うそつきΩのとりかえ話譚

沖弉 えぬ

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一章

9第三の試験

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 シカはいつになく真剣な顔つきになって「そう来たか」と意味深に呟く。
 仁、義、ときていよいよ三段階目の試験『礼』が行われる日、早朝からある建物に集められた候補者たちはそれぞれ藍鼠色の官服を着た官僚の元につかせられた。
 二人一組でとある仕事を完了せよ。それが『礼』の試験の内容だった。
「礼は礼でも『礼楽』もしくは分けて『礼』と『楽』の試験だね」
 してやられた、という顔をするシカは訳知り顔だがそれを聞くトキに知識がないのでまるで彼の言いたい事が分からない。シカにとって今回の試験は盲点を衝かれたという事のようだ。
「よう、昨日は大丈夫だったか? 仮面の官僚さん」
「心配無用。鍛えているのでな」
 どういう訳か顔を隠さなくてはならない事情を抱えているらしい例の赤髪の青年が、『礼』の試験でのトキの相棒だ。今日も今日とて髭の代わりに赤と黒の派手な仮面で変装した青年とは随分と縁があるらしい。青年が先導するその後ろをついていきながら、試験の内容を訊ねる。
「別段難しい事はない。指定の『楽器』を調達し、楽舞殿がくぶでんという場所に運ぶだけだ」
「楽器ね。簡単じゃねぇか。これのどこが試験なんだよ」
「黙ってついて参れ。されば自然と理解出来よう」
 偉そうだなぁと思うがトキよりは当然偉い。単なる候補者でしかないトキは王子の番に選ばれるまでは北の田舎者だ。
 一体この青年、何者なのか。幞頭ぼくとうという頭巾のようなものを頭に被った藍鼠色の官服姿は、王宮の中を歩いているとまさに鼠のように湧いて出てくるあちこちで見かける駆け出しの官僚の装いだ。堅苦しい格好だなと思う以外の感想はなく、青年の歳を考えれば官僚になっているだけ偉いのだろうなという事しか分からない。トキの興味は専ら仮面にある。
「そのお面、外したら駄目なのか?」
「無論だ」
 青年と他の官僚がすれ違うと、官僚たちは青年の仮面姿に一瞬驚いて、すぐ何かを察して頭を低くし通り過ぎていく。いかにも変わり者に対する態度という感じで、誰も青年とは関わり合いになりたくなさそうだ。宮中でも浮いた存在なのだろう。
「なぁ、それさ、俺が髭が似合わないって言ったからお面にしたんだよな? じゃあそのお面も似合わないって言ったらどうするんだ?」
 青年は淀みなく進めていた足をぴたりと止め、トキを振り返る。
「黙ってついて来い」
 仮面の奥の赤い瞳に「面倒臭い」という文字が浮かんで見えた気がする。
 怒らせたい訳ではないので彼の言う通りしずしずと後をついていく。
 王宮の敷地の中はトキにとってはほとんど迷路のようなものなので、とっくにどこを歩いているのか分からなくなっている。トキの方向感覚が正しければ王宮から外の方向に向かっているようだがと考えていると、見覚えのある門が見えてくる。乕門とらもんだ。あれを潜った先は市中であり、もはや王宮ではなくなる。
 青年は黙々と歩いて思った通り乕門まで進み、門衛の兵士に驚かれつつもさっさと門を潜り抜けてしまった。
「用事って、外に行くのか……!」
 候補戦までの日数が差し迫っていたおかげで都探索もままならぬまま王宮に駆け込んだトキは、人と建物とがひしめきあう大都会セイシンの首都の眺めに目を輝かせる。乕門の近くは王宮が近いせいでどうしても雰囲気が堅苦しいが、二、三本通りが変わると一気に人通りが増えて空気も華やぐ。
