19 / 29
二章
19次の邑へ
しおりを挟む
外では朝日が昇る時刻、トキがむっくりと起き出した。薄っすらと覚醒した意識の中で、ヒヨクを起こさないよう慎重に寝台から降りていく気配を感じ、目が覚めた瞬間から何だかほわほわと胸のところが温かい心地になった。
「おはよう、トキ」
手探りで火折子を手繰り寄せたトキが熾火になっていたストーブに薪を足して火を強くしている。
「おはよう。起こしちまったか?」
室内が明るくなって、トキの起き抜けのまだ少し眠たげな顔が見えた。
「お主になら起こされても構わぬ」
「それってどういう意味だよ」
「共に同じ朝を迎えたという気がして、気分が良い」
「お、まえ……っ」
すっげぇ殺し文句、と呟くトキの声はヒヨクには聞こえなかった。
窓を塞ぐための木戸を横に引くともう一枚窓には戸がしてあった。寒い地域ならではの工夫というやつだ。戸は押し上げれば開きそうだったがどうせ寒いだけなので諦めた。音を聞く限り吹雪は収まっているようなのでそれで十分だ。
残り僅かな携行食の餅を温めて朝食にする。このほんのり甘いようなボケた味の餅を食べるのも随分慣れた。携行食は邑によって違う物が売られているが、大抵搗いた餅を粗めに砕いたものばかりで、旅先ではそれを水に溶いて食べる。火がなくて焼いたりする事が出来なくても困らないよう固形ではなく粉状にしているという。他には漬物もよく手に入れる事が出来た。塩味がこんなにも美味いと感じるとは、王宮の食卓の贅沢ぶりをよく理解した。
「そろそろ行くか」
「うむ」
「次はいよいよ獬だな」
「ああ、楽しみだ」
トキは期待しない方がいいぜ、と言う。だがこの男が生まれ育った土地と聞いて期待せずにはいられない。
冬の山歩きは相当危険なので、必ず決まった道を行かなくてはならない。吹雪で進むのは厳禁。ヒヨクの履いていた靴が雪にはあまり適さないという事で犴の邑で服一着と交換してもらった。
昼を過ぎた頃からぐんと寒くなった。後ろを振り返ると緩やかな傾斜が続いている。もはや本格的な冬という表現では足りない。まさに極寒だ。
外套の襟をきつく寄せて外気を吸い過ぎないよう気をつけて進む。前に蛟を訪れた時でさえも既に雪が積もっていて十分に寒かったが、あれでもまだ序の口だったのだと思い知る。
犴から獬まで一箇所だけある休憩小屋に辿り着いたのは日が傾き始めた頃。日が暮れると一段と寒くなる。本来危険なので夜には火が落ち着くように調節するが、ヒヨクがあまりに寒がるので長めに燃えるようたくさん燃料を使ってくれた。
さすがにトキはよく燃える木を見付けてくるのが上手い。雪で湿っていない枯れ木などこの一面真っ白のどこから見付けてくるのか不思議でならない。コツがあると言って得意げに笑っていた。都に居た時はさておき田舎へ入るととても頼りになる男だ。
「お主が双子に偏見が無い理由は分かるが、オメガの事もあまり気にしておらぬな? 自らオメガに化けてくるくらいだしな。何か理由があるのか?
「俺んち母さんがオメガなんだよ」
なるほど道理で双子に限らずオメガにも理解があるのだ。
「この国の禁忌と偏見詰め込みましたみたいな家でさ、しかも俺はアルファときた。ベータの親父も合わせて賑やかだろ?」
「ふむ……いや、なるほど」
「あと、獬でのオメガは犴みたいじゃねぇよ? ただ、仕事とかは男と女で分けがちだからオメガの男は苦労するな。時期によって狩りをするから、槍持たされてイノシシの前に立たされてビクビクする事になる」
想像してゾッとした。
「あっはは、ヒヨクが行かされる訳じゃねぇんだからびびんなって。だからまぁそういう意味じゃ平等だよ。気の毒だけど」
ヒヨクは柔術を習得している。護身術だ。それでも身につけるのにアルファやベータには無い苦労をした。
やはり強すぎる気迫や怒気のようなものを感じると、体が危険を感じて勝手に怯えてしまう。気持ちの上では抗おうとしても、本能が怖いと言って逃げ出そうとする。それを抑えつけて技を学ぶのは大変だった。
「オメガって珍しいからあんまみんな分かってねぇんだ。同世代に一人居るかも怪しいし。俺も母さんが居なけりゃ何がそんなに怖くてびびっちまうのかもっと分かってなかったと思うよ」
「お主の中では『違う事』が当たり前なのだな」
「全員が『違う』中で育ったからだよ。環境ってやつ」
