うそつきΩのとりかえ話譚

ちゅうじょう えぬ

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一章

13芽吹き

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 竈に入れておいた燃料がすっかり燃え尽きてしまった夜半過ぎ、寒さで目が覚めた。それと尻が痛い。日中の猫救出劇で打ち付けた尻と腰は軽い打ち身になっていたようで押すと痛みがある。休憩小屋に寝台が備え付けてあるのは稀なので、それぞれ部屋の端と端に分かれてトキは地べたにそのまま座り込んで、ヒヨクは例のやたら重たい籠からそれらしい布を引っ張り出してきてそれに包まって眠りについた。それが二、三時間前の事だ。
 火が消えて完全に闇に落ちた室内に、熱っぽい息遣いがこだまする。小屋には物がほとんどないので端と端に居ても音が響いてくる。
「は……っ」
 艶っぽい気配の混じる吐息に心の中でひぃと悲鳴を上げてトキは自分の膝を強く抱き寄せる。両腕に鼻を押し付けて、服についてしまった煙の匂いを嗅いで必死に気分を紛らわせる。
 一発抜けば、なんて口走った己を呪いたい。確かにこんな色っぽい展開を期待しなかったと言えば嘘になるのだが、いざオメガの据え膳のような展開が来ると自分は情けなくも混乱してしまうのだと気付かされた。
 トキには経験が無い。恐らくそのせいでこういう時どうするのが正解なのか分からなくなってしまうのだ。悔しいが今のトキに出来るのは狸寝入りで自分を慰めるヒヨクに気付いていないフリをするしかない。
「んっ」
 そんなトキの葛藤など知らず、時折ヒヨクの抑えた声がしてはトキを誘惑してくる。
 見たい。性的な事にあまり敏くなさそうなあのヒヨクがどんな顔をして自慰をしているのか、見たくてたまらない。
 何度目かのか細い嬌声が聞こえた時、堪えかねて腕から顔を上げてしまった。
 木戸が壊れて半分空きっぱなしの窓から憎らしい事に月光が漏れてきて、ヒヨクの姿をうっすらと闇夜に映し出す。
 ヒヨクは左手を上衣の下へ入れ、右手を下衣の中へと入れて自慰に夢中になっている。月光に切り取られた顔の半分は一目でそうと分かるほどはっきりと欲情が浮かんでおり、釣られてトキの手も股の間へと伸びる。
 そこには完全体のトキが辛うじて服に収まっていた。
 このまま触らずにいるなんて気が触れそうだ。股の辺りの布をぎゅっと掴んで耐えていたが限界を感じてズボンの中に手を入れる。
 オメガの匂い。甘い匂い。だけど甘いだけではない、脂や汗が微かに混じった人間の肌から立ち上る官能的な匂いに脳の芯を麻痺させられる。本当に、ヒヨクオメガの事をトキアルファに任せようと言ったどこかの誰かは考え無しだ。それか、きっとその人はアルファでもオメガでもないのだろう。こんなにも強い衝動を、理性だけで抑えつける事の不条理さに想像さえ及ばないのだ。
 アルファとオメガの間で起こるその欲求は、よく渇きや飢えに例えられる。そして欲求を我慢するアルファとオメガは言葉の通じない野生の獣だ。
 唸り声も出せないほど渇き飢えている狼に、活きのいい羊を縄で縛って与えるとどうなるのか。狼に束縛するものが無ければ次の瞬間には羊は狼の糧となり果てる。
 オメガから溢れ出す蠱惑的な匂いに抗うというのは、それと全く同じ事なのだ。
(くそ……!)
 いきり立つ自身のそれを握り込むともう止められなかった。自分の好きなところを好きなように擦ってとにかく早くと念じながら一心不乱に手を動かす。自分の腕に歯を立てて懸命に声を漏らさないように、ただとにかく出すためだけの動きに集中していた。
「あ……」
 目線が交わっていた事に気付いたのは、月光に浮かぶ微かな花びらの揺らぎがヒヨクの瞳の色だと認識してからだった。
「ヒ、ヨク」
 ヒヨクは外套の合わせを片手で握りしめた姿勢でぴっ、と肩を跳ねさせた。トキの声に反応した。つまり相手にもトキが見えていて、トキが何をしていたかに気付いている。
 やめろという声と、相手が悪いんだという声がする。
 前者に従いたい良心と、後者にへつらいたい下心とが胸の裡で喧嘩している。
「ヒヨク……殴っていい。殴っていいから」
「トキ? 待っ」
 トキは、自分の欲に従う事にした。
 怯えているのか期待しているのかも分からないヒヨクを押し倒し、僅かに緩んだ袴の紐を全て解いて寛げる。下着も一緒に下ろせば果て損ねたヒヨクの色の薄いそこを月光の青白い光が照らし出した。丈の短い変わった形の袍を胸の辺りまでたくし上げて腹を出させると、ヒヨクのものと自身を一緒に握り込んで扱き始める。
