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一章
4候補者たち
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来る番候補戦、当日。朝も早い時間からトキは着慣れない晴れ着と格闘していた。
立て襟に左前の前開きの袍を着て、上から一枚布を肩に斜めにかけて腰で縛る。獬の人間は弓を使うので右腕を出して動きやすくするのが一般的だ。その上から毛皮の上着を羽織るが獬より暖かい気候の虎の邑では毛皮は暑すぎた。代わりに大判の羽織に袖を通して、足元はブーツを履く。これで獬の晴れ着姿が完成する。
袍や肩掛けの布、羽織に至るまで全てに細かな刺繍が施され、生地は獬の織物を使っている。全部売ったら一人分の冬を凌ぐ金くらいにはなる上等な物で、獬の女たちが総出で番候補戦のためにと縫ってくれたものだ。
実のところ、トキの着る晴れ着には女たちの「身代わりになってくれてありがとう」という感謝が込められている事をトキは知らない。貧しく人の少ない獬の邑は若いうちにみんな結婚してしまうので希少なオメガも皆夫や妻が居る身だった。番候補を選出出来ないとなるとその責は邑全体に向かうが、それを避けるには夫や妻持ちのオメガが泣く泣くその身を犠牲にするか、或いはベータの女が例の丸薬を使ってオメガのフリをするくらいしか他に方法が無かったところでトキの立候補は渡りに船だった。
そんな事とは露知らず、トキは襟を正していざ乕門へ。
門を抜けた先の広くなった場所は雑踏で溢れかえっていた。官僚、兵士、それから今回の候補戦の参加者であるオメガたちだ。体格の良いトキには案の定視線が集まっている。いかに自分が場違いな見た目をしているか、小柄で可愛らしいオメガたちを見て弱気が顔を覗かせる。トキはぐっと腹に力を込めて敢えて背筋を伸ばした。堂々としていなくては余計に怪しまれる。俺はオメガ、俺はオメガ、俺はオメガ。繰り返し唱えて自分をも騙す。
それぞれの故郷の邑の衣装を身に付けた候補者たちの中に紛れると、もわっ、と噎せ返るようなオメガの匂いが鼻を衝いた。オメガに擬態するための丸薬を飲んできていてこれでは、もし飲み忘れた時の事を考えるとぞっとする。目算だけでも二十人以上のオメガが集まっており、これだけいれば今まさに発情期の真っただ中の者が居てもおかしくなかった。
とんでもないところに来てしまった。
今更ながらアルファがオメガと偽って、オメガの群れに混ざる事の危うさを実感する。しかしここまで来て逃げるという選択肢はトキには許されない。ヒキツ家は最悪一家離散もあり得る非常に切迫した経済状況なのだ。何より母を安心させて連れ戻さなくてはならなかった。
しばらく待っていると偉そうな官僚がやってきてオメガの候補者たちに向かって犬を追い払うようにしてその場を空けさせた。その様子にムッとなっているのはトキだけだ。
官僚の男は手帳のようなものを見ながら名前を呼び始める。参加者の点呼を取っているらしい。呼ばれた順に前に出て、紹介状の照合を行っていく。
青い髪、金色の髪、トキと同じ黒髪をしていても瞳の色まで同じとは限らない。多種多様な外見をしたオメガがこれだけ集められて、一体何を基準に番を選ぶのだろうとふと思う。考えてみたら選考基準のようなものは何も知らされていなかった。指定されているのは年齢とバースのみで、例えば容姿端麗であるとか頭脳明晰であるとか外見を含めて番の能力に言及されないのは何だか少しおかしいような気がしてくる。
おかげでトキにもチャンスがあると言えたが、チャンスをものにするためにもまずは昨日出会った男が約束通りトキを候補者の中に入れてくれているかが重要だ。
落ち着かない気分で自分の名が呼ばれるのを待っていた。一人、また一人と姿が消えていく。身分の証明が出来たものから更に王宮の奥に続く門を潜る許可を出されているようだ。恐らくあのもう一つの門の向こうが『宮廷』と呼ばれる王が政を行う場所だ。学の無いトキでもそこがいかに国にとって重要な場所であるか想像する事くらいは出来た。
門の向こうに王子がいる――。
セイシンの統治は代々アルファの王が行ってきた。セイシンの国が出来て二百年以上、王の一族は一度も代わっていない。一族の姓を『タスキ』という。タスキの血族はアルファの子が生まれやすく、実に二人に一人がアルファとして生まれてくる。それがどれだけの確率なのかは、獬で唯一のアルファであるトキの存在が証明していた。その昔は今以上にアルファが生まれやすかったためオメガの番を他の邑に求める仕組みが出来上がった。
アルファが王たる所以はそのバースに宿る圧倒的統率力にあるという。初めの王は世の混乱を鎮め平和をもたらし、それぞれが独立した国のような状況だった邑をセイシンという一つの国家にまとめあげた。それを可能にしたのはアルファが神に選ばれし人間の長だったからだと、後世になるにつれて初代の王はどんどん神格化されていった。初代の王の血を引き尚かつアルファの生まれやすいタスキの一族がセイシンの玉座に座り続けるのは自然の摂理であった。
それにしても、トキの名前が一向に呼ばれない。
昨日出会ったばかりの人間を信じたのが間違いだったのかも知れないが、他に方法も無かったので仕方がない。残った人数が減るごとに不安になっていると、ふと官僚の呼んだ名が耳に残った。
「ケイ・トカキ、名を呼んだらすぐに来い!」
「あら私だわ。はーい、今行きます~」
今の声は……!
