都合の良い人ではなく、助けるべき人に必要なだけの手助けが出来る強い人だった。
だけどルークはもう璃久しかいないと思い込んでいた。何よりただただ璃久という少年の人柄に惚れ込んでしまったのだ。
そして、夏が来る。
瑠夏の魂はルークと繋がるうちにいつしかその気配を感じなくなっていた。そもそも瑠夏の体を譲ってもらったのかそれともルークが奪ってしまったのかも分からなかった。一人の少年の魂を消してしまったのかと自分で自分が恐ろしくなったが、気付いた時にはもはや手遅れだった。
きっと今すぐにでもルークは自分の体に戻るべきなのだろう。だけどその時にはもう、璃久を手放すのが惜しくなっていた。
言葉はなかったけれども幼いながらに真剣にお互いを好きになった。少なくともルークはそのつもりだった。
例え璃久が恋をしたのが『瑠夏』という少年だったとしても、『ルーク』は『璃久』を好きだった。
夏が終わりに近付くにつれ、ルークは自然と『魔女の気紛れ』の終わりを感じるようになった。璃久の暮らす世界がどこか遠いのだ。一枚の薄い膜を隔てたかのように、璃久を含めた全てが遠い。世界が異物を拒んでいるのかも知れない。そんな事を漠然と考えていた。
『いっ……てぇ』
気付けば璃久の指を噛んでいた。薬指の付け根の皮膚が破けて出血している。舐めても、味がしない。ゾッとした。この体は瑠夏のもののはずなのに、飢餓による吸血衝動が出ていた。だけど入っている魂がこの世界に適合出来ないかのように味覚が失われている違和感。
璃久と、離れ離れになってしまう。
『ていうか俺にもやらせろ』
咄嗟に嫌だと思ってしまった。だってこの体はルークのものでは無かったから。
だからまた将来、璃久がこの世界を全うした時、あと少しだけルークに力を貸してくれる事を願った。璃久をルークの世界に連れてくる事が、必ず吸血鬼たちの救いになると信じて。
自分の中に最早瑠夏の魂が無い事を知っていたルークは、最後に『瑠夏』の死を選び、ひと夏の短い幸福の時間と別れを告げる。
瑠夏の体を離れて元の世界へと完全に戻って来たルークは決心する。いつの日か必ず璃久がこの世界にやってくるはずだ。そうしたら同胞を、自分を救うために吸血鬼の王だった者として立ち上がらねばならないと。
そのためにルークは出来る事なら何でもやった。太腿に刻まれた『悪魔の印』を使われなくとも、元から人間の欲を駆り立てるように出来ている外見と体を駆使した。反吐が出そうな扱いを受けてもルークは笑ってねだった。この憐れな吸血鬼は人間に飼われる事こそが至福なのだと、従順に、腰を突き出し、足を開いた。
璃久はルークに秘密の開示を求めたけれど、実のところルークに思い当たる事はないのだった。七年前の夏からこれまでを振り返ってみても、ルークが璃久についた嘘は「吸血鬼は恋をすると増える」という事だけ。だけどあの嘘にさほど意味はなく単に璃久の関心を引き付けるためのきっかけに過ぎなかった。璃久とてそんな事は承知しているだろうと思うのだ。
もし、璃久の思うルークの秘密が『瑠夏を死なせた理由』だったとしたら、それだけは璃久に明かせない。
璃久はルークに手を貸すのに条件を出した。それはきっと璃久の中でルークはもはや無償で助けるべき存在ではなくなってしまったからだ。こんなにも璃久に恨まれてしまった今となっては瑠夏を死なせた秘密だけはどうしても話したくなかった。
「僕は君に思ったよりも早くこっちに来たんだねって言ったけれど、実はそう時間が残されている訳じゃないんだ。多分、僕たちが行動を起こすタイミングとしてはベストな時に君は来た」
璃久は苦い顔をした。その表情がルークの中で引っ掛かっていく。好き好んでこちらの世界に来たわけではないので当然だが、もっと別の理由がある気がするのだ。だが今はひとまずその事は脇に置いておく。
「このところ大司教の動きが活発になっていて、頻繁に『延命の儀式』を行って資金を集めつつ信徒を増やしている」
「それって大司教が王になるためって事だよな? 王って普通は世襲制なんじゃないのか?」
