あわいの宦官

ちゅうじょう えぬ

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完結編

後日談

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 紫沈ズーシェンの西に位置する東江ドンジャンに居を移しておよそ半年。冬が来た。冬と共に馴染みの顔であるメイ風蘭フーランの二人も旅のついでに遊びに来ていた。
「へぇ、じゃあヤンは東の姫様と会った事があるんだな」
 洋とは戊陽の仮の名である。戊陽という真の名を彼が名乗る事は終生ない。その原因を作った一端に自分が関与していた事を思い出す日、玲馨リンシンは仕事も家事も手につかなくなる事がある。玲馨自身も浅からぬ傷を心に負ったが、戊陽のそれは比べるべくもない。
 帝王教育を受けてこなかった戊陽は、腐りきった宮廷を正そうと彼なりに必死に泥船を漕いでいた。傍から見れば、泥の船を泥のかいで漕いでいるように見えたかも知れない。そして、同じ船に乗り合わせた宦官によって船底に穴を開けられたのだ。
 そうして立場も住むところも名前さえも失った戊陽は、で奔走していた宦官だけを供に、政変の英雄のお膝元で監視されながら暮らす事になった。
 これまでの生活とは何もかもが一変したが、戊陽は前向きだった。もとより屋内で筆を執るよりも外で剣を振るっている方が向いている性分が助けて、近隣住民の手を借りつつ鋤や鍬のコツを掴むのは早かった。畑仕事を覚えるのは大変だが、毎日泥や汗に塗れて「楽しい」と言って笑っている。それは玲馨が己の命をなげうってでも見たかったものだ。
「会ったと言っても戦場で一瞬の邂逅だったからな。もう顔も曖昧だ」
「そりゃ残念。でも、あの辛新シンシンが結婚とはなぁ!」
「梅兄さんは結婚しねぇの?」
「おまっ、風蘭! 俺が宦官だって事知ってて言ってるだろ! 俺にゃあ大事なモンがもうついてねぇの!!」
 怒りの拳を振り上げる梅から逃げ回り、わははと笑っている風蘭。子供とは恐ろしい生き物だ。だが案外それくらいの方が梅も気兼ねせずいられて楽なのかも知れない。
「で、どうよ? 畑の方は」
「まずまずと言いたいところだが、駄目だな。夏に大根を植えてみたが形は悪いし味も悪いし、おじさんに笑われた」
 待ちに待った収穫の日に、土から掘り起こした大根の奇形ぶりを見て大笑いされていたのを思い出す。股根と言ってその名の通り根の方が二つ以上に分かれているものを指すが、女が大胆になって足を大きく広げたような形の大根がとれた時には声も出ない様子だった。
「畑の耕し方が足りなかったんだろうと言われてな。根が石に当たって分かれてしまうんだそうだ。しかしこの辺りは中央に比べると寒くなるから冬は農閑期に入る。試すにも、春を待たなくてはいけないんだ」
 戊陽は得意の人たらしを存分に発揮して村の人間たちとあっという間に馴染んでいった。彼らから聞いて知った知識を語っては作物を作るのがいかに大変で難しいかを梅に話して聞かせる。
「ま、上手くいってるって事だな」
「話を聞いていたか? 大根は失敗だったと言ったんだぞ。玲馨が漬物にしてくれて漸く味がまともになった」
「はは! あの玲馨センパイが漬物ね!」
「馬鹿にするなら今すぐその箸で掴んでいる漬物を皿に戻せ」
「おー怖い。その鋭い眼光は今もご健在のようで何より何より」