トキは愕然とする。猫なで声を出してくねくねと歩いて紹介状を見せに行く女を見て、トキは頭を抱えたくなった。
母さん何してんだよこんなところで!!
よもやこんなところで家出した母と再会するとは夢にも思わなかった。父をどやしつけて母の実家に行かせたのはとんだ無駄足だったという事だ。
紹介状を持っているという事は獬の邑長が母にも紹介状を書いたのだろうか。それとも母の故郷である獬の隣邑『狼』の邑長の紹介状だろうか。『トカキ』という旧姓で呼ばれていたので十中八九、狼の邑長に頼んだのだろう。
トキは慌てて母の背中を追って声を掛けた。
「母さん!」
息子の声にぎくりとして母が振り返る。
「あ、あらら~? ど、どちら様かしら~?」
「…………いくら何でも無理がある!!」
「ちょっと! 声を落としなさい」
しっ、と口に指を当てて辺りを見回して誰も自分たちに気を払っていない事を確かめてから母は話し始める。
「どうしてあなたがここにいるのよ?」
「それはこっちの台詞だろ? 親父落ち込んでたぞ」
「だって説明出来る訳ないじゃない。人妻がよその男の子供作りに行くなんて、ねぇ?」
「じゃあやっぱりオメガの番候補に来たんだな……!」
「ここに居るんだから、当然よ」
最悪だ。自分の母の不倫現場――不倫予定現場というべきか――に出会すなんて、トキの人生後にも先にもこれほど情けない事はない。
がっかりして額に手をやるトキを見て、何故か母の方が呆れたような顔になる。
「何か勘違いしてるのね。私は遊びに来たんじゃなくて、番になってお金を稼ぎに来たのよ? まさかあなたまで同じ考えでここに来てるとは思わなかったけど」
どっちにしたって不倫は不倫だろう。
「中に入ればあなたと私は敵よ? 母さん母さんって呼ぶのやめなさいね。一応生娘って事でここに来てんだから」
「き、き……!!」
十八にもなる息子を持った母親が生娘! あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にして「き、き」と繰り返すトキだったが、母はさほど気にしていないようでさっと身を翻して去っていく。
「本当に番にされたら……」
母はオメガだ。万に一つ王子が熟女好きたったらどうするつもりなのか。
「平気よ~、そんな事させないから」
母にまで父の呑気が移ったのかも知れない。母はひらりと手を振って今度こそ宮廷の中に入っていった。
「トキ・ヒキツ。お前がそうだな? 特別に参加の許可が出たそうだ。今後こうした特別な措置はないので心するように、とのお達しだ」
何だか既に疲れてしまってぐったりとするトキの名が呼ばれたのは、参加者たちの中で一番最後だった。
丸襟の袍を腰の帯で縛り袴を穿いた装いはこの宮廷に仕える官僚の制服、即ち官服になっているらしい。色で階級分けがされているようで、上に行くほど赤色に近くなっていくようだ。すれ違う官僚たちのやり取りを後目に何となくそんな考察をしていると目的の場所に辿り着く。
乕門を抜けた先はまだ屋外だったが、二つ目の門を潜ると屋根がある場所にオメガが集められていた。とは言っても柱の上に屋根を載せただけの吹き抜けだ。中央には赤い虎の神像が祀られていて、虎の前の一段高くなっている所に紫の官服を来た官僚が上がってきて説明を始める。
「えー、まずお前たちにはいくつか試験を行ってもらう事になる」
試験?