ルークは璃久の質問に肯定を返す。
「先代国王は大司教に心酔し、自らに『延命の儀式』を施すよう命令するほどだった。それほどまでに王の信頼を勝ち得ていたけど、大司教の手に王位は渡らなかった。そこで大司教は玉璽を狙う事に決めるんだ」
「玉璽?」
「端的に言えば印鑑だよ。極論だけどそれがあれば法律を変える事が出来る。法は国の根幹だから玉璽を手にした者がこの国の王だと言えなくもない」
「そんな大事な物をどうやって……」
ルークが「紙に書こうか」というとアルブスが先んじて紙とインクを用意してくれる。ありがとうと言う代わりに頭を撫でると気持ちよさそうに目を閉じる。
「最終目標は現国王であるオークス王から直接玉璽を渡してもらう事。だけど当然王の独断でそんな事をすれば反感を買うよね。だから大司教は王を篭絡しながら同時に評議会の支持を集め、信徒を増やして世論を自分の味方につけようとしているんだ」
そのうち王を篭絡するためと信徒を獲得するために、ルークたち吸血鬼が使われている。
「どっから来るんだよその野心は。それで? 俺たちに何が出来るんだよ。評議会にでも訴えるのか?」
「ううん。全部だよ」
「全部?」
「全部奪う。大司教の力になりそうなものを全部奴の手から奪うんだ」
ルークが説明のために書き付けていた紙から顔を上げて、璃久が俄かには信じられないという顔で瞬きする。
アルブスには既に話してある事なので彼に驚いた素振りはない。ルークの手元をしげしげと覗き込んでいるのでペンを渡してみると、勢力図を書き始めた。せっかくなのでその勢力図についても軽く触れておく。
「評議会は一枚岩ではないから内部で派閥が分かれている。王・大司教派、王妃派、王弟派、どこにも属さない浮動票。でも評議会には伝手がないから少し準備が必要なんだ。それでね、璃久」
まるで教師に指名された時のように、璃久の顔が微かに緊張する。
「大司教は吸血鬼の血肉を使って高い塔を築き上げてきた。彼はその塔のてっぺんにいるとして、彼の目が行き届きづらく尚且つ崩しやすい場所はどこだと思う?」
アルブスによって情報が増えた紙には、大司教の足元に『信徒』の文字が増えていた。可愛いイラスト付きで、痩せた信徒が金の入った袋を肥え太った大司教に納めている。
「……足元か。信徒の信頼に揺さぶりをかけたいんだな?」
「そう、さすが。璃久は昔から頭が良かったよね」
ルークが笑って言うと璃久は複雑な顔をして黙り込む。瑠夏の記憶をルークが語ると必ず彼の表情は硬くなった。
「一ついいか」
「どうぞ」
「お前は何で、大司教の計画にそこまで詳しいんだ?」
ドキリとして、つい目を逸らしてしまった。事情を知っているアルブスが視界の端で心配そうにこちらを見ている。
「大司教本人から聞いたのと、彼に従っている騎士から聞いたのと。情報源はいくつかあるよ」
手段を問われたらいよいよルークは口を閉ざすしかなかったが、璃久はそれで何とか納得してくれたようだった。或いは察しているのかも知れない。ルークの体は既に穢れきっており、璃久にしか体を許さなかった清廉な瑠夏の体とは違う事を、璃久はもう知っている。
「で、俺が何かしなくちゃならないからアルブスに地図を持ってこさせて、この話をしたんだよな? 何をすればいい?」
「案外積極的になってくれるんだね」
「決めたからな、目標を。それを達成するまでは、お前が俺を騙しでもしない限りはちゃんと協力する」
「そう……。嬉しいよ。ありがとう璃久」
やっぱり彼をこの世界に連れてきた自分の目に狂いはなかったのだ。虐げられている人を彼は放っておけない。その上押しつけがましくないところが彼の凄いところなのだ。花瓶に生けられた菊の花も、璃久が不愉快だったから片付けようと思ったに違いなく、ルークが感謝しようとしまいときっと璃久はさほど気に留めなかっただろう。
そんな人が、何故か想定よりもずっと早くにこちらの世界へ渡る切符を使ってしまった。恐らく自らの命を絶って。
――瑠夏のため? それとも彼の後を追った? 七年も経ってから今更?