 梅と風蘭は土産と言って酒と米を持ってきてくれた。漬物はほとんど村の女に手伝ってもらって漬けたのであって、玲馨の手はあまり入っていない。玲馨が漬けた漬物、と言われても本人にとってはしっくりこないので褒められたところで困ってしまう。しかしこういう事を玲馨が言うと戊陽は「自分の手柄にしてしまって良いのだ」と答えるのが分かっているので変に謙遜するような事はやめていた。玲馨も漸く自分の従者らしさという部分を客観視出来るようになってきたところだ。
「とりあえず話だけでも聞いてくれ。俺もこっちの坊っちゃんを護衛して旅してるけどよ」
 話を聞いていた風蘭が米粒を顎にくっつけて「オレが梅兄さんを護衛してんの!」とすかさず反論する。
「風蘭はそのうち東江の領主のところに行っちまう訳だろ? そうしたら俺ぁ職無し宿無しイチモツ無しの三無しの身になっちまう。イチモツだつってんのに三つも無いときたら人生終いだ」
 そこは恐らく「金無し」が正しい。
「で、考えた訳よ。いっちょ行商でもしてみるかってな。洋の兄さん、あんたの作った野菜、俺があちこち回って買い手を見つけてきてやるよ」
 梅がいやらしい笑みを作って箸で挟んだ漬物を持ち上げる。
「その心は?」
「若い偉丈夫の作る大根だって触れ込みでガッポリ金儲け!!」
 漬物を口に咥え、チンッと箸で食器を鳴らして梅はギラつく商魂を見せるも、斜交いに座っていた玲馨に腕をつままれて敢え無く撃沈。
「行儀が悪い」
「痛てて。何だよー、いつまでもこんなシケた田舎で暮らすつもりはねぇんだろ?」
 戊陽は肩を竦めて困ったように笑う。
「俺は一応この一帯に派遣されてきた地方官吏、というていだからな。西の領主の采配には逆らえない」
 黙々と食事に集中して一番最初に食べ終えた風蘭と、酒ばかり進む梅とで顔を見合わせる。
「オレ、言ってみようか? 話を聞いてくれるくらいはしてくれるんじゃねぇかな」
 しかしそれにも戊陽は緩く首を振ってやんわりと断った。
「俺が財や権力を得る事は、この国に混沌を招く芽になりかねない。俺はここで俺と玲馨が食っていけるだけの物が賄えればそれでいい。悪いな梅、風蘭」
 政の事が分からない二人にとってはあまりピンとくる話ではないだろう。とくにまだ子供の風蘭には、戊陽の事情を汲み取るのは難しい。
「悪い、雰囲気が暗くなったな。まぁ、たまには遊びに来てくれ二人とも。風蘭はともかく根無し草の梅は暇だろう」
「だーからその暇がまずいって話だろーがよぉ」
 梅は酒の入った器を片手に戊陽に絡み出す。
「飲み過ぎだ」
 梅の手から酒を取り上げて、部屋の奥に連れて行き適当に寝台へ転がしておいた。
 夕飯を終えると風蘭が片付けを手伝ってくれた。端切れを集めて縫ったタワシ代わりの布で使った食器を拭きあげていく。
 宦官になって十年ほどが経つが宦官の宿舎で炊事当番をしていたのはもう随分前の話だ。大人数用の食事を用意するのと二人きりの食事を用意するのとでは全く加減が違うおかげで、初めのうちはよく作り過ぎたり味付けが濃くなったりしていた。そうやって今の生活に馴染もうと毎日が格闘だったうちはその忙しさにかまけて色んな事を忘れていられたが、このところは農村の暮らしというものに慣れてきたおかげでぼんやりと考え事をする時間も増えてきていた。
 梅の喧しさに救われる事もあるのだなと思っていると、玲馨よりも暗い顔をした風蘭がぽつりと零すように言う。
「オレさぁ、何か悪い事言っちゃったかなー」
 紫沈から旅に出て半年、あの素行不良の梅という悪い見本が傍に居るにしては殊勝な言葉が出てきて俄かに驚く。
「子供はそんな事気にするな」
「子供じゃねーもん」
「風蘭の善意はきちんとあの人に伝わっている。それでいいんだ、多分な」