てっきり王子が出てきて一人一人面談でもしていくものと思っていたトキは怪訝な顔をしたが、トキ以外には誰も驚いている様子はない。
「試験の内容は『仁義礼相』の四訓に則って行うものとする」
じん、ぎ、れい、そう……? 残念ながら聞き覚えはない。
一体何の話かと、ためつすがめつして官僚の顔を見ていると、わざとらしい咳払いがすぐそばから聞こえてきて背筋を伸ばす。四訓は知らないが『行儀』は良いに越した事はない。
とは言え分からないままでは試験とやらで困る事になるのは自分だ。説明をしていた官僚の話が終わったのを見計らって、トキは右手を高く上げて自分に注目を集めさせた。
「あの! 俺、その四訓っての知らないんで教えて下さい!」
トキが大きな声を出したせいだろうか、脇に立っていた兵士が瞬時に槍を構えて切っ先をトキへと向ける。途端に罪人にでもなった気分にさせられて大人しく右手を下げると、檀上に居た官僚が軽く手を上げて兵士に矛を収めさせた。
「『辞譲の心は礼の端なり』という言葉がある。お前のそれは今本当に私の営為を邪魔してまで行うべき事だったのかをよく考えなさい」
紫の服をひらひらさせながら官僚が檀上から降りていくと、周りからくすくすと忍び笑う声が聞こえて来た。どうもトキは馬鹿にされたらしい。
「じじょうの心だと……? 何だよそれ」
難しい言葉知ってりゃ偉いってのかよちくしょう。
ちらちらとこちらを見て笑う候補者たちを視線で威嚇していると、自分の母までもがこっちを見て笑っているのを見つけてげんなりする。お前はそれでも俺の母親か、と喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込んだところで「ちょっと」と次なる災難がトキに声を掛けた。
「ん? 俺か?」
「そうよ。この恥知らず。ふざけてここに来たのなら今すぐ邑に帰りなさいよ」
可愛い顔をした女の子だ、と思ったのも束の間だった。手心なしに冷や水を浴びせられてたまらず面食らう。
少女は見た事の無い変わった形の晴れ着を着ていた。長い一枚のワンピースの上から天鵞絨の暖かそうなベストをつけ、更に毛皮をあしらったマントを羽織っている。絹で織った天鵞絨は相当な高級品だ。首からかけた貝殻と真珠のネックレスがシャラリと音を立てる。彼女は恐らく南部の邑の出身だろう。濃紺の髪と目も南部の特徴を示している。
南部か。
南部の邑というとトキにとっては因縁がある。獬の邑で切り出した木材の売れ行き不振の原因は、南部の邑が急に木材の注文を断ったからだ。目の前の少女が直接の原因だとは思わないが、それでも南部の人間というだけで何となく良い気分はしない。少女の態度が苛烈なのも相俟ってついムッとしてしまう。
あれこれ頭の中で考えていると少女はずいっと顔を近づけて「聞いてるの!?」と声を荒げる。
「官吏たちの機嫌を損ねるような事をしないで」
濃紺の長い髪を揺らして少女は憤りを露わにし、言いたい事だけ言ってトキの話も聞かずに踵を返した。同じような格好をした少女が二人、濃紺の髪の少女に付き従うようにして共に去っていく。良家の子女のようだ。ここには候補戦の参加者しか居ないはずだが、後ろの二人が番として選ばれる事はないのだろう。
「変なの」
お供を連れて候補戦に参加する事に何か意味があるのだろうか。試験とやらの内容によっては供を使って不正をするつもりならとんでもない事だ。
少女が去ると、他の候補者たちはトキを遠巻きにして移動していく。どうやら悪目立ちしてしまったらしい。そうでなくとも体格的に小作りなオメガに混ざるとアルファのトキはただでさえ目立つ。番として選ばれたいので全く見向きもされないようでは困るが目立ち過ぎても毒になりそうだ。
ま、別にここに友達作りに来たわけじゃないしな。
官僚の態度といい南部の少女といい納得のいかない事だらけだが、アルファとオメガの間に『番』という結びつきがある以上、勝者は一人きりだ。情が湧かない方がかえって勝負に集中しやすいだろうと思う事にする。
立て襟に左前の前開きの袍を着て、上から一枚布を肩に斜めにかけて腰で縛る。獬の人間は弓を使うので右腕を出して動きやすくするのが一般的だ。その上から毛皮の上着を羽織るが獬より暖かい気候の虎の邑では毛皮は暑すぎた。代わりに大判の羽織に袖を通して、足元はブーツを履く。これで獬の晴れ着姿が完成する。
袍や肩掛けの布、羽織に至るまで全てに細かな刺繍が施され、生地は獬の織物を使っている。全部売ったら一人分の冬を凌ぐ金くらいにはなる上等な物で、獬の女たちが総出で番候補戦のためにと縫ってくれたものだ。
