瑠璃色の吸血鬼は異世界で死を誓う

沖弉 えぬ

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2再会への導線

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「あなたのせいよ」
 瑠夏が死んで数日後、その女は璃久の家に突然現れて、包丁を振り回しながら取り憑かれたような様子で言った。瑠夏の母親だった。
 顔を合わせた事など一度もなかったはずなのに、瑠夏の母親はどこからか璃久の事を聞きつけて家にやってきて璃久の事を殺そうと包丁を突きつけた。
「あなたのせいで瑠夏が死んだのよ!!」
 父がかすり傷を負いながらもどうにか取り押さえ、警察を呼んで何とか事態の収拾がついたと思った、実にその翌日だった。
「璃久くんのせいらしいよ」
 誰がそんな噂を最初にし始めたのかは分からない。警察を呼んでそれなりの騒ぎになったので、瑠夏の母親の事が知られたのかも知れない。
 いつの間にか瑠夏が死んだのは璃久のせいという事が真実になっていた。
 璃久は当然反論したが誰も耳を貸してくれない。おかしいだろ。仮に矛先が向かうとしたら瑠夏を虐めていた棚橋たち三人のはずなのに、璃久が瑠夏に付きまとっていたという噂があっという間に学校中に広がっていった。
 肩身の狭い中で過ごす高校生活はまさに針の筵のようで、教室にいても廊下に出ても視線が璃久を追ってくる。文化祭のような全校で行う行事の日は最悪で、クラスどころか学年が違う生徒からも見られている気がして半日も学校に居られなかった。
「先生、トレイ」
 吐き気を堪えきれず許可が出るより先に席を立ち上がる。
 また? と女子の笑う声がする。「先生はトレイじゃないぞ」という教師のふざけた返しに傷付く余裕もないまま席を立っていそいそと教室を出ていく。
 トレイに行っても戻す訳ではなかった。大抵廊下に出て、授業中の誰も自分を見ていない静かな場所を進んでいくうちに治まってきて、トイレに着く頃には吐き気はどこかへ行っていた。
 瑠夏が死んでからの一年半、高校を卒業するまでの時間はあまりに長く璃久を苦しめた。
 それでも高校の間だけだと自分に言い聞かせて大学へ進学したものの悪夢は続いていた。棚橋、大楠、博田の三人も璃久と同じ大学に進学していたのだ。元々成績はそれなりに良かった璃久だったが、授業を途中で抜けたりする事が増え内申が下がり、テストの点数も赤点を取らないようにするので精一杯で大学のランクを落とすしか無かった。それがまさか璃久に悪夢の続きを見させる事になるなんて、それこそ夢にも思わなかったのだ。
 学部が違えば選択している講義もまるで違うはずなのに、学食で出くわした春の終わり頃からまた「クラスメイトを自殺に追いやったクズ」という噂が広まり始め、弁解の余地さえなく孤立した。
『璃久くんのせいらしいよ』
 それは違うと否定した。だけど本当に? と時々知らない誰かの声が璃久に問う。
 高校とは比較にならないくらいの人数が通う大学で、高校の時のようにクラスというひと塊の単位で動く必要がなく情報は共有されにくいはずなのに、本当かどうか分からない不気味な噂というものは人々の興味を引き付けるのか信じられない速度で広まっていく。せめて就活に影響しなければいいやと璃久が諦めに入るのは早かった。
 高校二年の秋から大学の四年間、璃久は好奇の目に晒され続けながら学校で一人で過ごした。噂が風化するとその都度誰かがご丁寧に噂をまた流しているかのように、璃久は『人殺し』のレッテルを剥がす事が出来ない。
 いつかきっと終わるんだ。そうやって自分に言い聞かせ、覚めない夢はないと思い続けて耐えて、ふとした時に瑠夏を思い出しては勝手に死んだ瑠夏を恨んで、日常を生きるともなしに生きる。視線による嘔吐感は悪化して、我慢がきかずに講義中に吐いた事もあった。
 それでも、それでもと思えたのはやはり必ず終わりがあったからだ。大学を卒業してしまえばこの地獄は必ず終わりがあるものだった。
 就活への影響を恐れていたが大学のランクを落としたおかげでかえって勉強は楽になり、更に友達も作れず机に向かうしかやる事のなかった璃久は特に何につまづく事もなく内定を貰えていた。
 内定が決まると璃久の気持ちもいくらか楽になった。いよいよ終わりがはっきりと形になって迫ってきて、嘔吐は少しマシになって体重も戻りつつあった。