「そっかなぁ」
 東江の領主に養子に引き取られた風蘭だが、彼はその歳でそれなりに苦労の多い人生を歩んできた。玲馨よりもずっと丁寧で器用に食器を片付けていく手付きを傍で見て、身につまされてしまう。
「いいんだ。大人の事なんて気にせず、領主の勝手な思惑に巻き込まれた分、存分にその機会を活かす事を考えろ」
「例えば?」
「領主の子なら書は読み放題だろうな」
「えー、オレ文字あんま得意じゃない」
「だったらそこからだな。妖怪変化をやっつける英雄譚や、奇妙奇天烈な経験を綴った嘘くさい自叙伝とか、案外読んでみると面白いものだ」
 うーんと唸る風蘭の返事は芳しくない。
 今も後宮で日々学びに励んでいるだろう小杰シャオジエに思いを馳せる。あの子もまた大人の勝手に巻き込まれ、五男に生まれながら皇帝の座にかせられた憐れな子供だ。癇癪持ちではあったが筋は悪くなく、勉学への関心を持っていたので小杰は賢明な帝になれる事だろう。せめてそうあってくれなくては彼自身が報われない。
「あ、そうだ! オレ手紙預かって来たの忘れてた!」
 濡れた手を衣で雑に拭って風蘭は飛び跳ねるように部屋の中を走っていく。風蘭に必要なのはまず貴人としての行儀作法からのようだ。
 残った洗い物を全て片付けて居間に戻ると戊陽と風蘭が一緒になって書簡を読んでいた。文字を目で追う戊陽の表情は何やら険しい。
「一体誰からの手紙なんだ?」
 風蘭はどうやら本人の言う通り文字はあまり得意ではないようだ。玲馨の問いに肩を上げ下げしてすぐに手紙から興味をなくしてしまう。
 戊陽の正面に座って読み終えるのを待っていると、戊陽はやがて無言で手紙を玲馨の方に差し出してきた。
「相手は于雨ユーユーからだ」
「于雨から?」
「と、いう事にしておきたいような文章だった」
 渡された手紙を読んでみて戊陽の言いたい事が分かった。
 于雨は宿舎で玲馨と同室だった少年宦官だ。彼の勉強を見ていたので文字は確かに于雨のものだと分かるがその内容がいかにも子供らしくない堅苦しい言い回しが多く、誰かの代筆である事は明白だった。
 ──蘇智望スージーワンがこれを寄越したのか……?
 どうやら近く于雨がここを訪ねてくるようだ。具体的な期日が書いていないのは万が一にもここを知らない何某かの手に手紙が渡った時の事を考えてだろう。
 今や于雨は単なる宦官という立場には収まらない。彼の持つ力はこの国を繁栄させる事も滅ぼす事も出来るとても危ういものだ。力を良い事に使うと言っていた于雨の姿は玲馨に勉強を教わっていた頃の于雨とは既に違ったものになっていた。
 あの子は成長した。玲馨が紫沈を離れていた短い間に彼にとって何か大きな事を経験したのだろう。玲馨の思惑によって図らずも特異な力を見出された于雨だが、彼に対してもまた随分勝手をしたという自覚があるだけに、また再会出来るとしたら嬉しい事だ。だがしかし──。
「休みを貰って遊びに来るだけならどんなに良いか」
 戊陽が悩まし気に言うと風蘭が心配そうに戊陽を見遣る。自分の届けた手紙があまり良いものではなかったと思ったのだろう。気付いた戊陽が風蘭の頭を撫でると、風蘭は素直にされるがままになっていた。玲馨や梅が同じようにすればこうはいかないので、やはり人たらしのなせる技だ。




 夜半、梅のいびきで目が覚めた。寝台は二つしかないので今夜は戊陽と一緒に使っていたはずだが、隣に戊陽の気配が無い事に気付いて家の外に出てみると、月明かりの下で息を白く染める戊陽を見つける。
「洋」
