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完結編
37蘇の者
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玲馨が蘇智望と出会うよりも数年ほど前まで話は遡る。蘇智望の執務室に呼ばれた関礼は蘇智望の口から壮大な計画を聞かされていた。
三方を海に囲まれた半島に築かれた国、沈。嘗て造船の技術が未熟な時代は唯一の玄関口であった西方の都市東江を治める領主は、一つ山を越えた先にある大国昆との外交を担ってきた。
あわい発生以前、昆は周辺諸国との戦が絶えず背中にある小国の沈に隙を与えないために互いに対等な立場で──というのは建前だが──付き合ってきた。潮目が変わり始めたのは時の皇帝凱寧の頃で、数々の戦に勝利した昆は諸国をまとめ上げ大陸一の巨大国家になろうとしていた。
一方沈では「あわい」なる人の踏み込めない魔の領域が発生し、妖魔の被害は後を絶たず四方と中央が分断された事によって大勢の死者が出た。
当時誰しもが考えた。隣国昆に攻め入る隙を与える事になってしまった、と。激しい戦を終え、人と物資が回復すれば大陸全てを平定すべく昆は沈の土地もその手中に収めようとするだろう、と。
だが現実はそうはならなかった。理由は「あわい」だ。国土の大半が不毛の土地となってしまった沈にはもはや昆の求めるほどの価値はなく、蘇智望と東妃の母が嫁いできたのを最後に昆との国交は以前ほど密なものではなくなっていく。
時代は下り、蘇智望が金王となると、ふたたび時世の潮流が変わる事となる。
沈の中央貴族たちのほとんどが勘違いしているが、蘇智望の母は決して公主と呼ばれるほど大層な家柄の出ではない。蘇智望の母の生家は彼女が東江へと嫁いできた当時、辛うじて末席に名を連ねただけの没落寸前の貴族で、娘を沈に出す事でどうにか家を存続させる事が出来ているという有様だった。昆にとってさしたる価値のない沈という国に嫁いでくるのだから少し考えれば彼女がどんな立場にあったかが窺い知れる。
しかし東妃が入宮し蘇智望が金王となると、昆の血族が沈の中心に力を及ぼす事が出来ると踏んだ昆は再び東江との交流を積極的に行うようになる。そこには蘇智望による籌策もあった。
「なんと大胆な事をお考えなさる。軍師である私の立場がありませぬな」
「何を言うか関礼。私の考え方はどうしても政が中心になる。戦場を知らぬ私に軍略を立てる事はままならんさ」
蘇智望の右腕といわれる関礼は主人の語る遠謀深慮に驚嘆する。
蘇智望が金王となった頃、昆では没落寸前だったはずの母の生家の立場が以前よりも高くなっていた。優秀な跡取りに恵まれたか或いは臣下に恵まれたか。とにもかくにも昔から沈の中央が押し付けてきた面倒事が蘇智望の世代になって漸く報われる兆しである。この時代に蘇智望のもとで才知を揮う事の出来る境遇に関礼は感謝するしかない。
「しかし……」
関礼は改めて蘇智望から聞かされた「革命」の内容を吟味する。数年後のこれを「乱」ではなく「革命」として成すためには昆の協力は不可欠だ。
「何だ。申してみよ」
「今より遥かに卜占の知識と技術が発達していた時代、最後の卜師は沈の滅ぶ未来を占じました。昆の力をこれだけ当てにするとなると、或いはその卜師の言う通りになるのでは……と」
昆から輸入した沈には無い趣の長椅子にゆったりと腰かけた蘇智望は、立てた片膝に組んだ手を引っかけて悠然と笑って見せる。その表情に関礼ははっとなった後、よもや、と自分の主人がいっときばかり信じられなくなる。
「まさか、あなた様はこの国を昆に明け渡すおつもりですか……!」
「さて、ね」
蘇智望は笑みを絶やさない。関礼は成人してからの蘇智望しか知らないが、出会った時には既にこうだった。怜悧な笑みの裏に潜むのは魔かそれとも。沈にはない青い神秘的な目は作り物めいていて表情を読みにくくさせる。
「半分は昆の血が流れているとは言え、生まれも育ちも東江の私は紛れもなく沈人さ。この国の民を徒に犠牲にしようとは思わない。だが、考えてみてくれ関礼。今の沈は果たして国としてまともに機能していると言えるか?」
関礼は同意も否定も出来なかった。彼の言う「国」の定義が関礼には分からない。民が居て、国主が居れば、それは国である。だが、蘇智望の示すそれはもっと別の事のようなのだ。
「民を率い民を守りそして敬われるべき皇族は今や四方貴族から顧みられることはなく、かと言って四方同士が手を取り合う訳でもない。このまま皇帝が四方の手綱を握り損なうようなら沈という国はそれこそ分裂して相争う事になるだろう。そうなれば昆は気兼ねすることなく武力を投入すれば良い。沈の平定という陣取り合戦に参加する大義名分を与えるようなものだからな。だが、沈が沈という形を残したまま、昆という新風を吹かせればどうなる?」
今の沈は蘇智望の言う通り中央と四方のそれぞれの連携が上手く取れておらず、言わば全ての土地が陸の孤島のような状況だ。そうした中に「昆」という誰の目からもはっきりそうと分かる異物を混ぜる。そうする事で沈の視点を一斉に同じ方向へ向けさせると、蘇智望はそう言いたいのだろうが。
だとしても──。
「それでもやがて、沈は沈ではなくなるだろうな。昆の軍事力はこちらの十倍ではきかないという。放った間者も戻らぬ。この先どんな傑物が沈に生まれようと、先立つものが天と地ほどの差があるようでは結果は覆らない。だからこそ、沈は沈のままどうにか昆の一部となっていかねばならないのさ」
青い目がすっと細められる。関礼は蘇智望の右腕と称され彼の政務の補佐もこなしてきたが、やはり自分はつくづく武人なのだと思わされる。蘇智望の思い描く未来の沈を関礼には十分には理解出来なかったろう。
だが少なくとも自分の主人は彼なりのやり方で沈を導き守ろうとしている。それだけは絶対に違えないのだ。そして今の沈には蘇智望のような力があり行動力もある先導者が必要だと関礼は考えていた。
「間もなく分家が事を起こすだろう。言っておくが、私は止めたぞ? だがあの耄碌した老人は私を庭先の小石のようにしか思っていないからな。残念だが沈の頭は分家の操りやすい次男に挿げ替えられてしまうだろうね」
「なんと恐ろしい……」
嘗てと立場が逆転し蘇の分家となって久しい汪家の当主は死に損なった老人と影で揶揄される汪宵白である。汪家の地位を取り戻すためには手段を選ばない非人道的な男で、娘を政治の道具に、そして孫を間諜へと仕立て上げ、どうにか蘇家を欺こうと躍起になっていた。
たとえ沈の皇帝が変わろうと、蘇智望によって引きずり下ろされる対象が長子から次子に変わるだけだ。
「はて、お待ち下さい蘇智望様。革命を成すというならば……」
関礼は言葉を続けるべきか躊躇い押し黙る。革命を起こすためには討つべき相手が必要だ。蘇智望は関礼の言わんとするところを察して頷いた。
「悪役は必要だよ。私も汪宵白の事は言えないね」
愛した女のいとし子に全ての辜を押し付けてしまおうと言うのだから──。
蘇智望の呟きは関礼には聞き取れなかった。ただその顔に宿るのは何にも揺らぐ事のない決意だ。生涯の人生を捧げて仕えると決めた主人に一片の迷いもないというのであれば、関礼はただそれに付き従うのみだ。
この後蘇智望が予測した通り玉座は黄昌から戊陽へと代わり、そのまた二年の後にいよいよ計画は大詰めとなる。
当初の予定通り、蘇智望は昆の助力を得て皇帝の喉元に革命の刃を突き付けるのだ。
*
風蘭は自分の生まれについて詳しくは知らない。母によれば風蘭の父はさるお方の息子でどーたらこーたらと聞かされた事があるが、それがまさか金王の家系に繋がるだなんて事はついこの間知らされたばかりだ。
母と共に東江から逃げ出したのは、一つの賭けだった。
母子共に商家で下働きをしていたのだが、母はどうにも少々愚鈍な所がある人なので、歳を取るごとに商家の人間から煙たがられるようになっていった。
加えて母は昔から東江の外が見てみたいと言っていたので、風蘭が十五の歳になった日、二人で東江から逃げ出して来た。
食い扶持は風蘭の力で何とかなる算段だ。実際、半年ほどは人を雇いたいが金はなさそうな人間に口八丁で護衛として雇わせて、その金で飢える事なく暮らしていけている。
