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一章
2嘘つきアルファ
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誰もが何かの冗談だと思ってまともに取り合わなかった。特に父は普段通りに夜を過ごして普段通りに眠ったが、翌朝もぬけの殻となった母の布団を見下ろし青褪めた。
母は宣言通り翌朝になると誰にも別れを告げずにさっさと家を出て行ってしまった。こんな時まで母はせっかちだ。
父と息子、娘二人は膝を突き合わせて家族会議だ。幸い冬になると木にまつわる仕事は仕事にならなくなるので時間だけはある。そして不幸な事に、冬の間に母が織った織物を春一番に売って実入りがあるまでの繋ぎとしていたヒキツ家としては存亡の危機だった。
「どうすんだよ親父」
暗にお前が引き止めないのが悪いんだぞという思いを込めて父に水を向ける。
「どうもこうもなぁ……」
何の前触れもなく妻に出ていかれたというのにこの男ときたらこんな時までのんびりだ。いっそわざととぼけているのだと言われた方がまだマシで、父はその態度の示す通り全くもって焦っていないのである。ただただ落ち込んで肩を落とすだけの父の姿は何とも情けない。
「お母さんホントに居なくなったの?」
トーウが泣きそうな声で言うと、妹の声を聞いたトーサが先に我慢が出来なくなって泣き始めてしまう。妹二人には父の呑気過ぎる気性が遺伝しなくて良かったと思うが、この場の雰囲気はまるでお通夜だ。
「母さん多分、実家に帰ったんだろ。迎えに行けよ」
「そうは言ってもなぁ。出てった理由が分からんし、戻って来てくれるかね?」
確かに父の言う事は尤もだ。
しかしである。母は「しばらく」と言っていたがそれがいつまでかも分からない以上、夫婦喧嘩――かどうかは不明だが――の末に妻に出て行かれたらそれを迎えに行くのは夫の甲斐性だ。
せっかちな母は有言即実行なのは良いが、せめて理由を説明する暇くらいは欲しかったものだ。そもそも誰も母の言葉を真剣に聞かなかったのが悪いのだが、あんなにも晴れやかな様子で「出ていきます」と宣言されたところで誰が信じたろうか。
「何でもいいから、親父は母さんとこ行って一旦謝ってこいよ。俺は金策考えとくからさ」
「うーん」
「うーん、じゃなくて!」
寒さに体を丸めて動こうとしない父の背を叩き、すんすん洟を啜る妹たちには大人しく家で待っているように言い付ける。
トキは父を急かしながら共に身支度をする。向かう先は獬の邑長の所だ。
「恥ずかしい話なんだけどさ、今年は木があんまり売れなかったんだ。母さんにも出ていかれちゃって、親父はうだつが上がらねぇし、俺がどうにかするしかなくてさ」
邑で唯一、高床式の豪邸に住まう邑長のところへ出向くと、トキは仕事の斡旋をしてくれないかと相談した。家の恥を話すのは抵抗があったが背に腹は代えられないと言う。いっときの恥を忍んで銭を稼げるなら恥をかくのは長男の務めだろう。というか、父がああなのでトキ以外に適任が居なかった。
切羽詰まった様子で頭を下げる若者を前にし、総白髪の老人が困ったように唸る。
「お前も知っての通り、獬は貧しい。ヒキツのところだけに限らず、今年はどこもぎりぎりの生活を余儀なくされておる。仕事と言ってもな、冬の獬に仕事なんぞありゃあせんのよ」
「そんな、そこを何とか!」
「何とかもヘチマも無いわい」
ず、と音を立てて茶を啜る邑長の顔は険しいものだ。取り付く島もない様子にトキの心が折れかける。
「……そうじゃ。お前さんところの妹は」