実のところ、トキの着る晴れ着には女たちの「身代わりになってくれてありがとう」という感謝が込められている事をトキは知らない。貧しく人の少ない獬の邑は若いうちにみんな結婚してしまうので希少なオメガも皆夫や妻が居る身だった。番候補を選出出来ないとなるとその責は邑全体に向かうが、それを避けるには夫や妻持ちのオメガが泣く泣くその身を犠牲にするか、或いはベータの女が例の丸薬を使ってオメガのフリをするくらいしか他に方法が無かったところでトキの立候補は渡りに船だった。
そんな事とは露知らず、トキは襟を正していざ乕門へ。
門を抜けた先の広くなった場所は雑踏で溢れかえっていた。官僚、兵士、それから今回の候補戦の参加者であるオメガたちだ。体格の良いトキには案の定視線が集まっている。いかに自分が場違いな見た目をしているか、小柄で可愛らしいオメガたちを見て弱気が顔を覗かせる。トキはぐっと腹に力を込めて敢えて背筋を伸ばした。堂々としていなくては余計に怪しまれる。俺はオメガ、俺はオメガ、俺はオメガ。繰り返し唱えて自分をも騙す。
それぞれの故郷の邑の衣装を身に付けた候補者たちの中に紛れると、もわっ、と噎せ返るようなオメガの匂いが鼻を衝いた。オメガに擬態するための丸薬を飲んできていてこれでは、もし飲み忘れた時の事を考えるとぞっとする。目算だけでも二十人以上のオメガが集まっており、これだけいれば今まさに発情期の真っただ中の者が居てもおかしくなかった。
とんでもないところに来てしまった。
今更ながらアルファがオメガと偽って、オメガの群れに混ざる事の危うさを実感する。しかしここまで来て逃げるという選択肢はトキには許されない。ヒキツ家は最悪一家離散もあり得る非常に切迫した経済状況なのだ。何より母を安心させて連れ戻さなくてはならなかった。
しばらく待っていると偉そうな官僚がやってきてオメガの候補者たちに向かって犬を追い払うようにしてその場を空けさせた。その様子にムッとなっているのはトキだけだ。
官僚の男は手帳のようなものを見ながら名前を呼び始める。参加者の点呼を取っているらしい。呼ばれた順に前に出て、紹介状の照合を行っていく。
青い髪、金色の髪、トキと同じ黒髪をしていても瞳の色まで同じとは限らない。多種多様な外見をしたオメガがこれだけ集められて、一体何を基準に番を選ぶのだろうとふと思う。考えてみたら選考基準のようなものは何も知らされていなかった。指定されているのは年齢とバースのみで、例えば容姿端麗であるとか頭脳明晰であるとか外見を含めて番の能力に言及されないのは何だか少しおかしいような気がしてくる。
おかげでトキにもチャンスがあると言えたが、チャンスをものにするためにもまずは昨日出会った男が約束通りトキを候補者の中に入れてくれているかが重要だ。
落ち着かない気分で自分の名が呼ばれるのを待っていた。一人、また一人と姿が消えていく。身分の証明が出来たものから更に王宮の奥に続く門を潜る許可を出されているようだ。恐らくあのもう一つの門の向こうが『宮廷』と呼ばれる王が政を行う場所だ。学の無いトキでもそこがいかに国にとって重要な場所であるか想像する事くらいは出来た。
門の向こうに王子がいる――。
セイシンの統治は代々アルファの王が行ってきた。セイシンの国が出来て二百年以上、王の一族は一度も代わっていない。一族の姓を『タスキ』という。タスキの血族はアルファの子が生まれやすく、実に二人に一人がアルファとして生まれてくる。それがどれだけの確率なのかは、獬で唯一のアルファであるトキの存在が証明していた。その昔は今以上にアルファが生まれやすかったためオメガの番を他の邑に求める仕組みが出来上がった。
アルファが王たる所以はそのバースに宿る圧倒的統率力にあるという。初めの王は世の混乱を鎮め平和をもたらし、それぞれが独立した国のような状況だった邑をセイシンという一つの国家にまとめあげた。それを可能にしたのはアルファが神に選ばれし人間の長だったからだと、後世になるにつれて初代の王はどんどん神格化されていった。初代の王の血を引き尚かつアルファの生まれやすいタスキの一族がセイシンの玉座に座り続けるのは自然の摂理であった。
それにしても、トキの名前が一向に呼ばれない。
昨日出会ったばかりの人間を信じたのが間違いだったのかも知れないが、他に方法も無かったので仕方がない。残った人数が減るごとに不安になっていると、ふと官僚の呼んだ名が耳に残った。
「ケイ・トカキ、名を呼んだらすぐに来い!」
「あら私だわ。はーい、今行きます~」
今の声は……!