「ああ……起こしたか?」
「いや、梅の鼾がうるさくて」
 半分は言い訳だ。手紙を読んだ後から戊陽の様子がおかしかった事が気掛かりで、あまり深くは寝入っていなかった。
「どう思う? 手紙はどうも俺の力が必要だと匂わせていたような気がしてならないんだ」
 玲馨も全く同じ印象をあの手紙から感じていた。よもや紫沈に戻れとは言われないだろうが、半年かけて漸く慣れ始めた生活に再び激しい変化が起きるのは勘弁だった。
 後悔も、罪もある。だけど漸く手に入れた、望まぬものに囚われない戊陽の姿だ。もう失いたくないし、玲馨とて呼吸もままならぬような魔物の巣窟には帰りたくない。
「手紙を書いた誰かの真意は分からない。ただ私が願うのは、あなたが幸福である事だけです」
 足元を見つめていた玲馨の頭上に影が差して、はっと顔を上げるとそこには戊陽の顔が間近に迫っていた。
「ん……っ、ち、ちょっと、ここ外……!」
「約束したろう。お前が俺に対して畏まる度に口吸い一回ってな」
「もう……」
 外気で冷え切ってしまった戊陽の唇は冷たかったが、彼の笑顔は温かい。
「玲馨はなかなか従者根性が抜けないな」
「それは、あなたの宦官を一体何年してきたと思うんだ」
「まぁ、そういうところも可愛いんだがな」
「……勝手に言ってくれ」
 夜中なのでひそめた笑い声が耳の近くでする。外は寒いし耳はこそばゆいが、こんな何でもない時間が玲馨の心を癒やしていく。
「実はな、俺自ら梅をお前の護衛につけておきながら、俺はずっと梅に嫉妬していたんだぞ?」
 おどけた口調で言って戊陽は玲馨の頬に唇を寄せる。
「……嘘だな。あなたがそんな玉だとは思えない」
「ははっ、まぁ半分嘘だ。嫉妬はしなかったが心底羨ましかった。本当なら四六時中俺の傍に置いて、人目もはばからず愛で回したいくらいだった」
 唇の後は冷たい頬を擦り寄せてくるので戊陽の胸に手を置いてぐっと押し返そうとする。家の中では梅たちが眠っているし、すぐそこには民家が並んでいる。家人が起きてこない保証などどこにもないというのに、戊陽は自分の胸に置かれた玲馨の腕をつかまえて、軽いあかぎれになっている指先に愛しそうに唇を押し当てる。
「どれだけ一緒に居ても足りない。あの頃の自分はよくお前と離れて過ごせていたもんだと信じられないくらいにな」
「そ、れは……っ」
 自分とて同じだという玲馨の思いは言葉にさせてもらえなかった。呼吸ごと浚うようにかさついた唇を合わせられ、何度も角度を変えて触れるだけの口付けを繰り返す。次第に体が温まり始め、唇が湿る頃、家の中からゴトンという騒音が響いて途端に冷静になった。
「梅の奴、何を暴れているんだ……」
「案外風蘭の方かも知れないぞ? 冷えてきたし寝相を確かめるためにも戻るか」
 音の正体は壁に立てかけておいた風蘭の槍が倒れた音だった。すぐ傍で眠っている二人は一切目覚める様子がなく、いつかうっかり自分の武器に殺されかねないと思った玲馨は翌朝二人に懇々と説教をするのであった。




 某日、手紙で予告した通り于雨がやってきた。何と兵士数名の護衛に守られながら馬に乗ってのご登場だ。随分出世したなと驚く気持ちはすぐに于雨の様子を見て冷めていく事になる。
「お、お久しぶりです、玲馨先輩」
「于雨? どうした、何かの病か?」
 兵士の手を借りて馬の背から降りるなり恭しく礼をした于雨だったが、一つ一つの所作が緩慢で覇気がない。すぐに家の中に連れていって椅子に座らせると、糸が切れた人形のようにくたっと壁に体を預けた。
「私が説明しよう」
