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3異なる世界
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青い瞳をした瑠夏によく似た男が、白い双丘を平手打ちされて声を上げている。あっ、あっ、と何度も痛そうな音と共に声を跳ねさせて、上気した頬を璃久との間にある見えない壁に押し付けている。
頭がおかしくなりそうだ。目の前の光景に対する理解を、心が拒んでいる。
最初、その男は折檻されているのかと思ったが、瑠夏と同じ顔をしたそいつの頬は赤く火照って善いと鳴いてはひっきりなしに嬌声を上げているのだ。それはAV女優のようにわざとらしく大袈裟で、わざとそうして相手の男を喜ばせようとしているのが分かった。
璃久の位置からでは瑠夏らしき男を苛む男の顔が見えない。そもそも、目の前で喘ぐそいつが瑠夏なのかすら分からない。
「やめろ」
それでも、瑠夏とよく似た顔が知らない男を相手にまるで奉仕するように善がってみせているところを見て平気ではいられなかった。
「やめろ!」
見えない壁を拳で叩きつける。さきほどから青い目とは視線が合っており、或いは見せつけているのかと思った矢先、ふ、と瞼が伏せられた。
――何なんだよ……何なんだよこれ。
もう見たくないと思って目を閉じると今度は声に意識が集中してしまい吐き気がしてくる。
青い目の男は声まで瑠夏にそっくりだった。璃久より少しだけ高くて甘い声。その声が知らない音色を上げている。
そう、知らない男だ。他人の空似だと言い聞かせ、学生の頃よくトイレの個室でしていたように目を閉じ耳を塞いで悪夢が過ぎ去るのを待った。
どれくらい耐えたろう。気付くとくぐもった音も声も止んでいて、しん、と耳が痛いくらいの静寂が辺りを包んでいた。
目を開けたくないと思うと、ふと目を開けるという行為が可能な事に違和感を覚え、今更璃久は自分が死んだ事を思い出す。
続けて璃久は自分が『璃久』という名の人間であった事を認識した。
このよく分からない場所で目覚めたすぐには『自分』というものさえ不確かで五感の全てが遠かったけれど、今なら自分が何者であるかをはっきりと思い出す事が出来た。歳は二十四で、瑠夏の死を皮切りに坂を転がるように人生が底へ落ちてとうとう命を絶った、憐れで惨めな普通の男。
死んだはずなのに、意識がまだあるという事実が恐ろしくなる。死んだ先でまでこんな仕打ちを受けるなんて。そこまでの悪事を働いた覚えは璃久には無いのに、いつになればこの地獄は終わるのか。
瑠夏の事を考えたせいでまた先程見た光景が脳裏を過った。
この目を開けたくないのに、一方で開けなくては何も分からないという矛盾した心が胸にある。
璃久は、目を開けた。すぐに真っ青な双眸が璃久の視線を捉え、そして、笑った。
「待っていたよ、璃久」
愕然として声も出なかった。目の前の青い目をした男は璃久を璃久と呼んだのだ。
「瑠夏」
と、呼び返さずにはいられなかった。
――お前のせいで。
目の前の男が瑠夏だと分かった瞬間、璃久を置いて何も言わず勝手に死んだ恋人への恨みが吹き出した。
――お前のせいで俺は死んだ。
自分が散々言われてきた言葉で相手を呪う。
恋人でいようという約束は交わさなかったかも知れない。それでもキスをして、手を繋ぎ、体を重ねた。一緒に居る事が嬉しいと想いを確かめ合った。まだ子供で、お金もなくて、普通の恋人というものが分からず手探りで。それでも毎日が楽しかったのに。
――何で、俺を置いてった?
