あわいの宦官

ちゅうじょう えぬ

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完結編

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 偃月刀えんげつとうと呼ばれるその武器は人の身の丈ほども長さのある大刀である。刃は先に向かって湾曲し、偃月、つまり三日月に似ている事からそう呼ばれるようになったという。
 沈は太陽を信仰する国だ。対して月は影を意味し、嘗ては不吉なものとされた。それは強盗や殺人は大抵が夜半に起きるもので、夜の暗さに怯えた事が始まりだった。
 それに倣い、三日月の名を冠する偃月刀は決して皇族が使ってはならないものとされていた。
 やがて時代が下ると信心深い沈人は減少し、太陽と月の関係を人々が忘れていくと山芒シャンマンで長く使われていた偃月刀が禁軍でも扱われるようになる。剣と比べて柄が長く刃も大きい偃月刀は馬ごと人を斬るのに良いだろうという考えのもとである。
 第三皇弟である緑歳リュウスイはその恵まれた体格で大刀である偃月刀を器用に使いこなした。殊馬上での戦闘なら、剣の腕では随一と言われるリー将軍さえも圧倒する事がある。
「皆の者! 此度の戦いで逆賊汪軍をこの紫沈から全て追放する! 禁軍兵よ、俺に続け!!」
 おおおお、と地鳴りがするほどの雄叫びが上がる。百ほどの兵がそれぞれに武器を天に突き上げ心のままに声を張り上げた。
 たった百名の、されど精鋭を揃えた緑歳隊。その顔触れには一度目の山芒遠征にて戊陽と同道した者の姿もあった。万に一つに備え若い精鋭を紫沈の防備に残した戊陽の君主としての勘が冴えた采配であった。
「──突撃ッ!!」
 少数精鋭で編成された緑歳隊のまさに突進と呼ぶべき一直線の進軍は、戦いが再開していた前線の禁軍を嘗てないほど奮起させた。
 緑歳は武術もさることながら、何より軍の士気を上手く操った。発破をかけて更に自ら最前で大刀を振るう姿に感化されない兵は、もはや禁軍には不要であると李将軍に言わしめるほどである。
「全て! 全てだ! 逆賊は一人残らず紫沈の土を踏む事能わぬ!!」
 戊陽ならば無用な血を流す事を嫌っただろう。だが緑歳の考えは少し違う。無駄な血は確かに流してはならないが、戦場に立ったが最後、武人ならばいついかなる時もその両腕に双方の死を抱える覚悟がなくてはならないものだ。故、これから緑歳の大刀に掛かって死ぬ者たちは無駄死にではない。戦を終わらせるのに手心などと考えている場合ではなかった。
 これは、戦である。
 辛うじて戦線を下げないよう踏みとどまっていた汪兵が、まるで人形のように偃月刀に薙ぎ払われていく。ばっさりと人の波が割れて溝が出来上がると、そこに次から次へと緑歳隊が雪崩込み、あれよあれよと前線を押し上げていった。
 およそ半時辰約一時間あまりで西門まで汪軍を追い詰めて、緑歳隊の勢いは更に増していく。
「り、緑歳様! 門の向こうに東江ドンジャンの本隊が見えました!!」
「覇道とは即ち邪道!! 東江にこの門を潜らせては禁軍に勝利は無いと思え!」
 再び怒号が響き渡り、禁軍兵はここ一番の力を存分に発揮した。
「閉門! 閉門ー!!」
 沈で最も厚い鉄の扉が地面を削るようにして閉じられていく。最後の一人が、たった一人になっても果敢に門にしがみつこうとしたが、その腹を敢え無く槍で突かれて絶命していった。
 門がぴたりと口を閉じた時、城下には一人の汪軍も生き残ってはいなかった。
「上手く、いったな」
 鉄扉の音が止むと、西門に耳鳴りがしそうなほどの静寂が下りた。
 肩で息をする緑歳のその呟きを聞き取って緑歳隊を筆頭に鬨の声を上げようとした時だった。
 彼らの喜びをかき消しながら、大きな鐘の音が勝利の余韻に水を差す。
「南門より雲朱軍出現! ただちに応戦願う!!」




 結論から言えば、南門は雲朱軍の侵入をすぐには許さなかった。既に閉じていた門の前には何重もの重石を重ねており、西門に展開していた兵の半分を引き連れ南門に回った緑歳は拍子抜けする。
 しかし油断出来る状況ではなかった。西門と南門とそれぞれ外には何千の兵がこの城を囲んでいる。禁軍約一万五千に対して目算で八千近くが城を攻めんと待機しているのだ。
 数的にも地理的にも格段に禁軍有利ではあるが、敵とて何の手立てもなく無駄に兵を出したりはしないだろう。一度どう動くべきか軍の総指揮を任された亥壬ハイレンの意見を聞く必要があった。
「緑歳様、ここは物見と我らに任せ、緑歳様は一度休息を取られて下さい」
「ああ」
 返事はしたものの、緑歳は動こうとしない。城壁の上にある物見台の方を眺めて何かを真剣に考えていた。
「おい、あそこへはどうやって上がる?」
「はっ、物見台なら梯子が壁に、あっ、緑歳様!?」
 兵士が言い終わるのを待たずに緑歳はすぐさま梯子のある場所へ走っていき、臆することなく高い壁を登っていく。周囲にいた兵士たちはよもや落ちはしまいかと青い顔で緑歳を見つめていたが、緑歳は危なげなく物見台に上がった。
「どうだ、雲朱軍の他には何か見えてこないか?」
「いやぁそれがこの雨で霧が、って緑歳様!?」
「良いから続けろ。確かに霧が出始めているな」
「は、はい! 霧で見通しがいつもの半分くらいしか利きません」
「半分だと、見つけてから紫沈までどれくらいで到着するんだ?」
「進軍の速さによりますけど、雲朱軍と同程度の規模なら一時辰《約二時間》ほどです。雨で足場も悪いですからもう少しかかるかも知れませんけど」
「そうか」
 神妙な面持ちで頷く緑歳だが内心では「なるほど分からん」と思っている。分かるのはとにかく一時辰の間はこれ以上敵が増えないという事だ。
 馬を駆れば南門からでも亥壬の居る兵舎まであっという間だ。やはり一度戻るべきだと判断した緑歳はつるつると滑るように梯子を下りて、馬に跨りあっという間に南門を離れていった。
 残された兵士たちは何が何だか分からず、やむなく南門へ待機する事に決める。