 田舎のあばら家のような場所で決して聞くはずのない、怜悧で冴え冴えとした声がすると、兵士が一斉に拱手し道を開けた。
 まさか、と思って最初は自分の目を疑った。だがあの金の髪と緑の目は間違えようもない。玲馨はすぐに兵士に倣って視線を低くした。
 ──戊陽。
 呆気に取られていた戊陽だったが、すぐに落ち着いた所作で拱手し玲馨の隣で玲馨や兵士たちと同様に視線を下げる。この状況に胸を痛める権利は、玲馨には無い。己の願ったもので、己の招いたものだ。それでも、紫沈に他国の兵士を送りこんで首都を奪取した男を相手に頭を垂れる戊陽の姿は、見たかったものではない事は確かだ。
 平凡な日常を手に入れた代償がひとつ、ひとつ、形になっていく様を、玲馨は受け止めなくてはならない。複雑な感情が顔に出てしまわないよう気を引きしめる。
「顔を上げてくれ」
 兵士を部屋の中から出すよう命令し、蘇智望は言う。顔を上げた戊陽の顔は凪の表情だった。
「于雨の力の説明は不要だな?」
「はい。地脈を操る力を持っていると」
「そうだ。その力によってを取り除く計画を進めていたところだった」
 この国には常人には使えない不思議な力を持つ者が居る。力は様々な能力となって現れるが、この于雨は大地に血液のように流れる地脈という「大地の生命力」のようなものを活性化させる事も衰退させる事も出来る極めて貴重で、且つ強大な力を持っていた。
 蘇智望によれば、于雨に地脈を操らせてあわいという不毛の土地を少しずつ取り除く実験をさせていたが、どうやらその反動で体調を崩してしまっているらしいという事だ。
「如何せん凱寧カイニンの兄の代で途絶えたと思われていた力でな。全てが手探りなせいで、本人さえも体の不調に気付けなかったのだ。無論、医者には診せたが、病ではないから誰も治せぬという。そこでそなたに癒やしの力がある事を思い出した。桂昭グイジャオによれば、于雨に宿る操脈の力、そしてそなたに宿る癒やしの力は、もとより二つで組になるものだったのではないかという話だ」
 蘇智望はあわいや地脈に関して調査研究する専門の官衙かんが──役所の事──を作った。そこには玲馨もいくから聞いてきた事のある名前の官吏が引き抜かれて日夜奔走しているという。そこに于雨も表向きは蘇智望付きの宦官という立場で加わっていた。
 あわいを取り除く。それは凱寧以降の皇帝たちが考え付きもしなかった事で、もしも成し遂げればまず間違いなく歴史に刻まれる偉業となる事だろう。その要となるかも知れない役目をまだ幼い少年が、その小さな肩に背負っている。
「于雨を、救ってくれるか」
 努めて冷静に話を聞いていた戊陽は一も二もなく即答した。「もちろんでございます」
 幼い頃、医者になりたかった戊陽にとって天が与えたかのような癒やしの力。それを使うべき場面が目の前に現れて、戊陽が力を出し惜しみする事はない。しかし、今や「戊陽」という皇帝が死んで表舞台を去った以上、その力もまた封印されるべきものだった。
 これもまた、代償の一つだ。農作業で怪我をした村人を前に咄嗟に力を使おうとして我慢する姿を、玲馨は見て来た。




 ぐったりとした于雨を寝台に移動させ、その手を握る戊陽についていた。あまりに真剣に見つめすぎたせいか、戊陽は玲馨の顔を見て小さく吹き出す。
「心配するな。今日と明日は寝込むかも知れないが、玲馨が看病してくれるだろう?」
「ええ、もちろん」
「この力が役に立つ事が、俺は嬉しいんだ」
「はい」
 土のようだった于雨の顔色が瞬く間に回復していく。目を開ける事も億劫だった状態から、しばらくすると瞼を震わせて戊陽を見上げた。
「あ……へい──」
 シッ、と言いながら戊陽が指を唇に当てると、于雨は自分の間違いにすぐに気付いて謝罪した。
「あ、あの、これは一体……?」
「体が楽になったろう?」
 うんうん、と于雨が小刻みに二回頷く。
「良かった。病ではなかったから、お前を治せるかどうかは正直自信がなかったんだ」
 おどけるように言って戊陽が微笑むと、于雨は恐縮したようになって心からの感謝の言葉を告げる。彼の生真面目な性格は変わっていないようで玲馨も安心する。
「于雨、お前はきっと頑張り過ぎるきらいがあるのだな」
「玲馨先輩、ですが私は未だこの力をあまり上手くは操れていないんです」
四郎スーランは何と言っている?」
「焦りは禁物とだけ仰います……」
「ではそういう事だ。お前はまだ若いから、体も成長しきっていない。大人になれば力とやらもきっと安定してゆく」
「はい」
 ふ、と笑ったような気配があったので戊陽の方を見ると、口元を手で押さえてコホンとわざとらしく咳払いをする。
「風蘭に対してもそうだが、お前は案外面倒見が良いんだな。俺が言った時よりも于雨はよっぽど玲馨の言葉の方を信用しているらしい」
 戊陽の言葉を聞いて于雨があたふたとするので「真に受けるな」と言って寝台に横にならせた。
 于雨が目を閉じたのを見て、蘇智望を含めた三人は場所を変える。外で待機していた兵士と馬の中にいつの間にか軒車けんしゃ──貴人の乗る車のこと──が現れていた。蘇智望の乗ってきたものだ。
 蘇智望を軒車まで送ると彼は戊陽に問うた。「私を恨むか?」
「いえ」
 戊陽の答えを聞いて蘇智望はたまらずといった風に声を出して笑い出す。
「玲馨が生きていると分かるまでのそなたは、私を憑り殺さんばかりの気迫があったがな」
「ご冗談を。私は徹底的に死なぬよう管理されておりました」
 淡々と返す戊陽に、蘇智望も興が削がれたか笑みを消していく。
「于雨の事は明日迎えに来させよう。私とそなたとが相対するはこれが最後になる。何か申したい事はあるか?」
 ややあって、戊陽は拱手して言う。
「母上をどうかよろしくお願いします」
 それを聞いた瞬間、蘇智望は虚を衝かれたような顔になって、瞬きをすれば見逃すような短い一瞬だけ痛みを堪えるような表情をした。見てはいけないものを見た気がして、玲馨もまた手を組んで視線を下げる。
「母君とそなたはよく似ている」
 それが蘇智望との別れの言葉だった。




 突然馬に乗った兵士と何やら高官らしき男が現れたせいで物々しい空気になっていた村人たちに適当な事情を伝えて誤魔化すと、家に戻って来た戊陽は魂まで抜けていくのではないかという勢いで思い切り息を吐き出した。
「やはりああいう手合いの連中と話をするのは性に合わん! 他人の腹を探らねば飯をやらぬと脅されているかのようだ」
「お疲れ様。力を使って疲れただろ? もう休んでも──」
 戊陽は口を合わせる時いちいち予告をしてくるような事はない。それでも、今から口付けするぞという雰囲気を気にするくらいの事はする。それさえもなく唐突に顔を近づけられるのは玲馨が失敗をした時だ。つまりそう、どこかで玲馨は戊陽の事を主人扱いした、という事だ。
「ん……んんっ!」
 しつこいくらい唇を吸われ、慌てて戊陽の胸を叩いて離れさせる。
「于雨が寝ているのに!」
 小声で抗議すれば、「敬語禁止」と言って再び唇を合わせられる。舌が入り込んで、好き勝手にされる舌の動きに翻弄されているうちに戊陽の手が玲馨の胸元に伸びる。重ね着した衣の隙間から手が忍び込み、胸の突起を指の腹で押されると上ずった声が鼻から抜けていった。
