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完結編
38二年越しの告白
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時は現在の紫沈へと戻ってくる。戊陽は曇天の空を見上げて、まるでこの国の先行きのように感じていた。
昼も夜も分からなくなるほどの大雨は、汪軍と禁軍双方の攻撃をいっとき止めさせていた。
息遣いも足音も全て雨音が消し去る豪雨の中、戊陽は禁軍の兵舎へと足を向ける。
「戊陽兄上!!」
「兄上!? ご無沙汰しております兄上!」
わっ、と二人の弟に駆け寄られて沈んでいた気持ちが僅かに持ち上がるのを感じた。
先に戊陽に気付いたのが第四皇弟の亥壬で、その亥壬を追い越して寄ってきたのが第三皇弟の緑歳だ。追い越されたせいで亥壬がムッと鼻の頭に皺を寄せる仕草を見て相も変わらない弟たちに自然と頬が緩んだ。しかしすぐに表情を引き締め緩んだ気持ちを切り替える。
「二人ともよくぞ城を守ってくれた」
「はい! 頑張りましたよ!」
「僕たちだけでは到底及ばぬ事でした。星昴叔父上がおられたおかげです」
亥壬が悲痛な面持ちで星昴の名を出すと、兵舎が途端に静まり返る。
鎧が擦れ合う音さえ立たないほどの静寂の中、背が低くとても武人とは思えない初老の男がすすと前に出て戊陽の前で頭を垂れた。
「あの、陛下。初めて直接お会い致します、薛石炎に御座います」
「そうか、お前が……。叔父上から話は聞いている」
薛石炎の毅然とした姿を見た時、まるで頬を張られたかのように目が覚める。
この男は長年星昴の下で働いてきた官吏で、ともすれば後年の星昴とは戊陽たち兄弟以上に時を共有した同士だったのではないだろうか。そんな彼を前にして必要以上に悲しむ素振りを見せるのは情けないような気がした。
「星昴叔父上は、つい先刻身罷られた。あの方が、最期は満足気に笑っておられたのだ。皆、悲しむよりも叔父上の勲功を称えてくれ」
禁軍の兵士たちが一斉に抱拳礼をする。それでも数は全部で十に届くかというくらい少ない。兵士たちのほとんどは紫沈を守るために要所に詰めているのだ。
薛石炎の表情は分からなかった。他の兵士たちが礼を解いても顔を上げる様子がなかったので、彼の事はしばらくそっとしておくのが良いだろう。
戊陽は卓に乗った地図に視線を下ろす。象棋の駒が乗せられているがどうやら駒を敵味方の各軍に見立てて軍会議をしていたらしい。
「状況の説明を」
「では僕が」
地図が乗った卓を挟んで正面に立ったのは第四皇弟の亥壬だ。その隣には緑歳が胸の前で腕を組み、戊陽と同じように地図を見下ろしている。
二人の事をよく知らない人間は腹違いとは言え兄弟だと見抜く者は少ないだろう。外向的でひとつもじっとしていられない緑歳と、内向的で三度の飯より書を読むのが好きな亥壬とでは真逆に見える。だが実際には兄弟五人の中で一番似ているのがこの二人だと戊陽は思う。
この二人が協力して軍を動かしていたのだから、数的にも地理的にも有利な戦いで戦況が悪くなるはずがなかった。
「前線は西の楼門から西進し、既に西の貴族街の中心地に至っています。恐らく降伏するまでもう間もなくかと」
「使者を出せ。あちらは大将である汪の当主を失ったのだろう?」
汪の当主、汪宵白とは星昴が差し違えた。星昴とは違い御年七十を越える老体は、交渉の場から互いに引き上げる時点で既に息が無かったという。死が確実になったわけではないが目に見えて汪軍の勢いが弱まり、西の貴族の屋敷は既にもぬけの殻になっている所も少なくなかった。貴族たちはもはや勝機が無いと見切りをつけたのだ。
汪宵白は戊陽の祖父にあたり、賢妃の父だ。星昴の事で動揺していた母には、汪宵白の事は誰も伝えていないようだった。状況が落ち着いたら、賢妃にもこの事は話さなくてはならない。
星昴は確かに笑って死んでいった。満足気に見えた叔父の一方で戊陽は彼のある一言が心に引っ掛かっていた。
『おまえの、兄の仇は……討った、ぞ』
あれは一体どういう意味だったのだろう。星昴の仇なら既にこの世を去った林隆宸だったはずだ。
つい会話から気が逸れてしまっていた戊陽の意識を亥壬の声が呼び戻す。
「それが……既に降伏するよう敵軍には伝えているのです」
汪軍に使者を出しても応じないという。
「まさか全滅するまでやめないつもりか?」
そんな事をしても両軍共に損害が増えるだけだ。
「敵方も諦めきれないんじゃないですか? 目と鼻の先に宿敵が居るんだから」
「宿敵? それは誰の事だ。私ではないのか?」
戊陽は山芒から大雨の中を戻ってきたばかりだ。敵がどこまで戊陽の情報を掴んでいたのかは分からないが、少なくとも山芒に向けて禁軍と共に城を出た隙を狙って侵攻してきたと思っていたのだが。それはどうも違うらしいと亥壬が「いいえまさか!」と語気を強める。
「戊陽兄上の事は寧ろ味方に引き入れたかったはずです。ですが……妙ですね。この事は戊陽兄上には伝わっているものと考えていました」
「この事とは、つまり汪軍の侵攻を私が知っていたと?」
「え、ええ。いえ、戊陽兄上の事を疑っている訳ではありませんよ。ご存じだったからこそ、汪軍を止めるべくいち早く紫沈へ戻ってくる事が叶ったのだと考えておりました」
「いや……私は、山芒に伝令が来て知ったのだ」
「お戻りになるのにかかった日数を考えれば、伝令におかしな所はありませんね……とすると……」
幾分か気を持ち直したらしい薛石炎も脇に控えて会話を聞いていたが、誰からもこれといった意見は出てこない。雨の音だけが兵舎の中に響く。
「兄上、俺が聞いて参りましょうか? 今ならちょっと脅せば敵も話すかも知れない」
「馬鹿を言わないでください緑歳兄上。あなたは交渉の場に出ていった事で敵からも警戒されて──そうか。交渉は、上手くいっていたんだ」
亥壬はぼそぼそ呟いて一人で納得してしまうので、思わず戊陽と緑歳は顔を見合わせる。
「亥壬、教えてくれ」
亥壬は頷きながら卓の上で組んだ指を擦っている。考える時に無意識にする亥壬の癖だ。
「まず汪軍の宿敵は小杰です。理由はお分かりですね?」
「……なるほど、分家にとっての危険因子を消しに来たのか」
こく、と亥壬が首肯する。
「その上で、叔父上は汪家、というより恐らく汪宵白は別の目的も持っていたと予想されていました。汪宵白は『力』を求めていたと。宗家と分家の立場を覆すだけの大きな力です」
「それが何なのかは仰っていたか?」
今度は首を左右に振られる。
「はったりでした。だから交渉の席に汪宵白が現れたのが意外だったのですが、瓢箪から駒が出たといいますか、はったりが真になってしまったのです」
亥壬の話を聞きながら戊陽は思う。星昴は確信はなくとも汪宵白の目論見に気付いていたのではないだろうか。
叔父は所謂才児や神童と呼ばれるような幼少を過ごした人で、星昴の知恵や閃きは大人でも舌を巻くほどであり、それは成長するにつれて知識という確かな地盤を築く事でより確固たるものへと成長した。賢い人であったから、きっと戊陽には見えないものが見えていた事だろう。
「汪軍は『力』を待っているのではないでしょうか」
「いや待て亥壬。その力って、一体何だ?」
緑歳の尤もな疑問に亥壬はあっさりと「分かりません」と答える。
「何かは分かりませんが、誰かが汪家に齎す物だと予測出来ます。だから、『力』を渡すという交渉に乗せられた。そして今も誰かが『力』を運んでくる事を今か今かと待ちわびているのです」
誰か──。一体誰ならその力とやらを汪軍に届ける事が出来るというのか。まさか小杰を亡き者にしてしまう事を力と捉えている訳でもあるまい。
その時ぼそりと呟いたのは薛石炎だった。小さく、だが確かに「間者」とこぼしたのを戊陽も亥壬も聞き取っていた。
「まさか……賊が城に入り込んでいると? いや、もっと以前から?」
動揺する亥壬に対し、それ以上に薛石炎が狼狽えて言う。
「あ、あの、私はその、思い付きで言ってしまっただけですので、どうかそう深刻にお考えにならないで下さい……!」
「戊陽兄上」
あなたの考えを聞かせて下さいと二対の視線が問う。
戊陽は口元を片手で覆い、星昴との会話を思い出していた。
今より少し前、持病の頭痛が治まらないので皇族を祭る廟へと足を運んだ時、星昴と出くわした事があった。あの時彼は東江へ遣いに出したのが玲馨だった事を意外に思っている様子だった。
──やはり、そうなのか。四郎。
山芒へと向けて発つ前に四郎は自ら今回の同道を控えたいと許しを願い出た。物心がつく前も含めて二十年以上、共に過ごしてきた四郎から初めて願いらしい言葉を聞いて断るという選択は浮かばなかった。
せめて理由を問うべきだった。だが、問うた所で本当に四郎が間者だったのなら、本当の事は話さなかっただろう。
「何か、心当たりがあるのですね、戊陽兄上」
戊陽の表情の変化を感じ取り、亥壬が詰め寄る。
「誰なのです。兄上のよく知る人物ですか?」
現状、四郎を間者とするには証拠も何も足りない。頼れるのは戊陽の勘だけだ。
「私に仕えている宦官だ。だが亥壬、考えてみてくれ。仮にその宦官が間者だったのなら、何故今になっても汪軍は引き上げていかない? 最早大将を失い残った手勢だけで城を落とすのは不可能だ。ならば力を手に入れ即時撤退するのが定石ではないか?」
「それは……」
「だったら、その力というのがまだ汪に渡っていないのでしょう」
緑歳の率直な言葉に戊陽が頷き、亥壬は同意する代わりに指を擦らせ視線を下げる。
「……ともあれ、その宦官は捕らえなくてはなりません」
「そうだな。ではこのまま前線の指揮を李将軍に任せ、後方で軍全体を動かす総指揮を亥壬、お前に任せる事にする」
「そんな、戊陽兄上はどうなさるのですか!?」
「私が間者を捕らえる」
場所の当てはある。そこは男子禁制の皇族の居所で、戊陽たち兄弟皆が十五年の間そこで暮らした古巣だ。成人した今となってはあの場所に入る権利があるのはこの場において戊陽のみである。
「お待ちください、兄上!!」
亥壬が叫ぶと同時に一つの足音がついてくる。緑歳だ。
「二人とも、紫沈を今ひととき頼む。私は必ずここに戻って来よう。その時になっても汪が降伏しないというのなら、禁軍の総力をもって汪軍を殲滅する」
小さく返事のような声が聞こえ、戊陽は振り返らず兵舎を後にする。
兵舎を出ると僅かに雨脚が弱まっていた。
「陛下、後宮に行かれるのでしょう?」
「薛石炎か」
どこか鈍臭いと感じさせるのっそりとした足音がしたと思うと、薛石炎が軽く肩を上下させながら拱手の姿勢で背後に立っていた。
「途中までお供させて下さい」
「何か伝え忘れた事が?」
「はい、星昴様のご遺志に御座います」
「叔父上の……。分かった、許そう」
「ありがとうございます」
小柄で小太りのいかにも文官といった体つきはこれと言って目立つ特徴はない。似たような外見をした官吏など外廷には五万といる。星昴が推薦しなければ戊陽と薛石炎の道が交わる事など生涯無かっただろう。
「星昴様はあわいを消す方法を考えておられました。そのためにも陛下のお考えを実現させる必要があると仰っておられました」
「あわいを消すとは?」
「言葉通りで御座います。桃の木を使うのだとか」
兵舎から後宮へ向かうにはいくつか道があるが、外廷を抜けていく道は避けたかった。もはやあそこに使える官吏など残ってはいないだろう。
外廷を迂回するとなると西沈から東沈へ進み、途中宦官の宿舎の前を抜けなくてはならなかった。そこには賢妃が入宮する際植えた桃の木が余ってしまったからという理由で、宿舎の前に一本だけひっそりと葉を茂らせている。
戊陽はつい玲馨の事を思い出していた。玲馨はこの一本だけの桃の木の事があまり好きではなかったようで、時折睨むようにして桃を見上げていた。
薛石炎は具体的に桃の木をどう使ってあわいを消すのかを戊陽に説明した。川を使ってあわいに植えた木を枯らさないようにするのだという。確かに画期的な発想に思えた。
「叔父上がそんな事をお考えだったとは。確かに、試してみる価値のある方法だ」
「問題は桃に限らず肥沃な土地で育った破魔の力を宿す樹木というものを、どこから集めてくるかで御座いますが……。陛下、どうぞ、ご無事でお戻りください。あなた様なくして、この計画は成し得ません」
後宮へと続く門と門衛が見えてきたところで薛石炎は足を止め、手を組み頭を下げる。そうしているともともと小柄な体が輪をかけて小さく見えた。だがその丸々として穏やかそうな人柄に、星昴は心を開いていたのではないかと思えた。
「薛石炎、どうか叔父上の考えを草案として纏めておいてほしい。戦いの事は私の弟たちが何とかしてくれる。不安なら安全な土地に逃げるのも良いが、この雨に外はあわいの事もある。結局は城の中が安全だろうな」
薛石炎はつまり何が言いたいのかという顔をする。歳の割には腹芸が出来ない素直な人だ。そういうところも星昴は気に入っていたのだろう。
「どうにか生き延びてくれ。お前は私が居なくてはと言うが、叔父上の遺志を継ぐべきは薛石炎の方だ」
「陛下、あなた様は……。一言だけ無礼を承知で言わせて頂きます。星昴様にしてもあなた様にしても、あまり年寄りを当てにしすぎるのは良う御座いません。明日死ぬかも分からぬ身に先の事など託してはならぬのです」
ふ、と思わず微笑が漏れる。薛石炎はいつ退職してもおかしくないという歳になっても閑職の、それも次官の座に収まって満足していたような男だ。野心や出世欲も無ければ、きっと能力的にも今の地位が彼に見合っていたのだろう。しかしその一方で、心の機微を図るのは誰より上手いときた。出会ってほんの僅かな戊陽の心も正確に読むのだから、彼を部下につけておくのはさぞ居心地が良かった事だろう。
自然と、玲馨の事を思い描く。戊陽にとっては彼が何よりの理解者で傍に居てほしい存在だ。
