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完結編
41あなたの世界
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眠っている。どうして眠っているのだろう。
そんな自問自答をさざなみに飲まれて消えていくような薄ぼんやりとした意識の中で、何度繰り返したかはもう分からない。
波が引ききった時、瞼が開いた。頭の後ろに鈍痛がある。半覚醒の状態で、戊陽は暫くの間静かに混乱していた。
目に映る景色は棚や箱にぎっしりと収まった巻子だ。少し前に玲馨と共に入った禁書室に違いない。
まさか、あの後禁書室で眠ってしまったのだろうか……? そして、長い長い、夢を見ていたのかも知れない。
「お目覚めでしょうか、陛下」
すーっと地面に沿って伸ばした巻尺の紐のように平坦な声が、無情にも夢から現実へと呼び戻した。
「……四郎」
物心ついた頃から何度口にしてきたか分からない名前。だというのに今は知らない誰かの名のようだ。
「外をご覧になられますか」
外に、何かがあるのだろう。四郎の声色でそれが形ばかりの質問だと分かる。
立ち上がるとそこで手足が拘束されていない事に気付く。禁書室の中には戊陽と四郎の二人だけだ。
多少ふらつきながらも戊陽は自力で禁書室から出て、城の南側に向かって張り出した露台に立つ。蔵書楼は他より高く造られており、汀彩城の午門の辺りまでを見下ろす事が出来た。
「一体、何が」
今の今までこの音が気に留まらかったのは、眠らされていた間もずっと聞き続けていたからに違いない。
叫声に、武具がぶつかり合う音、地面を蹴る音や遠くには馬の嘶き。戦いの音だ。
「こんな所まで攻め込まれたのか……! 一体どれくらいの間私は眠っていたのだ!!」
午門を入ってすぐの広くなった場所で、多くの兵士が戦っていた。点々と血のような黒い染みも見える。
恐らく午門から先に続く城下にも戦禍は広がっているだろう。
「一晩です。現在は一晩明けて、日の出から少し過ぎた頃でしょうか」
四郎の言葉は俄かには信じがたい。汪軍は頭を失って完全に禁軍優勢になったのではなかったか。それが一晩のうちにこれほど戦況が覆されるのはおかしい。
「……援軍か」
「はい。五万の援軍です」
信じられない思いで四郎を振り返る。ふざけるなと怒鳴りかけて、しかし決して四郎の顔つきはふざけてなどいなかった。彼がふざけるところなど、未だ嘗て見た事がない。
「止めなくては」
「はい、止めて下さい」
「何……?」
「最早、あなた様の声でなくては、暴走した禁軍は止まらないでしょう」
「暴走だと……? 敵軍が門を突破してきたのではないのか!?」
「はい」
淡々とした声色はこんな時でさえ変わらない。四郎は憎たらしいほど冷静に状況を話した。
「連合軍には武力で強攻する指示は出ていませんでした。門は中から開いたのです。報告によればその指示を出したのは亥壬様だそうです。緑歳様と李将軍も納得した上で戦いに身を投じられております」
「何故、そんな無謀な事を」
「万に一つに賭けたのでしょう。五万の大軍を相手に籠城してもやがて兵糧は尽きます。矢を射掛けたところで今度は矢が尽きます。だったら、敵を中に誘い込み、地の利を活かして狭い路地で各個撃破していこうとなさったのではないでしょうか」
つまり亥壬たちは五万の大軍を目の前に勝つつもりでいるのだと四郎は言いたいらしい。
止めなくては。このままでは亥壬も緑歳も禁軍も何もかも全滅するしかない。
考えるより先に体が動いていた。どこに行って何をどうすればいいか、何も思いついてなどいない。
「良いのですか? 弟君の思いを踏みにじる事になるのでは? 禁軍の兵士ならあなたを守って死ぬ事を本望と思うでしょう」
お前が止めろと言ったのではないか。だが戊陽はそれを口にしなかった。四郎は事ここに至って新たな側面を見せ始めている。矛盾するような質問をしてきた事もそうだ。四郎は戊陽の知らないうちに自身を囲っていた檻を破ったのだろう。そうして顕になった四郎の「私」が戊陽に訊ねている。死に殉じようとする兵士たちを何故止めるのか、と。
「私は兵士ではない。私は民を守る皇帝だ」
戊陽の答えに納得したのかは分からなかった。けれど、四郎はそれ以上戊陽を引き留めようとはしなかった。
*
戊陽は蔵書楼の棚を隔てた先に于雨と子珠が隠れていた事に気付かなかった。大人二人の会話を一部始終聞いていた于雨は、戊陽が去った後で子珠の手を引き棚の影から出て来ると、四郎に訊ねた。
「四郎先輩は、悪い人なのですか?」
怯えていると分かる目に体も怖気づいて及び腰になっている。しかし背後に子珠を庇いながら于雨は懸命に勇気を振り絞った。
仮に四郎が凶悪な殺人鬼なら蛮勇だろう。正体を暴いたが最後、于雨どころか会話を聞かせた子珠も揃ってあの世に送られる。だが、四郎は殺人鬼ではないし、悪人というものはその人間の状況や立場によって変化するものだから、一概には答えられない。
「お前の見たままのものを信じろ」
「え……?」
「于雨、城の外を囲う人間には気付いているな?」
于雨はハッとして首を縦に振る。脈読が可能な者は草花や大地、川や海の自然に流れる地脈を感じる事はもちろん、人の体に流れる地脈──これを気と呼ぶ──それも感じる事が出来る。人が増えれば増えるほど、地脈が放つ陽の光のような熱も増していく。
「今城壁に張り付いている者は無視して良い。だがこれ以上を近付けないために、城から少し離れたところにあわいを出せ」
「あわいを、出す……?」
「そうだ。あわいを、いや……『妖魔』を出せ」
于雨は分からないという顔をする。生まれてこのかた一度も妖魔を見た事が無いのだろう。
あわいは恐ろしい土地で、妖魔は人を殺すものという常識は民の間にも定着している。生まれた時には既にあわいが存在し、あわいを通らず妖魔を見ずに死んでいく人間がたくさんいる。寧ろ、あわいの無い沈という国を知る世代は既に高齢でほとんど残っていない。
今生きている沈人にとって、あわいと共にあるのが沈だ。だからこそ、妖魔を知らずに死んでいく。特に少年の頃より宦官となった者が妖魔を知らないのも無理はなかった。
だがそれでも于雨にはその才があるのだ。知らずとも、妖魔を感じ取り、生み出す才が。
「地脈は動きがある。だから追いやすい。常に私たちの意識の端で地脈は動いている。だがあわいは生きていない。静のあわいはまず追うという事が出来ない」
「……はい。あわいは、よく、分かりません」
「しかしその分からないという感覚があわいだ。地脈ではないもの全てがあわい。そう思えばあわいが見えてくる」
四郎が伝えているのは四郎自身の感覚だ。他の人間には地脈もあわいももっと違ったものに感じられるかもしれないし、或いは地脈をこそ感じ取るのが難しいという卜師だって居たかも知れない。
四郎に師はない。全て独学だった。他の卜師、つまり脈読を出来る者は于雨が初めてだった。故に他人にどう指南すれば脈読の事が上手く伝わるかなど分からない。四郎もまた、現状に対して手探りなのだ。
「于雨、お前が感じているものを全て言葉にしてみろ。地脈はどうだ?」
于雨はこくこくと首だけで頷くと、目を閉じて集中し始める。やがて「暖かくて、元気で、明るい」と呟いた。
「ではそう感じない部分はどうなっている? あるはずだ。地脈の流れない場所が」
「……何も、無い」
予想に反して「冷たくて大人しく暗いもの」とは答えなかった。
「地図を見ろ。この辺りは森が深い」
四郎が示したのは雲朱の森だ。于雨は知る由もないが、ちょうど玲馨たちが雲朱へ抜けるのに使った道である。
「こういう場所は昼日中であっても妖魔が彷徨っている。ここからほとんど真南にあるこの森は、どう感じる?」
于雨は南と呟きながらそちらの方角に体を向けて、今度はじっと目を凝らすように虚空を睨みつける。
「何も無い……みたいなところに、濃い……濃い何もないものが、移動してる……?」
独特の言い回しになってしまうのは恐らく語彙が足りていないのだ。移動しているような感覚があるのなら、于雨はあわいもきちんと感じ取っている。何故なら四郎にもその方角に濃い影の気配を捉えているからだ。
「その移動する何か。お前が生み出さなくてはならないのが、それだ。それを妖魔と呼ぶ」
「妖魔……」
「今から言う場所の地脈を極限まで堰き止めろ。短い間で良い。一時辰、いや二時辰。そうすれば妖魔が噴き出して、援軍の行路を邪魔する事が出来るはず」
于雨が四郎を振り返った。表情変化の乏しい子供なので分かりにくいが驚いているのがその目の開き方で伝わる。
悪い人だと思ったけれど、悪い人じゃないのかもしれない──おおかたそんな事を考えているのだろう。