「思っていたより早く来たんだね」
困惑する璃久の心など知らないように瑠夏は笑っている。それは再会を喜ぶ笑顔の中に、気遣わしげなものが混じったどこか暗い笑顔に見えた。
「再会はお爺さんになってからかと思ってたけど」
「……はぁ? 何言ってんだよ」
漸く璃久の口から意味のある言葉が出てくると、瑠夏の笑顔が苦笑に変わる。
「まだ『そこ』から出てこられないみたいだから、少しこの世界について説明してあげるよ」
瑠夏はそう言って、部屋の奥からやたらと洒落た椅子を持って戻ってくる。それは璃久の実家の近所にあった、輸入家具や雑貨などを扱ったアンティークショップで売られていた物に雰囲気が似ている。座面と背面は布張りでくすんだ緑色の生地に花柄が刺繍してあり、脚は柔らかい曲線が特徴的な所謂猫脚と呼ばれるものだ。
椅子の色と同じ緑の絨毯の上に静かに椅子が置かれたところで璃久は初めてそこが部屋になっている事を意識した。しかし、相変わらず瑠夏との間は透明な壁が隔てており、瑠夏が座っている所から直線状の奥までしか見る事が出来ない。瑠夏が『そこ』と称したこちら側、光が漏れ出している四角い透明な板の周りは暗いままだ。
「ここはね、君たちの世界の言葉で言えば異なる世界、異世界だ」
瀟洒な椅子に腰を下ろした瑠夏の真っ青な瞳が、地べたに座ったままの璃久を見下ろす。
ふと、瑠夏は目の色だけでなく髪の色まで変わっている事に今更気が付いた。
「異世界って……お前、その姿……」
以前の瑠夏は光が当たると灰色っぽく見える透き通った黒髪だったが、今は根本から毛先まで混じりけのない美しいブロンドになっていた。目の色は榛色から青色に変わっており、更に七年という歳月を経て幼さの取れた顔立ちはまさに目の覚めるような美形に完成されていた。
なだらかな山を描く柳眉はそのままに頬が少し痩けて年相応の大人の男の骨っぽさがあり、かと思えば頤の上には赤くふっくらと柔らかそうな唇が薄く伸びてあやしげな笑みを浮かべている。笑顔になると野に咲く小さな花のようだった瑠夏の姿は、もうどこにも無かった。
いや違う。瑠夏は死んだ。そして――。
「俺も、死んだはずだ」
そうだ。だから死んだ瑠夏が璃久の前に現れたのだ。
瑠夏は璃久のせいで死んだと言われ続けてきたから、死後になって璃久に復讐しに出て来たのだろう。
しかし瑠夏は首を横に振る。
「璃久は死んでないよ」
「は?」
「君はここへ来る前にきっと死ぬような目に遭ったんだろうけど、君は死んでないんだ」
璃久は透明な壁を拳で叩く。
「もういい分かった。お前は俺を恨んでたのかも知れない。でも俺は、何も知らなかった。許してくれ。頼むから、もう死なせてくれ」
青い目が一瞬瞠目し、すぐに長い睫毛によって伏せられていく。璃久の言葉に衝撃を受けて悲しむ様子に、璃久は苛立ちを募らせる。お前に悲しむ権利なんてないのにと心が軋んで悲鳴を上げている。
「……とにかく、君は生きてる。それはすぐに実感する事になると思うよ。それから――」
瑠夏の言葉を、扉を叩く音が遮った。瑠夏の後ろの扉が開き、いかにも聖職者といった白いローブを身に纏った男が現れる。
瑠夏は慌てて椅子から立ち上がった。立ち上がる一瞬、見えた瑠夏の頬が硬く強張って見えた気がした。
椅子から離れた瑠夏がさっとローブの男まで急ぎ足で行くと、男は瑠夏の腕を掴んで乱暴に部屋の外へと引っ張っていった。
最初といい今といい、自分は一体何を見せられているのだろう。瑠夏が男に無体を働かれている事の意味も、自分が閉じ込められている場所も、何もかも理解が出来ない。真っ暗な空間に取り残されて璃久は考える。
璃久の感情を大きく波立たせる原因が居なくなって少しずつ状況を考えるだけの冷静さが戻ってくると、漸く自分が何か奇妙な現象に巻き込まれてしまったんだという気になってきた。
瑠夏は異世界と言っただろうか。四角い透明の板の向こうに見える西洋風の部屋と、それに見合う格好をして日本人離れした容姿に変わってしまった瑠夏を見る限りでは、確かに異世界めいている。だが何よりここが異世界である事の証左は、七年前に死んだはずの瑠夏と、つい数時間前にベランダから飛び降りた璃久が生きている事ではないか。
――俺は、生きてるのか?