今にして梅と共に西へやったのは早計だったと後悔する。もはや状況を探るために出せる遣いは居らず、玲馨が無事でいるかを確かめる術がなくなってしまった。
「陛下それから最後に一つだけよろしいでしょうか。星昴様からあなた様にお伝えするよう言付かっていたことがあります」
薛石炎から聞かされた星昴の言葉は戊陽が想定出来るような内容ではなかった。兄、黄昌の仇についてだ。
星昴は薛石炎にこのように伝言するよう頼んでいた。「汪宵白と林隆宸は血縁関係にある」と。
その一言はつまり黄昌暗殺の咎が汪宵白にもあったのだと示唆していた。これ以上の詳しい事は星昴も汪宵白も世を去ってしまったので確かめる事は出来なくなってしまった。星昴がこの真実に辿りついた背景を知る事も叶わない。だが汪宵白が黄昌の命を狙ったとしても何も不思議はないだろう。実の娘から生まれた孫である戊陽を玉座に座らせて最も恩恵を得られるのは汪宵白だからだ。此度の反乱も、いよいよ汪家によって天下を手中に収めんとして起こしたはずだ。
とにもかくにも汪宵白の求めた「力」とやらを知る必要がある。そしてそれを知る人物はまさにこの先に続く後宮の中に居るはずだ。戊陽の予想が正しければ四郎は「力」とやらをその手に携えて、この後宮に潜伏している。そして恐らく「力」を持った四郎を東妃が匿っているだろう。
この先は敵地と考えるべきだ。そんな所に単身乗り込むようでは薛石炎に説教されても文句は言えない。だが決してここへ死にに来たつもりはなかった。
思えば宦官の宿舎側にある門から後宮へ入るのは数年ぶりの事だ。戊陽がまだ賢妃宮で暮らし玲馨が宿舎に居た頃は、よくここを抜けては玲馨に会いに行った。宿舎前の桃の木の事もその頃に知ったのだと記憶している。それからあの桃の木だけ実が生らないのだとも。
桃が生らなくて悲しいのだろうと思った戊陽は玲馨が賢妃宮に仕えるようになってからというもの、母の育てた桃を玲馨に食えとたくさん振る舞った。結局それは戊陽の勘違いだったのだろうが、美味しいと言って笑う玲馨を見るのがとても好きだった。とても、幸せなひとときだった。あの頃に戻りたい──それは思っても詮無い事だ。
賢妃宮と比べて豪奢な外観と彩鮮やかな花々が戊陽を出迎える。幼心に東妃は派手好みなのだと思いながら小杰が生まれてからは東妃宮へも通っていた。
「誰ぞある。戊陽が参った。東妃は居られるか?」
真っ赤な扉に向かって声を掛けるとすぐにパタパタという軽い足音が中から聞こえてくる。宮女の足音にしては忙しなく、年若い宦官だろうかと思っているうちに扉が内側から開けられた。
「兄上!!」
「小杰か!?」
飛び付かんばかりの勢いで戊陽を目掛けて走ってきた小杰を受け止めて思わず傘を取り落とす。
「お久しぶりです兄上! 小杰は兄上にお会いしとう御座いました……!」
「ああ、そうだな。もう二年経つか。大きくなったな小杰」
「はい!」
後宮を出てからめっきり顔を合わせる機会が減っていた。それでも祭祀などでは挨拶を交わしていたが、戊陽が即位してからの二年は皇帝となる戊陽が喪に服さない代わりに、他の皇族は努めて慎ましく生活するよう触れを出さなくてはならなかった。服喪を軽んじる訳にはいかないという尤もな意見を無視するのは余計な反感を招くというので、この二年は祝祭などを控えており互いに顔を合わせる機を逸したままだった。
末弟の小杰は随分わがままに育っていると玲馨から聞いていた。しかしそれもこの子の境遇を思えばある程度は仕方ないと許してしまいたくもなるだろう。
小杰は六つの時に父を亡くし以降は皇弟となるのだが、彼のまさに半生は殆どが故人の喪に服す日々だったはずだ。本来ならもっと外に出てよく遊びよく学ぶはずの歳の頃、小杰は後宮の中で出来る事だけをして静かに暮らさなくてはならなかった。
戊陽の六つから十二の頃と言えば剣に弓に乗馬、それから狩りに連れて行ってもらう事もあり、皇子として兄弟ともにたくさんの事を外で学んだ。自分の奔放ぶりを思い返せば、小杰の窮屈な暮らしは気の毒で仕方がない。
「小杰、お母上の元へ案内してくれ」
「はい兄上! 小杰が案内致します!」
まあるい頬をふくふくさせて笑う小杰はとても愛らしく、人懐っこい様は何かの小さな動物のようだ。
小杰に手を引かれながら久しぶりに訪れた東妃宮は何か強い匂いの香が焚かれており、室内中に香の匂いが充満していた。それはこの東妃宮に限らず他の殿舎でもたびたび嗅ぐ事のあった、とある目的のために使われるお香だ。
「まぁ陛下、お久しぶりで御座います。こんな時ですから何も用意がありませんの」
「良いのです。外の状況は東妃様もご存知でしょう?」
「ええもちろん。陛下はどうして私たちを安全な所へ逃して下さらないのかとやきもきしていましたわ」
「逃げる? 一体どこへ? ご実家に帰られたいと仰るのですか? どうやって?」
右手をきゅっと小さな手で握られる感覚に我に返る。小杰が不安そうに戊陽を見上げていた。
賢妃と険悪だった事に加えて玲馨まで奪われたような気になってしまい、つい責めるような口調になっていた。母同士の事はまだしも玲馨については自分が許可したのだからお門違いだ。
「東妃様、外の敵については一両日中に方が付くでしょう。それより今日は人を探して参ったのです」
す、と真っ青な瞳が眇められると、雨で湿気った空気ごと凍てつくかと思うほどに温度が下がる。透き通るような金の髪と真っ白な肌は美しかったが、美しいが故に作り物めいて時にゾッとするほど恐ろしく見えるのが、この東妃という人だった。
こうして相対して話すのは小杰同様に久しぶりの事なので、彼女の酷薄なまでの美貌をすっかり忘れていた。
「誰を探すというのです。ここには私と小杰と、昔からの宮女と宦官しかおりません」
「その口振りではまるで誰かを匿っておられるかのように聞こえますよ」
「まぁ、何て物言いでしょう。ここに罪人が逃げ込んでいると陛下は仰られるの?」
「罪人かどうかはその者に話を訊ねてみねば分からぬ事。──時に、東妃様」
小杰の手を強く握り返すと、会話の内容が分かっていない小杰の頬が嬉しげに上がった。しかし状況はそれを歓迎しないと分かっているのか必死に表に出さないよう我慢している。
「女性に対して失礼とは承知でお訊ねします。この香り、月のものの時に匂いを誤魔化すために使われるものでは?」
誰かの息を呑む音が聞こえた。きっと宮女だろう。宦官は気まずそうに視線を下げて、眼前の美貌は色をなす。
独特の強い匂いを放つこの香りが気になって、一体何のためのお香かと訊ねて教えてくれたのは四郎だったような気がする。何とも皮肉だ。
「ああ……何てことを仰るのです、陛下。陛下がそのように作法を無視なさるようでは賢妃様もお嘆きになられましょう」
「今は火急の時にあるのです。どうかそのお言葉で煙に巻こうなどとなさるな」
よよよ、とわざとらしく袖で口元を覆い悲しんでみせるが、そうした振る舞いをすればするほど東妃は疑わしくなっていく。何もないというならもっと堂々と率直に受け答えをするものだろう。