梅干しみたいなしわくちゃの目を細く眇めて何事かを呟いた邑長はしかしすぐに言葉を切った。邑長が言いかけたのは「双子だったな」だ。この国には『双子忌避』という因習がある。
トキの顔に、邑長への軽蔑が張り付く。若者から睨まれた老人は肩を窄めてわざとらしく怯えてみせた後、妹の事に触れた理由を説明する。
「王様から触れが出されておる。妙齢のオメガを邑から出さねばならんが、妹はまだ子供だったかと言いたかったんじゃ」
「……うちのは、まだ十二だよ。それに妹たちはベータだ」
答えながらトキは内心でこう思う。どうせ妹たちを邑から出させるつもりもないくせに、と。双子である事を知りながら生かしているのは邑としての体裁が悪い。そういう考え方があるせいでトキの妹たちは邑から出た事はおろか獬の中も歩きたがらない。
「トキはアルファじゃったか」
「うん」
「残念じゃ。もし王子に見初められたら婚資を頂戴出来たのにのう」
毛虫のような太くふさふさした眉毛を上げ下げして、老人はまるで悲しんでいるような素振りをみせる。内心では村の汚点が明るみにならずほっとしているのか、はたまた厄介払いが出来ず残念なのか、面の皮が厚い老人の心はまだ若いトキには読み取れない。
婚資とは持参金の逆で、婿から嫁の家に贈られる金品の事だ。今後ともどうぞよしなにという意味が込められているが、王族から平民へ贈る場合は邑の働き手を一人連れて行くその返礼品のような意味合いがある。
「まぁ、都の方は王子の番探しで賑わうだろうし、冬の間は出稼ぎに行くしかなかろう」
トキも考えていた事ではあった。やはりそれしか無いのだろうか。雪かきで男手が必要になる冬の間家から離れるのは些か不安がある。もしこのまま母が家に戻らなかったらあの父の事なので春になって家に戻ったら家が雪で潰されていた、なんて事になりかねない。
炉の火で温まった邑長がうとうとし始める一方、トキは煩悶する。何か上手い方法はないだろうか。きっと母は家の貧しさに嫌気がさして出て行ったのだ。一瞬で大金を稼いで母を連れ戻し、また一家で仲良く暮らせる奇跡のような方法が。
「あっ!!」
トキが大声を出すと、寝こけていた邑長が「ふがっ」と鼾をしそこなったような音を立てて目を覚ます。
「老い先短い年寄りを驚かすでない!」
「邑長! 俺が行くよ!」
「何じゃ藪から棒に」
「オメガの番候補だよ! 邑から一人は出さなきゃなんねぇんだろ? それ、俺が行く」
老人はあんぐりと口を開けて怪訝な顔をする。
「どこにそんなガタイの良いオメガがおるんじゃ」
「ここに」
トキはにっ、と八重歯を見せて、自分を指さす。
「ばかもの! アルファがオメガと偽って王子を騙すつもりか!」
「さっきからそう言ってんだろ! 俺は今日からしばらく獬の邑出身のオメガのトキだ!」
木こりの仕事でよく鍛えられた胸筋を逸らす。背は邑で一番高く、仕事柄体つきも逞しいが、こういうオメガがいたって構わないだろう。王子の好みなどそれこそ本人にしか分からない。事前にバースと年齢しか指定がないのならトキにだってチャンスはあるはずだ。
「お前がアルファと知れたら獬は終いじゃ!」
「俺が王子の心を射止めたら、獬は当面の暮らしに困らなくなるだろ?」
「そうなる前に邑に軍が差し向けられて獬は滅ぶわい」
「じゃあ獬にその『妙齢のオメガ』ってのがいるのかよ?」
邑長は「ぐぬぅ」と呻いて言い返せなくなる。獬は貧しく、そして小さい。人口減少は歯止めが利かず、一年の半分が雪に閉ざされるせいで近隣の邑との交流も薄い雪国は、緩やかに滅びへ向かっているのだ。
「邑が無くなんのが早いか遅いかってだけならさ、一口俺に賭けてみてくれよ!」
「一口がでかすぎる……」