暗い空間からどこにも行けずに座り込んでいた璃久の体に、異変が起きていた。下腹部の辺りにいかんともし難い感覚がある。それは尿意だった。空腹でも性欲でもなく用を足したいと感じるごく生理的な体の機能。そのあまりにも原始的な欲求に、そんな事で生きていると実感した自分が何故か恥ずかしくてたまらなくなる。瑠夏に死なせてくれと吠えた自分がとても惨めに思えた。
璃久が嘆いている間にも状況は刻一刻とまずくなっていく。このままでは璃久は失禁するしかない。瑠夏の居るはずの方には透明な壁が邪魔をしており、これがなくならない限りは璃久はどこへも行けない。
どこかに出口のようなものは無いかとこの時初めて背後を振り返った璃久は、そこに思いもよらぬ景色が広がっていて腰を抜かした。
ベランダの手摺りを越えた先の、アパートの五階から見下ろした高い景色が、瑠夏側と同じような四角く切り取った向こうに広がっていたのだ。
「俺の家、なのか……?」
やはりあの時自分はベランダから飛んだのだとその景色を見て確信する。そして同時に、璃久は今、岐路に立たされているのだと理解した。
元の世界と異世界。進むか、戻るか。どちらかを選ばなくては、璃久はずっとこの真っ暗な世界に閉じ込められたままなのだ。
ここは狭間の世界。元の世界と異世界を繋ぐ、連絡通路のような場所なのだ。
そうこうしているうちに瑠夏が戻ってくる。ドタドタと足を縺れさせるような騒々しい音が扉の向こうから聞こえてきて、殊更ゆっくりと扉が押し開けられた。
「瑠夏!」
辛うじてドアノブに掴まっていた瑠夏の体がふ、と力を失って扉ごと部屋の中に倒れ込んでくる。瑠夏の着衣が乱れていた。肩に掛けていただけのコートがずれ落ち、白いシャツは胸元まで大きくはだけられている。
「おい瑠夏、返事しろ!」
呼び掛けても応答がなく、不安になって何度も壁を叩く。
瑠夏は死んだはずだ。しかも璃久にとんでもない呪いを遺していった。
璃久は瑠夏を恨んだし、どうやら瑠夏も璃久を恨んでいたらしい。
それでも何かがあったと一目に分かる様子で弱々しく床に這いつくばって動かない瑠夏を見ると胸がざわついた。ムカムカしてきて吐き気のようなものが上がってくる。
「瑠夏!!」
渾身の力を込めて名前を呼ぶ。手は壁を叩きすぎて痛い。
すると瑠夏の体が震えて肘を突いてどうにか起き上がった。瑠夏はそのまま肘と膝で床を這いながら、璃久の方へと近付いてくる。
「瑠夏……」
「瑠夏じゃ、ないんだ。僕は、ルーク」
透明な壁に突いた璃久の手に、瑠夏の手が重ねられる。壁越しのはずなのに熱を感じた。
「君の好きだった瑠夏は、死んだ」
壁越しに瑠夏と合わさっていた両手が不意に泥濘んでいくような感覚が生まれ、硬い壁の抵抗感が消えていく。瑠夏の手は璃久の両手に絡んでしっかり掴み、壁を抜け出てきた璃久を狭間の世界から引きずり出した。
「ようこそ、異世界へ」
壁から上半身だけ抜け出し床に這いつくばるような姿勢の璃久に瑠夏はあやしく微笑みかけると、突然舌を思い切り噛んだ。
「お前何し、て……」
どくどくと溢れ出してくる濃い真っ赤な血液が瑠夏の唇を汚し顎に垂れていく。その姿が瑠夏の顔とだぶった。いつか璃久の切れた指を舐めた日の、今よりもあどけなさの残る瑠夏の顔が、目の前の服をはだけさせてどこかうらぶれてしまったルークという男によって打ち消されていく。
恨みによって最奥に仕舞われていたものが引きずり出され、汚されていく。それはとても淡い、恋の形をしていたもので。
ドクン、と強く璃久の心臓が脈打ったのは、瑠夏の顎から伝った血が床に落ちた時だった。