「確かにあなたは皇帝陛下にあらせられますわ。けれどここは今もまだ黄雷様の後宮。いくら今上帝であっても亡き帝の妃の宮で好き勝手にしようなどと許されない事で御座います」
「仰る通りです。聞きたい事が聞けたら私は即座にこの場を去りましょう」
雲が月を陰らすように、東妃の碧眼が眇められる。
母が東妃からさんざ言い負かされてきたのをその目で見てきた。東妃を相手に口論を続けるのは得策ではない。
ここは敵地。宮女も宦官も彼女の味方をする。つまり今が潮時だ。
「四郎を出して下さい」
東妃は一切反応を示さなかったが、脇に控えていた宮女が戊陽から目を逸らしたのを見逃さなかった。尚も東妃は戊陽に応じるつもりはなかったようだが、当の本人は思った以上にあっさりとその正体を現した。
「──限界のようですね」
あまりにも聞き馴染みのある声に、戊陽は思わず顔を顰める。ああ、という嘆息が心の中で漏れては消えていく。
「……四郎」
苦い顔のまま低く呟く戊陽に対し、四郎は常のまま変わらない。
東妃はこれ以上関わるつもりは無いらしく、小杰を手招きし奥の椅子へと腰掛ける。小杰も最後には母を選び戊陽の手から離れていった。
「単刀直入に聞こう。お前は汪家を裏切ったのか?」
「……そこまで気付いておられたのですね」
戊陽の質問に四郎が即答で答えなかったのはこれが初めての事だった。
四郎は今、皇帝付きの宦官ではない私として話している。その事に場違いだと思いながらも興奮する気持ちを止められない。
「宗家の力を侮ったが故に、汪家はこの後必ずや滅びます」
「だから裏切ったのか? 生き延びるために?」
だとしたら責める事は出来ないし、そも戊陽が責めるべきは長らく汪家の間諜として動いていた事に対してだ。
だが今はそれ以上に、四郎の思惑を知りたかった。
「いいえ。私は死を恐れません。〈羊〉になる者は皆そういう風に教育されます」
その〈羊〉というのが汪家が間諜として使う集団の名なのだろう。わざわざ名があるという事は、宮廷に紛れた間諜は四郎一人ではない可能性が高い。
そこで閃くようにして桂昭の顔が戊陽の脳裏を過る。楊も羊も発音は全く同じだ。楊、つまり柳が〈羊〉の隠語として使われ、互いが東江の間者かどうかを探るための符牒だったのだ。桂昭が卓浩元刺史に柳の話題を振ったという事は、四郎一人どころか〈羊〉とは紫沈だけに留まらず各地方全てに放たれているのだろう。
四郎が賢妃宮付きの宦官になったのは戊陽が生まれるよりも前の話だ。二十年以上も昔から〈羊〉は組織され沈という国を裏から操ろうとしていたのだ。そんなものを相手に戦わなくてはならなかったなど途方もない話だった。
「……四郎、お前は何を望んでるんだ?」
「私は、この目で国の未来を見たい。ただそれだけです。そのために最善は何かを考えた時、汪家と縁を切る事でした」
未来──。
汪には見出せなかったものを、この東妃宮には見出したという事か。
小杰は母の隣で椅子には座らず立ったままだった。その目は戊陽と四郎に向いており会話に耳を傾けているようだが、どこまで内容を理解しているのかは定かではない。
──四郎はあの子に、沈を導いてほしいと考えたのか?
戊陽にとって四郎は家族ではなかった。常に従者の一人だった。それでも幼少のみぎりより常に傍に侍り、戊陽の支えとなったのには違いない。
そんな四郎が、戊陽に見切りをつけた。いや、端から彼は戊陽の従者などではなかったのだ。
覚悟はしていたつもりだったが、足元から揺らぐ感覚に小さく蟀谷の辺りに痛みが走る。
「何故、いま……っ」
「頭が痛むのですか? もしかすると陛下はご自身でも知らないうちに、私の正体を感じ取っておられたのかも知れません」
「何だ、どういう意味だ?」
「黄昌前陛下に毒を盛った兵士は、私の双子の兄です」
「なん……っ」
一際強く頭が痛み、戊陽は呻いて頭を抱え込む。小杰が小さく悲鳴を上げて駆け寄ろうとしたが東妃がそれを止めた。
「陛下はお気付きになっておられませんでしたが、その頭痛は私と話をした時ほど強く起こっていたはずです」
「四郎と? まさか、お前とは毎日のように、言葉を交わしていたのに、それはおかしいだろう」
「きっと、お体やお心の調子が優れない時に私の顔を見る事で、黄昌様の事を思い出しておられたのです」
つまり四郎の顔から下手人の顔を無意識のうちに連想し、兄を思い出しては頭痛が起きていたと四郎は言っている。
記憶の中の兄の最期は、一面に染まった血の赤だ。すっかり固く冷たくなった黄昌と、その傍に横たわった兵士の亡骸。兵士は黄昌に飲ませたものと同じ毒を煽ったようで口から激しく血を吐いて死んでいた。更に意識のあった間に争ったようで、剣の刺し傷からも血が溢れて床を汚していた。
それ以外に覚えていた事は無きに等しい。ましてや犯人の顔など、若い青年だったという事しか覚えていない。
「死んだ林元尚書令は、汪家当主の従兄弟です。彼の人は婚外子でしたから、汪家との直接の繋がりを見つけるのはきっと難しかったでしょう」
つらつらと書を読み上げるのと変わらない声色で、四郎は信じ難い事を次から次へと明かしていく。最早、許容の限界を越えており、ただ、信じたくないとそればかりが戊陽の胸を占める。
「黄昌様を弑した下手人は私の兄。指示を出したのは兄と私の祖父である汪宵白。林元尚書令はこれらの関連と計画が表沙汰にならないよう必要な手段を用いて抹消しました。星昴様は私の事を探っているようでしたので、これらの事に気付いておられたかも知れません」
これが、黄昌様の死に纏わる全てです──。
四郎の告白は終わったのだろう。嘗てないほどに多くの事を語った口は、再びいつものように固く重く閉ざされる。
気が遠くなっていくのを堪えるので精一杯だった。どうにか膝をつかずに深く呼吸を繰り返し、やっとの思いで顔を上げる。
「何故……何故、今になって話した」
知らないままで居たかったのか、もう分からなくなってしまった。考えるよりも先に四郎が何もかもを明かしてしまった。
「星昴様が亡くなられたと聞きました。あの方は可愛がられていた甥の仇を討ったのです」
汪宵白。汪の当主が〈羊〉を組織し、自らの孫さえも間諜として育てた冷酷な男。彼が黄昌を殺せと命じたのだとしたら、確かに汪宵白は黄昌の仇だった。それと同時に──。
「お前もあの日、兄を失っていたのだな」
汪宵白は四郎の兄の仇であったのかもしれない。
二年前のあの日の四郎の事など記憶の彼方だ。だが取り乱したりという事はなかったはずだ。もし四郎が感情的になるような事があったなら、決して忘れなかっただろう。
「……戊陽陛下」
四郎の声は気のせいか、どこか弱々しく感じた。その目には哀愁のようなものが浮かんではすぐに消えていく。
「陛下には、事が終わるまで今しばらく休んで頂きます」
何と問う暇はなかった。
部屋の端に控えていた宦官がいつの間にか背後を取っており、容易く戊陽の体を拘束する。それから強く後頭部を殴られて、あっさりと意識を手放した。