トキは愕然とする。猫なで声を出してくねくねと歩いて紹介状を見せに行く女を見て、トキは頭を抱えたくなった。
母さん何してんだよこんなところで!!
よもやこんなところで家出した母と再会するとは夢にも思わなかった。父をどやしつけて母の実家に行かせたのはとんだ無駄足だったという事だ。
紹介状を持っているという事は獬の邑長が母にも紹介状を書いたのだろうか。それとも母の故郷である獬の隣邑『狼』の邑長の紹介状だろうか。『トカキ』という旧姓で呼ばれていたので十中八九、狼の邑長に頼んだのだろう。
トキは慌てて母の背中を追って声を掛けた。
「母さん!」
息子の声にぎくりとして母が振り返る。
「あ、あらら~? ど、どちら様かしら~?」
「…………いくら何でも無理がある!!」
「ちょっと! 声を落としなさい」
しっ、と口に指を当てて辺りを見回して誰も自分たちに気を払っていない事を確かめてから母は話し始める。
「どうしてあなたがここにいるのよ?」
「それはこっちの台詞だろ? 親父落ち込んでたぞ」
「だって説明出来る訳ないじゃない。人妻がよその男の子供作りに行くなんて、ねぇ?」
「じゃあやっぱりオメガの番候補に来たんだな……!」
「ここに居るんだから、当然よ」
最悪だ。自分の母の不倫現場――不倫予定現場というべきか――に出会すなんて、トキの人生後にも先にもこれほど情けない事はない。
がっかりして額に手をやるトキを見て、何故か母の方が呆れたような顔になる。
「何か勘違いしてるのね。私は遊びに来たんじゃなくて、番になってお金を稼ぎに来たのよ? まさかあなたまで同じ考えでここに来てるとは思わなかったけど」
どっちにしたって不倫は不倫だろう。
「中に入ればあなたと私は敵よ? 母さん母さんって呼ぶのやめなさいね。一応生娘って事でここに来てんだから」
「き、き……!!」
十八にもなる息子を持った母親が生娘! あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にして「き、き」と繰り返すトキだったが、母はさほど気にしていないようでさっと身を翻して去っていく。
「本当に番にされたら……」
母はオメガだ。万に一つ王子が熟女好きたったらどうするつもりなのか。
「平気よ~、そんな事させないから」
母にまで父の呑気が移ったのかも知れない。母はひらりと手を振って今度こそ宮廷の中に入っていった。
「トキ・ヒキツ。お前がそうだな? 特別に参加の許可が出たそうだ。今後こうした特別な措置はないので心するように、とのお達しだ」
何だか既に疲れてしまってぐったりとするトキの名が呼ばれたのは、参加者たちの中で一番最後だった。
丸襟の袍を腰の帯で縛り袴を穿いた装いはこの宮廷に仕える官僚の制服、即ち官服になっているらしい。色で階級分けがされているようで、上に行くほど赤色に近くなっていくようだ。すれ違う官僚たちのやり取りを後目に何となくそんな考察をしていると目的の場所に辿り着く。
乕門を抜けた先はまだ屋外だったが、二つ目の門を潜ると屋根がある場所にオメガが集められていた。とは言っても柱の上に屋根を載せただけの吹き抜けだ。中央には赤い虎の神像が祀られていて、虎の前の一段高くなっている所に紫の官服を来た官僚が上がってきて説明を始める。
「えー、まずお前たちにはいくつか試験を行ってもらう事になる」
試験?