トキは事もなげに言って腐りかけの木の椅子に凭れかかる。トキは敷き物として使うために麻の布を携帯しているが、休憩小屋では専らヒヨクに貸してくれていた。
何故だろう、家族の事について話し穏やかに笑うトキを見ていると、ふと親切をしたくなった。トキに気に入られたい、と思ったのかも知れない。
「トキ、こちらに参れ」
「へ?」
「椅子は硬いだろう」
「あ、そういう……じゃあ遠慮なく」
二つに畳んだ敷き物は二人で並んで座るとそれで満員だった。思いの外近くにトキの気配を感じて自分から提案したくせにどぎまぎとしてしまう。
トキの傍は心地よい。高鳴る胸は時々苦しくなる事もあるが、離れたいとは思わない。こちらから明かす前に色々な事を知られていたせいだと思っていたが、今は違うとはっきり自覚している。
トキと居る時、ヒヨクは自分をオメガ以外の何かに見せるよう振る舞わなくていい。トキは双子ヒオの話をしても嫌な顔をしない。それは我慢しているとかそういうものではなく、自然と双子というものを受け入れているから嫌悪する感情そのものが湧かないのだ。
世界がこうあれば、ヒヨクはもっと、楽に生きられたのだろうかと幻想を抱く。だけどヒヨクはセイシンの王子だ。ヒヨクは世界に願うのではなく、世界を変えていくべき者。
王にはなれないのに? という至極冷たい声が聞こえた。
「トキ、俺は先生を見つけたい」
「ん? おう」
「ヒオを治したい」
それから、それから自分は、王子であれる間にもっと何かを果たさなくてはいけない。そんな気がしている。
「あれ、寝ちまった?」
トキの声が水の外から聞こえる音のようにくぐもっていた。寝そうになっているからだ、という事すら考えられなくなるとヒヨクは眠っていた。
「おはよう、トキ」
手探りで火折子を手繰り寄せたトキが熾火になっていたストーブに薪を足して火を強くしている。
「おはよう。起こしちまったか?」
室内が明るくなって、トキの起き抜けのまだ少し眠たげな顔が見えた。
「お主になら起こされても構わぬ」
「それってどういう意味だよ」
「共に同じ朝を迎えたという気がして、気分が良い」
「お、まえ……っ」
すっげぇ殺し文句、と呟くトキの声はヒヨクには聞こえなかった。
窓を塞ぐための木戸を横に引くともう一枚窓には戸がしてあった。寒い地域ならではの工夫というやつだ。戸は押し上げれば開きそうだったがどうせ寒いだけなので諦めた。音を聞く限り吹雪は収まっているようなのでそれで十分だ。
残り僅かな携行食の餅を温めて朝食にする。このほんのり甘いようなボケた味の餅を食べるのも随分慣れた。携行食は邑によって違う物が売られているが、大抵搗いた餅を粗めに砕いたものばかりで、旅先ではそれを水に溶いて食べる。火がなくて焼いたりする事が出来なくても困らないよう固形ではなく粉状にしているという。他には漬物もよく手に入れる事が出来た。塩味がこんなにも美味いと感じるとは、王宮の食卓の贅沢ぶりをよく理解した。
「そろそろ行くか」
「うむ」
「次はいよいよ獬だな」
「ああ、楽しみだ」
トキは期待しない方がいいぜ、と言う。だがこの男が生まれ育った土地と聞いて期待せずにはいられない。
冬の山歩きは相当危険なので、必ず決まった道を行かなくてはならない。吹雪で進むのは厳禁。ヒヨクの履いていた靴が雪にはあまり適さないという事で犴の邑で服一着と交換してもらった。
昼を過ぎた頃からぐんと寒くなった。後ろを振り返ると緩やかな傾斜が続いている。もはや本格的な冬という表現では足りない。まさに極寒だ。
外套の襟をきつく寄せて外気を吸い過ぎないよう気をつけて進む。前に蛟を訪れた時でさえも既に雪が積もっていて十分に寒かったが、あれでもまだ序の口だったのだと思い知る。
犴から獬まで一箇所だけある休憩小屋に辿り着いたのは日が傾き始めた頃。日が暮れると一段と寒くなる。本来危険なので夜には火が落ち着くように調節するが、ヒヨクがあまりに寒がるので長めに燃えるようたくさん燃料を使ってくれた。
さすがにトキはよく燃える木を見付けてくるのが上手い。雪で湿っていない枯れ木などこの一面真っ白のどこから見付けてくるのか不思議でならない。コツがあると言って得意げに笑っていた。都に居た時はさておき田舎へ入るととても頼りになる男だ。
「お主が双子に偏見が無い理由は分かるが、オメガの事もあまり気にしておらぬな? 自らオメガに化けてくるくらいだしな。何か理由があるのか?