二人の言い合う声が大きすぎたのか、邑長の娘――と言ってもトキの母より年上だ――が様子を見に来た。事情をかいつまんで話すと娘は両手を打ち鳴らして「いいじゃない!」とトキに味方する。
「番の候補戦に出てくれるオメガの人が見つからなくて困ってるって言ってたところじゃない。それにこんな時のために、うちには秘策があるでしょ?」
とうとう口まで梅干しのように窄めて邑長は悩み始める。トキはトキで、秘策とやらを匂わせられて気が気ではない。
ね? と押しの強い娘に微笑まれると邑長は諦めたように嘆息した。「仕方がない」
「それじゃあ……!」
「よかろう。ただし薬にも限りがあるのでな。もって精々一年そこらだと思っておきなさい」
「おう! で、薬って?」
邑長はお前の言い出した事だろうと言いたげに娘に向かって顎をしゃくる。気の良い娘は「はいはい」と軽く頷いて奥の間に引っ込むと、暫くしてからその手に小ぶりの瓢箪を持って戻ってきた。本物の瓢箪ではなく木製の瓢箪型の入れ物で獬の工芸品だ。大抵その中には薬味などを入れているものだが、娘の手から瓢箪を受け取ると中の物が揺れてじゃらりと蕎麦殻の枕のような音が鳴った。
「開けてみなさい」
そうすれば中身の正体が分かると言いたげだ。
木栓を抜いて中に入った何かを手のひらに出してみると出て来たのは小さな丸薬だった。何を混ぜてあるのか丸薬は濁った緑色をしており見た目は悪い。しかし何よりも気になったのは丸薬から漂ってくる得も言われぬ濃い匂いだ。
「これは、オメガの……?」
頭がくらりとしたところで慌てて鼻を摘まんで丸薬を遠ざける。丸薬から上がってくる匂いは間違いない、発情期のオメガの匂いそのものだ。
「寒冷地にしか育たぬマメ科の植物の実をすり潰したものじゃ。飲めばアルファもベータもオメガのように発情し、逆にオメガが服用すれば精神を安定させる作用がある」
「何でこんなもの……普通に流通してんのか?」
「そんな訳あるか。秘薬と申しとろうに」
「ご禁制の品って事かよ……」
秘薬、なんて触りの良い言葉で濁しているが、一般に流通させられない事情がこの薬にはあるという事だ。
「本来の使い方とは多少違うというだけの話じゃ。勝手に怪しい薬にするでないわい」
どっちにしろ間違った使い方には違いないらしい。
「オメガのフリをするくらいならこの薬で何とか誤魔化せるだろう。実際にオメガのように子は孕めぬからな、宮中に居ながら薬を補充出来たところで一年もすれば怪しまれる。が、一年、お前が本当に番の役目を務め上げたなら、それだけで婚資に見合う働きとなろう」
心して励め――。
一体何を励めって? あの老人はこう言いたかった。子をなす事が出来ない以上、夜伽の相手として励みなさい。
セイシンというこの国、政の中心である火の大邑に近いほど階級意識が強くなる。アルファは支配層で、オメガは被支配層だ。オメガはアルファにとって子を作る都合の良い道具であり、またオメガも道具として身を立てる事が当たり前という認識がはびこっている。
番候補の招集というお触れはほんの建前に過ぎない。言葉の裏を読み解くならば、「余の子を産んで国に尽くせ」という意味になる。尤も、王子の子を一人でも産む事が出来ればその後の事は案外自由に選択出来るらしい。王子、引いては未来の王の元に留まるもよし、邑に帰るもよし。選択権はオメガ側にあるというので想像するよりオメガの扱いは酷いものではないのかも知れない。しかしその場合、オメガは生涯番から離れて暮らす事になる。番と離れたオメガの末路はあまり良い話を聞かないので残るも帰るも覚悟を求められる事だろう。