七年の間に何があったのだろう。奇妙な状況に巻き込まれても自ら活路を見出して、自分の判断でしかと未来を決定していけるだけの男が何故、自死するような憐れな最後を迎えなくてはならなかったのか。
ルークはこの国が完全に大司教の手に落ちる事も、璃久が間に合わずに吸血鬼たちが滅んでしまう事も覚悟していただけに、こんなにも若い姿で璃久が来てくれたのは望外の事だった。最初こそ早い再会に喜んだが、今は戸惑いの方が勝っている。璃久の七年間に、ルークは疑問を覚えていた。
酷く疲れ切った様子で吐き出された言葉にルークはショックを受けた。
二十四という若さで死なねばならなかった彼の人生が決して楽なものではない事くらい想像が出来たが、璃久は激しく瑠夏の事を憎んでいた。璃久はまだ生きているのだという事実は彼に希望を与えるどころか疲弊を加速させるだけだった。
離れていた七年の間に何があったのだろう。だけど璃久には訊いたところでまともに答えてくれないような雰囲気が漂っていた。璃久はルークの事を拒絶していた。
勝手に異世界に呼んでしまった事への責めはあるだろうと覚悟していたけれど、想像を上回る嫌われぶりにはルークも困惑した。それでも彼をこちらへ呼んだ責任を果たすため、そして目的を達成するために、彼の正義感に付け入るようにこの世界の事を説明していった。
その一方で、憎悪の感情を向けられ続けるうちに、ルークは罪悪感に苛まれるようになった。
どうやら璃久の死には、瑠夏が関わっているらしい。
勝手に異世界に呼んだ事も含めて璃久が辛く当たるのをルークは受け入れるべきだと思ったが、激昂する璃久の目の奥に葛藤するものを見つけて、ああやはり彼なのだと思わずにはいられなかった。それはルークが惹かれた璃久という男の強さと優しさだった。
こちらの世界に来てすぐの窶れ荒んでしまった璃久の変貌ぶりには驚いたが、ルークが瑠夏として惚れ込んだ璃久の根幹を成す部分はそのままだった事が分かって嬉しくなった。
ルークは思い出していた。瑠夏を通して璃久へ恋をした短い夏の事を。
璃久と出会う前のルークは、大聖堂の地下にある牢獄で、季節も時間も分からない中を生きていた。大司教やあの男の息のかかった騎士に呼ばれて枷を嵌めたまま牢を連れ出され、彼らの好きに体を弄ばれる毎日。
食事は管理され、『悪魔の印』で強制的に発情させられて、自分が自分ではなくなっていくのを、早く正気ではなくなってしまうのを祈る毎日だった。
ある時大司教は、特別気に入った吸血鬼を閉じ込めておくための懲罰房に大きな鏡を取り付けた。大司教や男たちの手によって犯される吸血鬼を本人にも見せるための悪趣味なもので、それは専らルークのために使われた。
来る日も来る日も、よく磨かれた綺麗な鏡に映る金髪で青い目をした薄汚れた吸血鬼を見せられ、ルークはある時子供の頃に読んだ童話を思い出した。鏡は魔女に繋がる扉だという不思議な童話だ。それを思い出したのは、大司教がよく魔女の事を口にしていたからかも知れない。
この世界で魔術を使えるのは魔女だけだ。そんな超人的な力の一端である『悪魔の印』を使う事の出来る大司教はよく自画自賛していた。自分は魔女にも匹敵する選ばれた人間なのだと。
魔女に纏わる童話を思い出したルークは、くすんでしまった虚ろな青い目を鏡に映し祈った。
僕を助けてほしい。同胞の吸血鬼たちを助けてほしい。
『魔女の気紛れ』という童話は、幸福の奇跡と不幸の奇跡を魔女が起こすという話だ。世の中には人知の及ばない事がある。それらは全て魔女の気紛れによって起こるのだから必要以上に喜ぶ事も嘆く事もしてはならない、という教訓を示す物語だ。
願ったところで魔女は応えない。何故なら魔女は気紛れだから。
それでもルークは懲罰房へ連れてこられる度に祈った。