 雲朱軍が現れた事で、しめて八千ほどの兵にこの紫沈が囲まれている。交渉事の従軍でなければ、敵は本当に攻城戦を仕掛けてくるつもりなのかも知れない。
 考えうる手としてはやはり兵糧攻めだ。こちらの食料が尽きる頃を狙って交渉かまたは強攻して城を占拠するつもりだろう。だがそれを完遂するにはこちらの何倍もの戦力が必要になる。未だ兵数は禁軍を下回る以上、風は禁軍に向かって吹いているはずだ。
 そう何度も自分に言い聞かせるように繰り返したが、どうしても亥壬ハイレンは不安を拭い切れないでいる。
 敵はどこかに戦力を隠しているに違いない。それは戦場に姿を現していない北玄海ペイシュエンハイや山芒ではないだろう。どちらも軍の規模は他方と同程度でそれらの軍を合わせて漸く禁軍と互角では、攻城戦は失敗の確率の方が高い。
 では一体、どこから兵を補給するというのか。
「戻ったぞ亥壬! 一時辰だ、一時辰!」
「緑歳兄上!!」
 思わずその大きな体に抱きつきそうになって思いとどまる。
「よくご無事で!」
「ああ、簡単だった。汪軍には骨のある奴が残っていなかったようだ。それより一時辰だ。これから一時辰は、敵は絶対に現れない」
「何ですかその一時辰というのは。一体何を基準に算出したのですか」
「物見に聞いたんだ。南門から今まさに敵が見えたら、そこから紫沈まで一時辰ほどで到着するらしいぞ」
「それは南門に限った話では?」
 緑歳の動きが呼吸さえも忘れたかのようにぴったりと止まる。
「し、しまった……。そうか他の門の事は確認せなんだ」
「いえ、ですがその一時辰というのは役に立ちましたよ緑歳兄上。紫沈の外は今霧が出でいるのですね?」
 亥壬は地図の南門から森に向かって一帯を丸く指でなぞる。紫沈のある土地は平野になっており、特に南に向かっては晴れた日中ならばもう少し遠くまで見渡せるはずなのだ。
「おおそうだ! 森側は夜霧がかかり始めている。このままなら夜を待たずに霧で一度進軍をやめざるを得ないだろうな」
「霧に乗じて……というのも考えられますが。今更奇襲を仕掛ける事に大して意味はないでしょうね」
 寧ろ数で圧倒してこちらの戦意を削ぐのが定石のはずで、だとすれば大軍勢の姿を物見にしかと認めさせたいところだろう。
「……緑歳兄上、今は敵の数が下回っていますが、恐らく明日中にも敵はさらなる援軍を投入するはずです。そうなると籠城していては負けてしまいます」
「何故だ? 籠城したら勝てるのではなかったか?」
「東江は雲朱まで動かしたのですよ。東江の独断でない以上、北玄海も一枚どころかしっかりと協力関係にあると考えるべきです。だから協力を拒まれたか或いは端から協力しないだろうと踏んだ山芒の足止めに、北玄海とリエン族を使った可能性があります」
「……まさに、四面楚歌という訳か」
「ええ、緑歳兄上の口から賢い言葉が出てくるほど、盤面はとても分かりやすく切迫しているのです」
 地図の上に置かれた象棋シャンチーの駒は、ずらりと敵方が紫沈を囲んでいた。
「それと戊陽兄上が戻っておられません」
「何だと? まさか兄上は間諜とやらに捕らわれたのではあるまいな!?」
「分かりません。今兵をやって探させているのですが、兄上が向かわれたのが後宮となると兵では中に入れませんから」
「この緊急時に男が女がと言っている場合か!」
「仰る通りです。ですがこの戦いが武器を交えず平和的に解決し、やがて平時を取り戻した時、男を後宮に入れさせた罪の責任は誰に向かうと思いますか? 今や後宮に残る妃は、東妃様だけなんですよ」
 戊陽を探すために男を後宮に入れたのだからその責任は戊陽へと向かう。本来なら亥壬こそその責を負うべき立場だが戊陽と敵対する勢力はどんな些細な事でも利用して戊陽の足を引っ張ろうとするだろう。少なくとも東妃はその隙を見逃すような女ではなく、それは亥壬の本意ではなかった。
「今、宦官を探しているところです。信用出来る宦官を」
 それが後宮に男を入れるよりもずっと難しかった。いかんせん誰が東江の内通者か分からない。判断材料が無さすぎるのだ。
 嘗て亥壬たちが後宮で暮らしていた頃、母と共に過ごした宮に仕えていた宦官を頼るというのも考えたが、寧ろ東江勢力に直接関係していない亥壬や緑歳のところほど身を隠しやすいのではと疑い始めたら、最早どの宦官も信用出来なかった。
「でしたら、一人推薦したい者がおりますぞ」
 第三者の声に二人が一斉にそちらを振り返ると、ちょうど李将軍が中へ入ってくるところだった。
「緑歳殿下が一人城へお戻りになられたというので、私も総指揮官殿にお会いすべく戻った次第です。現場は私より優秀な武官に任せております故、ご安心下さい」
 李将軍の抱拳礼はその武人らしく鍛えられた肉体と、長年培ったものによる威厳に溢れ何とも男惚れするような勇ましさがある。
「陛下付き宦官の事をお二方はご存じですかな?」
「いえ、宦官となるとさすがに……影のように黙って控えていた不気味な宦官の事なら覚えていますね」
「いや待て。あいつじゃないか? 幼い頃、兄上がよく連れ回していた気弱そうで気弱くないような」
「残念ですがそのどちらでもありませぬ。その二人はあまりにも陛下に近いため、寧ろ密通のおそれがありますな」
 では一体誰の事を言っているのか。
 若い二人の皇子たちの視線を受けて、李将軍は少々もったいつけたように答えた。
メイ、という名の下級宦官に御座います」



 
 宦官を説得するのに誰が一番適任かという話になると、亥壬自らが赴くのが何より手っ取り早いという結論に至った。
 緑歳の話では南門からの援軍は一時辰の間は現れない。だとすると残る三方も今のところ物見からの伝令がない以上はやはり一時辰ほどは時が稼げると思って良いだろう。汀彩城の周辺は平野が続く見通しの良い立地になっている。
 その間に取れる行動などたかが知れている。そして同時に亥壬が今や本陣と呼んで相応しい兵舎を空ける事の出来る時間でもあった。
 戊陽とは違い引きこもりがちだった亥壬は宦官の宿舎に行った事などない。ましてや下級宦官の宿舎となるとよりいっそう近付くべき場所ではないという感覚があった。
 しかし今亥壬が向かっているのは後宮からほど近い上級宦官の暮らす宿舎の方だ。何でも、李将軍が前線指揮に赴いた際に禁軍兵が貴族の人間を捕らえており、捕虜となった彼らから「密告」があったそうだ。
 曰く、真なる裏切者は粛清された、と。粛清者のうち片方は大柄の男で名は分からない。もう一人は数年前に自警団に所属していた男だという。
 元自警団の男の名は羅清ルオチン。現在は名を変えメイと名乗るその男、何という偶然か、李将軍とは面識のある宦官だったのだ。
 どういう経緯でその粛清の事を知ったのかについては終始黙っていたが、貴族の話によれば梅と大男は城の方に向かったとあっさり吐いた。
 貴族の情報は残念ながら数日前のもので、今も梅が城に残っているかは不明だ。しかし、李将軍はその辺りについても武官に調べさせていた。
 話を纏めると、汪軍が侵攻してくるより少し前、西の市街で何者かを粛清した梅は大男と共にその場を去った。その後すぐに梅は大男と別れ、北側の門、つまり戊陽が山芒から戻る時に利用した裏手の門から城内へと戻った。最後に目撃されたのは上級宦官の宿舎がある西沈スーシェン側で、それが今朝方の話だそうだ。
 そうして亥壬は宿舎までやってきた訳だが、宿舎の周辺は不気味なほど静まり返っていた。しかし人の気配はあるのである。
 亥壬はぞっとしない気分で恐る恐る宿舎に近づいていく。
 亥壬は自慢ではないが荒事は苦手だ。よく緑歳と比較されて対極の兄弟だと言われてきた。いかに体が大きくは成長しない宦官が相手でも取っ組み合いになったら勝てる自信はない。
 さながら噂にきく肝試しにでも挑むかのように腰を丸めて忍び足で宿舎の扉に近づき手をかける。
 その時だ。中から怒号が飛んできて、亥壬は無言のまま素早く扉から手を放す。
「こんの、変態野郎が!!」
 よもやあんな言葉遣いの宦官がこの世に居るとは。幼い頃からいずれ皇族に仕える者としての教育を施される宦官は皆しずしずとしていて声を荒げるような事はほとんどない。それが汚い罵声に加えてなんと張りのある怒鳴り声だろうか。それこそ市井を守る自警団の勇ましい若者ならいざ知らず。
 ──ん? 自警団?
 まさか、と思いながらも恐る恐る扉を開けた先に待っていた光景は、一人の宦官が同じく一人の宦官に馬乗りになってその頬を思い切り殴りつける瞬間だった。
「ま、ま、待て……待てと、い、言っている! その手を放せー!!」
 懸命の思いで叫ぶ亥壬の心臓は、このまま口から飛び出していくのではないかというほど疾走していた。
 まるで暴漢のようだったその宦官が半身を捻り亥壬を振り返ると、亥壬の体はびくりと震える。
「あんたは、いや、こいつは失礼致しました。お顔は存じませんが、よっぽどのお偉方とお見受けします」
 意外な事に怒りを一瞬で引っ込めた宦官は仰向けに転がったままびくともしない宦官の体から降りて立ち上がると、やや粗野な印象を受ける口調と共に、やはり雑な所作で礼をする。
「わ、私は、第四皇弟の亥壬だ。梅という名の宦官を探して来たのだが、誰か知らぬか?」
 今日はきっと厄日だったのだ。城は攻められ叔父を亡くし、変態と他人を罵りながら暴力を振るう男と遭遇するなんて、そうでも思わなくてはやっていられない。
 いっそ自分が殴られたかのように顔を青くさせる亥壬に、宦官はきょとんとした顔を向けた。
「それなら、俺がそうですよ。梅は俺の宦官名です」
 今日はやっぱり厄日だ。




 兄弟の中でまだ子供の小杰を除いて最も小柄なのが亥壬だ。宦官たちと並んでもさほど体格差はなく、剣の重さに耐え切れず腕の骨を折った事がある。骨折の痛みは今でも忘れられないくらい亥壬の心に傷を負わせた。以来、剣も槍も弓も、武器を手にするのはすっかり怖くなってやめてしまった。緑歳が軽々と偃月刀を振り回す姿をいつも恐々と眺めていた。
 だから、どうにもこう、武人然とした相手はあまり得意ではない。武人は皆、すぐに自分の腕を競いたがる荒くれものばかりだ。もう少し教養というものを身に付けてほしいと常々思う。こんな事態になってさえいなければ、亥壬は総指揮の役目など断ったに違いなかった。
「何だか、俺がちょっと城を離れてる間にえらい事になってたんですね」
 梅という宦官はまさに腕っぷしの男という雰囲気で、頭一つ分以上高いところにある顔を見上げるだけでもうんざりとしてくる。
「で、後宮に行って陛下を探してくればいいんですね?」
「あ、ああ。戊陽兄上を見つけてきてほしいのだ」
「もちろんです。けど、何で賊が居るかも知れねぇって所に陛下一人で行かせちまったんです?」
「そ、それは……」
 元を正せばこれは亥壬の失態だ。戊陽がどれだけ嫌がろうと、それこそ適当な宦官でも見繕って連れて行かせれば良かったのだ。複数つけさせれば全員が間諜という事もあるまい。
 頭ではそう思っても、いざあの時に戻されたところで亥壬は結局戊陽を一人で行かせてしまうのだろう。戊陽はこうと言ったら聞かないところのある人で、そんな兄を敬愛する亥壬は戊陽には弱かった。
「まぁ頑固な人ですからね。どうせ自分から行くって我儘言ったんでしょ」
 俄に驚いて、気付かれないよう目だけで梅を見上げる。
 どんなに権威が落ちようとも仮にも国の頂点に座る皇帝に対して、この男はさながら近所の馴染みのような口を聞くらしい。これも戊陽の人柄の成せる技という事なのだろうか。梅の口振りは、まるで友人のそれだ。
「じゃあこっちの永参ヨンツァンって宦官の事、よろしくお願いしますよ。こいつは大悪党ですからね。国を裏切って、子供に手を出した。許されちゃいけねぇ」
「心得た。宦官の事は私に任せなさい」
 梅はぞんざいな拱手をすると、後宮に向かって走って行った。
 李将軍は彼なら信頼出来ると言ったが、果たして亥壬にはただの無作法な男にしか見えなかった。
「さて──」
 床に転がされたまま縄で腕を括られた宦官を見下ろす。顔は知らないが、名前だけなら辛うじて記憶の片隅に残っていた古参の宦官だ。
 悪名高い永参はよくよく噂が後宮にも聞こえてきていた。ひょっとすると三妃である亥壬の母、徳妃とくひが大の噂好きであったため、殊に醜聞を含めたあらゆる噂が集まっていただけかも知れない。
 永参は一に整った顔を好み、二に賢さを好んだ。両方を兼ね備えた子は特に浄身する直前まで自分の部屋で囲って手放さないそうだ。
 彼の歪んだ性愛だけでも十分に処罰の対象なのだが、それに加えて国家反逆の罪があるとなると、彼はまず命を許されないだろう。絶対に彼を逃してしまう訳にはいかない。
 本来なら罪人は刑部けいぶに引き渡すのだが、恐らく今はまともに機能していない。
「この宦官を軍の兵舎まで運びたい。誰か手を貸してくれ」
 亥壬が皇弟である事は皆把握したようで、すぐに二人の宦官が出てきて永参の体を持ち上げた。
 特定の妃や皇子に仕えず宿舎暮らしのまま、少年たちを長年手篭めにしてきた永参の背後にはそれなりの地位の官吏がついているのだろう。更にその身軽さを利用して、外──恐らく東江の手の者──へ情報を伝えていた。永参の役割は恐らく連絡の中継だ。似たような事を任された者は宦官に限らずもっとたくさん居るのだろう。
 永参をきっかけに芋づる式に間諜は見つかるだろうが、今一歩遅かったという無念は残る。ただの変態だと思って特に注目されなかった永参を引き込んだ敵の見る目があったという事だ。一体誰ならこんな身の毛もよだつような性癖の宦官を連絡係に使おうなどと考えるだろうか。噂に聞く桂昭グイジャオという官吏だろうか。何はともあれ一人、悪人を捕らえる事が出来たという事で留飲を下げるしかないだろう。
 宦官たちと共に兵舎へ戻る道中だった。ふと気付くと辺りが真っ暗になっている。まるで夜だ。
 理由はすぐに分かった。
 一度上がっていた大粒の雨がぼつぼつと地面を穿つほどの音を立てて一斉に降り出した。身に着けた衣はあっという間に水を吸って重くなり、走って兵舎に戻ったところでもはや手遅れだった。
 豪雨は一晩降り続き、奇しくも禁軍の兵士たちを含む亥壬や緑歳は一晩の休息を得る事になるのだった。