トキの作戦はこうだ。ひとまず番の候補戦に勝つのは大前提として、王子と番になった後――もちろんフリだ――は極力夜伽の回数を減らす努力をし、いかんともしがたい時には例の秘薬の効果に頼る。一年間、王子の寵愛に耐え忍んだ後は、病を得たとでもいって故郷に帰して欲しいと嘆願すれば良い。
うん、完璧だ。
「という訳で、兄ちゃんはしばらく家に帰らないからな。お前たち二人でちゃんとお父さんの世話をするんだぞ?」
「やだ」
「やだやだ!」
トーサとトーウにも分かるように邑長のところでしてきた話を噛み砕いて聞かせると、双子はぶわっと涙を溢れさせてトキに抱きついてくる。歳の離れた妹は、トキにとって目に入れても痛くないくらい可愛い姉妹だ。双子で生まれたなど些末な事だ。トキとて妹たちとは離れがたい。しかし金が無い仕事が無いと嘆いたところで、誰も助けてはくれない。長男として王子を騙してでも金を手に入れるしか他に方法はないのだ。
「悪いなぁ、トキ」
移動に馬を貸してもらい日が落ちる前に帰宅した父は随分疲れた様子だった。母の実家でやり込められてきたかと思いきや、門前払いをされて母とは会わせてすら貰えなかったというから母の家出は思ったよりも深刻なのかも知れない。
すっかり気落ちしてしまった父にはいつもの安穏とした雰囲気は無い。萎びた様子で「すまんなぁ」と繰り返す。
「あーもう元気出せよ親父。邑長には事情を話してあるから、家の事で手が足りなかったら邑長を頼ってくれ。母さんの事も、俺が番にさえなれりゃ金が入るし戻ってくるさ!」
いつの間にか見下ろすようになっていた父の曲がった背中を強く叩いて活を入れる。痛いよトキと言う父の声は弱々しく、やはりトキがしっかりせねばならぬと思わされる。
候補戦は一ヶ月後に開始だというから思ったよりも時間は限られている。もたもたしているうちに参加そのものが出来なくなっては本末転倒だ。
幼い妹二人にのんびり屋の父。彼らを残していくのは心配でたまらないが、トキは家族を助けるために覚悟を決めた。
母は宣言通り翌朝になると誰にも別れを告げずにさっさと家を出て行ってしまった。こんな時まで母はせっかちだ。
父と息子、娘二人は膝を突き合わせて家族会議だ。幸い冬になると木にまつわる仕事は仕事にならなくなるので時間だけはある。そして不幸な事に、冬の間に母が織った織物を春一番に売って実入りがあるまでの繋ぎとしていたヒキツ家としては存亡の危機だった。
「どうすんだよ親父」
暗にお前が引き止めないのが悪いんだぞという思いを込めて父に水を向ける。
「どうもこうもなぁ……」
何の前触れもなく妻に出ていかれたというのにこの男ときたらこんな時までのんびりだ。いっそわざととぼけているのだと言われた方がまだマシで、父はその態度の示す通り全くもって焦っていないのである。ただただ落ち込んで肩を落とすだけの父の姿は何とも情けない。
「お母さんホントに居なくなったの?」
トーウが泣きそうな声で言うと、妹の声を聞いたトーサが先に我慢が出来なくなって泣き始めてしまう。妹二人には父の呑気過ぎる気性が遺伝しなくて良かったと思うが、この場の雰囲気はまるでお通夜だ。
「母さん多分、実家に帰ったんだろ。迎えに行けよ」
「そうは言ってもなぁ。出てった理由が分からんし、戻って来てくれるかね?」
確かに父の言う事は尤もだ。
しかしである。母は「しばらく」と言っていたがそれがいつまでかも分からない以上、夫婦喧嘩――かどうかは不明だが――の末に妻に出て行かれたらそれを迎えに行くのは夫の甲斐性だ。
せっかちな母は有言即実行なのは良いが、せめて理由を説明する暇くらいは欲しかったものだ。そもそも誰も母の言葉を真剣に聞かなかったのが悪いのだが、あんなにも晴れやかな様子で「出ていきます」と宣言されたところで誰が信じたろうか。