「俺んち母さんがオメガなんだよ」
なるほど道理で双子に限らずオメガにも理解があるのだ。
「この国の禁忌と偏見詰め込みましたみたいな家でさ、しかも俺はアルファときた。ベータの親父も合わせて賑やかだろ?」
「ふむ……いや、なるほど」
「あと、獬でのオメガは犴みたいじゃねぇよ? ただ、仕事とかは男と女で分けがちだからオメガの男は苦労するな。時期によって狩りをするから、槍持たされてイノシシの前に立たされてビクビクする事になる」
想像してゾッとした。
「あっはは、ヒヨクが行かされる訳じゃねぇんだからびびんなって。だからまぁそういう意味じゃ平等だよ。気の毒だけど」
ヒヨクは柔術を習得している。護身術だ。それでも身につけるのにアルファやベータには無い苦労をした。
やはり強すぎる気迫や怒気のようなものを感じると、体が危険を感じて勝手に怯えてしまう。気持ちの上では抗おうとしても、本能が怖いと言って逃げ出そうとする。それを抑えつけて技を学ぶのは大変だった。
「オメガって珍しいからあんまみんな分かってねぇんだ。同世代に一人居るかも怪しいし。俺も母さんが居なけりゃ何がそんなに怖くてびびっちまうのかもっと分かってなかったと思うよ」
「お主の中では『違う事』が当たり前なのだな」
「全員が『違う』中で育ったからだよ。環境ってやつ」
トキは事もなげに言って腐りかけの木の椅子に凭れかかる。トキは敷き物として使うために麻の布を携帯しているが、休憩小屋では専らヒヨクに貸してくれていた。
何故だろう、家族の事について話し穏やかに笑うトキを見ていると、ふと親切をしたくなった。トキに気に入られたい、と思ったのかも知れない。
「トキ、こちらに参れ」
「へ?」
「椅子は硬いだろう」
「あ、そういう……じゃあ遠慮なく」
二つに畳んだ敷き物は二人で並んで座るとそれで満員だった。思いの外近くにトキの気配を感じて自分から提案したくせにどぎまぎとしてしまう。
トキの傍は心地よい。高鳴る胸は時々苦しくなる事もあるが、離れたいとは思わない。こちらから明かす前に色々な事を知られていたせいだと思っていたが、今は違うとはっきり自覚している。
トキと居る時、ヒヨクは自分をオメガ以外の何かに見せるよう振る舞わなくていい。トキは双子ヒオの話をしても嫌な顔をしない。それは我慢しているとかそういうものではなく、自然と双子というものを受け入れているから嫌悪する感情そのものが湧かないのだ。
世界がこうあれば、ヒヨクはもっと、楽に生きられたのだろうかと幻想を抱く。だけどヒヨクはセイシンの王子だ。ヒヨクは世界に願うのではなく、世界を変えていくべき者。
王にはなれないのに? という至極冷たい声が聞こえた。
「トキ、俺は先生を見つけたい」
「ん? おう」
「ヒオを治したい」
それから、それから自分は、王子であれる間にもっと何かを果たさなくてはいけない。そんな気がしている。
「あれ、寝ちまった?」
トキの声が水の外から聞こえる音のようにくぐもっていた。寝そうになっているからだ、という事すら考えられなくなるとヒヨクは眠っていた。
0
お気に入りに追加
34
あなたにおすすめの小説
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
運命の息吹
梅川 ノン
BL
ルシアは、国王とオメガの番の間に生まれるが、オメガのため王子とは認められず、密やかに育つ。
美しく育ったルシアは、父王亡きあと国王になった兄王の番になる。
兄王に溺愛されたルシアは、兄王の庇護のもと穏やかに暮らしていたが、運命のアルファと出会う。
ルシアの運命のアルファとは……。
西洋の中世を想定とした、オメガバースですが、かなりの独自視点、想定が入ります。あくまでも私独自の創作オメガバースと思ってください。楽しんでいただければ幸いです。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
1/27 1000❤️ありがとうございます😭
春風の香
梅川 ノン
BL
名門西園寺家の庶子として生まれた蒼は、病弱なオメガ。
母を早くに亡くし、父に顧みられない蒼は孤独だった。
そんな蒼に手を差し伸べたのが、北畠総合病院の医師北畠雪哉だった。
雪哉もオメガであり自力で医師になり、今は院長子息の夫になっていた。
自身の昔の姿を重ねて蒼を可愛がる雪哉は、自宅にも蒼を誘う。
雪哉の息子彰久は、蒼に一心に懐いた。蒼もそんな彰久を心から可愛がった。
3歳と15歳で出会う、受が12歳年上の歳の差オメガバースです。
オメガバースですが、独自の設定があります。ご了承ください。
番外編は二人の結婚直後と、4年後の甘い生活の二話です。それぞれ短いお話ですがお楽しみいただけると嬉しいです!
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(10/21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
※4月18日、完結しました。ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる