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完結編
42新風
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雨季が終わり、本格的な夏が訪れた某日。第二十二代皇帝戊陽の処刑が執り行われた。
当日は暴動を警戒して禁軍ではなく紫沈にとどまっていた東江軍によって大掛かりな警備が配置される。処刑は午門の手前、東沈と西沈を繋ぐ広場に断頭台と処刑人が用意された。
大勢の民が東江軍の警備の隙間から皇帝の死を一目見ようと群がる様は、まさに死骸に群がる蟻や蛆の如きであったと後に右筆が書き記している。
高官の男が紙を持ち、つらつらと罪状を述べていく。数代前より続く悪政を正さないばかりか、沈を最も苦しめているあわいについての情報を隠匿し民にさらなる苦痛を強いた事。大まかにまとめるとそのような事柄を細かく書き記して戊陽皇帝がいかに悪辣であったかを民に聞かせた。
まるで沈の明るい未来を祝福するかのような清々しい晴天。午後一番の最も日が高い時刻、額から白い面布を巻きつけた男はぐったりとした様子で兵士に両脇から抱えられるようにして断頭台に上がる。
歳は二十一、若き君子は今、皇族のあらゆる罪を背負ってこの世を去る。
処刑人の大刀は苦しまぬよう一息のうちに振り下ろされた。落ちた首はそのまま桶に落ちすぐさま蓋をされ、観衆の目に晒される事はない。暗君であろうとも皇族である事に敬意を払い遺体はすぐに弔われた。
蘇智望は自らが主導した戦いをあくまで「戊陽皇帝」への反乱であるとし、放伐とは異なるものとした。帝位は蘇家の子女である東妃のその子小杰に継がせるとし、これを第三皇子緑歳、そして第四皇子亥壬も認めた。
こうして沈の大規模な政変は、皇帝の死を以て終わりを告げる。後の世はこの事を「革命」と呼んだ。戊陽皇帝の悪逆を正すべく起きた、正道の乱だったと歴史が認めていく事になる。
*
「実際には生きておられるとは言え、何と哀れな事でしょうか」
「後世に暗君として伝わるのは嘆かわしいが、何より命に代えられるものはないぞ」
動乱の数日間の後、亥壬と緑歳は蘇智望と面会していた。帝位について本来なら三男である緑歳が継ぐべきところだが、緑歳が辞退する意思を伝えると亥壬もそれに倣った。次期皇帝についてはあっさりと末子の小杰へと決まり、小杰が成人するまでは母の東妃と蘇智望の蘇家によって国政が行われていく事になるだろう。
またこれに伴い官吏が多数入れ替わる事も想像に容易い。
汀彩城はその雰囲気を大きく変える事になる。そして恐らくは小杰以降に続く皇室には昆の血がより強く混ざり始めるだろうと亥壬は予測していた。
蘇智望は今回の戦に昆の協力があった事を公にしなかった。わざわざ沈製の鎧を着せてまで東江兵に扮装し、膨大な「数」の力で政権を覆した。
もちろん昆の関与を知る者は少なくない。小杰の治世が斜陽と見るや必ずそこを突ついてくるだろう。だがそうならないうちに沈の深いところまで昆に侵されてしまえば、やがて沈は沈ではなくなってしまう。そうして西の大国に吸収されてしまうのだ。蘇智望はそれだけの事をした。半ば昆に内政干渉を許したも同然の行いなのだ。だがそれをしてまでも沈には強引な改革が必要だと蘇智望は判断したと、そういう事なのだろう。
遠からず沈は滅ぶ事になる。少なくとも亥壬は未来をそう予測する。
「さっさと臣籍降下してしまった方が良さそうですね」
「しかしなぁ。そうなると軍に入るのが難しくなる」
「まさか、この期に及んで禁軍に未練があると仰るのですか!?」
「そりゃあある。そのために武人を多く排出した紫沈の貴族を調べ上げたくらいだ」
「呆れますね。僕は東に行きたい。正直どこの王も信用なりませんが、どこか一つを選べと言われたら山芒を置いて他にはないでしょう。練族とは友好を結んだようですし、海より山が良い」
「それならば山より海だ。だが……」
緑歳は言葉を切り、顔を横に向ける。視線の先には男女二人が何事かを言い争っていた。
男の方は梅という宦官で、女の方はその妹らしい。
戦いの後、禁軍の兵舎がそのまま会議室として使われていた。外廷は東江の人間が我が物顔で闊歩し、後宮は変わらず男子禁制。母と共に暮らす皇子たちの宮を開放する訳にもいかず、禁軍兵たちがハズレくじを引く羽目になってしまっていた。
「梅が見つけてきた薬とやらが気になりますか」
緑歳はうんと正直に頷いたがその表情は晴れない。竹を割ったような性格をしている緑歳が悩むのは珍しい。
「西方で流通しているものよりも粗悪な物だったというからな。異国と交易をしているのは東江を除けば北玄海だけだ」
「ふむ……」
話しは時を少し巻き戻し南門が雲朱の間者によって開門され、雲朱軍の突入を許してしまった辺りだ。亥壬は梅に戊陽の捜索を任せたが結局梅が戊陽を見つけるよりも先に、戊陽を東江によって捕らえられてしまった。
この梅という宦官、戊陽を見つけられなかった事も含めてやはり人選を間違えたかと思った亥壬だったが、その後再会を果たした戊陽からは「信頼に足る」と言われ笑われた。梅のような男との相性の悪さを見透かされたようだ。
梅とはそれきり縁が切れるものと思っていたが、果たして梅は戦が始まるより前は東江の兵と共に、国家反逆の罪を犯した者たちを探して回っていたのだと報告してきた。李将軍が得ていた情報が正しかったと証明されたのである。
梅と関虎という男は、これまで水面下で宮廷を操ってきた〈羊〉という組織の人間を処分して回っていたという。〈羊〉は星昴が差し違えた汪宵白によって組織された間諜たちの事で、それはつまり東江側にとっての醜聞に違いなかった。そんなものの処分をよくもまぁ行きがかりの宦官などを使って行ったものだと呆れたが、そこにはどうやら事情があるらしかった。
東江の暗部を知った事になる梅がこうして生きているという事は、蘇智望という男は思ったほど血も涙もない人間という訳ではないらしい。
さて、いよいよ本題である緑歳の悩み事についてだが、この梅という男が齎した情報が原因だ。梅たちが処分したのはあくまで〈羊〉のみである。官吏は〈羊〉に所属しておらず、彼らは殺す代わりに多くが囚われの身となった。そうして捕まった官吏たちのうち、例の薬とやらを所持していた人間は実に半数近くにのぼった。
火を付けると白い煙がもうもうと立ち昇る物で、いつ頃からか西方の商人によって齎され宮廷にもぽつぽつと愛好する者が出始めた嗜好品である。しかしとにかく値の張る物のようで、より安価な物を今度は北の商人が売り始めた。聞いた限りではどうやら北の商人が売る薬は粗悪な品で、薬を本来の用途以外の使い方をする事によって中毒症状を引き起こす極めて危険な物らしい。
「北の王は何と言ったか」
「菫武修ですよ。緑歳兄上の大叔父でしょう」
「疎遠なせいで名前が覚えられんのだ。その菫武修も、結局郭隕と同じように兄上の首を狙っていたという事か?」
「そうでしょうね。その上郭隕よりもずっと上手です。邪魔な西の間諜〈羊〉を狙い、ついでに怪しい薬を流行らせ紫沈を市中から壊していこうと画策していた節があります。恐ろしい狸爺ですよ」
使えば酩酊し、使い込めば中毒になるような代物を紫沈でばら撒こうとしていたのだから、今回の事で最も性質が悪かったのは菫武修に間違いない。
「口が悪いな亥壬」
「それで、どうするんです? 北玄海に行かれるのですか?」
「そうだな。だが……」
「珍しく煮え切らないですね。仕方ない。私も北玄海について行くとしましょう」
「何!? 本当か! お前が来てくれたら百人力だな!」
「まずは母上を無事に山芒に送り届けてからになりますね」
「ああもちろんだ! 北玄海で待っているぞ、亥壬!」
*
「それで、兄さんはどうするの? 私は蘇智望様が一旦東江にお帰りになられる時についてくけど」
「蘇智望様ねぇ」
「何よ。確かに侍女になったのは情報を集めるためだったけど、あの方の政の手腕は確かなんだから!」
戦いの最中に敵と共闘し暗躍した梅は、情報共有のために会議室に連れて来られていた。一方、蘇智望からの許しを得た羅春梅は戦だ敵だ何だと忙しない中での数年ぶりの兄との再会になって、終始不満げにしている。もっと感動的な対面になると思っていたようだ。
「はいはい。もう何だっていいよ。陛下は生きてるし、お前とも生きて会えた。それだけで十分だ」
「清哥……」
ふと春梅が寂しげに目を伏せるので梅が妹の頭を撫でようとしたが、春梅はひょいと避けて目を吊り上げた。
「陛下って言ったら駄目じゃない!」
どこで誰が聞いてるか分からないのに! とキンキン声で叱るので、梅はわざとらしく両耳を塞いで肩を竦める。
「あーあーもう、口喧しくなりやがって! 人の女房になると肝っ玉が座っちまうのかねぇ」
「やだもうはしたない事言わないでよ! バカ!」
「ば、バカだぁ!?」
「兄さんこそ会わない間になんだか軽薄になったみたい。次いつ会えるかも分からないのに……」
こぼれるように出た本音に春梅はハッとして顔を赤くする。梅は何も言わず、そっと妹の頭に手を乗せる。
「旦那と上手くやってるか?」
「うん。兄さん探すの協力してくれてたんだよ」
「そうかぁ。挨拶は、まぁするべきじゃねぇな。よろしく言っといてくれよ」
「……来ないの?」
「西には行くつもりだぜ。城に残ってもあんまり良い事にゃならなそうだし」
〈羊〉と名付けられた郷間集団の首魁である常義と面識があったというそれだけが理由で、梅は関虎に協力させられていた。表には出したくない内情を知る者として処分される事も覚悟の上だったが、ひとまず殺される事はないらしく今の所は自由に振る舞っている。
「蘇智望の気が変わらないうちにトンズラかましたいが当てはねぇしな。へい……うーや……えーっと、とにかくあの人についてくよ、俺は」
「そう。そっか」
ふふっと声を出して春梅が笑う。そうしていると幼い頃ふくふくとよく笑っていた小さな春梅の面影が強くなって、梅の表情も自然と和らいだ。
「私ね安心したよ。兄さんが思いとどまってくれて」
関虎に協力した梅は常義を殺さなかった。常義の身柄は〈羊〉の首魁として拘束され、先日清々しいほどの晴天の日に常義は最期の役目を果たした。男は己としての死を許されず、親族にさえもその真実は永久に伏せられる事になるだろう。
常義は粗悪な薬を常用していた副作用で最後は我を失っていた。そのせいで攫われた春梅の親友の行方については分からないままだった。こんな事なら自らの手で復讐を遂げれば良かったと思っていたが、春梅は兄が復讐に囚われなかった事に安堵したという。
「本当は私の方があいつを殺してやりたいくらいだったのにね。兄さんは自警団じゃなくなってもやっぱり立派な人だった」
「やめろそんなんじゃねぇよ」
「照れる事ないじゃない」
「そうじゃねぇって。本当に……まぁ俺が多少なりと真っ当であれたってんならあの人のおかげだろうな」
梅は数年前の地獄のようだった日々を思い出す。
常義に騙され冤罪で宮刑にまでされて暫くの間は酷く荒んでいた。怒りと悔しさでどうにかなりそうだと思いながら過ごしたどん底から掬い上げてくれたのは他でもない戊陽だった。
どこから聞きつけたのか嘗ての羅清が宦官になったと知って仕事を与えてきたのだ。
始めは簡単な力仕事だった。虫干しのために蔵書楼の書物を運ぶだけという、頭を使う必要はないがそれなりの重労働のおかげで不思議と泥のようだった思考が汗と共に洗い流されていった。
戊陽と顔を合わせる機会はそう多くはなかった。会う時は必ず一対一で顔を合わせ、そうしているうちに梅はどうやら戊陽の間諜のようものとして期待されている事に気が付いた。
戊陽は一見素直で明るく人の顔の裏側など考えもしないような人間に見えるが、実際は思った以上に頭が切れる人だと分かった。
結局、一枚どころか百枚ほど上手だった蘇智望に足元を掬われてしまったが、それでも戊陽の下で彼の命令で動くのは悪い気分ではなかった。自分の因縁のためにいっときばかり蘇智望に協力したが、戊陽になら仕えても良いという考えは今でも変わらない。
「お前もこれで安心して子作りに励めるな」
「はぁ……もう信じらんない」
じろりと睨まれ梅はたじろぐ。
「何だよ、姪でも甥でも、俺の代わりにいっぱい頼むぜ」
「そう言われちゃったら……頑張るしかなくなるじゃないの」
春梅の結婚は親が決めた縁談だったが、頬に手を当て恥じらう様を見る限り悪縁ではなかったらしい。
これで梅の懸案はすっかり片付いた事になる。清々しい青空のように晴れ渡った胸には、もはや何の曇りもない。後は今後の身を立てる方法を見つけるだけだ。戊陽のもとに暫く留まった後は、旅に出るのも良いかも知れない。
*
一体何から話せば良いだろうか──。
そんな小さな事で悩む夜を過ごし、漸く再会の機会が訪れた。
自分自身がこの国に対して行った事の意味はよく理解しているつもりだ。これから多くの反感を力でねじ伏せていかなくてはならない。そうして蘇智望の策は正しかったのだと国民が理解するまで、蘇智望は自ら降りる事は決して許されない線路の上を歩き始めたのである。
「まさかまたここに訪れる日が来るとは……」
小さくて小太りな体を自信なさげに小さく丸めているのは薛石炎という中央官吏だ。権力が太り過ぎて東江にとって癌になり始めていた林隆宸の粛清を任せた桂昭という男は実に優秀で、その桂昭の紹介だというので今日この日、この場所に連れていく事に決めた。
ここは後宮を出た皇族の居所の一つである紅桃宮だ。先日執り行われた処刑により息子を失ったばかりの国母たる人の住まう場所。無論、それは表向きの話であるが。
紅桃宮の庭は手入れがよく行き届いていたが、些か寂しい感じのする場所だった。今頃ならば蓮の花がちょうど見頃だが、翡翠の假山がある池には何もない。同じく夏菊も咲く頃だがそれもなく、そもそも花をつける植物に乏しい庭だ。
しかし四阿のある辺りまで来るとそこにとても馴染み深い木を見つけて思わず懐かしい心地になった。
「おや、金王様は桃がお好きなんです?」
軽妙な話し方をする桂昭は賢すぎるが故に底知れない不気味さのある男だが、この男が相手だとよく会話が弾む事に気が付いた。蘇智望はどちらかと言えば話し好きである。桂昭は知性に富むばかりか雑学にも精通しているようで、こちらの話したい事を上手く汲み取り話を繋げていくのだ。それが何とも心地よく、一方でこうして警戒心の強い林隆宸の懐に入っていったのだろうと納得した。
「私、というより桃を好きな人の事を思い出していた」
「おや。おやおや。私は何を隠そう柳が好きで御座いますなぁ。枝垂れ柳の影が落ちる水面を小舟で行きながら酒を飲む。風情があってたまらんのです」
「ふ、好き者だな」
「金王様も一度、城の堀をご覧になられたら虜で御座いますよ」
軽快に会話を弾ませる二人の後ろから、肩を竦めて小さくなったまま薛石炎がついてくる。どうにもこの男には身の丈に合わない事をさせているようで気の毒だが、やはり桂昭が薦めるのであればと思うと帰れとは言えない。
桃の木を後目に殿舎の扉の前に立つと、桂昭が中に向かって蘇智望の訪れを告げる。すぐに扉が開きどこかで見た覚えのある顔の宮女が出てくると三人を中へ招き入れた。
ここに至るまでに蘇智望は皇帝の居所である黄麟宮を見ている。品よく豪勢な作りの庭と殿舎、沈の職人の腕が光る調度品に歴史ある扁額と、大変に贅を尽くしてあった。それに比べて紅桃宮の何と質素な事か。
姉の東妃にも会ったが彼女が連れている宮女と紅桃宮の宮女とでは、人は違えど同じ妃に仕えているとは思えないほど貧富に差があるように見受けられた。
まだ十代で青かったあの頃は皇帝の隣で派手に着飾った賢妃を見て知らない人になってしまったと衝撃を受けたものだが、やはりあの人は今でも変わっていないのだ。庭や殿舎の中、そして宮女から賢妃の質素倹約ぶりがよく分かって安堵したのは言うまでもない。
蘇智望の訪いの報せを受けて宮女と宦官たちが脇に並んで恭しく拱手する。みな一様に頭を下げる彼らの前を通り椅子から立ち上がっていた賢妃の前までやってくると、蘇智望はいっとき言葉を失った。
夢にまで見た人が、今目の前に居る──。
「お久しぶりで御座います」
流麗な仕草で拱手してみせる賢妃はどこかよそよそしい。上げた顔には隠せない皺も目立った。けれど、蘇智望の記憶の中の「堂姐」は変わらない。素朴で、優しくて、綺麗な心根の女性。
「──それで、何の御用で御座いましょう、金王様」
賢妃はにこりともせず冷たく言い放った。たまらず蘇智望は面食らい、視線が泳ぐ。
何かの聞き間違いか、彼女の物言いはまるで他人のそれだ。
「桃の木の……」
言葉が閊える。ここに来るまで、いや、賢妃に他人行儀に金王と呼ばれるまで、蘇智望は自分が頼めば桃の木の移植を許してくれるだろうと思い込んでいた。しかし、これほどまでに分かりやすく冷ややかな態度を取られては、最早国のためであれど賢妃から大事にしている桃の木を分けてくれとは口が裂けても言えなかった。
黙り込んだ蘇智望を見て、桂昭がオホンと咳払いをする。彼の言わんとする事を察して蘇智望が頷くと、桂昭が代わりに事情の説明を始めた。
今は亡き星昴が桃の木の祓魔の力と川の流れに含まれる地脈に着目して案を練ったあわいの浄化方法は、律儀な事に星昴の私宅にある書斎から大まかにまとめた紙が出て来た。今その資料は薛石炎の手元にある。
薛石炎は賢妃を相手におどおどとしながらも、桂昭と共に星昴が遺した計画の説明をしている。やはり彼は桂昭と並ぶとその凡庸さが浮き彫りになる。しかし、どこか頑なであった賢妃の態度も薛石炎に対しては角が取れて丸くなる。彼は不思議と他者を和ませる才に恵まれたようだ。
しばらくの間聞くに徹していた蘇智望だったがそっと輪から離れていく。元よりこの計画は彼の主導するものではない。この事を口実に賢妃に会いに来ただけだった。
最早自分は不要らしいと分かると、蘇智望はそのまま黙って部屋を出ていく。
緑だらけで文字通り花のない庭に出て、ぽつんと桃の木に囲まれた四阿を見遣る。
「……私は、何を勘違いしていたのだろうな」
蘇智望は賢妃の息子を殺した男だ。その実生きていたとて、賢妃が城に残る事を決めた以上は生涯息子との再会は叶わぬだろう。彼女の手から紛れもなく息子を奪ったのだ。
頭の隅ではそれを理解しながらも、賢妃なら、堂姐なら許してくれるだろうという甘い考えが愚かにも蘇智望をこの宮殿にまで足を運ばせてしまった。
「金王様」
不意に声がしてはっと振り返る。そこには四郎もとい汪巳琅が二人の子供を連れて立っていた。
汪巳琅は教本通りの畏まった拱手をする。後ろで少年宦官らしい二人も彼に倣った。
「こんな所までどうした?」
汪巳琅もまた蘇と汪の古い因縁によってその人生を歪められた男だ。幼い頃より祖父の汪宵白によって間諜として育てられ、齢十二にして男の印を失った。以降は後宮に潜み、ただ黙々と己の務めを果たす日々の中で、今度は実の兄を、双子の兄を失う事になる。
感情の見えない冴えたその目に、蘇智望はどう映るのだろうか。汪巳琅の人生を縛り付けた一因は蘇智望にもある。〈羊〉としての彼を、蘇智望は悉く利用してきたのだから。
「賢妃様に説明するのに卜占を見せた方が早いからと仰ったのは金王様です」
一瞬呆気に取られて、蘇智望は小さく笑った。自分を笑ったのだ。
「そうだった。中で桂昭たちが話している。そなたもそれに混ざってくると良い。桂昭が指示をくれるだろう」
「はい」
再び手を組んで頭を下げると、汪巳琅は淡々とした足取りで少年二人を連れて去っていこうとする。その背中を、思わず呼び止めていた。
「どうなさいましたか?」
──あの時、紫沈の南側にのみ妖魔を出させたのはそなたの仕業か?
