うそつきΩのとりかえ話譚

沖弉 えぬ

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一章

16足跡は消えても

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 農夫ならそろそろ畑に着いて鍬を構えているような時間帯、通りを行き交う人がちらほら増え始めた頃に『蕎麦』の暖簾が出ているのは都会ならではだとトキは思う。店の通りに面した窓に板を継いだだけの簡単な屋根を取り付けて屋根の下に台を設置すると、立ち食い蕎麦処の出来上がりだ。とてもではないが田舎では流行らない。流行るほど人が居ないのだ。
 美味しそうな醤油の匂いに釣られて先に店の場所を嗅ぎ当てていたヒヨクに手招きされて一杯ずつ蕎麦を啜った。極限まで腹を空かせていたのであたたかいつゆと歯応えのある麺をほとんど飲み込むようにして胃に収めてしまった。
 腹ごしらえをした後は宿で支度を整え質屋に顔を出した。店主には「戻ってくるんじゃないかと思ったよ」と言われて昨日質草として渡したはずのものを見せられた。
 散々店の中で騒いだ迷惑な客だったろうに、文句を言うでもなく本当に必要なものは売らずに取っておけと釘をさす。良い人だ。烏の村の人間はみな人情味がある。
「ありがとなオヤジ。物の価値をちょっとくらいちょろまかしてても文句言わねぇよ」
「口の減らねぇ兄さんだな。いつまで家出すんのか知らねぇが、いっときの感情で大事なモンまでいい加減に扱っちまうのは子供のすることだぜ」
「肝に銘じとく」
 ヒヨクも隣でうんうんと頷く。昨日の喧嘩と今朝の仲直りを経た今、店主の言葉は身に染みた。