玲馨たちの護衛のために東江へ戻る事になるのも大して抵抗はなかった。どうせ風蘭の顔を知っている人間など商家の者たちくらいなものだ。それも郊外にある小さな米屋なので、金王の住まう都の方に行くのに問題などなかった。
だからこれはまさに運命の悪戯としか言い様がない。まさか自分が金王に縁ある力を継いでいて、それがきっかけで蘇蘭と名乗らされる事になろうとは。
何がすごいかって、今現在風蘭は東江の大軍を率いて紫沈へ向かっている事だろう。実際に統率しているのは金王の側近で、風蘭は「蘇蘭」の名を貸しているにすぎないが。
とにもかくにもこうなってしまったからには母を東江に呼び戻し、金王に暮らしを保証してもらうしない。そのために風蘭がやる事と言えばやはり持って生まれた異能の力を使って戦う他に思いつかなかった。
「蘇蘭様、間もなく紫沈が見えてくる頃です」
「……あのさぁ、おっちゃん」
「何でしょう?」
おっちゃんなどと呼ばれて素直に返事をする三十越えの男は、金王の右腕で知将と名高い関礼だ。あの東江の大男関虎とは従兄弟の関係だという。
関礼は外見性格共に関虎とは似ても似つかない。細身の体に背丈は並。性格はおだやかで話すと知性的な雰囲気を感じるが、田舎暮らしをしてきた風蘭にとっては細っこくて何だか頼りない。
「オレなんかにさぁ、何でそんな簡単に、えーと何て言うんだっけこういうの」
「へりくだる、ですか?」
「そう! その堅苦しい喋り方も何か慣れないし」
風蘭が困ったような拗ねたような顔で言うと、関礼は柔らかく笑って見せる。馬鹿にした笑いではないと分かるだけに、ますます関礼が不思議に見えた。
「蘇蘭様、これは何色に見えますかな?」
そう言って関礼が手に乗せたのは玉佩だ。今は甲冑姿なので帯から外しているのかと思ったが翡翠の蓮飾りが欠けてしまっていた。
「緑、とか薄緑とか?」
「ええそうです。ですがもしこれを金王様が黄だと仰せになったら、私は今日からこれを黄だと認識を変えるのです」
「えー……? 何で?」
緑は緑だ。緑を黄色だと思えだなんて、それはつまり暴君というやつではないだろうか。
「生涯仕えるべき方だと心から思っているのですよ。金王様なら必ずやこの国を良い未来へ導いて下さると確信しているのです」
だから突然湧いて出たような子供の風蘭を相手にしても丁寧な態度を崩さない。金王が「蘇蘭」を養子にすると言うなら、金王の後継として接するという事らしい。
「おっちゃんにとって、金王様は世界なんだな」
関礼は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐに笑顔に戻る。
「蘇蘭様は突然の事に戸惑われなかったのですか? 断ろうと思えばきっと金王様ならお許しになられたでしょう」
「そりゃびっくりはしたけど、オレは母ちゃんと一緒に飢えずに生きていけたら別に何でも良いからさ」
「母君は紫沈の外でお暮らしなのですか?」
「うん。東江から出た後は浮民として暮らしてるから」
「では、紫沈へ到着したらまずは母君を探させましょう」
風蘭たちの視界には既に紫沈の巨大な城塞が見えていた。
「やっぱり、戦いになるんだな」
「相手の出方次第です。しかしその前に恐らく汪の者を鎮圧せねばならないでしょうね」
「そっか」
風蘭に宿る代々の金王由来の力はこれまで妖魔を退治するためだけに使ってきた。人に向かって使う時は、せいぜい相手を驚かせて目くらましにする程度だ。
金属は固く丈夫で、人の体などいとも容易く傷付けてしまう。幼少からそれをよく理解していたのは、母の躾のおかげだった。
その母を守るために、風蘭は金王家血筋の力を使って前線に立つつもりでいる。
「おっちゃん、じゃなかった。関礼、オレはなるべく人同士が戦わないで勝ちたい」
風蘭は風蘭なりに金王や関礼からの説明で現状を理解したつもりだ。この戦いの勝者は、既に決まっている。
だったら、何も殺し合う必要なんでどこにも無いだろうと風蘭は思うのだ。
「これは驚きました。金王様と全く同じ事を仰られる」
「そりゃ、誰だって殺し合いは嫌だろ。喧嘩じゃないんだしさ」