「はっ、待、いったいどこで、その気になった、んだ……!」
「癒やしの力の反動で体が言う事がきかなくなる前にと思った、が、一歩遅かった、みたいだ」
 戊陽は玲馨を抱きしめたままずるずると床に落ちていき、戊陽の体を支え切れなかった玲馨も一緒に床に尻もちをつく。
 へろへろの状態で戊陽は玲馨の頭に手を伸ばすと、自分の肩口に玲馨の顔を引き寄せる。
「俺はな、お前がまだお前のした事に苦しくなる日があるのを知っている」
 どきり、とした。隠していたつもりだったが、十年来の付き合いが嘘も誤魔化しも全部無意味にしてしまう。何より、人の感情や意図を汲み取るのが上手い戊陽を相手に気持ちを隠し続けるのは至難の業だ。
「でもな玲馨は間違っている。お前が気に病むべきは、俺に黙って勝手に死のうとした事だ」
「……は、反省している」
「本当か? だったらもっと俺に愛でられる事に甘んじるべきだな。そして同じくらいもっと俺を愛でろ」
「め、愛でろと言われても」
「やり方が分からないか? そうだな……」
 玲馨の頭を解放し、戊陽は玲馨の顔の前で両目を閉じて顎を突き出すような姿勢を取る。
「お前からしてみろ。いつも俺からするばかりでは対等ではないだろう?」
「そ……っ」
 そんな事はない、と否定しかけたが確かに自分から口付けをした記憶がはっきりと無い事に気が付き口を閉ざす。行為の最中は訳が分からなくなって強請った事はあるかも知れない。
 戊陽に首にしがみつかれまま言われた通りにする事も逃げる事も出来ずにいると、片目を開けた戊陽が拗ねたように「まだか?」と唇を尖らせる。
 ええいままよ、と意気込みぎゅっと目を閉じて戊陽と唇をくっつけると、軽く歯が当たった感触があってあまり口付けという雰囲気にはならなかった。
「もう一回」
「っ……」
 こうなると戊陽はなかなか諦めないので、今度は自分の唇と戊陽の唇が重なり合う直前まで目で確認しながら口を吸った。玲馨がするのをただ待っているような戊陽をほとんど見た事が無いせいか、胸の奥でドキドキと心音がうるさいくらい音を立てる。主導権を渡されるというのは即ち、全ての行動は玲馨の希望によって行われるという事だ。そのやりにくさといったらない。戊陽に仕える事が長年の使命だった玲馨にとって、自ら戊陽に対する慕う気持ちを曝け出していくのはいつまで経っても慣れられないのだ。
 軽く口を開くと戊陽もそれに応えるように同じだけ口を開ける。角度をつけて何度かそうして唇を合わせると、薄く開いた唇の隙間から赤い舌がちらりと覗き、何を要求されているのか一気に理解して頭が熱くなる。
 恥ずかしくてたまらない。いつもこんな事をよく平気でやるものだと戊陽を心底から尊敬しながら舌を差し込もうとした時、床を踏みしめる音が聞こえた気がして、ぱっと戊陽の体を離した。
「ち、が、これは、その……?」
 慌てて言い訳をしようとした玲馨だったが見える範囲には誰もいない。于雨は寝台の上で横になったままだし村人が無断で入って来たのでもない。では一体何の音だったのかと思って首を巡らせると厨の方にねずみをくわえた猫が玲馨と戊陽をじっと見つめて立っていた。
「目撃者は猫か。よし、続けるぞ玲馨」
「もう勘弁してくれ……」
 耳まで真っ赤にして白旗を振ると、戊陽は嬉しそうに笑って許してくれるのだった。
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