てっきり王子が出てきて一人一人面談でもしていくものと思っていたトキは怪訝な顔をしたが、トキ以外には誰も驚いている様子はない。
「試験の内容は『仁義礼相』の四訓に則って行うものとする」
じん、ぎ、れい、そう……? 残念ながら聞き覚えはない。
一体何の話かと、ためつすがめつして官僚の顔を見ていると、わざとらしい咳払いがすぐそばから聞こえてきて背筋を伸ばす。四訓は知らないが『行儀』は良いに越した事はない。
とは言え分からないままでは試験とやらで困る事になるのは自分だ。説明をしていた官僚の話が終わったのを見計らって、トキは右手を高く上げて自分に注目を集めさせた。
「あの! 俺、その四訓っての知らないんで教えて下さい!」
トキが大きな声を出したせいだろうか、脇に立っていた兵士が瞬時に槍を構えて切っ先をトキへと向ける。途端に罪人にでもなった気分にさせられて大人しく右手を下げると、檀上に居た官僚が軽く手を上げて兵士に矛を収めさせた。
「『辞譲の心は礼の端なり』という言葉がある。お前のそれは今本当に私の営為を邪魔してまで行うべき事だったのかをよく考えなさい」
紫の服をひらひらさせながら官僚が檀上から降りていくと、周りからくすくすと忍び笑う声が聞こえて来た。どうもトキは馬鹿にされたらしい。
「じじょうの心だと……? 何だよそれ」
難しい言葉知ってりゃ偉いってのかよちくしょう。
ちらちらとこちらを見て笑う候補者たちを視線で威嚇していると、自分の母までもがこっちを見て笑っているのを見つけてげんなりする。お前はそれでも俺の母親か、と喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込んだところで「ちょっと」と次なる災難がトキに声を掛けた。
「ん? 俺か?」
「そうよ。この恥知らず。ふざけてここに来たのなら今すぐ邑に帰りなさいよ」
可愛い顔をした女の子だ、と思ったのも束の間だった。手心なしに冷や水を浴びせられてたまらず面食らう。
少女は見た事の無い変わった形の晴れ着を着ていた。長い一枚のワンピースの上から天鵞絨の暖かそうなベストをつけ、更に毛皮をあしらったマントを羽織っている。絹で織った天鵞絨は相当な高級品だ。首からかけた貝殻と真珠のネックレスがシャラリと音を立てる。彼女は恐らく南部の邑の出身だろう。濃紺の髪と目も南部の特徴を示している。
南部か。
南部の邑というとトキにとっては因縁がある。獬の邑で切り出した木材の売れ行き不振の原因は、南部の邑が急に木材の注文を断ったからだ。目の前の少女が直接の原因だとは思わないが、それでも南部の人間というだけで何となく良い気分はしない。少女の態度が苛烈なのも相俟ってついムッとしてしまう。
あれこれ頭の中で考えていると少女はずいっと顔を近づけて「聞いてるの!?」と声を荒げる。
「官吏たちの機嫌を損ねるような事をしないで」
濃紺の長い髪を揺らして少女は憤りを露わにし、言いたい事だけ言ってトキの話も聞かずに踵を返した。同じような格好をした少女が二人、濃紺の髪の少女に付き従うようにして共に去っていく。良家の子女のようだ。ここには候補戦の参加者しか居ないはずだが、後ろの二人が番として選ばれる事はないのだろう。
「変なの」
お供を連れて候補戦に参加する事に何か意味があるのだろうか。試験とやらの内容によっては供を使って不正をするつもりならとんでもない事だ。
少女が去ると、他の候補者たちはトキを遠巻きにして移動していく。どうやら悪目立ちしてしまったらしい。そうでなくとも体格的に小作りなオメガに混ざるとアルファのトキはただでさえ目立つ。番として選ばれたいので全く見向きもされないようでは困るが目立ち過ぎても毒になりそうだ。
ま、別にここに友達作りに来たわけじゃないしな。
官僚の態度といい南部の少女といい納得のいかない事だらけだが、アルファとオメガの間に『番』という結びつきがある以上、勝者は一人きりだ。情が湧かない方がかえって勝負に集中しやすいだろうと思う事にする。
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