汪家を裏切ると決めた時から四郎の得る情報は〈羊〉からのものではく、一度東妃を経由してくるものへと変わっていた。東妃の元に入ってくる情報によれば門を開けたのは禁軍だという話だったが、四郎は違う予測を立てていた。
于雨に伝えるために四郎が指さすのは沈の南側。そちらに伏せられている兵を止めなくては、戦況は恐らく蘇智望の期待したものとは変わってくるだろう。
*
場所は変わって城の南方、臨時の東江軍の拠点となった岳川の支流に停泊する船上で玲馨は城のある方角を眺めていた。
夕刻になるとうっすらと霧が出始めた。そのせいなのか、あわいに妖魔が出現し始めたのである。援軍は明日を待って出立させるはずだったが、ここで蘇智望は別の指示を出す。
「私はこれから汀彩城へと向かう。どうも、私の想定していた事とは違う事態になっているようだ。この目で確かめたい」
これからという言葉に反応して何名かの兵士が動揺を見せたが蘇智望の意思は変わらない。
当然侍女や船を動かすための船員は残る事になる。待機する者たちの中に不安げな表情をして玲馨たちを見送る羅春梅の姿が混ざっていた。結局、彼女の望むような事は何もしてあげられなかった。
もともと蘇智望の守備のために残すはずだった兵士をそのまま進軍に予定を変えて、ぽつぽつと緩やかに増えている妖魔を防ぎながら汀彩城を目指した。玲馨もその一団の中に交じって、共に汀彩城へ向かう。
城が見える距離まで近づくと、抜けてきたあわいの一帯はおびただしい数の妖魔で埋め尽くされていた。蘇智望の隊は既にあわいを抜けていたために、妖魔がひしめき合うのを離れた場所から眺め、一部の兵士は顔を引きつらせている。
「玲馨、沈周辺のあわいはこんなにも濃いのか?」
「いえ、私が雲朱へ出立した時にはこれほどは……」
この密集具合は熔岩へ向かうのに通ったあの天然の隧道内に近い。行けども行けども妖魔の群れに相当手を焼いた。人死にも出た。
あの隧道は深い森の中腹にあり、昼日中であっても外の光が一切入らないほどの暗闇だった。一方現在はまだ日没前の時刻。
「……操脈か」
蘇智望のその呟きは誰の耳にも届かなかった。
「このまま城へと突入する」
蘇智望の静かな号令に、手綱を引く音が続いた。
──帰ってきた。
その威容は変わらないはずなのに、大軍に包囲された汀彩城のなんとあわれに見える事か。加えて悪天候のおかげで暗い気配を放つ汀彩城はまさに死地を絵に描いたようだ。
籠城戦を展開されるだろうという蘇智望の予測は外れたらしく、南門は開門していた。既に多くの兵士が門から中へとなだれ込み、城下は血の海と化しているだろう。
「……私も勘が衰えたのかな」
南門の光景を眺めて蘇智望は低く呟いた。五万という大軍をこの戦いに投入したのは何より血を流さないためだった。圧倒的戦力差を見せつけて敵に降伏させる。皇帝の首一つで戦いは収まるはずだったのだ。
「私の失態だ。急ぎ皇帝の居場所を割り出せ」
蘇智望は命令を出しながら馬に騎乗する。
「待って下さい! もし陛下が前線に出ていたらどうするおつもりですか!」
蘇智望は手にした手綱を音が鳴るほど握りしめる。
「玲馨、そなたもついて参れ。そなたの呼び掛けでこのような愚行を止めさせるのだ」
「愚行……」
蘇智望の言う通りだ。どんなに地の利があろうと門を開けて民の暮らす城下で戦闘を行うなど愚かな判断でしかない。だからこそ「止めさせる」という言葉がどうしても引っ掛かった。
あの戊陽が一か八かに賭けて開門するという作戦を実行させるだろうか。勝っても負けても、敵も味方も大勢死んでしまうというのに。
皇帝側の誰かの指示でこうなったのだろうか。それとも、蘇智望の命令を無視してどこかの軍が門を突き破ったのだろうか。南門には雲朱軍が先行したはずだが、或いは──。
蘇智望を中心に分厚い陣形が組まれると、部隊は真っすぐ南門を駆け抜けていく。玲馨は蘇智望のすぐ後ろに馬でつけた。
城下はやはり、多くの屍が転がっていた。禁軍の鎧もあれば、見知らぬ鎧もある。東江軍と同じ鎧をつけた兵も前者二つに比べれば少ないがぽつぽつと見受けられた。
戦いの前線は既に城下の奥まで及んでいるらしい。南門から真っ直ぐ午門へ続く目抜き通りから、東西に別れた路地を見遣るとあちこちから剣戟が聞こえてくる。
どこの家もぴったりと戸を閉じていた。きっとどの家も中で住人たちが息を殺して自分が助かる事を祈っているだろう。連合軍が紫沈を包囲したのだから、誰も逃げられなかったはずだ。
ふと、浮民の事が頭に過ぎった。南門からやや逸れたところに居住域があるが、無事だろうか。
「あれ!? 玲馨兄さんじゃん! おーい玲馨兄さーん!!」
よもや浮民の事を考えたからという訳はないだろうが、ちょうど城下の中央付近、目抜き通りの中でも特に幅のあるところで兵と斬り結んでいた少年から聞き知った声がかかって驚く事になる。
しかし玲馨は馬に乗っており、尚且つ蘇智望の後ろにつけていたので止まる訳にはいかない。
「風蘭!! 追ってこい!」
叫んでいるうちにあっという間に風蘭の姿が遠ざかっていく。最後に「オレ馬ねぇよー!!」という叫び声が聞こえたような気がした。
程なくして蘇智望を中心に据えた部隊は午門に到着する。戦いの波は既に落ち着き始めており、戦闘の気配は午門の向こう、汀彩城の方に強く漂っている。
「先程そなた何か叫んでいなかったか?」
「ふう、蘇蘭様です。恐らく西門の方も開門したという事でしょう」
「蘇蘭か。なるほど状況を聞きたいところだな」
「私たちを追うよう言いましたが、あちらは馬が無いようでしたので」
蘇智望の左側を固めていた東江の兵士が「待ちますか?」と問う。と、蘇智望が答えるよりも早く、隊の後方から馬の嘶きが轟いた。
「どーどーっ、お、落ちる!!」
少年の慌てた声が聞こえると、玲馨は思わず微かに笑ってしまう。戦場にも関わらずこんなにあっけらかんとしていられるのは、風蘭の強みなのかも知れない。
風蘭は見知らぬ東江兵と二人で馬に跨り蘇智望の部隊を追い掛けてきていた。その見知らぬ兵は、風蘭が馬から振り落とされないようしっかりと体を支えて馬から下ろしてやった後、蘇智望の元へと歩いてきて頭を垂れた。
「蘇智望様、無事のご到着よう御座いました。汪軍の残党は我々で捕らえる事が出来たのですが、残念ながら無血開城とはいかず」
「ご苦労だった関礼。一体何があったのだ?」
「恐らく雲朱軍の仕業と予想されます。南門は中から開かれました。禁軍兵と何らかの取り引きがあったか、或いは禁軍の中に」
「間者を仕込んでいたか」
関礼と呼ばれた蘇智望の配下の男が深く頷くのを見て玲馨も得心する。
雲朱の火王───郭隕は、ここに来て手柄を奪おうとしているのだ。手柄とはもちろん戊陽の首だ。
「城内へ急ぐぞ」
「はっ」
関礼の馬から降りていた風蘭が玲馨の方へと歩いてくる。
「玲馨兄さんの馬に乗せて。城って言っても中は広いんでしょ?」
「私はさほど乗馬の技術はないが、それでもいいなら乗りなさい」
「うん」
風蘭は玲馨の手を借りて身軽に馬に飛び乗った。小柄な風蘭は玲馨の前だ。自然と視界に入った彼の得物である槍に目がいくと、玲馨は短い間言葉を失った。穂袋のない彼の愛槍にはべったりと血がこびりつき、髪や衣にも飛沫のような血が点々と飛んでいた。
「……風蘭、お前の母も浮民なのだったな」
「そう。東江本隊が到着した時に浮民は避難させてある。って言っても着の身着のまま門から遠ざけただけだけど。母さんも無事だよ」
「そうか」
今更ながら風蘭と呼んで返事が返ってくる事に何故か不思議とほっとした。
「後を継ぐのか? 金王の」
「さぁ、分かんない。オレと母さん二人が食べて寝られる場所がある所なら何だっていい。そのためなら、オレは迷わないでいられるんだ」
風蘭は教養が無いだけで他人の機微に敏感な子だ。今も玲馨の言葉の裏に隠れた疑問をしっかりと感じ取っていた。
『別にオレが殺したんじゃないよ』
そう言ったのは風蘭自身だった。容易く命を奪うような人間だと誤解されたくなくて、咄嗟にそんな言葉が出たのだ。そんな風蘭が「迷わない」と言った。彼の誤魔化しもせず嘘もつかない潔さは、誰にでも真似出来るものではない。
「強いな、お前は」
「褒めたって何も出ねぇぞ?」
「そろそろ移動するようだ。口を閉じていろ。でないと舌を噛むぞ」
「あははっ、玲馨兄さんが照れてる」
午門を抜けた先の広場は雨に濡れる赤旗がはためいていた。禁軍兵はもちろん、中には東江の兵と戦っている者もいる。雲朱軍の離反によって三つ巴状態になった戦場はひどく入り乱れて混迷し、想像以上に酷い有様だった。
「愚かな、郭隕」
血交じりの泥水を跳ね上げて剣を振り上げる兵士たちを眺めて関礼が呟く。
「皆すぐに加勢せよ! 抵抗する雲朱兵は斬って構わぬ!」
蘇智望を囲んでいた兵が四散していく。そこで初めて、玲馨は蘇智望を護衛してきた兵が耳慣れない言語を用いている事に気が付いた。
──昆語だ……!