「何でもいいから、親父は母さんとこ行って一旦謝ってこいよ。俺は金策考えとくからさ」
「うーん」
「うーん、じゃなくて!」
寒さに体を丸めて動こうとしない父の背を叩き、すんすん洟を啜る妹たちには大人しく家で待っているように言い付ける。
トキは父を急かしながら共に身支度をする。向かう先は獬の邑長の所だ。
「恥ずかしい話なんだけどさ、今年は木があんまり売れなかったんだ。母さんにも出ていかれちゃって、親父はうだつが上がらねぇし、俺がどうにかするしかなくてさ」
邑で唯一、高床式の豪邸に住まう邑長のところへ出向くと、トキは仕事の斡旋をしてくれないかと相談した。家の恥を話すのは抵抗があったが背に腹は代えられないと言う。いっときの恥を忍んで銭を稼げるなら恥をかくのは長男の務めだろう。というか、父がああなのでトキ以外に適任が居なかった。
切羽詰まった様子で頭を下げる若者を前にし、総白髪の老人が困ったように唸る。
「お前も知っての通り、獬は貧しい。ヒキツのところだけに限らず、今年はどこもぎりぎりの生活を余儀なくされておる。仕事と言ってもな、冬の獬に仕事なんぞありゃあせんのよ」
「そんな、そこを何とか!」
「何とかもヘチマも無いわい」
ず、と音を立てて茶を啜る邑長の顔は険しいものだ。取り付く島もない様子にトキの心が折れかける。
「……そうじゃ。お前さんところの妹は」
梅干しみたいなしわくちゃの目を細く眇めて何事かを呟いた邑長はしかしすぐに言葉を切った。邑長が言いかけたのは「双子だったな」だ。この国には『双子忌避』という因習がある。
トキの顔に、邑長への軽蔑が張り付く。若者から睨まれた老人は肩を窄めてわざとらしく怯えてみせた後、妹の事に触れた理由を説明する。
「王様から触れが出されておる。妙齢のオメガを邑から出さねばならんが、妹はまだ子供だったかと言いたかったんじゃ」
「……うちのは、まだ十二だよ。それに妹たちはベータだ」
答えながらトキは内心でこう思う。どうせ妹たちを邑から出させるつもりもないくせに、と。双子である事を知りながら生かしているのは邑としての体裁が悪い。そういう考え方があるせいでトキの妹たちは邑から出た事はおろか獬の中も歩きたがらない。
「トキはアルファじゃったか」
「うん」
「残念じゃ。もし王子に見初められたら婚資を頂戴出来たのにのう」
毛虫のような太くふさふさした眉毛を上げ下げして、老人はまるで悲しんでいるような素振りをみせる。内心では村の汚点が明るみにならずほっとしているのか、はたまた厄介払いが出来ず残念なのか、面の皮が厚い老人の心はまだ若いトキには読み取れない。
婚資とは持参金の逆で、婿から嫁の家に贈られる金品の事だ。今後ともどうぞよしなにという意味が込められているが、王族から平民へ贈る場合は邑の働き手を一人連れて行くその返礼品のような意味合いがある。
「まぁ、都の方は王子の番探しで賑わうだろうし、冬の間は出稼ぎに行くしかなかろう」
トキも考えていた事ではあった。やはりそれしか無いのだろうか。雪かきで男手が必要になる冬の間家から離れるのは些か不安がある。もしこのまま母が家に戻らなかったらあの父の事なので春になって家に戻ったら家が雪で潰されていた、なんて事になりかねない。
炉の火で温まった邑長がうとうとし始める一方、トキは煩悶する。何か上手い方法はないだろうか。きっと母は家の貧しさに嫌気がさして出て行ったのだ。一瞬で大金を稼いで母を連れ戻し、また一家で仲良く暮らせる奇跡のような方法が。
「あっ!!」
トキが大声を出すと、寝こけていた邑長が「ふがっ」と鼾をしそこなったような音を立てて目を覚ます。
「老い先短い年寄りを驚かすでない!」
「邑長! 俺が行くよ!」
「何じゃ藪から棒に」