「は……あ?」
ぎゅっと胃が急速に空っぽになって引き絞られるような耐え難いそれは飢餓感。目の前が真っ赤に染まるほど白い顎を伝っていく血に意識が持っていかれ、まるでそれが極上の食材のように見えてくる。
「璃久。君はこの世界で吸血鬼として生きるんだよ」
瑠夏が話し終えるのとほぼ同時、璃久は瑠夏の口に食らいついていた。激しい飢餓感に襲われて、頭の中はもはやそれ以外何も考えられなくなる。下顎に溜まった瑠夏の血を舌で掬って喉を鳴らし、顎に垂れた血も一滴も余さず舐めとっていく。それは口付けのような甘い行為などではなく、まさに捕食、吸血鬼になった璃久にとって初めての食事だった。
「ん……っ、空腹は、辛いよね」
分かるよと言って瑠夏は傷になっている舌を自ら食えというように璃久へと差し出してくる。厚くてざりざりとしたそれを自分の咥内に迎え入れ、まるで飴を舐めるように傷のある辺りを、甘い味が染み出してくる箇所を舐めて吸って飢えを癒やしていく。
甘い。血が甘いのだ。
『しょっぱ』
と、璃久の血を舐めて笑っていた瑠夏の記憶が過る。
蜂蜜のように濃厚で、砂糖のように混じりけのない純粋な、そしてアルコールのように理性を奪っていく禁断の甘さが脳を痺れさせ、次第に満足していく。腹が満たされると共に獣のように興奮していたものも落ち着いていった。
「はぁ……っ。俺に……何をした?」
「吸血鬼にした」
事も無げに言って、璃久から手を離す。自分の重さを支えられなくなって璃久が床に突っ伏すと、瑠夏は扉から這ってきた姿が演技だったかのようにすっと立ち上がって璃久を見下ろした。
「僕の、眷属にしたんだよ」
頭がおかしくなりそうだ。目の前の光景に対する理解を、心が拒んでいる。
最初、その男は折檻されているのかと思ったが、瑠夏と同じ顔をしたそいつの頬は赤く火照って善いと鳴いてはひっきりなしに嬌声を上げているのだ。それはAV女優のようにわざとらしく大袈裟で、わざとそうして相手の男を喜ばせようとしているのが分かった。
璃久の位置からでは瑠夏らしき男を苛む男の顔が見えない。そもそも、目の前で喘ぐそいつが瑠夏なのかすら分からない。
「やめろ」
それでも、瑠夏とよく似た顔が知らない男を相手にまるで奉仕するように善がってみせているところを見て平気ではいられなかった。
「やめろ!」
見えない壁を拳で叩きつける。さきほどから青い目とは視線が合っており、或いは見せつけているのかと思った矢先、ふ、と瞼が伏せられた。
――何なんだよ……何なんだよこれ。
もう見たくないと思って目を閉じると今度は声に意識が集中してしまい吐き気がしてくる。
青い目の男は声まで瑠夏にそっくりだった。璃久より少しだけ高くて甘い声。その声が知らない音色を上げている。
そう、知らない男だ。他人の空似だと言い聞かせ、学生の頃よくトイレの個室でしていたように目を閉じ耳を塞いで悪夢が過ぎ去るのを待った。
どれくらい耐えたろう。気付くとくぐもった音も声も止んでいて、しん、と耳が痛いくらいの静寂が辺りを包んでいた。
目を開けたくないと思うと、ふと目を開けるという行為が可能な事に違和感を覚え、今更璃久は自分が死んだ事を思い出す。
続けて璃久は自分が『璃久』という名の人間であった事を認識した。
このよく分からない場所で目覚めたすぐには『自分』というものさえ不確かで五感の全てが遠かったけれど、今なら自分が何者であるかをはっきりと思い出す事が出来た。歳は二十四で、瑠夏の死を皮切りに坂を転がるように人生が底へ落ちてとうとう命を絶った、憐れで惨めな普通の男。