蘇智望の話す沈語が分からない者に分かる者が言葉を訳している。小声で話すのを聞き取って、改めて彼らを確かめると何名かは蘇智望と似たような青い瞳をしていた。
──何て人だ、蘇智望。これでは戊陽が敵わないのも当然だ。
どんな密約が交わされたのかは分からないが、蘇智望は昆に戦力を求めたのだ。後から来る援軍や後方支援にも昆の兵士が使われているのだろう。
昆は大国である。人の数は沈の比ではなく噂が本当なら十倍以上にも及ぶという。また長きに渡って周辺諸国と争ってきた昆の軍事力は沈を滅ぼすのに一日とかからないのではないかという声もある。沈の古い官吏たちは昆を軽視しながらも恐れていた。その恐ろしい存在の相手を長い間東江に全て押し付けてきた結果がこれだ。
しかしだからこそ蘇智望は確信していたのだろう。この戦いで血を流さず勝てるという事に。それを郭隕が破綻させてしまった。己のみが此度の戦で利を得るために。
──戊陽の首を担いで昆の国主に謁見でもするつもりか、あの男は。
首と別れた戊陽の死体を見下ろし笑う郭隕と、しなを作って郭隕に寄りかかる可憐の姿は驚くほど簡単に想像出来た。
玲馨は気合いの声を発し、馬を駆る。昆の兵が切り開いた道を蘇智望の後に続いて汀彩城を疾走していく。
戊陽が禁軍の指揮を直接取っているとしたら恐らく兵舎に居る可能性が高い。しかしこれだけ戦線が下がっているとなると、周囲に説得され外廷か或いは黄麟宮まで避難している事も考えられる。とにかく雲朱より先に見つけて戊陽を確保しなくてはならない。
迷う玲馨の一方で蘇智望の選択は早かった。彼は馬首を外廷の方へと向けている。今は領地を治める者としての蘇智望の勘に頼るべきなのかも知れない。
外廷の階が見える頃には蘇智望の護衛兵も随分数を減らしていた。せいぜい十名ばかりの人数で、敵の本丸に乗り込むなど命知らずもいいところだが、場は酷く混乱していて新たに十数名の人間が増えたくらいでは誰も気付かない。
禁軍に勝ち目がない事を敵勢力の情報を得た玲馨はよく分かる。だが、汀彩城の喉元とも言える宮廷にまで敵兵に入り込まれていては、禁軍兵たちももはや自身の死を予見しながら戦っている事だろう。
十年以上暮らして見尽くした景色が、血に染まっていく。美しい庭も、意匠を凝らした建造物も、傷つき破壊されていく。
──戊陽。
ここに居てくれと願いながらまさに玉座の間に突入しようとした瞬間だった。
「おやめください皇太后様!!」
宮女のほとんど悲鳴のような静止の声が響き、一人の女が廊下の端を曲がって姿を現した。
「皇太后様……!?」
玲馨の声を拾い、蘇智望が眉を顰める。
皇太后は、現在の沈においては先帝の母の事をそう呼ぶ事になっている。つまり黄昌の産みの母で元貴妃だ。
皇太后は黄昌を亡くした二年前に体調を崩してからというもの、これまで自身の宮で療養生活を続けていたはずだ。国事にも姿を現す事はなくよほど容体が悪いのだと思われていたが。
自分の足でふらふらと幽鬼のように歩く皇太后は、確かに万全の体調とは言い難い様子だ。しかし何故今こんな時にこんな所へ出て来たのか。
「迎えが、来るのです。私はもうこんな城には居たくない」
皇太后はぼそぼそと青白い顔で何事かを聞き取れないほど小さな声で呟いている。壁に手をつき胸を押さえる姿は病人そのものなのに、窪んだ瞳には暗い光が宿り、奇妙な迫力があって誰も近寄ろうとしない。皇太后を引き留めていた宮女は蘇智望たち兵士に注目されている事に気付くと、怯えて逃げていってしまった。
「ああ、やっと、やっと帰れます。やっと、雲朱へ、雲朱、雲朱……」
玉座を目前にして誰しもが前に進むのを躊躇った。
「ああ!! 待っていましたよ小隕! お前の言う通りの事をしました! 早く、早くここから帰して!!」
皇太后の目には一体何が見えているのか、彼女の視線は蘇智望も玲馨も通り抜けてもっと遠くを見つめて感極まった。恐る恐る背後を振り返ると、そこには深紅の鎧を身に纏った郭隕が戦場にも関わらず愛妾の可憐を侍らせ悠々とした様子で立っていた。
「ほう。これは金王ではありませんか。何と都合の良い」
郭隕の言葉に可憐が笑みを深める。
「斬ってしまえ。金王も東江の兵も、そこの醜女もな!!」
「小隕?」
それが、皇太后の最期の言葉だった。
郭隕に指示された雲朱兵は即座に皇太后を叩っ斬り、返す刀で蘇智望の方へと襲い掛かってくる。
皇太后の体は壁に真っ赤な血を吹き付けて、あっさりと死に絶えていた。
郭隕は隙をついたつもりだったかも知れないが、蘇智望の護衛たちは半分以上が昆の兵士だ。それも手練れをつけてある。雲朱の兵は一人また一人と薙ぎ払われて、瞬く間に郭隕を裸にしていった。
「そ、んな、馬鹿な!! な、何者だそやつらは!!」
「火王郭隕、そなたは妻を娶っても子を作らなかった。そのせいで、そなたの家系はここで絶えるのだ。だが安心すると良い。雲朱は私が余すところなく預かるとしよう」
蘇智望の言葉に郭隕が肥え太った体を怒りに震わせて、着ていた鎧のように顔を真っ赤にした瞬間だった。誰の視界からも外れていた大柄な東江の武人──関虎が郭隕の背後に突如として現れて、両刃の剣を背中から突き刺した。
「い、いやああああ!!!」
喉を引き裂かんばかりの悲痛な可憐の悲鳴と共に、腹から突き出した剣先から郭隕の血がだくだくと流れだしていく。当の郭隕は己の豊満な腹から突き出た物の正体を驚愕の眼差しで凝視したところで息絶えていた。
「よくやった関虎」
蘇智望の采配は容赦がなかった。半狂乱になって叫ぶ可憐を視線だけで殺すよう指示し、ぶつっと可憐の悲鳴が不自然に途切れた。
こうして郭隕の連れて来た人間たち全員が床に倒れると、蘇智望は静かに告げる。
「玉座の間へ」
朱に塗られ蓮の葉と花を象った縁が美しい扉を、昆の兵士が両端に立ち勢いよく開ける。しかし玉座の間はもぬけの殻だった。皇帝も官吏も宮女は当然宦官も居ない。絹の紗幕に覆われた主無き黄金の玉座がぽつねんと佇むのみ。
「玲馨」
短く名を呼ばれただけだが、蘇智望が何を言いたいか察した。
「……兵舎か、或いは後宮の最奥にある皇帝の寝所かと」
挙げた場所に居てほしいという思いと、逃げていてほしいという思いが複雑に交錯する。目の前で「殺せ」という判断を躊躇いなく命じた男に対し、戊陽の居場所など教えて良いのかという迷いが今になって首を擡げている。
ここに来て今更逃げてほしいなど何と虫の良い話か。仮に戊陽が逃げ出していたなら、玲馨はこのまま最後に一目会う事も叶わず無駄に殺されるだけだ。
「案内せよ」
「はい」
踵を返し黄麟宮へ向けて歩き出す。
ここには戊陽を殺しに帰ってきたのではない。救うためだ。
何度もそう言い聞かせて、玉座の間を出た。
その時だった。
「禁軍兵よ! 皇帝戊陽の名において命ずる! 今すぐ武器を引けーっ!!」
ほんの、一拍の間だけだった。剣戟も叫声も雨音も全てが遠ざかって、彼の人の声だけが玲馨の全てになる。蔵書楼の真下で雨に打たれながら戊陽は立っていた。皇帝の存在に気付いた兵士たちは敵も味方も一斉に戊陽へ向かっていく。一方は守るために、一方は倒すために。
ずっとあやふやだった死への覚悟が、今まさに定まる時だった。
戦いが止まったのは残念ながら一瞬だけだった。敵が止まらない以上、禁軍兵たちは戦いをやめる事が出来ない。武器を引けば我が身に待つのは死なのだ。
顎が砕けんばかりの力で歯を食い縛り、もう一度叫ぼうと息を吸い込んだ戊陽を、玲馨は呼び止めた。