 大学を出た後、小さな総合商社でシステムエンジニアとして働き始めた璃久だったが、その多忙に加えて大学時代までの苦労とはまた違う苦労を背負う事になった。
『璃久くんのせいらしいよ』
 それは璃久にとって呪いのようになっており極端に責任を負わされる事を不安に感じるようになった璃久はやる事なす事全て指示通りにしか動けなくなっていた。臨機応変に対応する事が出来ず、長い間他人との交流も薄かったせいで会社の人間とも上手くコミュニケーションが図れない。
 そのうちに、璃久は雑用係りのような状態になっていく。「これお願いね」の一言で様々な雑務を任されて、日に日に残業が増えていく。
 だけど断ればまた璃久の責任にされるかも知れないと思うと怖くなった。
 吐き癖こそなくなったものの、今度は残業で寝食がおろそかになり体調がおかしくなっていく。社会人になると同時に一人暮らしを始めたおかげで誰も璃久の体調を気遣ってくれる人はなく、痩せて顔付きはますます暗く見えるようになって、生きながらにして死人のような気配を放っていた。
 入社して二年目に総務部に異動になった。当然の采配だと思っていたが、異動先の上司が璃久の事を心配して人事部に掛け合ったのだそうだ。全く違う部署の噂が入ってくるくらいには小さな会社だったが、この異動は璃久にとって七年ぶりに差した僅かな光明だった。
 どうせどこでどんな環境で働こうが自分は変わらないと思っていた璃久を上司はどうにか元気づけようとして、時々会社帰りに食事に連れて行くようになった。
 璃久に雑務が集中するような事もなくなって、半年経つと少しずつ璃久の意識も変わってきたある秋の日。
 上司に連れられてとある大衆酒場を訪れた。大声で酔っぱらっているサラリーマンが居て、すぐに店を変えようかという事になったが、半個室の部屋から出て来た酔客が璃久を見つけて「ああ!!」と叫ぶ。
「お前、あれじゃん、瑠夏ちゃん殺しのりっくんじゃんー」
「棚橋……」
 一気に血の気が引いていく。キン、と耳鳴りがしてあっという間に心を学生の頃へと連れ去られる。
 ニキビ面に大きな鼻が特徴の意地の悪そうな顔を忘れた事はない。瑠夏の事を中学の時から虐め続けていた三人組のリーダー格の男だ。そして大学で璃久の余計な噂を広めた諸悪の根源。
「お前のせいで……っ」
「はあー? りっくんのせいで瑠夏ちゃんが心を病んじゃったんだろー?」
 吐き気がせり上がってくる。今日は朝からろくに何も食べていないのに、胃が何でも良いから吐き出そうとして収縮している。
 口元を押さえて息を止めると涙が滲んだ。
「き、君は一体何なんだ?」
「俺ですか? そいつの同級生ですよ。そんでそこの暗いやつは、同じクラスの男に惚れてストーカーして、そんでもって自殺させちゃったクソ野郎ですよ」
 ゲラゲラと、瑠夏を揶揄っていた時と同じ下品な笑い声が聞こえてきて目眩がした。立っていられなくなって、その場で胃液を吐き出し、仲裁に入った店員に救急車を呼ぶかと言われたが断って、ほとんど這うようにして店を出た。
「さっきの男が言っていたのは、本当の事なのか? その君のせいで……」
 璃久に訊ねる上司の顔は、完全に軽蔑したものだった。
 璃久は知っていた。そういう顔をした人間にはどんなに否定したところで、心の中では信じてもらえない事を。そうして遠巻きにされていつの間にか璃久の周りから姿を消していく事を。
 もう、否定するのが面倒だった。何も言わないでいると、上司は諦めたように無言で帰っていく。心底汚らわしいものを見る目を璃久にくれながら、数ヶ月仕事を教えてきた部下より酔客の一言を信じて上司は璃久を置き去りにした。親切心で異動までさせて助けてやったのに恩を仇で返しやがって。そんな幻聴が聞こえた気がした。
『璃久くんのせいらしいよ』
 本当にそうなのかも知れない。
 吐き気が治まると璃久は自力で一人暮らしを始めたアパートに帰ってきていた。どんな風にして帰ってきたのかは覚えていない。入社一年目にはよくあった事で今更の驚きはなかった。
 ――もう、いいや。
 いつの頃からか、気付けば璃久の足元に敷かれていた死の導線に足を掛ける。それは真っ直ぐベランダに向かっている。
 こんな時に作法、というものが頭に浮かんだ事に失笑して、俺ってまだ笑えたんだなぁとぼんやり考えながら靴を揃えると、璃久は手すりを軽々と越えてしまう。部屋の方を向いて手摺りを掴んで立つと、窓にスーツ姿の酷い顔をした男がこちらを見ていた。それが璃久自身の姿だと、璃久にももう分からなかった。
 高さは五階。きっと、十分だろう。
 璃久は目を閉じる。音が消えて、肌を撫でる風の感触が消えて、最後に残ったのはあの少年への恨みだった。
 一人で勝手に死んだ瑠夏への恨みだけを持って、璃久もまた死んだ。



 バンッ、という何かを叩きつけるような音を聞いた気がしたところで目が開いた。
 頭の中が真っ白だ。目の前は対象的に真っ暗で何も見えない。暫く考えるという事が出来なくて、床らしき所に突いた手や尻、足の裏の感触を意識が拾い始めて少しずつここがどこなのかという事を考え始める。
 聴覚、触覚の次は視覚が戻ってきた。実際には戻ってきたというよりスイッチのように突然パチンッと点灯し、目の前に四角い光の板のような物が現れた。
 目を凝らす。すぐに白く光っている中に様々な色が現れ始めて、特に目を引く青い色を視線が追い掛けた。それは信号のようにパチパチと点いては消えてを繰り返す。
 そのうちあらゆる色の輪郭がはっきりと形を取って、そして同時にくぐもったような音が、光の向こうから聞こえ始めた。
 男の声だ。それはあられもない嬌声というやつで、ドキリとしたその一瞬後、青く点滅していたものと目が合った。
「お、前……っ」
 自分の声が出た事に驚く暇さえもなく、青い点滅――青い双眸に目を奪われて、白い光だったものの縁に手を突きたまらず叫んでいた。
「瑠夏!!」
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