「オメガの番候補だよ! 邑から一人は出さなきゃなんねぇんだろ? それ、俺が行く」
老人はあんぐりと口を開けて怪訝な顔をする。
「どこにそんなガタイの良いオメガがおるんじゃ」
「ここに」
トキはにっ、と八重歯を見せて、自分を指さす。
「ばかもの! アルファがオメガと偽って王子を騙すつもりか!」
「さっきからそう言ってんだろ! 俺は今日からしばらく獬の邑出身のオメガのトキだ!」
木こりの仕事でよく鍛えられた胸筋を逸らす。背は邑で一番高く、仕事柄体つきも逞しいが、こういうオメガがいたって構わないだろう。王子の好みなどそれこそ本人にしか分からない。事前にバースと年齢しか指定がないのならトキにだってチャンスはあるはずだ。
「お前がアルファと知れたら獬は終いじゃ!」
「俺が王子の心を射止めたら、獬は当面の暮らしに困らなくなるだろ?」
「そうなる前に邑に軍が差し向けられて獬は滅ぶわい」
「じゃあ獬にその『妙齢のオメガ』ってのがいるのかよ?」
邑長は「ぐぬぅ」と呻いて言い返せなくなる。獬は貧しく、そして小さい。人口減少は歯止めが利かず、一年の半分が雪に閉ざされるせいで近隣の邑との交流も薄い雪国は、緩やかに滅びへ向かっているのだ。
「邑が無くなんのが早いか遅いかってだけならさ、一口俺に賭けてみてくれよ!」
「一口がでかすぎる……」
二人の言い合う声が大きすぎたのか、邑長の娘――と言ってもトキの母より年上だ――が様子を見に来た。事情をかいつまんで話すと娘は両手を打ち鳴らして「いいじゃない!」とトキに味方する。
「番の候補戦に出てくれるオメガの人が見つからなくて困ってるって言ってたところじゃない。それにこんな時のために、うちには秘策があるでしょ?」
とうとう口まで梅干しのように窄めて邑長は悩み始める。トキはトキで、秘策とやらを匂わせられて気が気ではない。
ね? と押しの強い娘に微笑まれると邑長は諦めたように嘆息した。「仕方がない」
「それじゃあ……!」
「よかろう。ただし薬にも限りがあるのでな。もって精々一年そこらだと思っておきなさい」
「おう! で、薬って?」
邑長はお前の言い出した事だろうと言いたげに娘に向かって顎をしゃくる。気の良い娘は「はいはい」と軽く頷いて奥の間に引っ込むと、暫くしてからその手に小ぶりの瓢箪を持って戻ってきた。本物の瓢箪ではなく木製の瓢箪型の入れ物で獬の工芸品だ。大抵その中には薬味などを入れているものだが、娘の手から瓢箪を受け取ると中の物が揺れてじゃらりと蕎麦殻の枕のような音が鳴った。
「開けてみなさい」
そうすれば中身の正体が分かると言いたげだ。
木栓を抜いて中に入った何かを手のひらに出してみると出て来たのは小さな丸薬だった。何を混ぜてあるのか丸薬は濁った緑色をしており見た目は悪い。しかし何よりも気になったのは丸薬から漂ってくる得も言われぬ濃い匂いだ。
「これは、オメガの……?」
頭がくらりとしたところで慌てて鼻を摘まんで丸薬を遠ざける。丸薬から上がってくる匂いは間違いない、発情期のオメガの匂いそのものだ。
「寒冷地にしか育たぬマメ科の植物の実をすり潰したものじゃ。飲めばアルファもベータもオメガのように発情し、逆にオメガが服用すれば精神を安定させる作用がある」
「何でこんなもの……普通に流通してんのか?」
「そんな訳あるか。秘薬と申しとろうに」
「ご禁制の品って事かよ……」
秘薬、なんて触りの良い言葉で濁しているが、一般に流通させられない事情がこの薬にはあるという事だ。
「本来の使い方とは多少違うというだけの話じゃ。勝手に怪しい薬にするでないわい」
どっちにしろ間違った使い方には違いないらしい。