「戊陽」
戊陽はすぐに玲馨の声を聞き取ってこちらを振り返る。その表情は短い間だけ喜色に包まれて、次の瞬間困惑に変わっていく。
昆の兵に守らながら、玲馨と蘇智望は蔵書楼へと近づいていく。戊陽の顔と表情がはっきりするごとに、玲馨の胸はざわめいた。
「……そこの者は、蘇智望か」
「私がお分かりになられますか、陛下」
「その容姿は他に二つと無いだろう。蘇智望よ、まずはその宦官を返してもらおうか」
「ええ、お返し致しますよ。そのためにここまで連れてきたのですから」
蘇智望は戊陽には聞こえないよう声を下げて言う。「これが最後の逢瀬になる」
その声に押されるようにして玲馨は一歩、一歩と確かめるように前に踏み出して、じっと真っすぐに玲馨を見据える戊陽の元へと帰っていく。
あと少しで手が届くというその時、戊陽の皇帝の顔が崩れて強く抱きしめられていた。
「玲馨……っ!」
戊陽の体は震えていた。耳元から聞こえる息遣いも同じように震えている。戊陽の後れ毛から雨水が滴り、玲馨の頬を濡らした。
「無事で、良かった」
その言葉は玲馨の胸を深く突き刺した。
別れを惜しんでいる暇はない。もう言ってしまおう。それがいい。
「戊陽、聞いて。どうか、冷静に私の言葉を聞いてほしい」
「りんし──」
蘇智望の部下、名を確か関礼という男が叫び、戊陽の声をかき消した。
「全軍に次ぐ! 即刻武器を収めよ! 郭隕は討ち取られ、皇帝の身は我が東江軍が確保した!」
関礼は相応に顔と声を知られていたのだろう。まず真っ先に反応したのは東江兵だった。最後まで戦っていたのは雲朱兵と禁軍兵だったが、関虎が首の代わりに郭隕が身に付けていた真っ赤な宝石のついた首飾りを掲げると、次第に雲朱兵も戦意を失って、最後に禁軍が信じられない思いで武器を下ろしていった。
「……どういう事だ、玲馨」
混乱したのは兵士たちばかりではない。事態を飲み込めず動揺に満ちた声音が請うようにして玲馨へと向けられる。
「戦いが終わったんだ。あなたが東江に捕らえられたことで、私たちは目的を達成した」
肩を掴まれ体を引き剝がされる。戊陽の首は何かを否定するようにゆっくりと左右に振られていた。
「世を乱す皇帝は東江によって処断される。これまでの全ての悪政を背負って」
「俺は」
玲馨の肩から、だらりと戊陽の手が落ちていく。
「死ぬのか」
「死なせない。私が絶対にあなたを死なせたりしない」
「言っている事が矛盾している」
「私が身代わりになるんだ。大丈夫。あなたが皇帝として振る舞う姿を最も近くで見てきたのは私だ。上手くあなたのふりをしてみせます」
「何を」
「声は出さない。顔は面布で覆う。所作や仕草、歩き方を真似てしまえば誰も疑わない。処刑まで時が経てば、いかに若い皇帝とてやつれて体もやせ細る。だから誰一人、影武者が死んだのだと思わない。私が思わせない」
戊陽は思いの外取り乱さなかった。玲馨は、玲馨が思っていたほどには戊陽にとって重要な存在ではなかったらしい。それでも決めた事から逃げたいとは思わなかった。
「そういう事なら──」
納得してくれたのだと思ってつい気を抜いてしまっていた。無防備のまま戊陽に強く突き飛ばされて、尻を強か地面に打ち付ける。何が起きたのかと戊陽を見上げると、戊陽は傍に転がっていた剣を拾い上げて自分の首を斬ろうとする瞬間だった。
「それは卑怯なんじゃねぇの、皇帝さんさ」
戊陽の手から一人でに離れて飛んでいった剣は、遠くに落ちて水を跳ね上げながらカランと金属音を立てて止まる。風蘭の力が無情にも自決を止めるのに一役買っていた。
「……駄目だ。玲馨、お前が死んでは駄目だ」
戊陽は茫然として言う。陽の下でなら黄金に瞬く瞳も、曇天のもとではどんよりと暗く沈む。
「陛下。あなた様から玉座を取り上げてしまう私の、せめてもの罪滅ぼしなのです」
どうか、お許しを。
玲馨が深く、深く頭を垂れると、戊陽は玲馨へと手を伸ばした。しかしその手が触れるより先に関礼が戊陽の腕を掴み拘束する。
「やめろ。放せ。玲馨、駄目だ玲馨。俺はお前に償ってもらう事など何もないんだ……っ!」
戊陽が兵士に脇を捕まれ無理矢理立たされると、次第に彼の声が遠ざかっていく。
「玲馨っ、玲馨っ!!!」
声が聞こえなくなるまで、玲馨は顔を上げなかった。上げられなかった。顔を見たら最後、戊陽の手を取って逃げ出していただろう。蘇智望は容赦の無い人だ。そうなれば必ず二人を斬ったろうし、それでは玲馨がここまで来た意味が何もなくなってしまう。
戊陽の声がなくなると、玲馨の世界にはザアという豪雨の音だけが残った。冷たく打ち付ける雨は、不思議と玲馨の心を冷静にさせる。
逃げないと決めた。戊陽が生きていけるのなら、それで構わない。
「最後に会えて良かった……」
あなたのその陽の光のようにあたかかい心も、いっときばかり翳るのかも知れない。けれど、私の世界を照らしたあなたなら、きっとどんな境遇でもまた輝きを取り戻せるだろう。
どうか生きて。あなたは、あなたに相応しい世界で生きてほしい。
さようなら、戊陽。
そんな自問自答をさざなみに飲まれて消えていくような薄ぼんやりとした意識の中で、何度繰り返したかはもう分からない。
波が引ききった時、瞼が開いた。頭の後ろに鈍痛がある。半覚醒の状態で、戊陽は暫くの間静かに混乱していた。
目に映る景色は棚や箱にぎっしりと収まった巻子だ。少し前に玲馨と共に入った禁書室に違いない。
まさか、あの後禁書室で眠ってしまったのだろうか……? そして、長い長い、夢を見ていたのかも知れない。
「お目覚めでしょうか、陛下」
すーっと地面に沿って伸ばした巻尺の紐のように平坦な声が、無情にも夢から現実へと呼び戻した。
「……四郎」
物心ついた頃から何度口にしてきたか分からない名前。だというのに今は知らない誰かの名のようだ。
「外をご覧になられますか」
外に、何かがあるのだろう。四郎の声色でそれが形ばかりの質問だと分かる。
立ち上がるとそこで手足が拘束されていない事に気付く。禁書室の中には戊陽と四郎の二人だけだ。
多少ふらつきながらも戊陽は自力で禁書室から出て、城の南側に向かって張り出した露台に立つ。蔵書楼は他より高く造られており、汀彩城の午門の辺りまでを見下ろす事が出来た。
「一体、何が」
今の今までこの音が気に留まらかったのは、眠らされていた間もずっと聞き続けていたからに違いない。
叫声に、武具がぶつかり合う音、地面を蹴る音や遠くには馬の嘶き。戦いの音だ。
「こんな所まで攻め込まれたのか……! 一体どれくらいの間私は眠っていたのだ!!」
午門を入ってすぐの広くなった場所で、多くの兵士が戦っていた。点々と血のような黒い染みも見える。
恐らく午門から先に続く城下にも戦禍は広がっているだろう。
「一晩です。現在は一晩明けて、日の出から少し過ぎた頃でしょうか」
四郎の言葉は俄かには信じがたい。汪軍は頭を失って完全に禁軍優勢になったのではなかったか。それが一晩のうちにこれほど戦況が覆されるのはおかしい。
「……援軍か」
「はい。五万の援軍です」
信じられない思いで四郎を振り返る。ふざけるなと怒鳴りかけて、しかし決して四郎の顔つきはふざけてなどいなかった。彼がふざけるところなど、未だ嘗て見た事がない。
「止めなくては」
「はい、止めて下さい」
「何……?」
「最早、あなた様の声でなくては、暴走した禁軍は止まらないでしょう」
「暴走だと……? 敵軍が門を突破してきたのではないのか!?」
「はい」
淡々とした声色はこんな時でさえ変わらない。四郎は憎たらしいほど冷静に状況を話した。
「連合軍には武力で強攻する指示は出ていませんでした。門は中から開いたのです。報告によればその指示を出したのは亥壬様だそうです。緑歳様と李将軍も納得した上で戦いに身を投じられております」
「何故、そんな無謀な事を」
「万に一つに賭けたのでしょう。五万の大軍を相手に籠城してもやがて兵糧は尽きます。矢を射掛けたところで今度は矢が尽きます。だったら、敵を中に誘い込み、地の利を活かして狭い路地で各個撃破していこうとなさったのではないでしょうか」
つまり亥壬たちは五万の大軍を目の前に勝つつもりでいるのだと四郎は言いたいらしい。
止めなくては。このままでは亥壬も緑歳も禁軍も何もかも全滅するしかない。
考えるより先に体が動いていた。どこに行って何をどうすればいいか、何も思いついてなどいない。
「良いのですか? 弟君の思いを踏みにじる事になるのでは? 禁軍の兵士ならあなたを守って死ぬ事を本望と思うでしょう」
お前が止めろと言ったのではないか。だが戊陽はそれを口にしなかった。四郎は事ここに至って新たな側面を見せ始めている。矛盾するような質問をしてきた事もそうだ。四郎は戊陽の知らないうちに自身を囲っていた檻を破ったのだろう。そうして顕になった四郎の「私」が戊陽に訊ねている。死に殉じようとする兵士たちを何故止めるのか、と。
「私は兵士ではない。私は民を守る皇帝だ」
戊陽の答えに納得したのかは分からなかった。けれど、四郎はそれ以上戊陽を引き留めようとはしなかった。
*
戊陽は蔵書楼の棚を隔てた先に于雨と子珠が隠れていた事に気付かなかった。大人二人の会話を一部始終聞いていた于雨は、戊陽が去った後で子珠の手を引き棚の影から出て来ると、四郎に訊ねた。
「四郎先輩は、悪い人なのですか?」
怯えていると分かる目に体も怖気づいて及び腰になっている。しかし背後に子珠を庇いながら于雨は懸命に勇気を振り絞った。
仮に四郎が凶悪な殺人鬼なら蛮勇だろう。正体を暴いたが最後、于雨どころか会話を聞かせた子珠も揃ってあの世に送られる。だが、四郎は殺人鬼ではないし、悪人というものはその人間の状況や立場によって変化するものだから、一概には答えられない。
「お前の見たままのものを信じろ」
「え……?」
「于雨、城の外を囲う人間には気付いているな?」
于雨はハッとして首を縦に振る。脈読が可能な者は草花や大地、川や海の自然に流れる地脈を感じる事はもちろん、人の体に流れる地脈──これを気と呼ぶ──それも感じる事が出来る。人が増えれば増えるほど、地脈が放つ陽の光のような熱も増していく。
「今城壁に張り付いている者は無視して良い。だがこれ以上を近付けないために、城から少し離れたところにあわいを出せ」
「あわいを、出す……?」
「そうだ。あわいを、いや……『妖魔』を出せ」
于雨は分からないという顔をする。生まれてこのかた一度も妖魔を見た事が無いのだろう。
あわいは恐ろしい土地で、妖魔は人を殺すものという常識は民の間にも定着している。生まれた時には既にあわいが存在し、あわいを通らず妖魔を見ずに死んでいく人間がたくさんいる。寧ろ、あわいの無い沈という国を知る世代は既に高齢でほとんど残っていない。
今生きている沈人にとって、あわいと共にあるのが沈だ。だからこそ、妖魔を知らずに死んでいく。特に少年の頃より宦官となった者が妖魔を知らないのも無理はなかった。
だがそれでも于雨にはその才があるのだ。知らずとも、妖魔を感じ取り、生み出す才が。
「地脈は動きがある。だから追いやすい。常に私たちの意識の端で地脈は動いている。だがあわいは生きていない。静のあわいはまず追うという事が出来ない」
「……はい。あわいは、よく、分かりません」
「しかしその分からないという感覚があわいだ。地脈ではないもの全てがあわい。そう思えばあわいが見えてくる」
四郎が伝えているのは四郎自身の感覚だ。他の人間には地脈もあわいももっと違ったものに感じられるかもしれないし、或いは地脈をこそ感じ取るのが難しいという卜師だって居たかも知れない。
四郎に師はない。全て独学だった。他の卜師、つまり脈読を出来る者は于雨が初めてだった。故に他人にどう指南すれば脈読の事が上手く伝わるかなど分からない。四郎もまた、現状に対して手探りなのだ。
「于雨、お前が感じているものを全て言葉にしてみろ。地脈はどうだ?」
于雨はこくこくと首だけで頷くと、目を閉じて集中し始める。やがて「暖かくて、元気で、明るい」と呟いた。
「ではそう感じない部分はどうなっている? あるはずだ。地脈の流れない場所が」
「……何も、無い」
予想に反して「冷たくて大人しく暗いもの」とは答えなかった。
「地図を見ろ。この辺りは森が深い」
四郎が示したのは雲朱の森だ。于雨は知る由もないが、ちょうど玲馨たちが雲朱へ抜けるのに使った道である。
「こういう場所は昼日中であっても妖魔が彷徨っている。ここからほとんど真南にあるこの森は、どう感じる?」
于雨は南と呟きながらそちらの方角に体を向けて、今度はじっと目を凝らすように虚空を睨みつける。
「何も無い……みたいなところに、濃い……濃い何もないものが、移動してる……?」
独特の言い回しになってしまうのは恐らく語彙が足りていないのだ。移動しているような感覚があるのなら、于雨はあわいもきちんと感じ取っている。何故なら四郎にもその方角に濃い影の気配を捉えているからだ。
「その移動する何か。お前が生み出さなくてはならないのが、それだ。それを妖魔と呼ぶ」
「妖魔……」
「今から言う場所の地脈を極限まで堰き止めろ。短い間で良い。一時辰、いや二時辰。そうすれば妖魔が噴き出して、援軍の行路を邪魔する事が出来るはず」
于雨が四郎を振り返った。表情変化の乏しい子供なので分かりにくいが驚いているのがその目の開き方で伝わる。
悪い人だと思ったけれど、悪い人じゃないのかもしれない──おおかたそんな事を考えているのだろう。
汪家を裏切ると決めた時から四郎の得る情報は〈羊〉からのものではく、一度東妃を経由してくるものへと変わっていた。東妃の元に入ってくる情報によれば門を開けたのは禁軍だという話だったが、四郎は違う予測を立てていた。
于雨に伝えるために四郎が指さすのは沈の南側。そちらに伏せられている兵を止めなくては、戦況は恐らく蘇智望の期待したものとは変わってくるだろう。
*
場所は変わって城の南方、臨時の東江軍の拠点となった岳川の支流に停泊する船上で玲馨は城のある方角を眺めていた。
夕刻になるとうっすらと霧が出始めた。そのせいなのか、あわいに妖魔が出現し始めたのである。援軍は明日を待って出立させるはずだったが、ここで蘇智望は別の指示を出す。
「私はこれから汀彩城へと向かう。どうも、私の想定していた事とは違う事態になっているようだ。この目で確かめたい」
これからという言葉に反応して何名かの兵士が動揺を見せたが蘇智望の意思は変わらない。
当然侍女や船を動かすための船員は残る事になる。待機する者たちの中に不安げな表情をして玲馨たちを見送る羅春梅の姿が混ざっていた。結局、彼女の望むような事は何もしてあげられなかった。
もともと蘇智望の守備のために残すはずだった兵士をそのまま進軍に予定を変えて、ぽつぽつと緩やかに増えている妖魔を防ぎながら汀彩城を目指した。玲馨もその一団の中に交じって、共に汀彩城へ向かう。