喉まで出かかった疑問は結局言葉にならずに引っ込んでいく。
蘇智望が紫沈へ到着したちょうどその頃に発生した異様な数の妖魔は、結局郭隕の息のかかった雲朱軍の足止めに一役買っていた事が後に判明した。あの妖魔の出現がなければ蘇智望の首が討ち取られていた可能性も無いとは断言出来なかった。
たった今賢妃にすげなくされたばかりで、汪巳琅の事まで自分に都合よく解釈出来るほどの気力はもはや残っていなかった。
蘇智望が首を振ると、やはり汪巳琅は今のやり取りを一瞬で忘れてしまったかのように未練なく去っていった。彼の後ろに二人の少年がついているのは気にかかったが、操脈の少年は浄身してまだ間もないというから、その世話が必要なのだろう。
桃の木をまた少しの間だけ見つめた。桃の実は甘く熟れてもう間もなく収穫の頃だ。賢妃の愛情を一身に受けた桃は、さぞ甘いのだろう。蘇智望は苦い思いを噛み締め、後ろ髪を引かれる思いで紅桃宮を去っていく。
ここに、一つの憐れで愚かな恋の物語が完結した。
*
風蘭は新しくなった槍を背に背負って、そこに一本だけ生えていた木の幹に凭れていた。風蘭という名は仮の名だが、東江から逃げてくる時に母と一緒に考えた名だったので蘇蘭と呼ばれるよりも風蘭と呼ばれる方が好ましかった。とは言え、さほど強いこだわりがあるという訳でもないのだが。
暇そうに、あるいは気怠げにしている風蘭の視線の先には質素な造りの宿舎がある。汀彩城見学を散々した後だったので、目に優しい色合いの建物を見ると何だかほっとする。母も金王に許しを得て住まいを一時的に紫沈の中へ、しかも元々貴族が使っていたという大きな屋敷に移したおかげで腰を抜かしていた。「こんなにキラキラだとすぐに飽きてしまいそうね」護衛のためについてきていた東江兵が思わず吹き出したのを、風蘭は聞き逃さなかった。
戦から一月近くが経ち、紫沈の状態は当初に比べれば随分と落ち着いた。戦に加勢し、人を初めて斬ったあの日が嘘のようで、けれどやはり両手に残る感触があれは実際に起こった事だと教えてくれる。そして自分に宿るこの力はどうやら人を容易く殺してしまえるらしいという事がよく分かった。
義理の父となる金王には「槍を持たずとも良い」と言われた。気を遣ってくれたのだろうが、寧ろ風蘭は槍を新調したいと頼んだ。それから、護衛の仕事を続けたい、と。
さしもの金王もまさかそんな頼み事をされるとは思っていなかったようで驚いた様子だったが、金王が紫沈に留まっている間は好きにして良いと言われた。「死んでくれるな。それからたまには顔を見せに城へ来なさい」と思いの外あっさり承諾してくれたのである。
そうして晴れてこれまでの日常に戻って来た風蘭は、用心棒復帰の第一弾としてこれからとある人を護衛して紫沈を発つ予定だ。護衛の雇い主は目の前の宿舎で旅支度を整えている最中だ。何でも突然決まった事らしい。準備が終わるまで少し時間がかかると言われた。
「暇だなー……」
「おーい、小僧。元気してたかよ?」
「何だよ小僧って……梅兄さんじゃん!!」
ぽん、と片手で木の幹を押して勢いをつけると梅の方へと駆け寄る。梅もまた紫沈どころか汀彩城に戻って来ていた事は知らされていたのだが、再会は雲朱で別れたあの時以来だ。
「背ぇ伸びたかー?」
「一ヶ月ちょっとでそんな伸びないよ!」
「そうか? 俺がそれくらいの歳の頃は毎日着る物が小さくなってたけどなぁ」
「うっそだぁ!!」
からりと笑ってみせるその姿は最後に別れた時とそう変わらない。大して長く行動を共にしたという訳でもなかったのだが、別れが別れだっただけに無事な姿を見れたのは良い事だった。
「で、梅兄さんはこんな所で油売ってんの?」
「そうしたいのはやまやまなんだがなぁ、俺ぁ護衛の仕事よ」
「へぇ、誰の?」
「お前の」
「オレ!?」
そんなもの頼んだ覚えがないので最初は純粋に驚いていた風蘭だったが、すぐに誰が梅に依頼したか察してむっすりと口を閉じた。
「まぁ、跡継ぎを簡単にゃ死なせねぇってことだろ」
「別に平気なのに」
漸く他人から一人前だと認められたようで得意な気分になっていたところ、大いに水を差されて風蘭のやる気は急速に下降していく。これでは風蘭が護衛をする意味がない。ほとんど二度手間のようなものだ。
「全く怖いお人だぜ、お前の義父さん。綺麗な顔で脅された俺を労わってくれよ、息子としてさ」
「うっさいなぁ。嫌なら断ればいいじゃん」
確かに金王は怒れば怖そうだが梅が本気で拒否すれば脅してまで言う事をきかせようとはしないのではないか。風蘭としては本気で言ったつもりだったが、梅は苦笑して肩を竦めるだけだった。
しばらくの間、梅とそうして他愛ない会話に興じていると、小さくまとめた荷物を抱えて漸く待ち人が宿舎の中から現れる。
「何だか懐かしい顔が揃ったな」
「懐かしいって、せいぜい一、二ヶ月くらいの話じゃん」
「良い事教えてやるよ風蘭。歳を取るとな、怖い事に時の流れが早くなるんだ。お前にとっての一日は、俺らにとっては一時辰なんだぜ?」
「うっそだぁ!! ってかそれなら懐かしく感じるのはオレの方じゃんか!」
「くだらない事言ってないで、行くぞ、二人とも」
「おいおいおい、まったく俺と風蘭が誰を待ってやってたか、ちぃっと考えてから物言えよなぁ?」
「なぁー!」
待ち人は下らない言い合いをしていた風蘭と梅を置いてさっさと行ってしまう。それを風蘭たちはやれやれと肩を竦めて追い掛ける。
これから数日はまた一緒の旅だ。金王がいつまで風蘭の旅を許してくれるか分からない以上、心残りのないよう存分に満喫しなくてはならない。
新しく綺麗になった槍を背負い直し、風蘭は旅への一歩を踏み出した。
当日は暴動を警戒して禁軍ではなく紫沈にとどまっていた東江軍によって大掛かりな警備が配置される。処刑は午門の手前、東沈と西沈を繋ぐ広場に断頭台と処刑人が用意された。
大勢の民が東江軍の警備の隙間から皇帝の死を一目見ようと群がる様は、まさに死骸に群がる蟻や蛆の如きであったと後に右筆が書き記している。
高官の男が紙を持ち、つらつらと罪状を述べていく。数代前より続く悪政を正さないばかりか、沈を最も苦しめているあわいについての情報を隠匿し民にさらなる苦痛を強いた事。大まかにまとめるとそのような事柄を細かく書き記して戊陽皇帝がいかに悪辣であったかを民に聞かせた。