消えていく五感の中で最後に残った聴覚は、鐘のような音を聞いていた。
昼も夜も分からなくなるほどの大雨は、汪軍と禁軍双方の攻撃をいっとき止めさせていた。
息遣いも足音も全て雨音が消し去る豪雨の中、戊陽は禁軍の兵舎へと足を向ける。
「戊陽兄上!!」
「兄上!? ご無沙汰しております兄上!」
わっ、と二人の弟に駆け寄られて沈んでいた気持ちが僅かに持ち上がるのを感じた。
先に戊陽に気付いたのが第四皇弟の亥壬で、その亥壬を追い越して寄ってきたのが第三皇弟の緑歳だ。追い越されたせいで亥壬がムッと鼻の頭に皺を寄せる仕草を見て相も変わらない弟たちに自然と頬が緩んだ。しかしすぐに表情を引き締め緩んだ気持ちを切り替える。
「二人ともよくぞ城を守ってくれた」
「はい! 頑張りましたよ!」
「僕たちだけでは到底及ばぬ事でした。星昴叔父上がおられたおかげです」
亥壬が悲痛な面持ちで星昴の名を出すと、兵舎が途端に静まり返る。
鎧が擦れ合う音さえ立たないほどの静寂の中、背が低くとても武人とは思えない初老の男がすすと前に出て戊陽の前で頭を垂れた。
「あの、陛下。初めて直接お会い致します、薛石炎に御座います」
「そうか、お前が……。叔父上から話は聞いている」
薛石炎の毅然とした姿を見た時、まるで頬を張られたかのように目が覚める。
この男は長年星昴の下で働いてきた官吏で、ともすれば後年の星昴とは戊陽たち兄弟以上に時を共有した同士だったのではないだろうか。そんな彼を前にして必要以上に悲しむ素振りを見せるのは情けないような気がした。
「星昴叔父上は、つい先刻身罷られた。あの方が、最期は満足気に笑っておられたのだ。皆、悲しむよりも叔父上の勲功を称えてくれ」
禁軍の兵士たちが一斉に抱拳礼をする。それでも数は全部で十に届くかというくらい少ない。兵士たちのほとんどは紫沈を守るために要所に詰めているのだ。
薛石炎の表情は分からなかった。他の兵士たちが礼を解いても顔を上げる様子がなかったので、彼の事はしばらくそっとしておくのが良いだろう。
戊陽は卓に乗った地図に視線を下ろす。象棋の駒が乗せられているがどうやら駒を敵味方の各軍に見立てて軍会議をしていたらしい。
「状況の説明を」
「では僕が」
地図が乗った卓を挟んで正面に立ったのは第四皇弟の亥壬だ。その隣には緑歳が胸の前で腕を組み、戊陽と同じように地図を見下ろしている。
二人の事をよく知らない人間は腹違いとは言え兄弟だと見抜く者は少ないだろう。外向的でひとつもじっとしていられない緑歳と、内向的で三度の飯より書を読むのが好きな亥壬とでは真逆に見える。だが実際には兄弟五人の中で一番似ているのがこの二人だと戊陽は思う。
この二人が協力して軍を動かしていたのだから、数的にも地理的にも有利な戦いで戦況が悪くなるはずがなかった。
「前線は西の楼門から西進し、既に西の貴族街の中心地に至っています。恐らく降伏するまでもう間もなくかと」
「使者を出せ。あちらは大将である汪の当主を失ったのだろう?」
汪の当主、汪宵白とは星昴が差し違えた。星昴とは違い御年七十を越える老体は、交渉の場から互いに引き上げる時点で既に息が無かったという。死が確実になったわけではないが目に見えて汪軍の勢いが弱まり、西の貴族の屋敷は既にもぬけの殻になっている所も少なくなかった。貴族たちはもはや勝機が無いと見切りをつけたのだ。
汪宵白は戊陽の祖父にあたり、賢妃の父だ。星昴の事で動揺していた母には、汪宵白の事は誰も伝えていないようだった。状況が落ち着いたら、賢妃にもこの事は話さなくてはならない。
星昴は確かに笑って死んでいった。満足気に見えた叔父の一方で戊陽は彼のある一言が心に引っ掛かっていた。
『おまえの、兄の仇は……討った、ぞ』
あれは一体どういう意味だったのだろう。星昴の仇なら既にこの世を去った林隆宸だったはずだ。
つい会話から気が逸れてしまっていた戊陽の意識を亥壬の声が呼び戻す。
「それが……既に降伏するよう敵軍には伝えているのです」
汪軍に使者を出しても応じないという。
「まさか全滅するまでやめないつもりか?」
そんな事をしても両軍共に損害が増えるだけだ。
「敵方も諦めきれないんじゃないですか? 目と鼻の先に宿敵が居るんだから」
「宿敵? それは誰の事だ。私ではないのか?」
戊陽は山芒から大雨の中を戻ってきたばかりだ。敵がどこまで戊陽の情報を掴んでいたのかは分からないが、少なくとも山芒に向けて禁軍と共に城を出た隙を狙って侵攻してきたと思っていたのだが。それはどうも違うらしいと亥壬が「いいえまさか!」と語気を強める。
「戊陽兄上の事は寧ろ味方に引き入れたかったはずです。ですが……妙ですね。この事は戊陽兄上には伝わっているものと考えていました」
「この事とは、つまり汪軍の侵攻を私が知っていたと?」
「え、ええ。いえ、戊陽兄上の事を疑っている訳ではありませんよ。ご存じだったからこそ、汪軍を止めるべくいち早く紫沈へ戻ってくる事が叶ったのだと考えておりました」
「いや……私は、山芒に伝令が来て知ったのだ」
「お戻りになるのにかかった日数を考えれば、伝令におかしな所はありませんね……とすると……」
幾分か気を持ち直したらしい薛石炎も脇に控えて会話を聞いていたが、誰からもこれといった意見は出てこない。雨の音だけが兵舎の中に響く。
「兄上、俺が聞いて参りましょうか? 今ならちょっと脅せば敵も話すかも知れない」
「馬鹿を言わないでください緑歳兄上。あなたは交渉の場に出ていった事で敵からも警戒されて──そうか。交渉は、上手くいっていたんだ」
亥壬はぼそぼそ呟いて一人で納得してしまうので、思わず戊陽と緑歳は顔を見合わせる。
「亥壬、教えてくれ」
亥壬は頷きながら卓の上で組んだ指を擦っている。考える時に無意識にする亥壬の癖だ。
「まず汪軍の宿敵は小杰です。理由はお分かりですね?」
「……なるほど、分家にとっての危険因子を消しに来たのか」
こく、と亥壬が首肯する。
「その上で、叔父上は汪家、というより恐らく汪宵白は別の目的も持っていたと予想されていました。汪宵白は『力』を求めていたと。宗家と分家の立場を覆すだけの大きな力です」
「それが何なのかは仰っていたか?」
今度は首を左右に振られる。
「はったりでした。だから交渉の席に汪宵白が現れたのが意外だったのですが、瓢箪から駒が出たといいますか、はったりが真になってしまったのです」
亥壬の話を聞きながら戊陽は思う。星昴は確信はなくとも汪宵白の目論見に気付いていたのではないだろうか。
叔父は所謂才児や神童と呼ばれるような幼少を過ごした人で、星昴の知恵や閃きは大人でも舌を巻くほどであり、それは成長するにつれて知識という確かな地盤を築く事でより確固たるものへと成長した。賢い人であったから、きっと戊陽には見えないものが見えていた事だろう。
「汪軍は『力』を待っているのではないでしょうか」
「いや待て亥壬。その力って、一体何だ?」