「ひっ……ま、て」
「待てない。あんただって、こんなんなってちゃ、無理だろ」
 ヒヨクは目をぎゅっと閉じて最後には己の体を明け渡した。それどころかトキが上げていたヒヨクの袍の裾を自ら掴んで胸の上で固定する協力的な態度を取られたら、頭はもう目指すところに向かう事しか考えられなくなる。
「んっ……ぁ……っ」
 艶めいた吐息混じりのあまりにも控えめな嬌声にいちいち煽られながら、二本の怒張を擦り上げ、片手で裾を持ち上げているヒヨクの手を強く握りしめる。するとヒヨクもまた、トキの手を握り返した。
「煽んな、よ……!」
 ドキドキして、たまらない。オメガの匂いに興奮しているだけではないと自分で分かる。
 他人に急所を握られているというのに興奮して自分を見上げてくるヒヨクの姿はトキの中の獰猛な部分を駆り立てる。
 もっと、気持ちよくなってほしい。それでもっと、俺を見てほしい。
「あ、あお、て……なぁっ」
 ヒヨクがぐっと身を固くしたのが分かると、追い立てるようにヒヨクの括れに自分の陰茎を擦り付けて上下に扱く。ヒヨクは呆気なく精を放った。それから少し遅れてトキもまた、ヒヨクの精液の上に自分の白濁を吐き出した。
 獲物を追う獣のように呼吸を荒げて余韻に浸る。あまりにも酷い絶頂だ。これ以上ヒヨクの体に触れられないなんて、出す前よりもかえって興奮が悪化している気がする。見下ろした先にヒヨクの白い腹の上で混じり合う二人分の精液に気付くと、トキは蛇を見つけて飛び跳ねる猫のようにヒヨクの上から逃げ出して、手拭いの代わりになるようなものを慌てて探す。
「俺の籠に、綿の手巾が入っている。使え」
 ぐったりとした様子の声に少し不安になりつつも、籠を漁ると言われた通りの物が出てくる。すぐにヒヨクの元に戻って臍の辺りに溜まっていた体液を綺麗に拭ってやった。
「すまぬ」
「謝んなよ。余計気まずくなんだろ」
「すま……そうだな。今夜の事は互いのバースが起こした事故だ」
 きっと、よくある話だ――。
 力無く告げられた言葉に、トキは自分の胸が痛い事に気付いた。気が付いてしまった。
 何回会った? 何回喋った? 相手の事なんてほとんど何も知らないのに? 冷静な自分が自分に問う。
 だけど高鳴った胸と、その高鳴りを握って潰されるような痛みが否定しようもないくらいにヒヨクへと惹かれている事の証明だった。
 どんなに発情期のせいと言えど、『相』の試験の時よりはずっとトキは冷静だった。やめろと言って殴られればやめる事が出来る自信があった。それでもヒヨクは止めなかったのだ。その事に、無意識の部分で期待してしまっていたのだ。
 その期待と、落胆が示すもの。でも、形になりかけたものをどうしても言葉にしたくない。だってトキは一度フラれているも同然だからだ。
 トキは候補戦に敗れた。ヒヨクとは番になれない。
「……体、大丈夫か?」
 使った手拭いを雨水を溜めた水瓶に投げ入れて立ち上がる。ヒヨクの姿を俯瞰して、その紅梅色の髪にナラ林で見た姿を思い出した。
 きっと、最初に会った瞬間から既に種は蒔かれていた。銀に染まったナラの樹林に立つ紅梅色の青年。あれは確かにヒヨクだった。あの時、白に垂らした紅梅色の鮮烈な景色にトキはすっかり魅了されていたのだ。
 それが今、芽吹く。
 極寒の獬から、暖かい都まで下りてきたおかげで種が勘違いして芽を出してしまったのだ。無念だがこれから本格的な冬が訪れて、愚かにも土から頭を出した芽は厳しい寒さの前に枯れてゆくだけ。
 番になれなかったという事実が、最初に知らされた時とは違った重みを伴ってトキにのしかかる。
「何、これくらいどうという事も……」
 ふとヒヨクがトキの左手に目を遣った。
「痛かったな。すまぬ……許せ……」
 その謝罪はまるで今日の事さえもヒヨクの発情期が全て原因で、トキには何の非もないと言っているかのようだった。それは間違っていると、トキの意思でヒヨクを組み敷いたのだと言ってやりたかったが、既にヒヨクは瞼を閉じて安らかな寝息を立て始めていた。
 随分信用されたものだ。眠っている間に噛まれでもしたらどうするつもりなのか。
 元通り服を着せて外套を掛けてやる。すやすやと穏やかに眠る頭を起こさないようそっと撫でて、また部屋の端に戻ってトキも疲れ切った体を休めた。一晩眠れば嫌な事は忘れる。それがトキだ。トキの誇れる長所だ。
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