そして奇跡は起こるのだ。『魔女の気紛れ』によって、幸福の奇跡がルークに与えられた。
鏡を通して繋がった異世界はあまりにも平和で、いっそこのまま瑠夏として異世界で暮らす事も考えた。けれども聞こえてくるのだ。仲間の吸血鬼たちの悲哀と憎悪の籠った嘆きが。
ルークの一族は吸血鬼たちの王を務めてきた由緒ある一族で、父母亡き今、ルークが事実上最後の王であった。
王として同胞を見捨てて自分だけが平和な世界で生きていく事はどうしても出来なかった。
ルークは考えた。そもそもこの鏡には自分だけではなく、仲間を助けてほしいとも願ってきた。そうして開いた異世界への道。ならばこの道の先には同胞を救う手段がきっとあるのだろう。
そして出会ったのが璃久だった。
彼は誰かを助ける時に、気負ったり照れたりする事なくごく自然に手を伸べる事が出来る人だった。
ルークが体を借りていた瑠夏は高校二年生になっていた。春から璃久の事を見ていくうちに、彼の見返りを求めない何気ない優しさにどんどん惹かれていくのが分かった。
璃久ならきっと、ルークたちに手を貸してくれる。
もしかしたらあまりに平和な世界にルークはのぼせていたのかも知れない。璃久にだって優しさの限界はある。彼は決して都合の良い人ではなく、助けるべき人に必要なだけの手助けが出来る強い人だった。
だけどルークはもう璃久しかいないと思い込んでいた。何よりただただ璃久という少年の人柄に惚れ込んでしまったのだ。
そして、夏が来る。
瑠夏の魂はルークと繋がるうちにいつしかその気配を感じなくなっていた。そもそも瑠夏の体を譲ってもらったのかそれともルークが奪ってしまったのかも分からなかった。一人の少年の魂を消してしまったのかと自分で自分が恐ろしくなったが、気付いた時にはもはや手遅れだった。
きっと今すぐにでもルークは自分の体に戻るべきなのだろう。だけどその時にはもう、璃久を手放すのが惜しくなっていた。
言葉はなかったけれども幼いながらに真剣にお互いを好きになった。少なくともルークはそのつもりだった。
例え璃久が恋をしたのが『瑠夏』という少年だったとしても、『ルーク』は『璃久』を好きだった。
夏が終わりに近付くにつれ、ルークは自然と『魔女の気紛れ』の終わりを感じるようになった。璃久の暮らす世界がどこか遠いのだ。一枚の薄い膜を隔てたかのように、璃久を含めた全てが遠い。世界が異物を拒んでいるのかも知れない。そんな事を漠然と考えていた。
『いっ……てぇ』
気付けば璃久の指を噛んでいた。薬指の付け根の皮膚が破けて出血している。舐めても、味がしない。ゾッとした。この体は瑠夏のもののはずなのに、飢餓による吸血衝動が出ていた。だけど入っている魂がこの世界に適合出来ないかのように味覚が失われている違和感。
璃久と、離れ離れになってしまう。
『ていうか俺にもやらせろ』
咄嗟に嫌だと思ってしまった。だってこの体はルークのものでは無かったから。
だからまた将来、璃久がこの世界を全うした時、あと少しだけルークに力を貸してくれる事を願った。璃久をルークの世界に連れてくる事が、必ず吸血鬼たちの救いになると信じて。
自分の中に最早瑠夏の魂が無い事を知っていたルークは、最後に『瑠夏』の死を選び、ひと夏の短い幸福の時間と別れを告げる。
瑠夏の体を離れて元の世界へと完全に戻って来たルークは決心する。いつの日か必ず璃久がこの世界にやってくるはずだ。そうしたら同胞を、自分を救うために吸血鬼の王だった者として立ち上がらねばならないと。
そのためにルークは出来る事なら何でもやった。太腿に刻まれた『悪魔の印』を使われなくとも、元から人間の欲を駆り立てるように出来ている外見と体を駆使した。反吐が出そうな扱いを受けてもルークは笑ってねだった。この憐れな吸血鬼は人間に飼われる事こそが至福なのだと、従順に、腰を突き出し、足を開いた。