「興奮して俺を見失うでないぞ」
「分かってる! けど、ついあっちこっち見ちまうくらい何でもあるな。さっすが都だぜ!」
「……そうだな。俺も都を初めて見た時、お前と全く同じように見るもの全てが目新しく感じた」
 青年は仮面越しに都の街並みを眺める。気のせいか青年の声色に悲し気な気配を感じ、トキは青年へと手を伸ばす。
 今どんな顔をしてるんだろう。
 青年の後ろ頭には、仮面を結んだ赤い紐が掛かっている。トキの手は無意識にそこへと伸びていた。
「あっぶねぇな、おい! 気を付けろよ!」
 人の多い往来で青年の事しか見えていなかったトキは通行人とすれ違いざま肩をぶつけそうになり咄嗟に体を捻って避けたが、青年と距離が近付いてしまっていたため彼の事までは避けきれず、敢え無く彼を押し倒す形で地面に倒れ込んだ。
 小さな悲鳴が体の下から聞こえ、それと共に砂ぼこりが舞う。強く咳き込んで埃を手で払い、辛うじて押し潰す事の無かった青年を助け起こそうと肩に手を回した。
 この匂いは。
 砂塵の中に微かに混ざる甘いような匂い。前にも同じ匂いを嗅いだ覚えがある。それはいつかどこかで嗅いだ花の匂いに似ていて、トキの心を無性に惹き付ける。
「あんた、お香か何かを――」
「おーいお役人さん方ー。往来のど真ん中でいちゃついちゃ駄目だよー」
 通行人の野次にどっと笑い声が起こって、ここがどこで自分が何をしていたかを思い出し慌てて青年の上から退く。大の男が二人して転んだせいで、トキと青年は目立ってしまっていた。うっすら出来ていた人だかりが二人の無事を見て散っていく。
「悪かった! 起きれるか? ほら、手!」
 丈夫に結ばれていた仮面はしぶとく青年の顔を隠しており彼の人相が公衆に晒されるような失態は犯さなかったが、それが無念なようでもあって複雑だ。起き上がってきた青年に手を貸し立たせると、改めて頭を下げる。
「ごめん! 怪我は無かったか?」
 砂で汚れてしまった官服をはたき、青年は仮面越しにトキを見て無言で頷いた。ほっと胸を撫でおろし、二人は移動を再開させる。
 目的の場所はそこからすぐだった。目の前の角を曲がった先に弦の張られた楽器がたくさん並んだ店があった。
 青年は懐から折り畳んだ紙を取り出す。注文書のようだ。店主は青年の仮面にこそ驚いていたがすぐに品を持って戻ってくる。
 それは素人目にも分かるほど上等な弦楽器だった。胴と呼ばれる中が空洞になった箱の部分は台形で、弦は五本。弦の張りを調節する頭の部分には虎の頭が模してあり、意外に長さがあって上背のあるトキの上半身よりも少し長いくらいだ。
 木こりのトキには楽器に使われている木材が希少なものである事が分かる。波状の杢目もくめ――縮れ杢という――は珍しくないが、きめが細かく幅が均一で全体に及んでいるものはそうは無い。虎の縞のようにも見える杢目は邑の名を思い出せば伝統に相応しい事が分かる。王宮で使われる物だというから木材に限らず他の素材も一級品なのだろう。
「これ、俺に運ばせてくれ」
「端からそのつもりだ」
 転ばせたお詫びという訳ではない。職人魂が疼いて少しでも近くで楽器を見てみたかっただけだ。
 綿を包んだ布を緩衝材にして木の箱に弦楽器が収められる。箱にも複雑な模様が彫られ、恐らく楽器を作った職人の名が焼き印で施されている。楽器の方にも同じ名が刻まれているのだろう。
 楽器を箱ごと大きな一枚の布に包んで自分の体に巻き付ける。胸の前できつく結び目を作ると青年に向かって頷いた。