「ええ。ですから私のようなものが居るのです。戦で平和的に勝つために、私が知恵を絞りましょう」
紫沈が見下ろせる少し高くなった丘までくると、全軍を停止させる命令を関礼が出す。これから少しの休憩を取ったら、いよいよ紫沈へと西門から攻め入る事になる。
「蘇蘭様、号令を」
「え? っと……──みんな、行くぞー!!」
おおおおっ、と野太い歓声が響き渡り、あわや紫沈にまで聞こえてしまうのではと思うほどだった。
風蘭の隣に関礼が立っている。恐らくそれを軍の兵士たちは知っているから、拙い風蘭の号令にもしっかりと応えたのだ。
風蘭にはまだ何もない。彼はこれから「蘇蘭」となるために、たくさんの事を身に付けていかなくてはならないだろう。
その手始めが皇帝への反乱になるなど、あまりに大きな一歩目だった。
三方を海に囲まれた半島に築かれた国、沈。嘗て造船の技術が未熟な時代は唯一の玄関口であった西方の都市東江を治める領主は、一つ山を越えた先にある大国昆との外交を担ってきた。
あわい発生以前、昆は周辺諸国との戦が絶えず背中にある小国の沈に隙を与えないために互いに対等な立場で──というのは建前だが──付き合ってきた。潮目が変わり始めたのは時の皇帝凱寧の頃で、数々の戦に勝利した昆は諸国をまとめ上げ大陸一の巨大国家になろうとしていた。
一方沈では「あわい」なる人の踏み込めない魔の領域が発生し、妖魔の被害は後を絶たず四方と中央が分断された事によって大勢の死者が出た。
当時誰しもが考えた。隣国昆に攻め入る隙を与える事になってしまった、と。激しい戦を終え、人と物資が回復すれば大陸全てを平定すべく昆は沈の土地もその手中に収めようとするだろう、と。
だが現実はそうはならなかった。理由は「あわい」だ。国土の大半が不毛の土地となってしまった沈にはもはや昆の求めるほどの価値はなく、蘇智望と東妃の母が嫁いできたのを最後に昆との国交は以前ほど密なものではなくなっていく。
時代は下り、蘇智望が金王となると、ふたたび時世の潮流が変わる事となる。
沈の中央貴族たちのほとんどが勘違いしているが、蘇智望の母は決して公主と呼ばれるほど大層な家柄の出ではない。蘇智望の母の生家は彼女が東江へと嫁いできた当時、辛うじて末席に名を連ねただけの没落寸前の貴族で、娘を沈に出す事でどうにか家を存続させる事が出来ているという有様だった。昆にとってさしたる価値のない沈という国に嫁いでくるのだから少し考えれば彼女がどんな立場にあったかが窺い知れる。
しかし東妃が入宮し蘇智望が金王となると、昆の血族が沈の中心に力を及ぼす事が出来ると踏んだ昆は再び東江との交流を積極的に行うようになる。そこには蘇智望による籌策もあった。
「なんと大胆な事をお考えなさる。軍師である私の立場がありませぬな」
「何を言うか関礼。私の考え方はどうしても政が中心になる。戦場を知らぬ私に軍略を立てる事はままならんさ」
蘇智望の右腕といわれる関礼は主人の語る遠謀深慮に驚嘆する。
蘇智望が金王となった頃、昆では没落寸前だったはずの母の生家の立場が以前よりも高くなっていた。優秀な跡取りに恵まれたか或いは臣下に恵まれたか。とにもかくにも昔から沈の中央が押し付けてきた面倒事が蘇智望の世代になって漸く報われる兆しである。この時代に蘇智望のもとで才知を揮う事の出来る境遇に関礼は感謝するしかない。
「しかし……」
関礼は改めて蘇智望から聞かされた「革命」の内容を吟味する。数年後のこれを「乱」ではなく「革命」として成すためには昆の協力は不可欠だ。
「何だ。申してみよ」
「今より遥かに卜占の知識と技術が発達していた時代、最後の卜師は沈の滅ぶ未来を占じました。昆の力をこれだけ当てにするとなると、或いはその卜師の言う通りになるのでは……と」
昆から輸入した沈には無い趣の長椅子にゆったりと腰かけた蘇智望は、立てた片膝に組んだ手を引っかけて悠然と笑って見せる。その表情に関礼ははっとなった後、よもや、と自分の主人がいっときばかり信じられなくなる。
「まさか、あなた様はこの国を昆に明け渡すおつもりですか……!」
「さて、ね」