緑歳の尤もな疑問に亥壬はあっさりと「分かりません」と答える。
「何かは分かりませんが、誰かが汪家に齎す物だと予測出来ます。だから、『力』を渡すという交渉に乗せられた。そして今も誰かが『力』を運んでくる事を今か今かと待ちわびているのです」
誰か──。一体誰ならその力とやらを汪軍に届ける事が出来るというのか。まさか小杰を亡き者にしてしまう事を力と捉えている訳でもあるまい。
その時ぼそりと呟いたのは薛石炎だった。小さく、だが確かに「間者」とこぼしたのを戊陽も亥壬も聞き取っていた。
「まさか……賊が城に入り込んでいると? いや、もっと以前から?」
動揺する亥壬に対し、それ以上に薛石炎が狼狽えて言う。
「あ、あの、私はその、思い付きで言ってしまっただけですので、どうかそう深刻にお考えにならないで下さい……!」
「戊陽兄上」
あなたの考えを聞かせて下さいと二対の視線が問う。
戊陽は口元を片手で覆い、星昴との会話を思い出していた。
今より少し前、持病の頭痛が治まらないので皇族を祭る廟へと足を運んだ時、星昴と出くわした事があった。あの時彼は東江へ遣いに出したのが玲馨だった事を意外に思っている様子だった。
──やはり、そうなのか。四郎。
山芒へと向けて発つ前に四郎は自ら今回の同道を控えたいと許しを願い出た。物心がつく前も含めて二十年以上、共に過ごしてきた四郎から初めて願いらしい言葉を聞いて断るという選択は浮かばなかった。
せめて理由を問うべきだった。だが、問うた所で本当に四郎が間者だったのなら、本当の事は話さなかっただろう。
「何か、心当たりがあるのですね、戊陽兄上」
戊陽の表情の変化を感じ取り、亥壬が詰め寄る。
「誰なのです。兄上のよく知る人物ですか?」
現状、四郎を間者とするには証拠も何も足りない。頼れるのは戊陽の勘だけだ。
「私に仕えている宦官だ。だが亥壬、考えてみてくれ。仮にその宦官が間者だったのなら、何故今になっても汪軍は引き上げていかない? 最早大将を失い残った手勢だけで城を落とすのは不可能だ。ならば力を手に入れ即時撤退するのが定石ではないか?」
「それは……」
「だったら、その力というのがまだ汪に渡っていないのでしょう」
緑歳の率直な言葉に戊陽が頷き、亥壬は同意する代わりに指を擦らせ視線を下げる。
「……ともあれ、その宦官は捕らえなくてはなりません」
「そうだな。ではこのまま前線の指揮を李将軍に任せ、後方で軍全体を動かす総指揮を亥壬、お前に任せる事にする」
「そんな、戊陽兄上はどうなさるのですか!?」
「私が間者を捕らえる」
場所の当てはある。そこは男子禁制の皇族の居所で、戊陽たち兄弟皆が十五年の間そこで暮らした古巣だ。成人した今となってはあの場所に入る権利があるのはこの場において戊陽のみである。
「お待ちください、兄上!!」
亥壬が叫ぶと同時に一つの足音がついてくる。緑歳だ。
「二人とも、紫沈を今ひととき頼む。私は必ずここに戻って来よう。その時になっても汪が降伏しないというのなら、禁軍の総力をもって汪軍を殲滅する」
小さく返事のような声が聞こえ、戊陽は振り返らず兵舎を後にする。
兵舎を出ると僅かに雨脚が弱まっていた。
「陛下、後宮に行かれるのでしょう?」
「薛石炎か」
どこか鈍臭いと感じさせるのっそりとした足音がしたと思うと、薛石炎が軽く肩を上下させながら拱手の姿勢で背後に立っていた。
「途中までお供させて下さい」
「何か伝え忘れた事が?」
「はい、星昴様のご遺志に御座います」
「叔父上の……。分かった、許そう」
「ありがとうございます」
小柄で小太りのいかにも文官といった体つきはこれと言って目立つ特徴はない。似たような外見をした官吏など外廷には五万といる。星昴が推薦しなければ戊陽と薛石炎の道が交わる事など生涯無かっただろう。
「星昴様はあわいを消す方法を考えておられました。そのためにも陛下のお考えを実現させる必要があると仰っておられました」
「あわいを消すとは?」
「言葉通りで御座います。桃の木を使うのだとか」
兵舎から後宮へ向かうにはいくつか道があるが、外廷を抜けていく道は避けたかった。もはやあそこに使える官吏など残ってはいないだろう。
外廷を迂回するとなると西沈から東沈へ進み、途中宦官の宿舎の前を抜けなくてはならなかった。そこには賢妃が入宮する際植えた桃の木が余ってしまったからという理由で、宿舎の前に一本だけひっそりと葉を茂らせている。
戊陽はつい玲馨の事を思い出していた。玲馨はこの一本だけの桃の木の事があまり好きではなかったようで、時折睨むようにして桃を見上げていた。
薛石炎は具体的に桃の木をどう使ってあわいを消すのかを戊陽に説明した。川を使ってあわいに植えた木を枯らさないようにするのだという。確かに画期的な発想に思えた。
「叔父上がそんな事をお考えだったとは。確かに、試してみる価値のある方法だ」
「問題は桃に限らず肥沃な土地で育った破魔の力を宿す樹木というものを、どこから集めてくるかで御座いますが……。陛下、どうぞ、ご無事でお戻りください。あなた様なくして、この計画は成し得ません」
後宮へと続く門と門衛が見えてきたところで薛石炎は足を止め、手を組み頭を下げる。そうしているともともと小柄な体が輪をかけて小さく見えた。だがその丸々として穏やかそうな人柄に、星昴は心を開いていたのではないかと思えた。
「薛石炎、どうか叔父上の考えを草案として纏めておいてほしい。戦いの事は私の弟たちが何とかしてくれる。不安なら安全な土地に逃げるのも良いが、この雨に外はあわいの事もある。結局は城の中が安全だろうな」
薛石炎はつまり何が言いたいのかという顔をする。歳の割には腹芸が出来ない素直な人だ。そういうところも星昴は気に入っていたのだろう。
「どうにか生き延びてくれ。お前は私が居なくてはと言うが、叔父上の遺志を継ぐべきは薛石炎の方だ」
「陛下、あなた様は……。一言だけ無礼を承知で言わせて頂きます。星昴様にしてもあなた様にしても、あまり年寄りを当てにしすぎるのは良う御座いません。明日死ぬかも分からぬ身に先の事など託してはならぬのです」
ふ、と思わず微笑が漏れる。薛石炎はいつ退職してもおかしくないという歳になっても閑職の、それも次官の座に収まって満足していたような男だ。野心や出世欲も無ければ、きっと能力的にも今の地位が彼に見合っていたのだろう。しかしその一方で、心の機微を図るのは誰より上手いときた。出会ってほんの僅かな戊陽の心も正確に読むのだから、彼を部下につけておくのはさぞ居心地が良かった事だろう。
自然と、玲馨の事を思い描く。戊陽にとっては彼が何よりの理解者で傍に居てほしい存在だ。
今にして梅と共に西へやったのは早計だったと後悔する。もはや状況を探るために出せる遣いは居らず、玲馨が無事でいるかを確かめる術がなくなってしまった。
「陛下それから最後に一つだけよろしいでしょうか。星昴様からあなた様にお伝えするよう言付かっていたことがあります」