璃久はルークに秘密の開示を求めたけれど、実のところルークに思い当たる事はないのだった。七年前の夏からこれまでを振り返ってみても、ルークが璃久についた嘘は「吸血鬼は恋をすると増える」という事だけ。だけどあの嘘にさほど意味はなく単に璃久の関心を引き付けるためのきっかけに過ぎなかった。璃久とてそんな事は承知しているだろうと思うのだ。
もし、璃久の思うルークの秘密が『瑠夏を死なせた理由』だったとしたら、それだけは璃久に明かせない。
璃久はルークに手を貸すのに条件を出した。それはきっと璃久の中でルークはもはや無償で助けるべき存在ではなくなってしまったからだ。こんなにも璃久に恨まれてしまった今となっては瑠夏を死なせた秘密だけはどうしても話したくなかった。
「僕は君に思ったよりも早くこっちに来たんだねって言ったけれど、実はそう時間が残されている訳じゃないんだ。多分、僕たちが行動を起こすタイミングとしてはベストな時に君は来た」
璃久は苦い顔をした。その表情がルークの中で引っ掛かっていく。好き好んでこちらの世界に来たわけではないので当然だが、もっと別の理由がある気がするのだ。だが今はひとまずその事は脇に置いておく。
「このところ大司教の動きが活発になっていて、頻繁に『延命の儀式』を行って資金を集めつつ信徒を増やしている」
「それって大司教が王になるためって事だよな? 王って普通は世襲制なんじゃないのか?」
ルークは璃久の質問に肯定を返す。
「先代国王は大司教に心酔し、自らに『延命の儀式』を施すよう命令するほどだった。それほどまでに王の信頼を勝ち得ていたけど、大司教の手に王位は渡らなかった。そこで大司教は玉璽を狙う事に決めるんだ」
「玉璽?」
「端的に言えば印鑑だよ。極論だけどそれがあれば法律を変える事が出来る。法は国の根幹だから玉璽を手にした者がこの国の王だと言えなくもない」
「そんな大事な物をどうやって……」
ルークが「紙に書こうか」というとアルブスが先んじて紙とインクを用意してくれる。ありがとうと言う代わりに頭を撫でると気持ちよさそうに目を閉じる。
「最終目標は現国王であるオークス王から直接玉璽を渡してもらう事。だけど当然王の独断でそんな事をすれば反感を買うよね。だから大司教は王を篭絡しながら同時に評議会の支持を集め、信徒を増やして世論を自分の味方につけようとしているんだ」
そのうち王を篭絡するためと信徒を獲得するために、ルークたち吸血鬼が使われている。
「どっから来るんだよその野心は。それで? 俺たちに何が出来るんだよ。評議会にでも訴えるのか?」
「ううん。全部だよ」
「全部?」
「全部奪う。大司教の力になりそうなものを全部奴の手から奪うんだ」
ルークが説明のために書き付けていた紙から顔を上げて、璃久が俄かには信じられないという顔で瞬きする。
アルブスには既に話してある事なので彼に驚いた素振りはない。ルークの手元をしげしげと覗き込んでいるのでペンを渡してみると、勢力図を書き始めた。せっかくなのでその勢力図についても軽く触れておく。
「評議会は一枚岩ではないから内部で派閥が分かれている。王・大司教派、王妃派、王弟派、どこにも属さない浮動票。でも評議会には伝手がないから少し準備が必要なんだ。それでね、璃久」
まるで教師に指名された時のように、璃久の顔が微かに緊張する。
「大司教は吸血鬼の血肉を使って高い塔を築き上げてきた。彼はその塔のてっぺんにいるとして、彼の目が行き届きづらく尚且つ崩しやすい場所はどこだと思う?」
アルブスによって情報が増えた紙には、大司教の足元に『信徒』の文字が増えていた。可愛いイラスト付きで、痩せた信徒が金の入った袋を肥え太った大司教に納めている。