 朝になると雨は再び止んでいたが、空は変わらず曇天が覆い尽くしている。空はどこまでも真っ暗で、とても夜明けの時刻とは思えないほど。湿気を含んだどんよりと重たい空気は見えない何かに手足を掴まれているようだ。
 兵舎に鍵のかかる部屋はないので永参を捕まえた部屋は兵士に見張らせた。李将軍は早朝一番に西門へ戻り、緑歳は南門へ向かった。
 再び一人きりの司令室。
 戊陽は結局、朝になっても戻ってはこなかった。
 そして──。

 紫沈に鳴り止まない鐘が響き始める。
 銅鑼や大きな鐘とは違う、軽くてけたたましい音を繰り返し鳴らす小型の釣り鐘の音。
 もう聞きたくないと耳を塞ぎたくなる音は、伝令兵を連れてくる。

「伝令ー! 南門の方角より白旗に虎を確認! その数五千!」

「伝令!! 黒旗に亀蛇きだが現れました! 北方より三千で一時辰以内に紫沈へ到達予想!」

「伝令ー! 敵兵約一万を捕捉! 旗は見えません!」

「伝令ー!」

 最初に汪軍が現れた日から数えておよそ十日、紫沈は東沈、雲朱、北玄海の軍に三方を囲まれる。
 残った東には山芒の代わりにどこの所属かも分からない謎の軍団が陣取って、不気味に睥睨した。
 総勢五万。禁軍の三倍以上の兵によって包囲された紫沈が陥落するのは、もはや時間の問題だった。
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