薛石炎から聞かされた星昴の言葉は戊陽が想定出来るような内容ではなかった。兄、黄昌の仇についてだ。
星昴は薛石炎にこのように伝言するよう頼んでいた。「汪宵白と林隆宸は血縁関係にある」と。
その一言はつまり黄昌暗殺の咎が汪宵白にもあったのだと示唆していた。これ以上の詳しい事は星昴も汪宵白も世を去ってしまったので確かめる事は出来なくなってしまった。星昴がこの真実に辿りついた背景を知る事も叶わない。だが汪宵白が黄昌の命を狙ったとしても何も不思議はないだろう。実の娘から生まれた孫である戊陽を玉座に座らせて最も恩恵を得られるのは汪宵白だからだ。此度の反乱も、いよいよ汪家によって天下を手中に収めんとして起こしたはずだ。
とにもかくにも汪宵白の求めた「力」とやらを知る必要がある。そしてそれを知る人物はまさにこの先に続く後宮の中に居るはずだ。戊陽の予想が正しければ四郎は「力」とやらをその手に携えて、この後宮に潜伏している。そして恐らく「力」を持った四郎を東妃が匿っているだろう。
この先は敵地と考えるべきだ。そんな所に単身乗り込むようでは薛石炎に説教されても文句は言えない。だが決してここへ死にに来たつもりはなかった。
思えば宦官の宿舎側にある門から後宮へ入るのは数年ぶりの事だ。戊陽がまだ賢妃宮で暮らし玲馨が宿舎に居た頃は、よくここを抜けては玲馨に会いに行った。宿舎前の桃の木の事もその頃に知ったのだと記憶している。それからあの桃の木だけ実が生らないのだとも。
桃が生らなくて悲しいのだろうと思った戊陽は玲馨が賢妃宮に仕えるようになってからというもの、母の育てた桃を玲馨に食えとたくさん振る舞った。結局それは戊陽の勘違いだったのだろうが、美味しいと言って笑う玲馨を見るのがとても好きだった。とても、幸せなひとときだった。あの頃に戻りたい──それは思っても詮無い事だ。
賢妃宮と比べて豪奢な外観と彩鮮やかな花々が戊陽を出迎える。幼心に東妃は派手好みなのだと思いながら小杰が生まれてからは東妃宮へも通っていた。
「誰ぞある。戊陽が参った。東妃は居られるか?」
真っ赤な扉に向かって声を掛けるとすぐにパタパタという軽い足音が中から聞こえてくる。宮女の足音にしては忙しなく、年若い宦官だろうかと思っているうちに扉が内側から開けられた。
「兄上!!」
「小杰か!?」
飛び付かんばかりの勢いで戊陽を目掛けて走ってきた小杰を受け止めて思わず傘を取り落とす。
「お久しぶりです兄上! 小杰は兄上にお会いしとう御座いました……!」
「ああ、そうだな。もう二年経つか。大きくなったな小杰」
「はい!」
後宮を出てからめっきり顔を合わせる機会が減っていた。それでも祭祀などでは挨拶を交わしていたが、戊陽が即位してからの二年は皇帝となる戊陽が喪に服さない代わりに、他の皇族は努めて慎ましく生活するよう触れを出さなくてはならなかった。服喪を軽んじる訳にはいかないという尤もな意見を無視するのは余計な反感を招くというので、この二年は祝祭などを控えており互いに顔を合わせる機を逸したままだった。
末弟の小杰は随分わがままに育っていると玲馨から聞いていた。しかしそれもこの子の境遇を思えばある程度は仕方ないと許してしまいたくもなるだろう。
小杰は六つの時に父を亡くし以降は皇弟となるのだが、彼のまさに半生は殆どが故人の喪に服す日々だったはずだ。本来ならもっと外に出てよく遊びよく学ぶはずの歳の頃、小杰は後宮の中で出来る事だけをして静かに暮らさなくてはならなかった。
戊陽の六つから十二の頃と言えば剣に弓に乗馬、それから狩りに連れて行ってもらう事もあり、皇子として兄弟ともにたくさんの事を外で学んだ。自分の奔放ぶりを思い返せば、小杰の窮屈な暮らしは気の毒で仕方がない。
「小杰、お母上の元へ案内してくれ」
「はい兄上! 小杰が案内致します!」
まあるい頬をふくふくさせて笑う小杰はとても愛らしく、人懐っこい様は何かの小さな動物のようだ。
小杰に手を引かれながら久しぶりに訪れた東妃宮は何か強い匂いの香が焚かれており、室内中に香の匂いが充満していた。それはこの東妃宮に限らず他の殿舎でもたびたび嗅ぐ事のあった、とある目的のために使われるお香だ。
「まぁ陛下、お久しぶりで御座います。こんな時ですから何も用意がありませんの」
「良いのです。外の状況は東妃様もご存知でしょう?」
「ええもちろん。陛下はどうして私たちを安全な所へ逃して下さらないのかとやきもきしていましたわ」
「逃げる? 一体どこへ? ご実家に帰られたいと仰るのですか? どうやって?」
右手をきゅっと小さな手で握られる感覚に我に返る。小杰が不安そうに戊陽を見上げていた。
賢妃と険悪だった事に加えて玲馨まで奪われたような気になってしまい、つい責めるような口調になっていた。母同士の事はまだしも玲馨については自分が許可したのだからお門違いだ。
「東妃様、外の敵については一両日中に方が付くでしょう。それより今日は人を探して参ったのです」
す、と真っ青な瞳が眇められると、雨で湿気った空気ごと凍てつくかと思うほどに温度が下がる。透き通るような金の髪と真っ白な肌は美しかったが、美しいが故に作り物めいて時にゾッとするほど恐ろしく見えるのが、この東妃という人だった。
こうして相対して話すのは小杰同様に久しぶりの事なので、彼女の酷薄なまでの美貌をすっかり忘れていた。
「誰を探すというのです。ここには私と小杰と、昔からの宮女と宦官しかおりません」
「その口振りではまるで誰かを匿っておられるかのように聞こえますよ」
「まぁ、何て物言いでしょう。ここに罪人が逃げ込んでいると陛下は仰られるの?」
「罪人かどうかはその者に話を訊ねてみねば分からぬ事。──時に、東妃様」
小杰の手を強く握り返すと、会話の内容が分かっていない小杰の頬が嬉しげに上がった。しかし状況はそれを歓迎しないと分かっているのか必死に表に出さないよう我慢している。
「女性に対して失礼とは承知でお訊ねします。この香り、月のものの時に匂いを誤魔化すために使われるものでは?」
誰かの息を呑む音が聞こえた。きっと宮女だろう。宦官は気まずそうに視線を下げて、眼前の美貌は色をなす。
独特の強い匂いを放つこの香りが気になって、一体何のためのお香かと訊ねて教えてくれたのは四郎だったような気がする。何とも皮肉だ。
「ああ……何てことを仰るのです、陛下。陛下がそのように作法を無視なさるようでは賢妃様もお嘆きになられましょう」
「今は火急の時にあるのです。どうかそのお言葉で煙に巻こうなどとなさるな」
よよよ、とわざとらしく袖で口元を覆い悲しんでみせるが、そうした振る舞いをすればするほど東妃は疑わしくなっていく。何もないというならもっと堂々と率直に受け答えをするものだろう。
「確かにあなたは皇帝陛下にあらせられますわ。けれどここは今もまだ黄雷様の後宮。いくら今上帝であっても亡き帝の妃の宮で好き勝手にしようなどと許されない事で御座います」