 ヒヨクによるとツキヒが番になるかも知れないという話は、宮廷の仕組んだものだろうという話だった。王子が秘密をどこからか聞きつけ脅してくるような廷臣にはいくらか心当たりがあるそうだ。今朝はその事を考えながら『あめふり屋』の前まで来ていた。店が開けば双子と知られてでも事情を聞くつもりだったが、トキが来たおかげで冷静になれたと言われた。
 そんな風に言われるとむず痒い。トキは特に何もしていない。
「ツキヒの事どうする? ヒオが決めた訳じゃねぇって話すか?」
「あくまで俺の推測に過ぎぬ事を話してもし違っていたらどうする? それにいかに王子といえど廷臣に脅されているなどと赤裸々になる訳にもいくまい」
 ツキヒの名を出すとヒヨクはツンとなってトキの提案を否定した。「怒ってる?」と訊くと「怒ってない」と返ってくる。何だか嫉妬されているようで顔がにやついてしまう。そんなはずはないんだけれど。
「じゃあ、都には戻らなくていいんだな?」
「な、何だ奇妙な顔をしおって。都には戻らぬ。俺のなすべき事は変わらぬからな」
 本当にそう思っているような声音だが、どこか無理をしているようにも聞こえる強張りがある。半ば自分に言い聞かせているのだろう。
「医者を見つけるってやつか?」
「そうだ。そのためにもお主の出身である獬には一度行っておきたい。先生の行方が断たれた蛟の邑の隣だからな」
 獬にはもちろん帰りたいので異論はない。二人旅はまだまだ続くようだ。
 ツキヒの事は少し気掛かりだったが今のトキにしてやれる事はない。ツキヒの事を話題に出すとヒヨクが途端に取り合わなくなる事もあり、挨拶はせずに発つ事に決める。
 携行食や水を補給してから、次は北を目指す事になる。
 烏の邑の次は狐の邑だ。烏と同じ月の大邑に属する邑で、この辺りから都会の華々しい空気とは縁がなくなってくる。散々悩んだ後で蜂蜜の入った壺を諦めたヒヨクの籠は随分軽くなったようで、烏に着くまでと比較すると足取りがとても軽い。おおよそ予定通り狐の邑に辿り着き、宿を一晩取って、更に北へ。
 狐の乾燥した地域を抜けるととうとう雪がちらつき始めた。いよいよ獬も属する木の大邑に入ったのだ。
 木の大邑に入ると景色は一変する。まず目につくのは白樺の樹林だ。高地の寒い地域の日当たりのよいところに群生する特徴があるので、まさに北の高地に位置する木の大邑ならどこでも見る事の出来る樹木だ。
「たくさん自生してるから北じゃよく食器に使われてる。あと葉っぱは茶にするんだ」
「白樺の茶があるのか?」
「そう、俺は好きだぜ。後、樹液は飲む」
「樹液を飲むのか!?」
「ふはっ、飲めるんだって。都じゃ見ないかも知れないけど、こっちじゃ春の定番。採れる量はあんまり無いから女たちが血で血を洗うような争いの果てに戦利品として……嘘、嘘だよ」
 何を想像したのかゾッとして青くなるヒヨクを見てうっかり彼がオメガであった事を忘れていたと慌てて話の方向を修正する。
「でも人気なのは本当だぜ。いつか春の獬に来いよ! そしたら飲ませてやる!」
 に、とトキが笑うと大きく目を開いてすぐに逸らし、また戻ってくる時にはうかがうような確かめるような何かの意味が籠った視線に変わる。
 気のせいでなければあの喧嘩以来、ヒヨクの態度に変化があった。上手く言葉に出来ないが、よその家で飼われていた子犬がトキの家にやってきたかのような、こちらと相手との距離を測りつつも遊んでほしくて尻尾はぶんぶん振り回しているような、トキへの『関心』が見え隠れする。
 興味を持たれるのは素直に嬉しい。トキはヒヨクの事を憎からず想っている訳で、そんな相手に無視されて喜ぶような趣味はトキには無い。発情期も落ち着いてきたのか彼から極端に強い匂いが漂ってくる事もなくなったので、比較的理性的にヒヨクとの距離を保てていた。
 良い感じだ、と思う。脅し半分に旅のお供を命じられるという非日常的な展開についていくのがやっとだったほんの二、三日前のドタバタしていた心の中も漸く整理がついてきて、冷静にヒヨクの事を好意的に思っている自分を見つめる事が出来た。
 だけどその気持ちを持て余しているのもまた事実だった。ヒヨクの置かれた立場というものがトキにはよく分からないからだ。
 双子忌避のあるセイシンという国で、ヒヨクとヒオがそのまま別々の存在として王子と認められるのはとても難しい事だ。そうすると一体どちらが王の世継ぎになるのだろうという疑問が生まれる。いくら二人で一人の王子を演じているといってもいつかは限界が訪れる。何せ二人、顔貌はそっくりでも性格が似ていないのだ。ヒオの方とは接触した時間が短すぎるが、間違っても張型を手ににこにこトキを誘ってくるヒヨクというのは想像出来ない。
 どちらか一方しか王になれないというのなら、王になれなかった双子の片割れは普通の兄弟として扱われるのかも分からない。
 ヒヨクは、王になるのだろうか? それとも王宮の奥に閉じ込められて一生を過ごすのか。ヒヨクの人生はこの先、どうなるのだろうか。
 トキは、自分の中に芽生えた想いを伝えていいのか、忘れなくてはならないのか、それが分からないでいる。候補戦に敗れたおかげで悲観的になっていたが、それはあくまで『アルファの王子の番』という嘘の存在を決める茶番だったと思うとひょっとして、なんて気になってくる。ひょっとして、トキにもチャンスがまだ残っているのだろうか、と。
「ヒヨクはさ、医者を見つけたらどうすんの?」
「都に来て頂けるようお願いする」
「ヒオはそんなに悪いのか?」