「オメガのフリをするくらいならこの薬で何とか誤魔化せるだろう。実際にオメガのように子は孕めぬからな、宮中に居ながら薬を補充出来たところで一年もすれば怪しまれる。が、一年、お前が本当に番の役目を務め上げたなら、それだけで婚資に見合う働きとなろう」
心して励め――。
一体何を励めって? あの老人はこう言いたかった。子をなす事が出来ない以上、夜伽の相手として励みなさい。
セイシンというこの国、政の中心である火の大邑に近いほど階級意識が強くなる。アルファは支配層で、オメガは被支配層だ。オメガはアルファにとって子を作る都合の良い道具であり、またオメガも道具として身を立てる事が当たり前という認識がはびこっている。
番候補の招集というお触れはほんの建前に過ぎない。言葉の裏を読み解くならば、「余の子を産んで国に尽くせ」という意味になる。尤も、王子の子を一人でも産む事が出来ればその後の事は案外自由に選択出来るらしい。王子、引いては未来の王の元に留まるもよし、邑に帰るもよし。選択権はオメガ側にあるというので想像するよりオメガの扱いは酷いものではないのかも知れない。しかしその場合、オメガは生涯番から離れて暮らす事になる。番と離れたオメガの末路はあまり良い話を聞かないので残るも帰るも覚悟を求められる事だろう。
トキの作戦はこうだ。ひとまず番の候補戦に勝つのは大前提として、王子と番になった後――もちろんフリだ――は極力夜伽の回数を減らす努力をし、いかんともしがたい時には例の秘薬の効果に頼る。一年間、王子の寵愛に耐え忍んだ後は、病を得たとでもいって故郷に帰して欲しいと嘆願すれば良い。
うん、完璧だ。
「という訳で、兄ちゃんはしばらく家に帰らないからな。お前たち二人でちゃんとお父さんの世話をするんだぞ?」
「やだ」
「やだやだ!」
トーサとトーウにも分かるように邑長のところでしてきた話を噛み砕いて聞かせると、双子はぶわっと涙を溢れさせてトキに抱きついてくる。歳の離れた妹は、トキにとって目に入れても痛くないくらい可愛い姉妹だ。双子で生まれたなど些末な事だ。トキとて妹たちとは離れがたい。しかし金が無い仕事が無いと嘆いたところで、誰も助けてはくれない。長男として王子を騙してでも金を手に入れるしか他に方法はないのだ。
「悪いなぁ、トキ」
移動に馬を貸してもらい日が落ちる前に帰宅した父は随分疲れた様子だった。母の実家でやり込められてきたかと思いきや、門前払いをされて母とは会わせてすら貰えなかったというから母の家出は思ったよりも深刻なのかも知れない。
すっかり気落ちしてしまった父にはいつもの安穏とした雰囲気は無い。萎びた様子で「すまんなぁ」と繰り返す。
「あーもう元気出せよ親父。邑長には事情を話してあるから、家の事で手が足りなかったら邑長を頼ってくれ。母さんの事も、俺が番にさえなれりゃ金が入るし戻ってくるさ!」
いつの間にか見下ろすようになっていた父の曲がった背中を強く叩いて活を入れる。痛いよトキと言う父の声は弱々しく、やはりトキがしっかりせねばならぬと思わされる。
候補戦は一ヶ月後に開始だというから思ったよりも時間は限られている。もたもたしているうちに参加そのものが出来なくなっては本末転倒だ。
幼い妹二人にのんびり屋の父。彼らを残していくのは心配でたまらないが、トキは家族を助けるために覚悟を決めた。
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そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
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