まるで沈の明るい未来を祝福するかのような清々しい晴天。午後一番の最も日が高い時刻、額から白い面布を巻きつけた男はぐったりとした様子で兵士に両脇から抱えられるようにして断頭台に上がる。
歳は二十一、若き君子は今、皇族のあらゆる罪を背負ってこの世を去る。
処刑人の大刀は苦しまぬよう一息のうちに振り下ろされた。落ちた首はそのまま桶に落ちすぐさま蓋をされ、観衆の目に晒される事はない。暗君であろうとも皇族である事に敬意を払い遺体はすぐに弔われた。
蘇智望は自らが主導した戦いをあくまで「戊陽皇帝」への反乱であるとし、放伐とは異なるものとした。帝位は蘇家の子女である東妃のその子小杰に継がせるとし、これを第三皇子緑歳、そして第四皇子亥壬も認めた。
こうして沈の大規模な政変は、皇帝の死を以て終わりを告げる。後の世はこの事を「革命」と呼んだ。戊陽皇帝の悪逆を正すべく起きた、正道の乱だったと歴史が認めていく事になる。
*
「実際には生きておられるとは言え、何と哀れな事でしょうか」
「後世に暗君として伝わるのは嘆かわしいが、何より命に代えられるものはないぞ」
動乱の数日間の後、亥壬と緑歳は蘇智望と面会していた。帝位について本来なら三男である緑歳が継ぐべきところだが、緑歳が辞退する意思を伝えると亥壬もそれに倣った。次期皇帝についてはあっさりと末子の小杰へと決まり、小杰が成人するまでは母の東妃と蘇智望の蘇家によって国政が行われていく事になるだろう。
またこれに伴い官吏が多数入れ替わる事も想像に容易い。
汀彩城はその雰囲気を大きく変える事になる。そして恐らくは小杰以降に続く皇室には昆の血がより強く混ざり始めるだろうと亥壬は予測していた。
蘇智望は今回の戦に昆の協力があった事を公にしなかった。わざわざ沈製の鎧を着せてまで東江兵に扮装し、膨大な「数」の力で政権を覆した。
もちろん昆の関与を知る者は少なくない。小杰の治世が斜陽と見るや必ずそこを突ついてくるだろう。だがそうならないうちに沈の深いところまで昆に侵されてしまえば、やがて沈は沈ではなくなってしまう。そうして西の大国に吸収されてしまうのだ。蘇智望はそれだけの事をした。半ば昆に内政干渉を許したも同然の行いなのだ。だがそれをしてまでも沈には強引な改革が必要だと蘇智望は判断したと、そういう事なのだろう。
遠からず沈は滅ぶ事になる。少なくとも亥壬は未来をそう予測する。
「さっさと臣籍降下してしまった方が良さそうですね」
「しかしなぁ。そうなると軍に入るのが難しくなる」
「まさか、この期に及んで禁軍に未練があると仰るのですか!?」
「そりゃあある。そのために武人を多く排出した紫沈の貴族を調べ上げたくらいだ」
「呆れますね。僕は東に行きたい。正直どこの王も信用なりませんが、どこか一つを選べと言われたら山芒を置いて他にはないでしょう。練族とは友好を結んだようですし、海より山が良い」
「それならば山より海だ。だが……」
緑歳は言葉を切り、顔を横に向ける。視線の先には男女二人が何事かを言い争っていた。
男の方は梅という宦官で、女の方はその妹らしい。
戦いの後、禁軍の兵舎がそのまま会議室として使われていた。外廷は東江の人間が我が物顔で闊歩し、後宮は変わらず男子禁制。母と共に暮らす皇子たちの宮を開放する訳にもいかず、禁軍兵たちがハズレくじを引く羽目になってしまっていた。
「梅が見つけてきた薬とやらが気になりますか」
緑歳はうんと正直に頷いたがその表情は晴れない。竹を割ったような性格をしている緑歳が悩むのは珍しい。
「西方で流通しているものよりも粗悪な物だったというからな。異国と交易をしているのは東江を除けば北玄海だけだ」
「ふむ……」
話しは時を少し巻き戻し南門が雲朱の間者によって開門され、雲朱軍の突入を許してしまった辺りだ。亥壬は梅に戊陽の捜索を任せたが結局梅が戊陽を見つけるよりも先に、戊陽を東江によって捕らえられてしまった。
この梅という宦官、戊陽を見つけられなかった事も含めてやはり人選を間違えたかと思った亥壬だったが、その後再会を果たした戊陽からは「信頼に足る」と言われ笑われた。梅のような男との相性の悪さを見透かされたようだ。
梅とはそれきり縁が切れるものと思っていたが、果たして梅は戦が始まるより前は東江の兵と共に、国家反逆の罪を犯した者たちを探して回っていたのだと報告してきた。李将軍が得ていた情報が正しかったと証明されたのである。
梅と関虎という男は、これまで水面下で宮廷を操ってきた〈羊〉という組織の人間を処分して回っていたという。〈羊〉は星昴が差し違えた汪宵白によって組織された間諜たちの事で、それはつまり東江側にとっての醜聞に違いなかった。そんなものの処分をよくもまぁ行きがかりの宦官などを使って行ったものだと呆れたが、そこにはどうやら事情があるらしかった。
東江の暗部を知った事になる梅がこうして生きているという事は、蘇智望という男は思ったほど血も涙もない人間という訳ではないらしい。
さて、いよいよ本題である緑歳の悩み事についてだが、この梅という男が齎した情報が原因だ。梅たちが処分したのはあくまで〈羊〉のみである。官吏は〈羊〉に所属しておらず、彼らは殺す代わりに多くが囚われの身となった。そうして捕まった官吏たちのうち、例の薬とやらを所持していた人間は実に半数近くにのぼった。
火を付けると白い煙がもうもうと立ち昇る物で、いつ頃からか西方の商人によって齎され宮廷にもぽつぽつと愛好する者が出始めた嗜好品である。しかしとにかく値の張る物のようで、より安価な物を今度は北の商人が売り始めた。聞いた限りではどうやら北の商人が売る薬は粗悪な品で、薬を本来の用途以外の使い方をする事によって中毒症状を引き起こす極めて危険な物らしい。
「北の王は何と言ったか」
「菫武修ですよ。緑歳兄上の大叔父でしょう」
「疎遠なせいで名前が覚えられんのだ。その菫武修も、結局郭隕と同じように兄上の首を狙っていたという事か?」
「そうでしょうね。その上郭隕よりもずっと上手です。邪魔な西の間諜〈羊〉を狙い、ついでに怪しい薬を流行らせ紫沈を市中から壊していこうと画策していた節があります。恐ろしい狸爺ですよ」