「今日明日にも、などという事はない。だとしたら俺は今ここにはいなかった。だが、無理のきかない体なのだ。少し風邪を引いただけで一ヶ月も寝込んだ事もあれば、食事が合わず戻す事も子供の頃はよくあった。双子である俺が外で馬に乗って剣を振っている間、ヒオは床に臥して悪夢にうなされていた」
 靴の底が真っ白な雪を踏みしめるザクッという独特の感覚にヒヨクが一瞬足を止める。今立っている場所が丁度土と積雪の境目になっていた。
「ヒオは昔『豹』の邑で療養していた時期がある」
「そこに医者が居たのか?」
 いいや、とヒヨクは否定して、「元は宮廷医だった」と説明する。
「ヒオの療養には南の暖かい気候が良いというのでヒオの療養に付き添うために先生も王宮を出たのだ」
 ヒヨクは何かの動物の足跡を見つけると、その横に沿って自分の足跡を付けていく。まるで過去に自分でつけた足跡をなぞるようにしてそろりと歩く。
「先生は北の蛟の生まれで、雪深い中に点々と古い木造の家屋が並んでいるという話を聞いてから、俺とヒオは『雪国』に夢中になった」
 ヒヨクの目に郷愁が宿っていた。ヒヨクは当時を思い出しながら『先生』の話をして聞かせる。
「先生の治療が合っていたのか一年の療養を経てヒオがとても元気になって都に帰ってきた。その頃、よく二人でいつか北に行こうと話した。火の大邑は雪は降れど積もらぬからな。南部はそもそも雪が降らぬ。俺とヒオにとって雪は憧れてやまない、手の届かぬ別世界の景色だった」
 トキにとっては雪は厄介な印象の方がよっぽど強い。一日でも雪かきを怠ると家が埋まる。生死に関わるので近年の豪雪にはほとほと困らされているのだが、雪を知らない人間にとってそれはまさしく絵物語の世界のように思えるのかも知れない。トキにとって青い海に馴染みが無いのと同じだ。湖と似たようなものかと思ったが全然違うと言われた事がある。
「俺もヒオも幼いが、出来る事が増えて得意になる年頃でもあった。六年前、十二の時だ。馬を一頭拝借して、後ろにヒオを乗せて二人で北を目指した事がある」
「とんでもねぇ王子様だな」
 ヒヨクがふ、と鼻から息を漏らすように笑う。自分でも当時の行動力が可笑しいらしい。
「結局どこまで辿り着けたのかは王宮の中で暮らしてきた俺には検討もつかなかったが、雪を見る事は叶った。一面に漆喰を塗りつけたかのような真っ白な光景に息を飲んだ事を覚えておる。だが、俺が覚えているのはここまでだ」
「……どういう意味だ?」
 ちょいちょいと手招きされてヒヨクの隣に立つと、手を取られてヒヨクの頭の後ろに引っ張られる。手の冷たさと、ヒヨクの意外な行動にドキリとしつつも努めて冷静なフリをして「どうした?」と訊く手袋を外せと言われる。
「ここに、ほら、ここだ。傷が残っているだろ。触ると分かる」
 指を添えられてここ、と導かれる。距離の近さや何だか積極的なヒヨクに胸を高鳴らせながら彼の薄紅の髪の根元を探るように指を動かす。と、すぐにぽこっと隆起した皮膚に当たった。それはミミズのように五センチほど伸びており鋭いもので切ってしまった傷跡のようだった。
「雪の重さで折れた木の枝の下敷きになって、その時俺はヒオを庇ったそうだ。七日七晩、昏睡し、八日目の朝目を覚ました俺は色々な事を忘れていた」
 あまりにも淡々とした語り口のせいで意味を理解するまで時間がかかった。
 ヒヨクの頭から手を離し、彼の顔を見てもそこには何の感慨も浮かんでいない。他人の事を話しているかのようだ。
「忘れた、って?」
「頭が痛い理由が分からなかった。侍女の顔が分からなかった。年齢を聞かれて六つと答えてすぐに違和感を感じたが、違和感の正体が分からない。それと――」
「待って、ごめんヒヨク」
 足りない気がして「言わせてごめん」と突き出した右手でヒヨクの口の辺りを覆うようにして謝るとヒヨクは苦笑する。「そう重く捉えるな」ヒヨクの吐息が手のひらに当たってドキッとして、手を下げる。
「生きていくのに支障は無かったのだ。頭の傷と少し過去の記憶を取りこぼしてきただけで、他に問題は無かった。だが、父、国王は心配性でな、俺の事を『ヒオの弟』だと教えた。一つ違いの兄弟で、兄はヒオ、弟はヒヨク。記憶が曖昧だった俺に陛下が教えて下さった」
 動物の足跡を追っていたヒヨクの足が止まる。降り続ける雪のせいで四つの指球と掌球が並んだ足跡が消えてしまっていた。
 ヒヨクは両手を組んでぐっと伸びをしたかと思うとすぐに縮こまって体を震わせた。
「寒い! 先の邑で笠を買うのを忘れてしまったな、のうトキよ」
 少しだけ先を歩いていたヒヨクがこちらを振り返る。本人の言う通り寒さで鼻の頭や頬が赤くなっていたが、暗い気配はどこにもない。かえってその事が、トキの胸を握り潰すように痛みを与えてくる。
「つまらぬ話をした。だが、お主には無理を言って付き合わせておる手前、多少はこちらの事情を話しておくべきと思ったのだ」
「気になっちゃ、いたけどよぉ」
「何だ張り合いのない。もそっと図々しくなるが良い。お主と喧嘩をした翌朝に思ったのだ。お主の事は信用出来るとな。理由は訊くな。俺は言葉は上手くない」
「勝手だな、ったくよ」
 遅れた距離を取り戻すために小走りになって追いつきヒヨクの隣に並ぶ。トキが横に来たのを見て、ヒヨクはまた歩き出した。足跡もすぐに雪に浚われてしまう真っ白な銀世界を二人、まだまだ北を目指して進む。
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