蘇智望は笑みを絶やさない。関礼は成人してからの蘇智望しか知らないが、出会った時には既にこうだった。怜悧な笑みの裏に潜むのは魔かそれとも。沈にはない青い神秘的な目は作り物めいていて表情を読みにくくさせる。
「半分は昆の血が流れているとは言え、生まれも育ちも東江の私は紛れもなく沈人さ。この国の民を徒に犠牲にしようとは思わない。だが、考えてみてくれ関礼。今の沈は果たして国としてまともに機能していると言えるか?」
関礼は同意も否定も出来なかった。彼の言う「国」の定義が関礼には分からない。民が居て、国主が居れば、それは国である。だが、蘇智望の示すそれはもっと別の事のようなのだ。
「民を率い民を守りそして敬われるべき皇族は今や四方貴族から顧みられることはなく、かと言って四方同士が手を取り合う訳でもない。このまま皇帝が四方の手綱を握り損なうようなら沈という国はそれこそ分裂して相争う事になるだろう。そうなれば昆は気兼ねすることなく武力を投入すれば良い。沈の平定という陣取り合戦に参加する大義名分を与えるようなものだからな。だが、沈が沈という形を残したまま、昆という新風を吹かせればどうなる?」
今の沈は蘇智望の言う通り中央と四方のそれぞれの連携が上手く取れておらず、言わば全ての土地が陸の孤島のような状況だ。そうした中に「昆」という誰の目からもはっきりそうと分かる異物を混ぜる。そうする事で沈の視点を一斉に同じ方向へ向けさせると、蘇智望はそう言いたいのだろうが。
だとしても──。
「それでもやがて、沈は沈ではなくなるだろうな。昆の軍事力はこちらの十倍ではきかないという。放った間者も戻らぬ。この先どんな傑物が沈に生まれようと、先立つものが天と地ほどの差があるようでは結果は覆らない。だからこそ、沈は沈のままどうにか昆の一部となっていかねばならないのさ」
青い目がすっと細められる。関礼は蘇智望の右腕と称され彼の政務の補佐もこなしてきたが、やはり自分はつくづく武人なのだと思わされる。蘇智望の思い描く未来の沈を関礼には十分には理解出来なかったろう。
だが少なくとも自分の主人は彼なりのやり方で沈を導き守ろうとしている。それだけは絶対に違えないのだ。そして今の沈には蘇智望のような力があり行動力もある先導者が必要だと関礼は考えていた。
「間もなく分家が事を起こすだろう。言っておくが、私は止めたぞ? だがあの耄碌した老人は私を庭先の小石のようにしか思っていないからな。残念だが沈の頭は分家の操りやすい次男に挿げ替えられてしまうだろうね」
「なんと恐ろしい……」
嘗てと立場が逆転し蘇の分家となって久しい汪家の当主は死に損なった老人と影で揶揄される汪宵白である。汪家の地位を取り戻すためには手段を選ばない非人道的な男で、娘を政治の道具に、そして孫を間諜へと仕立て上げ、どうにか蘇家を欺こうと躍起になっていた。
たとえ沈の皇帝が変わろうと、蘇智望によって引きずり下ろされる対象が長子から次子に変わるだけだ。
「はて、お待ち下さい蘇智望様。革命を成すというならば……」
関礼は言葉を続けるべきか躊躇い押し黙る。革命を起こすためには討つべき相手が必要だ。蘇智望は関礼の言わんとするところを察して頷いた。
「悪役は必要だよ。私も汪宵白の事は言えないね」
愛した女のいとし子に全ての辜を押し付けてしまおうと言うのだから──。
蘇智望の呟きは関礼には聞き取れなかった。ただその顔に宿るのは何にも揺らぐ事のない決意だ。生涯の人生を捧げて仕えると決めた主人に一片の迷いもないというのであれば、関礼はただそれに付き従うのみだ。
この後蘇智望が予測した通り玉座は黄昌から戊陽へと代わり、そのまた二年の後にいよいよ計画は大詰めとなる。
当初の予定通り、蘇智望は昆の助力を得て皇帝の喉元に革命の刃を突き付けるのだ。
*
風蘭は自分の生まれについて詳しくは知らない。母によれば風蘭の父はさるお方の息子でどーたらこーたらと聞かされた事があるが、それがまさか金王の家系に繋がるだなんて事はついこの間知らされたばかりだ。
母と共に東江から逃げ出したのは、一つの賭けだった。