 楽器を受け取り王宮に運ぶというだけの簡単なものかに思われた『礼』の試験。しかし本番は王宮に戻ってからだった。新調した楽器に神力を賜るため、王宮の敷地内のあちこちに散らばっている拝殿全てを回って来いという。これがとにかく面倒で、入り組んだ王宮の中を決まった順路で進み、決まった順番で拝殿を回る必要があった。
 獬では木を伐り出すために、年の始めに山の神に酒を奉じる。きっとそれと同じような意味があるのだろう。そのしきたりを軽んじるつもりはないが、拝殿を回る間の細かな決め事を頭に叩き込むだけでも相当面倒だった。
 経路や廊下を歩く時は必ず右を歩き、終わるまで誰とも言葉を交わしてはならない。拝殿には右足から入って左足から出なくてはらない、といった具合に所作の全てに指定が入るのだ。これでも昔に比べれば簡略化されており、昔は西の廊下を百歩で行け、のように歩数まで決められていたそうな。
 何であれ、やるしかない。四つの楽器にも順番があって誰か一人でも間違えれば、当たり前のように全員が頭からやり直しだという。
 ここまで散々候補者たちを競わせておいて今更協力せよと言う。それこそが『礼』なのだと、いがみ合う相手とでも大勢のためには『辞譲の心』が必要だというのが今回の試験の肝だった。
(辞譲の心って、最初にあの官僚が言ってた事じゃねえか)
『辞譲の心は礼の端なり』あの時官僚はそう言っていた。そして自分の邪魔をするなとも。つまりあの時の話は官僚が『世』を表し、トキが『個人』を表していたという訳だ。世の秩序のためにトキの個人的な質問は控えるべきという事を言われていたのである。
 間違っていないが理不尽で腹が立つ。しかし、官僚の説明を汲み取れなかった時点であの官僚にとってトキは候補者としての資格すらなかったという事なのだろう。
 ぎゃふんと言わせてやりたい。
 反骨精神を糧に赤髪の青年と共に拝殿を回り始める。
 太鼓、鈴、笛、そして弦の順で参拝していくのでトキたちは最後だ。自分が失敗すれば全部やり直しだと思うと冷や汗を掻くほど緊張する。
 東西南北に置かれた拝殿にはそれぞれの方角を守る神の象がある。それらに参拝し、生まれたばかりの鳴り物を神器の仲間に加えてもらっていく。
 しきたりなので誰もが口を閉ざし、慎重に楽器を抱えてぞろぞろ右側を連なって歩き、拝殿に出入りする時は恐ろしいほどゆっくりと自分が間違っていないか確認しながら儀式を進めた。まるで細く張った糸の上を歩かされていたかのような緊張感のおかげで、全てが終わった時の開放感は凄まじいものだった。
「はあー……終わった……」
 あまりにも必死で王宮の中を回ったために、寒い季節にも関わらず全身汗まみれだ。しかしその甲斐あって誰一人作法を間違うことなく見事『礼』の試験を全うしてみせた。ここに連帯感によって多少の仲間意識が芽生えるか、と言えばそんな事はなく、ミスイは当然という顔をして、ツキヒはおろおろと周囲をうかがい、シカは言わずもがなと、一切まとまる事はなかった。
 結局、選ばれる番は一人だけ。そういう事だ。
 四つの楽器は楽舞殿に運び込まれて一同解散かと思いきや、「まだだよ」とシカに止められる。さすがに疲れてしまったのでさっさと宿舎に戻って休みたかったが、トキ以外の誰も動き出してはいなかった。候補者、兵士、官僚含めて全員が舞台を囲み静観している。
 日が沈み始めた楽舞殿が茜色に染まると四隅に設置された篝火に火が入れられた。誰も一言も話さない物々しい空気の中、舞台の中央にはいつの間にか仮面の男が立っていた。赤髪の青年だ。
「あいついつの間にあんな所に……」
 トンッ、トンッと地面を伝い足裏を通して腹に響いてくるような音が鳴り始める。太鼓の音だ。たった今奉納したばかりの楽器にそれぞれ奏者がつけられて、太鼓が拍を刻み、弦が拍を強調する。
(一体何が始まるんだ……?)