死んだはずなのに、意識がまだあるという事実が恐ろしくなる。死んだ先でまでこんな仕打ちを受けるなんて。そこまでの悪事を働いた覚えは璃久には無いのに、いつになればこの地獄は終わるのか。
瑠夏の事を考えたせいでまた先程見た光景が脳裏を過った。
この目を開けたくないのに、一方で開けなくては何も分からないという矛盾した心が胸にある。
璃久は、目を開けた。すぐに真っ青な双眸が璃久の視線を捉え、そして、笑った。
「待っていたよ、璃久」
愕然として声も出なかった。目の前の青い目をした男は璃久を璃久と呼んだのだ。
「瑠夏」
と、呼び返さずにはいられなかった。
――お前のせいで。
目の前の男が瑠夏だと分かった瞬間、璃久を置いて何も言わず勝手に死んだ恋人への恨みが吹き出した。
――お前のせいで俺は死んだ。
自分が散々言われてきた言葉で相手を呪う。
恋人でいようという約束は交わさなかったかも知れない。それでもキスをして、手を繋ぎ、体を重ねた。一緒に居る事が嬉しいと想いを確かめ合った。まだ子供で、お金もなくて、普通の恋人というものが分からず手探りで。それでも毎日が楽しかったのに。
――何で、俺を置いてった?
「思っていたより早く来たんだね」
困惑する璃久の心など知らないように瑠夏は笑っている。それは再会を喜ぶ笑顔の中に、気遣わしげなものが混じったどこか暗い笑顔に見えた。
「再会はお爺さんになってからかと思ってたけど」
「……はぁ? 何言ってんだよ」
漸く璃久の口から意味のある言葉が出てくると、瑠夏の笑顔が苦笑に変わる。
「まだ『そこ』から出てこられないみたいだから、少しこの世界について説明してあげるよ」
瑠夏はそう言って、部屋の奥からやたらと洒落た椅子を持って戻ってくる。それは璃久の実家の近所にあった、輸入家具や雑貨などを扱ったアンティークショップで売られていた物に雰囲気が似ている。座面と背面は布張りでくすんだ緑色の生地に花柄が刺繍してあり、脚は柔らかい曲線が特徴的な所謂猫脚と呼ばれるものだ。
椅子の色と同じ緑の絨毯の上に静かに椅子が置かれたところで璃久は初めてそこが部屋になっている事を意識した。しかし、相変わらず瑠夏との間は透明な壁が隔てており、瑠夏が座っている所から直線状の奥までしか見る事が出来ない。瑠夏が『そこ』と称したこちら側、光が漏れ出している四角い透明な板の周りは暗いままだ。
「ここはね、君たちの世界の言葉で言えば異なる世界、異世界だ」
瀟洒な椅子に腰を下ろした瑠夏の真っ青な瞳が、地べたに座ったままの璃久を見下ろす。
ふと、瑠夏は目の色だけでなく髪の色まで変わっている事に今更気が付いた。
「異世界って……お前、その姿……」
以前の瑠夏は光が当たると灰色っぽく見える透き通った黒髪だったが、今は根本から毛先まで混じりけのない美しいブロンドになっていた。目の色は榛色から青色に変わっており、更に七年という歳月を経て幼さの取れた顔立ちはまさに目の覚めるような美形に完成されていた。
なだらかな山を描く柳眉はそのままに頬が少し痩けて年相応の大人の男の骨っぽさがあり、かと思えば頤の上には赤くふっくらと柔らかそうな唇が薄く伸びてあやしげな笑みを浮かべている。笑顔になると野に咲く小さな花のようだった瑠夏の姿は、もうどこにも無かった。
いや違う。瑠夏は死んだ。そして――。
「俺も、死んだはずだ」
そうだ。だから死んだ瑠夏が璃久の前に現れたのだ。
瑠夏は璃久のせいで死んだと言われ続けてきたから、死後になって璃久に復讐しに出て来たのだろう。
しかし瑠夏は首を横に振る。
「璃久は死んでないよ」
「は?」
「君はここへ来る前にきっと死ぬような目に遭ったんだろうけど、君は死んでないんだ」
璃久は透明な壁を拳で叩く。
「もういい分かった。お前は俺を恨んでたのかも知れない。でも俺は、何も知らなかった。許してくれ。頼むから、もう死なせてくれ」
青い目が一瞬瞠目し、すぐに長い睫毛によって伏せられていく。璃久の言葉に衝撃を受けて悲しむ様子に、璃久は苛立ちを募らせる。お前に悲しむ権利なんてないのにと心が軋んで悲鳴を上げている。
「……とにかく、君は生きてる。それはすぐに実感する事になると思うよ。それから――」
瑠夏の言葉を、扉を叩く音が遮った。瑠夏の後ろの扉が開き、いかにも聖職者といった白いローブを身に纏った男が現れる。
瑠夏は慌てて椅子から立ち上がった。立ち上がる一瞬、見えた瑠夏の頬が硬く強張って見えた気がした。
椅子から離れた瑠夏がさっとローブの男まで急ぎ足で行くと、男は瑠夏の腕を掴んで乱暴に部屋の外へと引っ張っていった。
最初といい今といい、自分は一体何を見せられているのだろう。瑠夏が男に無体を働かれている事の意味も、自分が閉じ込められている場所も、何もかも理解が出来ない。真っ暗な空間に取り残されて璃久は考える。
璃久の感情を大きく波立たせる原因が居なくなって少しずつ状況を考えるだけの冷静さが戻ってくると、漸く自分が何か奇妙な現象に巻き込まれてしまったんだという気になってきた。
瑠夏は異世界と言っただろうか。四角い透明の板の向こうに見える西洋風の部屋と、それに見合う格好をして日本人離れした容姿に変わってしまった瑠夏を見る限りでは、確かに異世界めいている。だが何よりここが異世界である事の証左は、七年前に死んだはずの瑠夏と、つい数時間前にベランダから飛び降りた璃久が生きている事ではないか。
――俺は、生きてるのか?
暗い空間からどこにも行けずに座り込んでいた璃久の体に、異変が起きていた。下腹部の辺りにいかんともし難い感覚がある。それは尿意だった。空腹でも性欲でもなく用を足したいと感じるごく生理的な体の機能。そのあまりにも原始的な欲求に、そんな事で生きていると実感した自分が何故か恥ずかしくてたまらなくなる。瑠夏に死なせてくれと吠えた自分がとても惨めに思えた。
璃久が嘆いている間にも状況は刻一刻とまずくなっていく。このままでは璃久は失禁するしかない。瑠夏の居るはずの方には透明な壁が邪魔をしており、これがなくならない限りは璃久はどこへも行けない。
どこかに出口のようなものは無いかとこの時初めて背後を振り返った璃久は、そこに思いもよらぬ景色が広がっていて腰を抜かした。
ベランダの手摺りを越えた先の、アパートの五階から見下ろした高い景色が、瑠夏側と同じような四角く切り取った向こうに広がっていたのだ。
「俺の家、なのか……?」
やはりあの時自分はベランダから飛んだのだとその景色を見て確信する。そして同時に、璃久は今、岐路に立たされているのだと理解した。
元の世界と異世界。進むか、戻るか。どちらかを選ばなくては、璃久はずっとこの真っ暗な世界に閉じ込められたままなのだ。
ここは狭間の世界。元の世界と異世界を繋ぐ、連絡通路のような場所なのだ。
そうこうしているうちに瑠夏が戻ってくる。ドタドタと足を縺れさせるような騒々しい音が扉の向こうから聞こえてきて、殊更ゆっくりと扉が押し開けられた。
「瑠夏!」
辛うじてドアノブに掴まっていた瑠夏の体がふ、と力を失って扉ごと部屋の中に倒れ込んでくる。瑠夏の着衣が乱れていた。肩に掛けていただけのコートがずれ落ち、白いシャツは胸元まで大きくはだけられている。