「仰る通りです。聞きたい事が聞けたら私は即座にこの場を去りましょう」
雲が月を陰らすように、東妃の碧眼が眇められる。
母が東妃からさんざ言い負かされてきたのをその目で見てきた。東妃を相手に口論を続けるのは得策ではない。
ここは敵地。宮女も宦官も彼女の味方をする。つまり今が潮時だ。
「四郎を出して下さい」
東妃は一切反応を示さなかったが、脇に控えていた宮女が戊陽から目を逸らしたのを見逃さなかった。尚も東妃は戊陽に応じるつもりはなかったようだが、当の本人は思った以上にあっさりとその正体を現した。
「──限界のようですね」
あまりにも聞き馴染みのある声に、戊陽は思わず顔を顰める。ああ、という嘆息が心の中で漏れては消えていく。
「……四郎」
苦い顔のまま低く呟く戊陽に対し、四郎は常のまま変わらない。
東妃はこれ以上関わるつもりは無いらしく、小杰を手招きし奥の椅子へと腰掛ける。小杰も最後には母を選び戊陽の手から離れていった。
「単刀直入に聞こう。お前は汪家を裏切ったのか?」
「……そこまで気付いておられたのですね」
戊陽の質問に四郎が即答で答えなかったのはこれが初めての事だった。
四郎は今、皇帝付きの宦官ではない私として話している。その事に場違いだと思いながらも興奮する気持ちを止められない。
「宗家の力を侮ったが故に、汪家はこの後必ずや滅びます」
「だから裏切ったのか? 生き延びるために?」
だとしたら責める事は出来ないし、そも戊陽が責めるべきは長らく汪家の間諜として動いていた事に対してだ。
だが今はそれ以上に、四郎の思惑を知りたかった。
「いいえ。私は死を恐れません。〈羊〉になる者は皆そういう風に教育されます」
その〈羊〉というのが汪家が間諜として使う集団の名なのだろう。わざわざ名があるという事は、宮廷に紛れた間諜は四郎一人ではない可能性が高い。
そこで閃くようにして桂昭の顔が戊陽の脳裏を過る。楊も羊も発音は全く同じだ。楊、つまり柳が〈羊〉の隠語として使われ、互いが東江の間者かどうかを探るための符牒だったのだ。桂昭が卓浩元刺史に柳の話題を振ったという事は、四郎一人どころか〈羊〉とは紫沈だけに留まらず各地方全てに放たれているのだろう。
四郎が賢妃宮付きの宦官になったのは戊陽が生まれるよりも前の話だ。二十年以上も昔から〈羊〉は組織され沈という国を裏から操ろうとしていたのだ。そんなものを相手に戦わなくてはならなかったなど途方もない話だった。
「……四郎、お前は何を望んでるんだ?」
「私は、この目で国の未来を見たい。ただそれだけです。そのために最善は何かを考えた時、汪家と縁を切る事でした」
未来──。
汪には見出せなかったものを、この東妃宮には見出したという事か。
小杰は母の隣で椅子には座らず立ったままだった。その目は戊陽と四郎に向いており会話に耳を傾けているようだが、どこまで内容を理解しているのかは定かではない。
──四郎はあの子に、沈を導いてほしいと考えたのか?
戊陽にとって四郎は家族ではなかった。常に従者の一人だった。それでも幼少のみぎりより常に傍に侍り、戊陽の支えとなったのには違いない。
そんな四郎が、戊陽に見切りをつけた。いや、端から彼は戊陽の従者などではなかったのだ。
覚悟はしていたつもりだったが、足元から揺らぐ感覚に小さく蟀谷の辺りに痛みが走る。
「何故、いま……っ」
「頭が痛むのですか? もしかすると陛下はご自身でも知らないうちに、私の正体を感じ取っておられたのかも知れません」
「何だ、どういう意味だ?」
「黄昌前陛下に毒を盛った兵士は、私の双子の兄です」
「なん……っ」
一際強く頭が痛み、戊陽は呻いて頭を抱え込む。小杰が小さく悲鳴を上げて駆け寄ろうとしたが東妃がそれを止めた。
「陛下はお気付きになっておられませんでしたが、その頭痛は私と話をした時ほど強く起こっていたはずです」
「四郎と? まさか、お前とは毎日のように、言葉を交わしていたのに、それはおかしいだろう」
「きっと、お体やお心の調子が優れない時に私の顔を見る事で、黄昌様の事を思い出しておられたのです」
つまり四郎の顔から下手人の顔を無意識のうちに連想し、兄を思い出しては頭痛が起きていたと四郎は言っている。
記憶の中の兄の最期は、一面に染まった血の赤だ。すっかり固く冷たくなった黄昌と、その傍に横たわった兵士の亡骸。兵士は黄昌に飲ませたものと同じ毒を煽ったようで口から激しく血を吐いて死んでいた。更に意識のあった間に争ったようで、剣の刺し傷からも血が溢れて床を汚していた。
それ以外に覚えていた事は無きに等しい。ましてや犯人の顔など、若い青年だったという事しか覚えていない。
「死んだ林元尚書令は、汪家当主の従兄弟です。彼の人は婚外子でしたから、汪家との直接の繋がりを見つけるのはきっと難しかったでしょう」
つらつらと書を読み上げるのと変わらない声色で、四郎は信じ難い事を次から次へと明かしていく。最早、許容の限界を越えており、ただ、信じたくないとそればかりが戊陽の胸を占める。
「黄昌様を弑した下手人は私の兄。指示を出したのは兄と私の祖父である汪宵白。林元尚書令はこれらの関連と計画が表沙汰にならないよう必要な手段を用いて抹消しました。星昴様は私の事を探っているようでしたので、これらの事に気付いておられたかも知れません」
これが、黄昌様の死に纏わる全てです──。
四郎の告白は終わったのだろう。嘗てないほどに多くの事を語った口は、再びいつものように固く重く閉ざされる。
気が遠くなっていくのを堪えるので精一杯だった。どうにか膝をつかずに深く呼吸を繰り返し、やっとの思いで顔を上げる。
「何故……何故、今になって話した」
知らないままで居たかったのか、もう分からなくなってしまった。考えるよりも先に四郎が何もかもを明かしてしまった。
「星昴様が亡くなられたと聞きました。あの方は可愛がられていた甥の仇を討ったのです」
汪宵白。汪の当主が〈羊〉を組織し、自らの孫さえも間諜として育てた冷酷な男。彼が黄昌を殺せと命じたのだとしたら、確かに汪宵白は黄昌の仇だった。それと同時に──。
「お前もあの日、兄を失っていたのだな」
汪宵白は四郎の兄の仇であったのかもしれない。
二年前のあの日の四郎の事など記憶の彼方だ。だが取り乱したりという事はなかったはずだ。もし四郎が感情的になるような事があったなら、決して忘れなかっただろう。
「……戊陽陛下」
四郎の声は気のせいか、どこか弱々しく感じた。その目には哀愁のようなものが浮かんではすぐに消えていく。
「陛下には、事が終わるまで今しばらく休んで頂きます」
何と問う暇はなかった。
部屋の端に控えていた宦官がいつの間にか背後を取っており、容易く戊陽の体を拘束する。それから強く後頭部を殴られて、あっさりと意識を手放した。
消えていく五感の中で最後に残った聴覚は、鐘のような音を聞いていた。
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