使えば酩酊し、使い込めば中毒になるような代物を紫沈でばら撒こうとしていたのだから、今回の事で最も性質が悪かったのは菫武修に間違いない。
「口が悪いな亥壬」
「それで、どうするんです? 北玄海に行かれるのですか?」
「そうだな。だが……」
「珍しく煮え切らないですね。仕方ない。私も北玄海について行くとしましょう」
「何!? 本当か! お前が来てくれたら百人力だな!」
「まずは母上を無事に山芒に送り届けてからになりますね」
「ああもちろんだ! 北玄海で待っているぞ、亥壬!」
*
「それで、兄さんはどうするの? 私は蘇智望様が一旦東江にお帰りになられる時についてくけど」
「蘇智望様ねぇ」
「何よ。確かに侍女になったのは情報を集めるためだったけど、あの方の政の手腕は確かなんだから!」
戦いの最中に敵と共闘し暗躍した梅は、情報共有のために会議室に連れて来られていた。一方、蘇智望からの許しを得た羅春梅は戦だ敵だ何だと忙しない中での数年ぶりの兄との再会になって、終始不満げにしている。もっと感動的な対面になると思っていたようだ。
「はいはい。もう何だっていいよ。陛下は生きてるし、お前とも生きて会えた。それだけで十分だ」
「清哥……」
ふと春梅が寂しげに目を伏せるので梅が妹の頭を撫でようとしたが、春梅はひょいと避けて目を吊り上げた。
「陛下って言ったら駄目じゃない!」
どこで誰が聞いてるか分からないのに! とキンキン声で叱るので、梅はわざとらしく両耳を塞いで肩を竦める。
「あーあーもう、口喧しくなりやがって! 人の女房になると肝っ玉が座っちまうのかねぇ」
「やだもうはしたない事言わないでよ! バカ!」
「ば、バカだぁ!?」
「兄さんこそ会わない間になんだか軽薄になったみたい。次いつ会えるかも分からないのに……」
こぼれるように出た本音に春梅はハッとして顔を赤くする。梅は何も言わず、そっと妹の頭に手を乗せる。
「旦那と上手くやってるか?」
「うん。兄さん探すの協力してくれてたんだよ」
「そうかぁ。挨拶は、まぁするべきじゃねぇな。よろしく言っといてくれよ」
「……来ないの?」
「西には行くつもりだぜ。城に残ってもあんまり良い事にゃならなそうだし」
〈羊〉と名付けられた郷間集団の首魁である常義と面識があったというそれだけが理由で、梅は関虎に協力させられていた。表には出したくない内情を知る者として処分される事も覚悟の上だったが、ひとまず殺される事はないらしく今の所は自由に振る舞っている。
「蘇智望の気が変わらないうちにトンズラかましたいが当てはねぇしな。へい……うーや……えーっと、とにかくあの人についてくよ、俺は」
「そう。そっか」
ふふっと声を出して春梅が笑う。そうしていると幼い頃ふくふくとよく笑っていた小さな春梅の面影が強くなって、梅の表情も自然と和らいだ。
「私ね安心したよ。兄さんが思いとどまってくれて」
関虎に協力した梅は常義を殺さなかった。常義の身柄は〈羊〉の首魁として拘束され、先日清々しいほどの晴天の日に常義は最期の役目を果たした。男は己としての死を許されず、親族にさえもその真実は永久に伏せられる事になるだろう。
常義は粗悪な薬を常用していた副作用で最後は我を失っていた。そのせいで攫われた春梅の親友の行方については分からないままだった。こんな事なら自らの手で復讐を遂げれば良かったと思っていたが、春梅は兄が復讐に囚われなかった事に安堵したという。
「本当は私の方があいつを殺してやりたいくらいだったのにね。兄さんは自警団じゃなくなってもやっぱり立派な人だった」
「やめろそんなんじゃねぇよ」
「照れる事ないじゃない」
「そうじゃねぇって。本当に……まぁ俺が多少なりと真っ当であれたってんならあの人のおかげだろうな」
梅は数年前の地獄のようだった日々を思い出す。
常義に騙され冤罪で宮刑にまでされて暫くの間は酷く荒んでいた。怒りと悔しさでどうにかなりそうだと思いながら過ごしたどん底から掬い上げてくれたのは他でもない戊陽だった。
どこから聞きつけたのか嘗ての羅清が宦官になったと知って仕事を与えてきたのだ。
始めは簡単な力仕事だった。虫干しのために蔵書楼の書物を運ぶだけという、頭を使う必要はないがそれなりの重労働のおかげで不思議と泥のようだった思考が汗と共に洗い流されていった。
戊陽と顔を合わせる機会はそう多くはなかった。会う時は必ず一対一で顔を合わせ、そうしているうちに梅はどうやら戊陽の間諜のようものとして期待されている事に気が付いた。
戊陽は一見素直で明るく人の顔の裏側など考えもしないような人間に見えるが、実際は思った以上に頭が切れる人だと分かった。
結局、一枚どころか百枚ほど上手だった蘇智望に足元を掬われてしまったが、それでも戊陽の下で彼の命令で動くのは悪い気分ではなかった。自分の因縁のためにいっときばかり蘇智望に協力したが、戊陽になら仕えても良いという考えは今でも変わらない。
「お前もこれで安心して子作りに励めるな」
「はぁ……もう信じらんない」
じろりと睨まれ梅はたじろぐ。
「何だよ、姪でも甥でも、俺の代わりにいっぱい頼むぜ」
「そう言われちゃったら……頑張るしかなくなるじゃないの」
春梅の結婚は親が決めた縁談だったが、頬に手を当て恥じらう様を見る限り悪縁ではなかったらしい。
これで梅の懸案はすっかり片付いた事になる。清々しい青空のように晴れ渡った胸には、もはや何の曇りもない。後は今後の身を立てる方法を見つけるだけだ。戊陽のもとに暫く留まった後は、旅に出るのも良いかも知れない。
*
一体何から話せば良いだろうか──。
そんな小さな事で悩む夜を過ごし、漸く再会の機会が訪れた。
自分自身がこの国に対して行った事の意味はよく理解しているつもりだ。これから多くの反感を力でねじ伏せていかなくてはならない。そうして蘇智望の策は正しかったのだと国民が理解するまで、蘇智望は自ら降りる事は決して許されない線路の上を歩き始めたのである。
「まさかまたここに訪れる日が来るとは……」
小さくて小太りな体を自信なさげに小さく丸めているのは薛石炎という中央官吏だ。権力が太り過ぎて東江にとって癌になり始めていた林隆宸の粛清を任せた桂昭という男は実に優秀で、その桂昭の紹介だというので今日この日、この場所に連れていく事に決めた。