城が見える距離まで近づくと、抜けてきたあわいの一帯はおびただしい数の妖魔で埋め尽くされていた。蘇智望の隊は既にあわいを抜けていたために、妖魔がひしめき合うのを離れた場所から眺め、一部の兵士は顔を引きつらせている。
「玲馨、沈周辺のあわいはこんなにも濃いのか?」
「いえ、私が雲朱へ出立した時にはこれほどは……」
この密集具合は熔岩へ向かうのに通ったあの天然の隧道内に近い。行けども行けども妖魔の群れに相当手を焼いた。人死にも出た。
あの隧道は深い森の中腹にあり、昼日中であっても外の光が一切入らないほどの暗闇だった。一方現在はまだ日没前の時刻。
「……操脈か」
蘇智望のその呟きは誰の耳にも届かなかった。
「このまま城へと突入する」
蘇智望の静かな号令に、手綱を引く音が続いた。
──帰ってきた。
その威容は変わらないはずなのに、大軍に包囲された汀彩城のなんとあわれに見える事か。加えて悪天候のおかげで暗い気配を放つ汀彩城はまさに死地を絵に描いたようだ。
籠城戦を展開されるだろうという蘇智望の予測は外れたらしく、南門は開門していた。既に多くの兵士が門から中へとなだれ込み、城下は血の海と化しているだろう。
「……私も勘が衰えたのかな」
南門の光景を眺めて蘇智望は低く呟いた。五万という大軍をこの戦いに投入したのは何より血を流さないためだった。圧倒的戦力差を見せつけて敵に降伏させる。皇帝の首一つで戦いは収まるはずだったのだ。
「私の失態だ。急ぎ皇帝の居場所を割り出せ」
蘇智望は命令を出しながら馬に騎乗する。
「待って下さい! もし陛下が前線に出ていたらどうするおつもりですか!」
蘇智望は手にした手綱を音が鳴るほど握りしめる。
「玲馨、そなたもついて参れ。そなたの呼び掛けでこのような愚行を止めさせるのだ」
「愚行……」
蘇智望の言う通りだ。どんなに地の利があろうと門を開けて民の暮らす城下で戦闘を行うなど愚かな判断でしかない。だからこそ「止めさせる」という言葉がどうしても引っ掛かった。
あの戊陽が一か八かに賭けて開門するという作戦を実行させるだろうか。勝っても負けても、敵も味方も大勢死んでしまうというのに。
皇帝側の誰かの指示でこうなったのだろうか。それとも、蘇智望の命令を無視してどこかの軍が門を突き破ったのだろうか。南門には雲朱軍が先行したはずだが、或いは──。
蘇智望を中心に分厚い陣形が組まれると、部隊は真っすぐ南門を駆け抜けていく。玲馨は蘇智望のすぐ後ろに馬でつけた。
城下はやはり、多くの屍が転がっていた。禁軍の鎧もあれば、見知らぬ鎧もある。東江軍と同じ鎧をつけた兵も前者二つに比べれば少ないがぽつぽつと見受けられた。
戦いの前線は既に城下の奥まで及んでいるらしい。南門から真っ直ぐ午門へ続く目抜き通りから、東西に別れた路地を見遣るとあちこちから剣戟が聞こえてくる。
どこの家もぴったりと戸を閉じていた。きっとどの家も中で住人たちが息を殺して自分が助かる事を祈っているだろう。連合軍が紫沈を包囲したのだから、誰も逃げられなかったはずだ。
ふと、浮民の事が頭に過ぎった。南門からやや逸れたところに居住域があるが、無事だろうか。
「あれ!? 玲馨兄さんじゃん! おーい玲馨兄さーん!!」
よもや浮民の事を考えたからという訳はないだろうが、ちょうど城下の中央付近、目抜き通りの中でも特に幅のあるところで兵と斬り結んでいた少年から聞き知った声がかかって驚く事になる。
しかし玲馨は馬に乗っており、尚且つ蘇智望の後ろにつけていたので止まる訳にはいかない。
「風蘭!! 追ってこい!」
叫んでいるうちにあっという間に風蘭の姿が遠ざかっていく。最後に「オレ馬ねぇよー!!」という叫び声が聞こえたような気がした。
程なくして蘇智望を中心に据えた部隊は午門に到着する。戦いの波は既に落ち着き始めており、戦闘の気配は午門の向こう、汀彩城の方に強く漂っている。
「先程そなた何か叫んでいなかったか?」
「ふう、蘇蘭様です。恐らく西門の方も開門したという事でしょう」
「蘇蘭か。なるほど状況を聞きたいところだな」
「私たちを追うよう言いましたが、あちらは馬が無いようでしたので」
蘇智望の左側を固めていた東江の兵士が「待ちますか?」と問う。と、蘇智望が答えるよりも早く、隊の後方から馬の嘶きが轟いた。
「どーどーっ、お、落ちる!!」
少年の慌てた声が聞こえると、玲馨は思わず微かに笑ってしまう。戦場にも関わらずこんなにあっけらかんとしていられるのは、風蘭の強みなのかも知れない。
風蘭は見知らぬ東江兵と二人で馬に跨り蘇智望の部隊を追い掛けてきていた。その見知らぬ兵は、風蘭が馬から振り落とされないようしっかりと体を支えて馬から下ろしてやった後、蘇智望の元へと歩いてきて頭を垂れた。
「蘇智望様、無事のご到着よう御座いました。汪軍の残党は我々で捕らえる事が出来たのですが、残念ながら無血開城とはいかず」
「ご苦労だった関礼。一体何があったのだ?」
「恐らく雲朱軍の仕業と予想されます。南門は中から開かれました。禁軍兵と何らかの取り引きがあったか、或いは禁軍の中に」
「間者を仕込んでいたか」
関礼と呼ばれた蘇智望の配下の男が深く頷くのを見て玲馨も得心する。
雲朱の火王───郭隕は、ここに来て手柄を奪おうとしているのだ。手柄とはもちろん戊陽の首だ。
「城内へ急ぐぞ」
「はっ」
関礼の馬から降りていた風蘭が玲馨の方へと歩いてくる。
「玲馨兄さんの馬に乗せて。城って言っても中は広いんでしょ?」
「私はさほど乗馬の技術はないが、それでもいいなら乗りなさい」
「うん」
風蘭は玲馨の手を借りて身軽に馬に飛び乗った。小柄な風蘭は玲馨の前だ。自然と視界に入った彼の得物である槍に目がいくと、玲馨は短い間言葉を失った。穂袋のない彼の愛槍にはべったりと血がこびりつき、髪や衣にも飛沫のような血が点々と飛んでいた。
「……風蘭、お前の母も浮民なのだったな」
「そう。東江本隊が到着した時に浮民は避難させてある。って言っても着の身着のまま門から遠ざけただけだけど。母さんも無事だよ」
「そうか」
今更ながら風蘭と呼んで返事が返ってくる事に何故か不思議とほっとした。
「後を継ぐのか? 金王の」
「さぁ、分かんない。オレと母さん二人が食べて寝られる場所がある所なら何だっていい。そのためなら、オレは迷わないでいられるんだ」
風蘭は教養が無いだけで他人の機微に敏感な子だ。今も玲馨の言葉の裏に隠れた疑問をしっかりと感じ取っていた。
『別にオレが殺したんじゃないよ』
そう言ったのは風蘭自身だった。容易く命を奪うような人間だと誤解されたくなくて、咄嗟にそんな言葉が出たのだ。そんな風蘭が「迷わない」と言った。彼の誤魔化しもせず嘘もつかない潔さは、誰にでも真似出来るものではない。
「強いな、お前は」
「褒めたって何も出ねぇぞ?」
「そろそろ移動するようだ。口を閉じていろ。でないと舌を噛むぞ」
「あははっ、玲馨兄さんが照れてる」
午門を抜けた先の広場は雨に濡れる赤旗がはためいていた。禁軍兵はもちろん、中には東江の兵と戦っている者もいる。雲朱軍の離反によって三つ巴状態になった戦場はひどく入り乱れて混迷し、想像以上に酷い有様だった。
「愚かな、郭隕」
血交じりの泥水を跳ね上げて剣を振り上げる兵士たちを眺めて関礼が呟く。
「皆すぐに加勢せよ! 抵抗する雲朱兵は斬って構わぬ!」
蘇智望を囲んでいた兵が四散していく。そこで初めて、玲馨は蘇智望を護衛してきた兵が耳慣れない言語を用いている事に気が付いた。
──昆語だ……!