「おい瑠夏、返事しろ!」
呼び掛けても応答がなく、不安になって何度も壁を叩く。
瑠夏は死んだはずだ。しかも璃久にとんでもない呪いを遺していった。
璃久は瑠夏を恨んだし、どうやら瑠夏も璃久を恨んでいたらしい。
それでも何かがあったと一目に分かる様子で弱々しく床に這いつくばって動かない瑠夏を見ると胸がざわついた。ムカムカしてきて吐き気のようなものが上がってくる。
「瑠夏!!」
渾身の力を込めて名前を呼ぶ。手は壁を叩きすぎて痛い。
すると瑠夏の体が震えて肘を突いてどうにか起き上がった。瑠夏はそのまま肘と膝で床を這いながら、璃久の方へと近付いてくる。
「瑠夏……」
「瑠夏じゃ、ないんだ。僕は、ルーク」
透明な壁に突いた璃久の手に、瑠夏の手が重ねられる。壁越しのはずなのに熱を感じた。
「君の好きだった瑠夏は、死んだ」
壁越しに瑠夏と合わさっていた両手が不意に泥濘んでいくような感覚が生まれ、硬い壁の抵抗感が消えていく。瑠夏の手は璃久の両手に絡んでしっかり掴み、壁を抜け出てきた璃久を狭間の世界から引きずり出した。
「ようこそ、異世界へ」
壁から上半身だけ抜け出し床に這いつくばるような姿勢の璃久に瑠夏はあやしく微笑みかけると、突然舌を思い切り噛んだ。
「お前何し、て……」
どくどくと溢れ出してくる濃い真っ赤な血液が瑠夏の唇を汚し顎に垂れていく。その姿が瑠夏の顔とだぶった。いつか璃久の切れた指を舐めた日の、今よりもあどけなさの残る瑠夏の顔が、目の前の服をはだけさせてどこかうらぶれてしまったルークという男によって打ち消されていく。
恨みによって最奥に仕舞われていたものが引きずり出され、汚されていく。それはとても淡い、恋の形をしていたもので。
ドクン、と強く璃久の心臓が脈打ったのは、瑠夏の顎から伝った血が床に落ちた時だった。
「は……あ?」
ぎゅっと胃が急速に空っぽになって引き絞られるような耐え難いそれは飢餓感。目の前が真っ赤に染まるほど白い顎を伝っていく血に意識が持っていかれ、まるでそれが極上の食材のように見えてくる。
「璃久。君はこの世界で吸血鬼として生きるんだよ」
瑠夏が話し終えるのとほぼ同時、璃久は瑠夏の口に食らいついていた。激しい飢餓感に襲われて、頭の中はもはやそれ以外何も考えられなくなる。下顎に溜まった瑠夏の血を舌で掬って喉を鳴らし、顎に垂れた血も一滴も余さず舐めとっていく。それは口付けのような甘い行為などではなく、まさに捕食、吸血鬼になった璃久にとって初めての食事だった。
「ん……っ、空腹は、辛いよね」
分かるよと言って瑠夏は傷になっている舌を自ら食えというように璃久へと差し出してくる。厚くてざりざりとしたそれを自分の咥内に迎え入れ、まるで飴を舐めるように傷のある辺りを、甘い味が染み出してくる箇所を舐めて吸って飢えを癒やしていく。
甘い。血が甘いのだ。
『しょっぱ』
と、璃久の血を舐めて笑っていた瑠夏の記憶が過る。
蜂蜜のように濃厚で、砂糖のように混じりけのない純粋な、そしてアルコールのように理性を奪っていく禁断の甘さが脳を痺れさせ、次第に満足していく。腹が満たされると共に獣のように興奮していたものも落ち着いていった。
「はぁ……っ。俺に……何をした?」
「吸血鬼にした」
事も無げに言って、璃久から手を離す。自分の重さを支えられなくなって璃久が床に突っ伏すと、瑠夏は扉から這ってきた姿が演技だったかのようにすっと立ち上がって璃久を見下ろした。
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