ここは後宮を出た皇族の居所の一つである紅桃宮だ。先日執り行われた処刑により息子を失ったばかりの国母たる人の住まう場所。無論、それは表向きの話であるが。
紅桃宮の庭は手入れがよく行き届いていたが、些か寂しい感じのする場所だった。今頃ならば蓮の花がちょうど見頃だが、翡翠の假山がある池には何もない。同じく夏菊も咲く頃だがそれもなく、そもそも花をつける植物に乏しい庭だ。
しかし四阿のある辺りまで来るとそこにとても馴染み深い木を見つけて思わず懐かしい心地になった。
「おや、金王様は桃がお好きなんです?」
軽妙な話し方をする桂昭は賢すぎるが故に底知れない不気味さのある男だが、この男が相手だとよく会話が弾む事に気が付いた。蘇智望はどちらかと言えば話し好きである。桂昭は知性に富むばかりか雑学にも精通しているようで、こちらの話したい事を上手く汲み取り話を繋げていくのだ。それが何とも心地よく、一方でこうして警戒心の強い林隆宸の懐に入っていったのだろうと納得した。
「私、というより桃を好きな人の事を思い出していた」
「おや。おやおや。私は何を隠そう柳が好きで御座いますなぁ。枝垂れ柳の影が落ちる水面を小舟で行きながら酒を飲む。風情があってたまらんのです」
「ふ、好き者だな」
「金王様も一度、城の堀をご覧になられたら虜で御座いますよ」
軽快に会話を弾ませる二人の後ろから、肩を竦めて小さくなったまま薛石炎がついてくる。どうにもこの男には身の丈に合わない事をさせているようで気の毒だが、やはり桂昭が薦めるのであればと思うと帰れとは言えない。
桃の木を後目に殿舎の扉の前に立つと、桂昭が中に向かって蘇智望の訪れを告げる。すぐに扉が開きどこかで見た覚えのある顔の宮女が出てくると三人を中へ招き入れた。
ここに至るまでに蘇智望は皇帝の居所である黄麟宮を見ている。品よく豪勢な作りの庭と殿舎、沈の職人の腕が光る調度品に歴史ある扁額と、大変に贅を尽くしてあった。それに比べて紅桃宮の何と質素な事か。
姉の東妃にも会ったが彼女が連れている宮女と紅桃宮の宮女とでは、人は違えど同じ妃に仕えているとは思えないほど貧富に差があるように見受けられた。
まだ十代で青かったあの頃は皇帝の隣で派手に着飾った賢妃を見て知らない人になってしまったと衝撃を受けたものだが、やはりあの人は今でも変わっていないのだ。庭や殿舎の中、そして宮女から賢妃の質素倹約ぶりがよく分かって安堵したのは言うまでもない。
蘇智望の訪いの報せを受けて宮女と宦官たちが脇に並んで恭しく拱手する。みな一様に頭を下げる彼らの前を通り椅子から立ち上がっていた賢妃の前までやってくると、蘇智望はいっとき言葉を失った。
夢にまで見た人が、今目の前に居る──。
「お久しぶりで御座います」
流麗な仕草で拱手してみせる賢妃はどこかよそよそしい。上げた顔には隠せない皺も目立った。けれど、蘇智望の記憶の中の「堂姐」は変わらない。素朴で、優しくて、綺麗な心根の女性。
「──それで、何の御用で御座いましょう、金王様」
賢妃はにこりともせず冷たく言い放った。たまらず蘇智望は面食らい、視線が泳ぐ。
何かの聞き間違いか、彼女の物言いはまるで他人のそれだ。
「桃の木の……」
言葉が閊える。ここに来るまで、いや、賢妃に他人行儀に金王と呼ばれるまで、蘇智望は自分が頼めば桃の木の移植を許してくれるだろうと思い込んでいた。しかし、これほどまでに分かりやすく冷ややかな態度を取られては、最早国のためであれど賢妃から大事にしている桃の木を分けてくれとは口が裂けても言えなかった。
黙り込んだ蘇智望を見て、桂昭がオホンと咳払いをする。彼の言わんとする事を察して蘇智望が頷くと、桂昭が代わりに事情の説明を始めた。
今は亡き星昴が桃の木の祓魔の力と川の流れに含まれる地脈に着目して案を練ったあわいの浄化方法は、律儀な事に星昴の私宅にある書斎から大まかにまとめた紙が出て来た。今その資料は薛石炎の手元にある。
薛石炎は賢妃を相手におどおどとしながらも、桂昭と共に星昴が遺した計画の説明をしている。やはり彼は桂昭と並ぶとその凡庸さが浮き彫りになる。しかし、どこか頑なであった賢妃の態度も薛石炎に対しては角が取れて丸くなる。彼は不思議と他者を和ませる才に恵まれたようだ。
しばらくの間聞くに徹していた蘇智望だったがそっと輪から離れていく。元よりこの計画は彼の主導するものではない。この事を口実に賢妃に会いに来ただけだった。
最早自分は不要らしいと分かると、蘇智望はそのまま黙って部屋を出ていく。
緑だらけで文字通り花のない庭に出て、ぽつんと桃の木に囲まれた四阿を見遣る。
「……私は、何を勘違いしていたのだろうな」
蘇智望は賢妃の息子を殺した男だ。その実生きていたとて、賢妃が城に残る事を決めた以上は生涯息子との再会は叶わぬだろう。彼女の手から紛れもなく息子を奪ったのだ。
頭の隅ではそれを理解しながらも、賢妃なら、堂姐なら許してくれるだろうという甘い考えが愚かにも蘇智望をこの宮殿にまで足を運ばせてしまった。
「金王様」
不意に声がしてはっと振り返る。そこには四郎もとい汪巳琅が二人の子供を連れて立っていた。
汪巳琅は教本通りの畏まった拱手をする。後ろで少年宦官らしい二人も彼に倣った。
「こんな所までどうした?」
汪巳琅もまた蘇と汪の古い因縁によってその人生を歪められた男だ。幼い頃より祖父の汪宵白によって間諜として育てられ、齢十二にして男の印を失った。以降は後宮に潜み、ただ黙々と己の務めを果たす日々の中で、今度は実の兄を、双子の兄を失う事になる。
感情の見えない冴えたその目に、蘇智望はどう映るのだろうか。汪巳琅の人生を縛り付けた一因は蘇智望にもある。〈羊〉としての彼を、蘇智望は悉く利用してきたのだから。
「賢妃様に説明するのに卜占を見せた方が早いからと仰ったのは金王様です」
一瞬呆気に取られて、蘇智望は小さく笑った。自分を笑ったのだ。
「そうだった。中で桂昭たちが話している。そなたもそれに混ざってくると良い。桂昭が指示をくれるだろう」
「はい」
再び手を組んで頭を下げると、汪巳琅は淡々とした足取りで少年二人を連れて去っていこうとする。その背中を、思わず呼び止めていた。
「どうなさいましたか?」
──あの時、紫沈の南側にのみ妖魔を出させたのはそなたの仕業か?
喉まで出かかった疑問は結局言葉にならずに引っ込んでいく。
蘇智望が紫沈へ到着したちょうどその頃に発生した異様な数の妖魔は、結局郭隕の息のかかった雲朱軍の足止めに一役買っていた事が後に判明した。あの妖魔の出現がなければ蘇智望の首が討ち取られていた可能性も無いとは断言出来なかった。
たった今賢妃にすげなくされたばかりで、汪巳琅の事まで自分に都合よく解釈出来るほどの気力はもはや残っていなかった。
蘇智望が首を振ると、やはり汪巳琅は今のやり取りを一瞬で忘れてしまったかのように未練なく去っていった。彼の後ろに二人の少年がついているのは気にかかったが、操脈の少年は浄身してまだ間もないというから、その世話が必要なのだろう。
桃の木をまた少しの間だけ見つめた。桃の実は甘く熟れてもう間もなく収穫の頃だ。賢妃の愛情を一身に受けた桃は、さぞ甘いのだろう。蘇智望は苦い思いを噛み締め、後ろ髪を引かれる思いで紅桃宮を去っていく。
ここに、一つの憐れで愚かな恋の物語が完結した。
*
風蘭は新しくなった槍を背に背負って、そこに一本だけ生えていた木の幹に凭れていた。風蘭という名は仮の名だが、東江から逃げてくる時に母と一緒に考えた名だったので蘇蘭と呼ばれるよりも風蘭と呼ばれる方が好ましかった。とは言え、さほど強いこだわりがあるという訳でもないのだが。
暇そうに、あるいは気怠げにしている風蘭の視線の先には質素な造りの宿舎がある。汀彩城見学を散々した後だったので、目に優しい色合いの建物を見ると何だかほっとする。母も金王に許しを得て住まいを一時的に紫沈の中へ、しかも元々貴族が使っていたという大きな屋敷に移したおかげで腰を抜かしていた。「こんなにキラキラだとすぐに飽きてしまいそうね」護衛のためについてきていた東江兵が思わず吹き出したのを、風蘭は聞き逃さなかった。
戦から一月近くが経ち、紫沈の状態は当初に比べれば随分と落ち着いた。戦に加勢し、人を初めて斬ったあの日が嘘のようで、けれどやはり両手に残る感触があれは実際に起こった事だと教えてくれる。そして自分に宿るこの力はどうやら人を容易く殺してしまえるらしいという事がよく分かった。
義理の父となる金王には「槍を持たずとも良い」と言われた。気を遣ってくれたのだろうが、寧ろ風蘭は槍を新調したいと頼んだ。それから、護衛の仕事を続けたい、と。
さしもの金王もまさかそんな頼み事をされるとは思っていなかったようで驚いた様子だったが、金王が紫沈に留まっている間は好きにして良いと言われた。「死んでくれるな。それからたまには顔を見せに城へ来なさい」と思いの外あっさり承諾してくれたのである。
そうして晴れてこれまでの日常に戻って来た風蘭は、用心棒復帰の第一弾としてこれからとある人を護衛して紫沈を発つ予定だ。護衛の雇い主は目の前の宿舎で旅支度を整えている最中だ。何でも突然決まった事らしい。準備が終わるまで少し時間がかかると言われた。
「暇だなー……」
「おーい、小僧。元気してたかよ?」
「何だよ小僧って……梅兄さんじゃん!!」
ぽん、と片手で木の幹を押して勢いをつけると梅の方へと駆け寄る。梅もまた紫沈どころか汀彩城に戻って来ていた事は知らされていたのだが、再会は雲朱で別れたあの時以来だ。
「背ぇ伸びたかー?」
「一ヶ月ちょっとでそんな伸びないよ!」
「そうか? 俺がそれくらいの歳の頃は毎日着る物が小さくなってたけどなぁ」
「うっそだぁ!!」
からりと笑ってみせるその姿は最後に別れた時とそう変わらない。大して長く行動を共にしたという訳でもなかったのだが、別れが別れだっただけに無事な姿を見れたのは良い事だった。
「で、梅兄さんはこんな所で油売ってんの?」
「そうしたいのはやまやまなんだがなぁ、俺ぁ護衛の仕事よ」
「へぇ、誰の?」
「お前の」
「オレ!?」
そんなもの頼んだ覚えがないので最初は純粋に驚いていた風蘭だったが、すぐに誰が梅に依頼したか察してむっすりと口を閉じた。
「まぁ、跡継ぎを簡単にゃ死なせねぇってことだろ」
「別に平気なのに」
漸く他人から一人前だと認められたようで得意な気分になっていたところ、大いに水を差されて風蘭のやる気は急速に下降していく。これでは風蘭が護衛をする意味がない。ほとんど二度手間のようなものだ。
「全く怖いお人だぜ、お前の義父さん。綺麗な顔で脅された俺を労わってくれよ、息子としてさ」
「うっさいなぁ。嫌なら断ればいいじゃん」
確かに金王は怒れば怖そうだが梅が本気で拒否すれば脅してまで言う事をきかせようとはしないのではないか。風蘭としては本気で言ったつもりだったが、梅は苦笑して肩を竦めるだけだった。
しばらくの間、梅とそうして他愛ない会話に興じていると、小さくまとめた荷物を抱えて漸く待ち人が宿舎の中から現れる。
「何だか懐かしい顔が揃ったな」
「懐かしいって、せいぜい一、二ヶ月くらいの話じゃん」
「良い事教えてやるよ風蘭。歳を取るとな、怖い事に時の流れが早くなるんだ。お前にとっての一日は、俺らにとっては一時辰なんだぜ?」
「うっそだぁ!! ってかそれなら懐かしく感じるのはオレの方じゃんか!」
「くだらない事言ってないで、行くぞ、二人とも」
「おいおいおい、まったく俺と風蘭が誰を待ってやってたか、ちぃっと考えてから物言えよなぁ?」
「なぁー!」
待ち人は下らない言い合いをしていた風蘭と梅を置いてさっさと行ってしまう。それを風蘭たちはやれやれと肩を竦めて追い掛ける。
これから数日はまた一緒の旅だ。金王がいつまで風蘭の旅を許してくれるか分からない以上、心残りのないよう存分に満喫しなくてはならない。
新しく綺麗になった槍を背負い直し、風蘭は旅への一歩を踏み出した。
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