蘇智望の話す沈語が分からない者に分かる者が言葉を訳している。小声で話すのを聞き取って、改めて彼らを確かめると何名かは蘇智望と似たような青い瞳をしていた。
──何て人だ、蘇智望。これでは戊陽が敵わないのも当然だ。
どんな密約が交わされたのかは分からないが、蘇智望は昆に戦力を求めたのだ。後から来る援軍や後方支援にも昆の兵士が使われているのだろう。
昆は大国である。人の数は沈の比ではなく噂が本当なら十倍以上にも及ぶという。また長きに渡って周辺諸国と争ってきた昆の軍事力は沈を滅ぼすのに一日とかからないのではないかという声もある。沈の古い官吏たちは昆を軽視しながらも恐れていた。その恐ろしい存在の相手を長い間東江に全て押し付けてきた結果がこれだ。
しかしだからこそ蘇智望は確信していたのだろう。この戦いで血を流さず勝てるという事に。それを郭隕が破綻させてしまった。己のみが此度の戦で利を得るために。
──戊陽の首を担いで昆の国主に謁見でもするつもりか、あの男は。
首と別れた戊陽の死体を見下ろし笑う郭隕と、しなを作って郭隕に寄りかかる可憐の姿は驚くほど簡単に想像出来た。
玲馨は気合いの声を発し、馬を駆る。昆の兵が切り開いた道を蘇智望の後に続いて汀彩城を疾走していく。
戊陽が禁軍の指揮を直接取っているとしたら恐らく兵舎に居る可能性が高い。しかしこれだけ戦線が下がっているとなると、周囲に説得され外廷か或いは黄麟宮まで避難している事も考えられる。とにかく雲朱より先に見つけて戊陽を確保しなくてはならない。
迷う玲馨の一方で蘇智望の選択は早かった。彼は馬首を外廷の方へと向けている。今は領地を治める者としての蘇智望の勘に頼るべきなのかも知れない。
外廷の階が見える頃には蘇智望の護衛兵も随分数を減らしていた。せいぜい十名ばかりの人数で、敵の本丸に乗り込むなど命知らずもいいところだが、場は酷く混乱していて新たに十数名の人間が増えたくらいでは誰も気付かない。
禁軍に勝ち目がない事を敵勢力の情報を得た玲馨はよく分かる。だが、汀彩城の喉元とも言える宮廷にまで敵兵に入り込まれていては、禁軍兵たちももはや自身の死を予見しながら戦っている事だろう。
十年以上暮らして見尽くした景色が、血に染まっていく。美しい庭も、意匠を凝らした建造物も、傷つき破壊されていく。
──戊陽。
ここに居てくれと願いながらまさに玉座の間に突入しようとした瞬間だった。
「おやめください皇太后様!!」
宮女のほとんど悲鳴のような静止の声が響き、一人の女が廊下の端を曲がって姿を現した。
「皇太后様……!?」
玲馨の声を拾い、蘇智望が眉を顰める。
皇太后は、現在の沈においては先帝の母の事をそう呼ぶ事になっている。つまり黄昌の産みの母で元貴妃だ。
皇太后は黄昌を亡くした二年前に体調を崩してからというもの、これまで自身の宮で療養生活を続けていたはずだ。国事にも姿を現す事はなくよほど容体が悪いのだと思われていたが。
自分の足でふらふらと幽鬼のように歩く皇太后は、確かに万全の体調とは言い難い様子だ。しかし何故今こんな時にこんな所へ出て来たのか。
「迎えが、来るのです。私はもうこんな城には居たくない」
皇太后はぼそぼそと青白い顔で何事かを聞き取れないほど小さな声で呟いている。壁に手をつき胸を押さえる姿は病人そのものなのに、窪んだ瞳には暗い光が宿り、奇妙な迫力があって誰も近寄ろうとしない。皇太后を引き留めていた宮女は蘇智望たち兵士に注目されている事に気付くと、怯えて逃げていってしまった。
「ああ、やっと、やっと帰れます。やっと、雲朱へ、雲朱、雲朱……」
玉座を目前にして誰しもが前に進むのを躊躇った。
「ああ!! 待っていましたよ小隕! お前の言う通りの事をしました! 早く、早くここから帰して!!」
皇太后の目には一体何が見えているのか、彼女の視線は蘇智望も玲馨も通り抜けてもっと遠くを見つめて感極まった。恐る恐る背後を振り返ると、そこには深紅の鎧を身に纏った郭隕が戦場にも関わらず愛妾の可憐を侍らせ悠々とした様子で立っていた。
「ほう。これは金王ではありませんか。何と都合の良い」
郭隕の言葉に可憐が笑みを深める。
「斬ってしまえ。金王も東江の兵も、そこの醜女もな!!」
「小隕?」
それが、皇太后の最期の言葉だった。
郭隕に指示された雲朱兵は即座に皇太后を叩っ斬り、返す刀で蘇智望の方へと襲い掛かってくる。
皇太后の体は壁に真っ赤な血を吹き付けて、あっさりと死に絶えていた。
郭隕は隙をついたつもりだったかも知れないが、蘇智望の護衛たちは半分以上が昆の兵士だ。それも手練れをつけてある。雲朱の兵は一人また一人と薙ぎ払われて、瞬く間に郭隕を裸にしていった。
「そ、んな、馬鹿な!! な、何者だそやつらは!!」
「火王郭隕、そなたは妻を娶っても子を作らなかった。そのせいで、そなたの家系はここで絶えるのだ。だが安心すると良い。雲朱は私が余すところなく預かるとしよう」
蘇智望の言葉に郭隕が肥え太った体を怒りに震わせて、着ていた鎧のように顔を真っ赤にした瞬間だった。誰の視界からも外れていた大柄な東江の武人──関虎が郭隕の背後に突如として現れて、両刃の剣を背中から突き刺した。
「い、いやああああ!!!」
喉を引き裂かんばかりの悲痛な可憐の悲鳴と共に、腹から突き出した剣先から郭隕の血がだくだくと流れだしていく。当の郭隕は己の豊満な腹から突き出た物の正体を驚愕の眼差しで凝視したところで息絶えていた。
「よくやった関虎」
蘇智望の采配は容赦がなかった。半狂乱になって叫ぶ可憐を視線だけで殺すよう指示し、ぶつっと可憐の悲鳴が不自然に途切れた。
こうして郭隕の連れて来た人間たち全員が床に倒れると、蘇智望は静かに告げる。
「玉座の間へ」
朱に塗られ蓮の葉と花を象った縁が美しい扉を、昆の兵士が両端に立ち勢いよく開ける。しかし玉座の間はもぬけの殻だった。皇帝も官吏も宮女は当然宦官も居ない。絹の紗幕に覆われた主無き黄金の玉座がぽつねんと佇むのみ。
「玲馨」
短く名を呼ばれただけだが、蘇智望が何を言いたいか察した。
「……兵舎か、或いは後宮の最奥にある皇帝の寝所かと」
挙げた場所に居てほしいという思いと、逃げていてほしいという思いが複雑に交錯する。目の前で「殺せ」という判断を躊躇いなく命じた男に対し、戊陽の居場所など教えて良いのかという迷いが今になって首を擡げている。