母子共に商家で下働きをしていたのだが、母はどうにも少々愚鈍な所がある人なので、歳を取るごとに商家の人間から煙たがられるようになっていった。
加えて母は昔から東江の外が見てみたいと言っていたので、風蘭が十五の歳になった日、二人で東江から逃げ出して来た。
食い扶持は風蘭の力で何とかなる算段だ。実際、半年ほどは人を雇いたいが金はなさそうな人間に口八丁で護衛として雇わせて、その金で飢える事なく暮らしていけている。
玲馨たちの護衛のために東江へ戻る事になるのも大して抵抗はなかった。どうせ風蘭の顔を知っている人間など商家の者たちくらいなものだ。それも郊外にある小さな米屋なので、金王の住まう都の方に行くのに問題などなかった。
だからこれはまさに運命の悪戯としか言い様がない。まさか自分が金王に縁ある力を継いでいて、それがきっかけで蘇蘭と名乗らされる事になろうとは。
何がすごいかって、今現在風蘭は東江の大軍を率いて紫沈へ向かっている事だろう。実際に統率しているのは金王の側近で、風蘭は「蘇蘭」の名を貸しているにすぎないが。
とにもかくにもこうなってしまったからには母を東江に呼び戻し、金王に暮らしを保証してもらうしない。そのために風蘭がやる事と言えばやはり持って生まれた異能の力を使って戦う他に思いつかなかった。
「蘇蘭様、間もなく紫沈が見えてくる頃です」
「……あのさぁ、おっちゃん」
「何でしょう?」
おっちゃんなどと呼ばれて素直に返事をする三十越えの男は、金王の右腕で知将と名高い関礼だ。あの東江の大男関虎とは従兄弟の関係だという。
関礼は外見性格共に関虎とは似ても似つかない。細身の体に背丈は並。性格はおだやかで話すと知性的な雰囲気を感じるが、田舎暮らしをしてきた風蘭にとっては細っこくて何だか頼りない。
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「へりくだる、ですか?」
「そう! その堅苦しい喋り方も何か慣れないし」
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「蘇蘭様、これは何色に見えますかな?」
そう言って関礼が手に乗せたのは玉佩だ。今は甲冑姿なので帯から外しているのかと思ったが翡翠の蓮飾りが欠けてしまっていた。
「緑、とか薄緑とか?」
「ええそうです。ですがもしこれを金王様が黄だと仰せになったら、私は今日からこれを黄だと認識を変えるのです」
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だから突然湧いて出たような子供の風蘭を相手にしても丁寧な態度を崩さない。金王が「蘇蘭」を養子にすると言うなら、金王の後継として接するという事らしい。
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「母君は紫沈の外でお暮らしなのですか?」
「うん。東江から出た後は浮民として暮らしてるから」
「では、紫沈へ到着したらまずは母君を探させましょう」
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「やっぱり、戦いになるんだな」
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「そっか」
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「そりゃ、誰だって殺し合いは嫌だろ。喧嘩じゃないんだしさ」
「ええ。ですから私のようなものが居るのです。戦で平和的に勝つために、私が知恵を絞りましょう」
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「蘇蘭様、号令を」
「え? っと……──みんな、行くぞー!!」
おおおおっ、と野太い歓声が響き渡り、あわや紫沈にまで聞こえてしまうのではと思うほどだった。
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