 小さな鈴がたくさんついた楽器は青年の手の中にあった。青年は拍子に合わせて鈴を持った手を大きく回し、天高く掲げてシャン……、と涼やかな音を鳴らす。青年の舞いと同時に笛が主旋律を奏で出し、楽舞殿の名に相応しい演舞が始まった。
 二十人が乗って踊れそうな舞台にたった一人、孤独に舞う青年の舞いは見事なものだ。軽やかな足さばきで舞台を広く駆け、柔らかい腕の動きでシャン、シャンと鈴を鳴らす。
 仮面と官服姿である事が惜しいと感じた。きちんと舞にあった装束を身に着けているところを見てみたい。
 手にしている鈴は本来ならば剣を握るのかも知れない。突き、斬り上げ、斬り下ろしのような動きが垣間見える。
 何の舞なのかも分からないが夢中になって見ていた。集中するあまり楽器の音は次第に聞こえなくなり、青年の姿だけに意識のすべてが持っていかれる。
 だからこそ門外漢のトキでも気付く事が出来たのかも知れない。
 青年の体がぐらりと大きく傾ぐ。倒れる、と思った刹那、さもそういう振り付けのように体勢を立て直して何事も無かったかのように踊り続ける。
 おかしい、と感じたのは青年が全く左回りに回転しない事に気付いたからだ。そういう舞なのだと言われてしまえばそれまでだが、一度気になってしまうと動きの殆どが左足に体重が掛からないよう注意を払っているように見えてしまう。
 そして漸くトキは思い出した。楽器を受け取りに行く時に、トキは自分が青年を押し倒してしまった事を。
 本当はあの時、青年は怪我をしていたのだ。
 どうして相談しなかったのか。だけどトキに言えばトキはもちろん気にしたろうし、青年が舞台で舞い始めた瞬間止めに入ったに違いない。それでは儀式も舞も試験も全てが台無しになっていた。
 優しさ? 責任感? それとも他人に気遣われるのは情けない事だと思ったのか、青年は鉄の意思で舞を続ける。
 気付けば全ての音色が止んでいた。舞台中央、全身で大きく呼吸をする青年は鈴を掲げた姿勢でぴたりと止まっていた。
 拍手はまばらだ。そのおかげでこれが番の候補戦だった事を思い出した。何故あの青年が舞手を務めたのかは分からないが、自分たちが運んできた楽器の音色を聞けたのは、一般人であるトキにとって得難い経験には違いなかった。
 舞台を悠然と歩いて降りてくる青年だったがしかし、階段の中腹で段差を踏み外した。もう我慢ならんとトキは駆けだして、今にも転びそうになっていた青年の腕をとって体を支えてやった。
「強情め」
 褒め言葉のつもりだ。仮面の下で笑う気配があるが、息が上がってしまっていて苦し気な様子の方が勝ってしまっている。
「この人、足に怪我してるから! 誰か医者に診せてやってくれないか!」
 トキが叫ぶと素早く数名の兵士が集まってくる。青年は兵士の一人の肩に掴まって、結局自分の足で楽舞殿を後にした。
「候補者四名に告げる」
 青年を心配する雰囲気だったものが、いつもの官僚の声が聞こえた事であっという間に引き締まったものに変わる。
 仁義礼ときて残すところ『相』の試験だが、たった四人の中から一体誰ならばその試験を受ける資格を得られるのだろう。
 今回に限っては誰も失敗をしておらず、優劣のつけようが無いはずだが。
「全員明日、王子に拝謁を賜ることとなった」
「全員……」
 茫然としてこぼしたのはミスイだ。衝撃を受けている。人数が減らなかったのが悔しいのかすぐに眉間に皺が寄る。
 一方トキは胸を高鳴らせていた。
 やっと。やっと王子に会える――。
 漸く漕ぎ着けたその事実に色めき立つ者はトキの他には居ない。様々な思いが駆け巡り、もはや両手を上げて喜べるような心理にはなれない様子だ。
 俺は、絶対に選ばれる。
 バースを偽ったのは、背に腹は代えられなかったからだ。貧しい獬の邑は隣の芝生さえ青く見えるような事もなく皆等しく貧しい。立派な屋敷に住んでいる邑長とて屋敷は先代の遺産というだけで暮らしにゆとりがある訳でもない。そんな中で貴重な織物を使って丹精込めて晴れ着を仕立ててくれた邑の人たちの期待がトキの肩にかかっている。
 一年だ。番に選ばれて、一年の間オメガのフリをして過ごす。それで誰も傷付かず、故郷に返礼品が送られて、王子の番はきっと新たに選び直されるはずだ。
 決意を新たにし、その日は興奮してなかなか寝付けなかった。
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