ここに来て今更逃げてほしいなど何と虫の良い話か。仮に戊陽が逃げ出していたなら、玲馨はこのまま最後に一目会う事も叶わず無駄に殺されるだけだ。
「案内せよ」
「はい」
踵を返し黄麟宮へ向けて歩き出す。
ここには戊陽を殺しに帰ってきたのではない。救うためだ。
何度もそう言い聞かせて、玉座の間を出た。
その時だった。
「禁軍兵よ! 皇帝戊陽の名において命ずる! 今すぐ武器を引けーっ!!」
ほんの、一拍の間だけだった。剣戟も叫声も雨音も全てが遠ざかって、彼の人の声だけが玲馨の全てになる。蔵書楼の真下で雨に打たれながら戊陽は立っていた。皇帝の存在に気付いた兵士たちは敵も味方も一斉に戊陽へ向かっていく。一方は守るために、一方は倒すために。
ずっとあやふやだった死への覚悟が、今まさに定まる時だった。
戦いが止まったのは残念ながら一瞬だけだった。敵が止まらない以上、禁軍兵たちは戦いをやめる事が出来ない。武器を引けば我が身に待つのは死なのだ。
顎が砕けんばかりの力で歯を食い縛り、もう一度叫ぼうと息を吸い込んだ戊陽を、玲馨は呼び止めた。
「戊陽」
戊陽はすぐに玲馨の声を聞き取ってこちらを振り返る。その表情は短い間だけ喜色に包まれて、次の瞬間困惑に変わっていく。
昆の兵に守らながら、玲馨と蘇智望は蔵書楼へと近づいていく。戊陽の顔と表情がはっきりするごとに、玲馨の胸はざわめいた。
「……そこの者は、蘇智望か」
「私がお分かりになられますか、陛下」
「その容姿は他に二つと無いだろう。蘇智望よ、まずはその宦官を返してもらおうか」
「ええ、お返し致しますよ。そのためにここまで連れてきたのですから」
蘇智望は戊陽には聞こえないよう声を下げて言う。「これが最後の逢瀬になる」
その声に押されるようにして玲馨は一歩、一歩と確かめるように前に踏み出して、じっと真っすぐに玲馨を見据える戊陽の元へと帰っていく。
あと少しで手が届くというその時、戊陽の皇帝の顔が崩れて強く抱きしめられていた。
「玲馨……っ!」
戊陽の体は震えていた。耳元から聞こえる息遣いも同じように震えている。戊陽の後れ毛から雨水が滴り、玲馨の頬を濡らした。
「無事で、良かった」
その言葉は玲馨の胸を深く突き刺した。
別れを惜しんでいる暇はない。もう言ってしまおう。それがいい。
「戊陽、聞いて。どうか、冷静に私の言葉を聞いてほしい」
「りんし──」
蘇智望の部下、名を確か関礼という男が叫び、戊陽の声をかき消した。
「全軍に次ぐ! 即刻武器を収めよ! 郭隕は討ち取られ、皇帝の身は我が東江軍が確保した!」
関礼は相応に顔と声を知られていたのだろう。まず真っ先に反応したのは東江兵だった。最後まで戦っていたのは雲朱兵と禁軍兵だったが、関虎が首の代わりに郭隕が身に付けていた真っ赤な宝石のついた首飾りを掲げると、次第に雲朱兵も戦意を失って、最後に禁軍が信じられない思いで武器を下ろしていった。
「……どういう事だ、玲馨」
混乱したのは兵士たちばかりではない。事態を飲み込めず動揺に満ちた声音が請うようにして玲馨へと向けられる。
「戦いが終わったんだ。あなたが東江に捕らえられたことで、私たちは目的を達成した」
肩を掴まれ体を引き剝がされる。戊陽の首は何かを否定するようにゆっくりと左右に振られていた。
「世を乱す皇帝は東江によって処断される。これまでの全ての悪政を背負って」
「俺は」
玲馨の肩から、だらりと戊陽の手が落ちていく。
「死ぬのか」
「死なせない。私が絶対にあなたを死なせたりしない」
「言っている事が矛盾している」
「私が身代わりになるんだ。大丈夫。あなたが皇帝として振る舞う姿を最も近くで見てきたのは私だ。上手くあなたのふりをしてみせます」
「何を」
「声は出さない。顔は面布で覆う。所作や仕草、歩き方を真似てしまえば誰も疑わない。処刑まで時が経てば、いかに若い皇帝とてやつれて体もやせ細る。だから誰一人、影武者が死んだのだと思わない。私が思わせない」
戊陽は思いの外取り乱さなかった。玲馨は、玲馨が思っていたほどには戊陽にとって重要な存在ではなかったらしい。それでも決めた事から逃げたいとは思わなかった。
「そういう事なら──」
納得してくれたのだと思ってつい気を抜いてしまっていた。無防備のまま戊陽に強く突き飛ばされて、尻を強か地面に打ち付ける。何が起きたのかと戊陽を見上げると、戊陽は傍に転がっていた剣を拾い上げて自分の首を斬ろうとする瞬間だった。
「それは卑怯なんじゃねぇの、皇帝さんさ」
戊陽の手から一人でに離れて飛んでいった剣は、遠くに落ちて水を跳ね上げながらカランと金属音を立てて止まる。風蘭の力が無情にも自決を止めるのに一役買っていた。
「……駄目だ。玲馨、お前が死んでは駄目だ」
戊陽は茫然として言う。陽の下でなら黄金に瞬く瞳も、曇天のもとではどんよりと暗く沈む。
「陛下。あなた様から玉座を取り上げてしまう私の、せめてもの罪滅ぼしなのです」
どうか、お許しを。
玲馨が深く、深く頭を垂れると、戊陽は玲馨へと手を伸ばした。しかしその手が触れるより先に関礼が戊陽の腕を掴み拘束する。
「やめろ。放せ。玲馨、駄目だ玲馨。俺はお前に償ってもらう事など何もないんだ……っ!」
戊陽が兵士に脇を捕まれ無理矢理立たされると、次第に彼の声が遠ざかっていく。
「玲馨っ、玲馨っ!!!」
声が聞こえなくなるまで、玲馨は顔を上げなかった。上げられなかった。顔を見たら最後、戊陽の手を取って逃げ出していただろう。蘇智望は容赦の無い人だ。そうなれば必ず二人を斬ったろうし、それでは玲馨がここまで来た意味が何もなくなってしまう。
戊陽の声がなくなると、玲馨の世界にはザアという豪雨の音だけが残った。冷たく打ち付ける雨は、不思議と玲馨の心を冷静にさせる。
逃げないと決めた。戊陽が生きていけるのなら、それで構わない。
「最後に会えて良かった……」
あなたのその陽の光のようにあたかかい心も、いっときばかり翳るのかも知れない。けれど、私の世界を照らしたあなたなら、きっとどんな境遇でもまた輝きを取り戻せるだろう。
どうか生きて。あなたは、あなたに相応しい世界で生きてほしい。
さようなら、戊陽。
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