「……足元か。信徒の信頼に揺さぶりをかけたいんだな?」
「そう、さすが。璃久は昔から頭が良かったよね」
ルークが笑って言うと璃久は複雑な顔をして黙り込む。瑠夏の記憶をルークが語ると必ず彼の表情は硬くなった。
「一ついいか」
「どうぞ」
「お前は何で、大司教の計画にそこまで詳しいんだ?」
ドキリとして、つい目を逸らしてしまった。事情を知っているアルブスが視界の端で心配そうにこちらを見ている。
「大司教本人から聞いたのと、彼に従っている騎士から聞いたのと。情報源はいくつかあるよ」
手段を問われたらいよいよルークは口を閉ざすしかなかったが、璃久はそれで何とか納得してくれたようだった。或いは察しているのかも知れない。ルークの体は既に穢れきっており、璃久にしか体を許さなかった清廉な瑠夏の体とは違う事を、璃久はもう知っている。
「で、俺が何かしなくちゃならないからアルブスに地図を持ってこさせて、この話をしたんだよな? 何をすればいい?」
「案外積極的になってくれるんだね」
「決めたからな、目標を。それを達成するまでは、お前が俺を騙しでもしない限りはちゃんと協力する」
「そう……。嬉しいよ。ありがとう璃久」
やっぱり彼をこの世界に連れてきた自分の目に狂いはなかったのだ。虐げられている人を彼は放っておけない。その上押しつけがましくないところが彼の凄いところなのだ。花瓶に生けられた菊の花も、璃久が不愉快だったから片付けようと思ったに違いなく、ルークが感謝しようとしまいときっと璃久はさほど気に留めなかっただろう。
そんな人が、何故か想定よりもずっと早くにこちらの世界へ渡る切符を使ってしまった。恐らく自らの命を絶って。
――瑠夏のため? それとも彼の後を追った? 七年も経ってから今更?
七年の間に何があったのだろう。奇妙な状況に巻き込まれても自ら活路を見出して、自分の判断でしかと未来を決定していけるだけの男が何故、自死するような憐れな最後を迎えなくてはならなかったのか。
ルークはこの国が完全に大司教の手に落ちる事も、璃久が間に合わずに吸血鬼たちが滅んでしまう事も覚悟していただけに、こんなにも若い姿で璃久が来てくれたのは望外の事だった。最初こそ早い再会に喜んだが、今は戸惑いの方が勝っている。璃久の七年間に、ルークは疑問を覚えていた。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。
桜月夜
BL
前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。
思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

オッサン、エルフの森の歌姫【ディーバ】になる
クロタ
BL
召喚儀式の失敗で、現代日本から異世界に飛ばされて捨てられたオッサン(39歳)と、彼を拾って過保護に庇護するエルフ(300歳、外見年齢20代)のお話です。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

ポンコツアルファを拾いました。
おもちDX
BL
オメガのほうが優秀な世界。会社を立ち上げたばかりの渚は、しくしく泣いているアルファを拾った。すぐにラットを起こす梨杜は、社員に馬鹿にされながらも渚のそばで一生懸命働く。渚はそんな梨杜が可愛くなってきて……
ポンコツアルファをエリートオメガがヨシヨシする話です。
オメガバースのアルファが『優秀』という部分を、オメガにあげたい!と思いついた世界観。
※特殊設定の現代オメガバースです

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる