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完結編
36伏魔殿
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紫沈を中心に様々な思いが錯綜する中で、舞台は再び東江へと帰ってくる。
「これから紫沈へ向かう。そなたも着いてくるか? 玲馨」
自分は何をしに東江まで出向いて来たのかを思い出す。
玲馨は皇帝の一助となるべく「卜師」についての手がかりを探しにここへ来た。想定していた形とは随分違っていたが、蘇智望に教えられた事は確かに卜師に関する手がかりだと言えよう。問題は卜師本人との繋がりを得られなかった事だが、玲馨にはもともとあまりそのつもりはなかった。卜師など見つからなければ良いと思いながら、熔岩の山道を歩いていた。
とにかく収穫はあったのだ。手土産には十分だろう。何よりこの男が戊陽に対して何をするつもりなのか分からない以上、玲馨は戊陽の遣いよりも蘇智望の動向を探る事を優先したかった。蘇智望についていかない選択をしたところで、玲馨はこのまま囚われになるだけだろう。
「私などがお供しても良いのであれば」
──連れて行って下さい。
蘇智望にそう答えたのが数時辰前の事だ。今は三叉湾の静かな海上を、恐ろしく巨大な帆船が船首の篝火と灯台の灯りだけを頼りに南東へ向かって航行している。玲馨はそのまさに船に乗り合わせていた。
往路に乗せられた船でも十分に大きいと感じたのに、今度はその倍もあろうかという巨大船。それが一隻どころか五隻も連なるようにして雲朱の港を目指していた。
思えば東江の都の地を踏む事は叶わなかった。その上すぐに雲朱へと取って返す事になった。しかも東江から紫沈へは陸路ではなく雲朱を経由する海路を使うという。恐らく、人の他に物資を運ぶためだ。人も物も多くなればなるほど陸路は遅れが出るのに対し、船は大量の荷を運ぶのに非常に向いている。
では蘇軍は一体何を雲朱に、いや紫沈に運ぼうというのか。
『紫沈への街道に大量の兵士が送られていると聞きました』
そう、羅春梅が教えてくれたではないか。戦が始まると。つまり玲馨も乗っているこの船は兵站のための巨大軍船なのだ。
そんなものに乗って紫沈に帰還するのだと思うと、自嘲めいた笑いがこみ上げてくる。まるで逆心の宦官になった気分だ。
行きに比べて揺れの少ない船内で、玲馨は考える。
蘇家にとっての玲馨の立場は自分でも何と表現して良いか分からなかった。尤もらしい言い方をするなら捕虜だろうが、その割には待遇が良すぎる。海の上とはいえ船室に監禁されるような事もなく自由に出入りが許されていた。
或いは、このまま無事に戊陽のもとへと帰してもらえるかも知れないなどと考えてしまいそうになっては、何度も自分を戒めた。
蘇智望は言っていたではないか。「脈読指南書」は蘇家門外不出のものだと。それを脈読の才に恵まれた訳でもない玲馨に見せた以上、蘇家にとって玲馨はただで逃がす訳にはいかない存在になったと考えるべきだ。
だから捕虜だ。それ以外に上手い言葉が見つからず、何故紫沈へ向かう蘇軍への同行を許されているかも分からないまま、軍用船らしき巨大船に乗せられて数時辰。
思えば最初に雲朱へ到着した辺りから、もはや玲馨の身は玲馨の自由にはならなくなってしまっていた。玲馨の与り知らぬところで起こっている事象にそうとは知らず巻き込まれ、そして振り回されているという感覚が強くある。
この状況で果たして玲馨に何が出来るだろうか。力も権力もないただの宦官に、一体何が──。
扉を叩く音がして思考が途切れた。
返事をすると控えめに扉が開けられる。四郎によく似た蘇智望の侍女が中へ入ってきた。
「金王様がお呼びです」
兵士に引き渡すでもなく彼女がそのまま蘇智望のもとまで先導してくれるらしい。やはり捕虜と呼ぶには扱いが良すぎる。いかに宦官といえども腕力も体格も女には勝る玲馨が、侍女の制止を振り切って死なばもろとも海に身を投げるとは誰も考えつかないものだろうか。或いは、玲馨にそれほどの価値がないと見下げられているのか。
侍女について行った先は船の甲板だった。
甲板にはあちこちに小さめの弩が据えられており、玲馨がこの船を軍用船だと思ったのはそのせいだ。
これからどこぞに戦いを仕掛けるのでもなければ持ち出す必要の無いはずのもの。やはり蘇智望は紫沈と事を構えるつもりらしい。
一度甲板を経由して船首側から再び船内へ入っていく。人の行き交いがあって騒々しくなりやすい梯子の付近を避けて二部屋ほど通り過ぎたところで侍女が立ち止まる。
蘇智望は船内でも広めに作られた一室で玲馨を待っていた。部屋の中には背の低い卓と椅子があり、卓の上には地図が広げられている。壁には円形の把手がいくつも飾られており、思わず玲馨がそちらに目を向けると「私の趣味ではないよ」と蘇智望が笑った。笑うのか、と思った。この状況で親しげな態度を見せる蘇智望を玲馨はどう捉えるべきか決めかねる。
椅子と言っても一人掛けの長椅子だけが置かれたこの部屋ではどこに居るべきかに迷う。つい数時辰前にも同じ状況だった事を思い出したが、侍女がすぐに椅子を奥から運んできてくれた。蘇智望が先手を打って「腰を下ろしなさい」と言うので、玲馨は地図の乗った卓を挟んで蘇智望の正面に座る。
蘇智望が口を開いたのは、侍女が部屋を出ていくのを待ってからだった。
「さて、続きを話そうか」
「そなたは戊陽をどう考える?」
思ってもいないような質問だった。その上漠然としてしている。
宦官として仕える主人をどう考えるか。そんなものはもちろん答えは決まりきっているので、蘇智望もよもや退屈な答えが欲しい訳ではないだろう。
蘇智望の表情は穏やかだ。彼は常に微笑しているような柔らかい表情の中に、冴え冴えとした冷たさを放っていて、彼の心の裡を読むのは容易ではない。
玲馨を測ろうとしているのか。或いは戊陽を測ろうとしているのか。
「……もし、生まれる時代が違っていたら、と思った事があります」
自分より一枚も二枚も上手の人間を謀る事は難しい。そう考えて結局正直に話す事にした。
「もう少し平和な時代であったなら、陛下の御世はさぞ人々が生きやすいものになったろうと、そう思うのです。その一方で、あの方が玉座に座る事もなかったろう、と」
玲馨は慎重に言葉を選びつつも、なるべく迂遠な言い回しにならないよう率直に語る。
決して皇帝の器ではないとは考えないが、それでも戊陽の持つ気質は乱れた世の中を強引に纏めあげて多少の犠牲を払いながらも邁進していくには向いていない。安定した世の中をより良く発展させていけるような時代なら、きっと名君になれただろう。
そして何より、「黄」の字を持たない第二皇弟である戊陽は、次男という立場に相応しいだけの働きをしたに違いないと思うのだ。
戊陽は兄弟の仲を取り持つのに長けていた。人と人を繋げる力があるのだ。その力があればきっと兄弟五人で沈という国を能く治められるはずだった。
「言っても詮無い事と、これまで言葉にした事はありませんでした。どうか金王様の御心の内に留めておいて下さい」
「つまりそなたは、戊陽に相応しい椅子は玉座ではないと申すのだな?」
乱暴に纏めてしまえばそういう事になる。
玲馨は頷く代わりに目線を下げた。すると視界に地図が映る。
「そなたは、玉座から下りて解き放たれた戊陽を見たいと思うか?」
「……それは」
見たい、とすぐには答えられなかった。彼に仕える宦官としての矜持が、玲馨の本音とせめぎ合って口に蓋をしたのだ。
玲馨はもうずっと、戊陽から玉座を奪ってしまう方法を考え続けていた。そのために可能性のある第五皇弟の小杰の宦官にもなれば、四郎の正体を戊陽にも報告しなかった。
于雨の事だってそうだ。彼の脈読の力が小杰を皇帝に押し上げるのに役立ちはしないかと考えて、彼を永参から匿った。于雨は玲馨に恩義を感じてくれているようだが、あの子の純真につけ込んだくせに最後は結局あの子自身に何もかもを押し付けてしまった。それとて、或いは四郎が何某かの権力者と通じている可能性に賭けたのだ。結果、四郎は東江側の間諜で、恐らく東江は小杰を擁立しようとしている。奇しくも玲馨の目論見は上手く嵌っていた訳だ。
皇帝なんて柄でもない事に苦悩する戊陽を、玲馨は見ていたくなかった。もし事が成れば戊陽に恨まれるかも知れないと思いながらも、どうしても以前までの戊陽に戻ってほしかった。
皇帝になってから彼が大きく変わった訳ではない。普段接していても以前までの明るく朗らかで、少しお調子者の雰囲気は大人になっても残したままだ。だけど、時々思い出したかのように、ふ、と影が差すのだ。
出会った頃から玉座に座るまでの戊陽は、暗澹とした所の無い真っ直ぐな少年だった。挫折を知らない甘さはあっても、理解する心を忘れない人だった。だから本来なら後継争いで殺伐とする皇子同士の関係も過去に類を見ないほど良好で、だからこそ長兄が毒殺された事は戊陽にとって瑕疵となってしまった。
回ってくるなど露も思わなかった玉座に座った日、戊陽は影でこう揶揄された。「戊陽皇帝は気に入りの宦官にでも兵士をたらしこめと命令したのだろう。そして黄昌を殺せば昇進か女を約束させたのだ」
崩れかけの玉座を手に入れるのに、果たして肉親一人と若い兵士の命を奪う事は釣り合っていたのだろうか。それなのに、ありもしない悪い噂は絶えなかった。
もう、昔のようにはいかないのかも知れない。けれど、玲馨は沈の統治を他人に全部押し付けて、戊陽を宮廷から遠ざけたかった。
何もかもは全て、玲馨自身の心を満足させるためだけに。
「私は、この世は陛下に相応しくないと考えます」
長い沈黙の後、玲馨は蘇智望に向かってはっきりとそう答えた。
「世こそが相応しくないと言うか」
ふ、と笑ったのは一瞬の事だった。蘇智望もまた玲馨の視線を正面から受け止めて、微笑を消して言う。
「では、これは私からの頼み事だ。そなた、戊陽のために死んでくれるか」
*
戊陽が即位してから訪れる初めての夏だった。無理が祟って戊陽が昏倒した。
黄昌が毒殺されたのを受けて、官吏たちは影で戊陽をこう噂した。「実兄を暗殺してまで玉座に座りたかったのか」と。
噂とは、どうしてか本人のもとまで聞こえてくるものだ。兄の死でただでさえ心身ともに参っていた戊陽にとって、それは酷い仕打ちであった。
皇帝を謗るような官吏など罷免してしまえば良い。だが、仮に戊陽がそれを命じても、戊陽の言葉は煙に巻かれてうやむやにされてお終いだ。ただ、堪えるしかなかった。
それどころか、皇族としての教育は受けても天子としての教育は受けてこなかった戊陽に、政の中枢を担う三省の長官たちは好き勝手な意見を押し付け意のままに操ろうとした。本来は皇帝の支えとなるべき宰相には、文字通りの傀儡を据えて。
分からないながらにどうにか皇帝のように振る舞って、皇帝として問題にならない判断を必死で考えて。ただそれだけでも戊陽の精神は疲弊していった。
戊陽が倒れる前日の事だ。
「何だと……? 今の言葉に偽りは無いのだな!?」
「は、はい」
怯えたように肩を竦める若い兵士は牢からの伝令だった。獄中で死者が出たという。その死者は、先日黄昌毒殺の首謀者であると濡れ衣を着せられた文官で、戊陽がひとまず牢に入れるようにと指示したはずだった。
「牢へ行く」
「はい」
伝令が来たのは上奏の場が間もなく解散になるという頃だった。恐らく何某かが頃合いを見計らうよう言いつけたのだろう。おかげで外廷に居た多くの官吏たちの知るところとなってしまった。
「殺してはならぬとあれだけ……!」
壁を殴りつけそうなほどの怒りを滲ませながら、城内を早足で移動していく。それに玲馨も従う。
紛れもなく林尚書令の指示だ。文官を拷問して首謀者に仕立て、戊陽の前に引っ立てたのも彼の仕業だった。分かっているのに、林隆宸に対して何も出来ない事が戊陽は悔しくてたまらないのだ。黄昌の暗殺にも関与しているはずだというのに、戊陽がそれを訴えたところで誰が信じるだろうか。
「陛下、どうか冷静になさいませ。興奮するほど相手の思うつぼです」
「……分かっている」
分かっていても、感情は理屈とは別のところで勝手に動くものだ。それでも月並みな言葉で彼を宥めるしか出来ない事が玲馨にも悔しさを感じさせた。
牢に辿り着いたが案の定既に始末がつけられた後だったらしい。死者が出たと言う割には牢番に慌てたところが無い。文官の男が囚われていた牢へ向かったところで最早得られる情報はあるまい。
「牢番、お前の知っている事を全て話せ」
「は……は!? へ、陛下!」
「先日牢に送られてきた文官の事だ。話せ」
「は、はいっ、その男なら深夜に突然呻き出してそのまま死んだと報告が入っています」
「夜の当番は誰だ?」
「それでしたら」
脱獄者はもちろん罪人と仲間の接触が無いように牢番たちは牢のすぐ近くに設けられた仮眠室を使い交代で見張りをしている。牢番が示した先には簡単に蹴破れそうな粗末な木戸があった。
「昨晩の見張りをしていた者は起きよ」
歳の頃と上等な衣を纏っていたおかげで、戊陽が皇帝だと辛うじて判断出来たらしい。起き抜けの兵士はしきりに瞬きを繰り返しながらもどうにか抱拳礼をしてみせる。
「昨晩、奥の牢で起きた事を詳らかに話せ」
「は。奥の牢に繋いでいた文官は夜中に苦しみ出し、少しと待たずに死にました」
「何故医者を呼ばなかった」
「呼ぶ暇もなくあっという間の事でしたので」
眠たげな声の割には文章を読み上げるかのように全く言い淀む素振りがない。探りを入れられた時のために話す事を予め決めていたのだ。
「では何故報せが遅れたのだ? あの文官は決して獄中で死なせて良いような者ではなかったのだぞ」
「それにつきましては、何分陛下もお休みの頃だろうから上奏の後にお伝えすべきという上官の判断に従いました」
「上官の名を申せ」
牢に繋がれていた文官は結局医者に診てもらう機会さえ与えられず、はっきりとした死因も分からないまま遺体は処分されてしまっていた。概ね予想通りだ。上官の名を聞きはしたが戊陽が直接本人に話を聞いても徒労に終わるだろう。林隆宸に辿り着く前に身代わりとなってさらなる犠牲者が増えるだけだ。
黄麟宮に戻り、着替えのためにと言って四郎さえも部屋から追い出してしまうと、ぐったりと椅子に座って戊陽が呟く。
「私が死なせたようなものだな……」
頭が痛むのだろう蟀谷の辺りを押さえるその顔色は青白い。
「そのような事は決してありません。陛下、少し休みましょう」
戊陽が皇帝となってからというもの何度口にしたか分からない台詞だ。もしかすると、眠るのが恐ろしいと感じてるのかも知れないと考えた事もある。それでも玲馨は言うしかないのだ、休めと。
冤罪を晴らせないまま死んでいった文官は北玄海出身の男だった。戴氏という地方貴族の男で家柄もはっきりとしており、もし本当に彼が皇帝暗殺の首謀者であるとすれば家ごと取り潰さなくてはならないような重大な事柄だ。しかし終ぞ誰も文官の生家について触れる事はなかった。当然戊陽も彼が濡れ衣を着せられていると知っているからこそ生家の事を口に出すはずがない。それを逆手に取って、男一人に罪を着せて事を片付けてしまった。
悪は、黄昌の暗殺から全てを企てた誰かだ。頭では戊陽も分かっているのだろう。だけど心が責めるのだ。お前が判断を間違ったせいで人が死んだぞ、と。
いずれ必ずこの事ははっきりとさせなくてはならない。だが今はまだその時ではない。
とにもかくにも戊陽に自分自身を労わるという事に気持ちを向けてもらうのが先決だ。
「いずれは」
緩慢に椅子から立ち上がり、戊陽がぽつりと零す。着替えるのだろうと思って玲馨も動き出す。
「母上の生家の事も、どうにかしなくてはと思っている」
どうにか、の内容を具体的には話さない。
「私はずっと、母上が後宮で寂しい思いをされているのは何か行き違いがあるのだと思っていた」
賢妃の従妹である東妃は昆人との混血児である事を理由に口さの無い者たちの良い的となってしまっているが、一方で生家からの支援は手厚い。東江を拝領する金王の実の姉なのだから当然だ。
しかし、金王の従姉であるはずの賢妃は長らく生家から冷遇されている。戊陽はそれとなく賢妃に訊ねようとしたが賢妃が生家について詳細に話す事は終ぞ無かったのだ。
今や皇帝の母であり国母となった賢妃だが、変わらず生家との仲は冷え切ったままだ。
何かがあるのだろう、東江に。だがその何かを賢妃から知る事は出来そうにない。
「もし、もしも……。母上さえもあの尚書令に加担しているとしたら、俺は──」
瞠目した戊陽のきらりと光る金の虹彩を見て玲馨はハッとなる。思わず戊陽の手を掴んでしまっていた。
「も、申し訳ございません」
「良い謝るな。玲馨、どうした?」
実母の裏切りなどあるはずもない。だから咄嗟に言葉の続きを言わせてはならないと思って、ただそれだけだった。
「……陛下には、今少し休養が必要かと」
賢妃の事を疑うなど、本当に疲れているのだ。しかし戊陽の表情は曇ってしまう。休め休めと耳に胼胝が出来るほど言われるその気持ちは玲馨とて分かっている。
「お顔の色が優れません。どうか、少しだけでも政務を休まれては」
「休めるものか」
ぴしりと拒絶するように冷たく返されてたじろぐ。戊陽がこんな風に感情的になって他者を拒むところなど見た事がなかった。
「休めば誰かが問題を解決してくれるのか? 尚書令たちが心底から私に傅くとでも!?」
ジジ、と短く蝉の鳴き声が間近でして、図らずも戊陽の言葉は遮られた。それから顔を片手で覆い低く「すまない」と呟く。
「……言い過ぎた、忘れてくれ」
横から見た戊陽の顔色はいっそう血の気が引いてしまっていた。しかし、今彼を構おうものなら今度こそ激昂するのではという恐怖があった。
そう、玲馨はこの時、初めて戊陽に対して恐怖した。大人の男性の怒鳴る声は、耳の奥から響いてこちらの意思を麻痺させてしまう。恐ろしいからその声に従わなくてはならないという気にさせられる。
縮こまった玲馨の体は、しばらくの間寝所に向かう戊陽を追いかける事が出来なかった。
恐ろしいという感覚が消える頃、急いで戊陽の後を追おうとすると、爪先に軽く何かが当たって床を滑っていった。視線をそちらへ向けると、それは蝉の死骸だった。蝉は最後の鳴き声を振り絞って、短い命を終えていた。
腹を上向けぴくりとも動かなくなった蝉に、何故か言い知れない寒気のような物を感じていた。あれだけ煩い蝉も死んでしまえばこんなにも静かで、ゾッと背筋が冷たくなっていく。
いても立ってもいられなくなって、玲馨は走るようにして部屋を出た。
その翌日である。戊陽は朝議を終えた後、黄麟宮に戻るなり昏倒する事になる。その間、玲馨はとても生きた心地がしなかった。目の前であえかな呼吸を繰り返し、小さく上下する胸を見続けなければ、気が触れそうだった。
あの時からだろう。戊陽をこのままにしておく事は出来ないと考え始めたのは。
何より、戊陽に対して一度でも恐怖を感じた自分が信じられなかった。
こんな事になってしまったのは、全ては宮廷に蔓延る魔が原因だ。魔を退ける術がないのなら、戊陽をここから逃がせばいい──。
玉座は、きっと戊陽には相応しくなかったのだ。
「これから紫沈へ向かう。そなたも着いてくるか? 玲馨」
自分は何をしに東江まで出向いて来たのかを思い出す。
玲馨は皇帝の一助となるべく「卜師」についての手がかりを探しにここへ来た。想定していた形とは随分違っていたが、蘇智望に教えられた事は確かに卜師に関する手がかりだと言えよう。問題は卜師本人との繋がりを得られなかった事だが、玲馨にはもともとあまりそのつもりはなかった。卜師など見つからなければ良いと思いながら、熔岩の山道を歩いていた。
とにかく収穫はあったのだ。手土産には十分だろう。何よりこの男が戊陽に対して何をするつもりなのか分からない以上、玲馨は戊陽の遣いよりも蘇智望の動向を探る事を優先したかった。蘇智望についていかない選択をしたところで、玲馨はこのまま囚われになるだけだろう。
「私などがお供しても良いのであれば」
──連れて行って下さい。
蘇智望にそう答えたのが数時辰前の事だ。今は三叉湾の静かな海上を、恐ろしく巨大な帆船が船首の篝火と灯台の灯りだけを頼りに南東へ向かって航行している。玲馨はそのまさに船に乗り合わせていた。
往路に乗せられた船でも十分に大きいと感じたのに、今度はその倍もあろうかという巨大船。それが一隻どころか五隻も連なるようにして雲朱の港を目指していた。
思えば東江の都の地を踏む事は叶わなかった。その上すぐに雲朱へと取って返す事になった。しかも東江から紫沈へは陸路ではなく雲朱を経由する海路を使うという。恐らく、人の他に物資を運ぶためだ。人も物も多くなればなるほど陸路は遅れが出るのに対し、船は大量の荷を運ぶのに非常に向いている。
では蘇軍は一体何を雲朱に、いや紫沈に運ぼうというのか。
『紫沈への街道に大量の兵士が送られていると聞きました』
そう、羅春梅が教えてくれたではないか。戦が始まると。つまり玲馨も乗っているこの船は兵站のための巨大軍船なのだ。
そんなものに乗って紫沈に帰還するのだと思うと、自嘲めいた笑いがこみ上げてくる。まるで逆心の宦官になった気分だ。
行きに比べて揺れの少ない船内で、玲馨は考える。
蘇家にとっての玲馨の立場は自分でも何と表現して良いか分からなかった。尤もらしい言い方をするなら捕虜だろうが、その割には待遇が良すぎる。海の上とはいえ船室に監禁されるような事もなく自由に出入りが許されていた。
或いは、このまま無事に戊陽のもとへと帰してもらえるかも知れないなどと考えてしまいそうになっては、何度も自分を戒めた。
蘇智望は言っていたではないか。「脈読指南書」は蘇家門外不出のものだと。それを脈読の才に恵まれた訳でもない玲馨に見せた以上、蘇家にとって玲馨はただで逃がす訳にはいかない存在になったと考えるべきだ。
だから捕虜だ。それ以外に上手い言葉が見つからず、何故紫沈へ向かう蘇軍への同行を許されているかも分からないまま、軍用船らしき巨大船に乗せられて数時辰。
思えば最初に雲朱へ到着した辺りから、もはや玲馨の身は玲馨の自由にはならなくなってしまっていた。玲馨の与り知らぬところで起こっている事象にそうとは知らず巻き込まれ、そして振り回されているという感覚が強くある。
この状況で果たして玲馨に何が出来るだろうか。力も権力もないただの宦官に、一体何が──。
扉を叩く音がして思考が途切れた。
返事をすると控えめに扉が開けられる。四郎によく似た蘇智望の侍女が中へ入ってきた。
「金王様がお呼びです」
兵士に引き渡すでもなく彼女がそのまま蘇智望のもとまで先導してくれるらしい。やはり捕虜と呼ぶには扱いが良すぎる。いかに宦官といえども腕力も体格も女には勝る玲馨が、侍女の制止を振り切って死なばもろとも海に身を投げるとは誰も考えつかないものだろうか。或いは、玲馨にそれほどの価値がないと見下げられているのか。
侍女について行った先は船の甲板だった。
甲板にはあちこちに小さめの弩が据えられており、玲馨がこの船を軍用船だと思ったのはそのせいだ。
これからどこぞに戦いを仕掛けるのでもなければ持ち出す必要の無いはずのもの。やはり蘇智望は紫沈と事を構えるつもりらしい。
一度甲板を経由して船首側から再び船内へ入っていく。人の行き交いがあって騒々しくなりやすい梯子の付近を避けて二部屋ほど通り過ぎたところで侍女が立ち止まる。
蘇智望は船内でも広めに作られた一室で玲馨を待っていた。部屋の中には背の低い卓と椅子があり、卓の上には地図が広げられている。壁には円形の把手がいくつも飾られており、思わず玲馨がそちらに目を向けると「私の趣味ではないよ」と蘇智望が笑った。笑うのか、と思った。この状況で親しげな態度を見せる蘇智望を玲馨はどう捉えるべきか決めかねる。
椅子と言っても一人掛けの長椅子だけが置かれたこの部屋ではどこに居るべきかに迷う。つい数時辰前にも同じ状況だった事を思い出したが、侍女がすぐに椅子を奥から運んできてくれた。蘇智望が先手を打って「腰を下ろしなさい」と言うので、玲馨は地図の乗った卓を挟んで蘇智望の正面に座る。
蘇智望が口を開いたのは、侍女が部屋を出ていくのを待ってからだった。
「さて、続きを話そうか」
「そなたは戊陽をどう考える?」
思ってもいないような質問だった。その上漠然としてしている。
宦官として仕える主人をどう考えるか。そんなものはもちろん答えは決まりきっているので、蘇智望もよもや退屈な答えが欲しい訳ではないだろう。
蘇智望の表情は穏やかだ。彼は常に微笑しているような柔らかい表情の中に、冴え冴えとした冷たさを放っていて、彼の心の裡を読むのは容易ではない。
玲馨を測ろうとしているのか。或いは戊陽を測ろうとしているのか。
「……もし、生まれる時代が違っていたら、と思った事があります」
自分より一枚も二枚も上手の人間を謀る事は難しい。そう考えて結局正直に話す事にした。
「もう少し平和な時代であったなら、陛下の御世はさぞ人々が生きやすいものになったろうと、そう思うのです。その一方で、あの方が玉座に座る事もなかったろう、と」
玲馨は慎重に言葉を選びつつも、なるべく迂遠な言い回しにならないよう率直に語る。
決して皇帝の器ではないとは考えないが、それでも戊陽の持つ気質は乱れた世の中を強引に纏めあげて多少の犠牲を払いながらも邁進していくには向いていない。安定した世の中をより良く発展させていけるような時代なら、きっと名君になれただろう。
そして何より、「黄」の字を持たない第二皇弟である戊陽は、次男という立場に相応しいだけの働きをしたに違いないと思うのだ。
戊陽は兄弟の仲を取り持つのに長けていた。人と人を繋げる力があるのだ。その力があればきっと兄弟五人で沈という国を能く治められるはずだった。
「言っても詮無い事と、これまで言葉にした事はありませんでした。どうか金王様の御心の内に留めておいて下さい」
「つまりそなたは、戊陽に相応しい椅子は玉座ではないと申すのだな?」
乱暴に纏めてしまえばそういう事になる。
玲馨は頷く代わりに目線を下げた。すると視界に地図が映る。
「そなたは、玉座から下りて解き放たれた戊陽を見たいと思うか?」
「……それは」
見たい、とすぐには答えられなかった。彼に仕える宦官としての矜持が、玲馨の本音とせめぎ合って口に蓋をしたのだ。
玲馨はもうずっと、戊陽から玉座を奪ってしまう方法を考え続けていた。そのために可能性のある第五皇弟の小杰の宦官にもなれば、四郎の正体を戊陽にも報告しなかった。
于雨の事だってそうだ。彼の脈読の力が小杰を皇帝に押し上げるのに役立ちはしないかと考えて、彼を永参から匿った。于雨は玲馨に恩義を感じてくれているようだが、あの子の純真につけ込んだくせに最後は結局あの子自身に何もかもを押し付けてしまった。それとて、或いは四郎が何某かの権力者と通じている可能性に賭けたのだ。結果、四郎は東江側の間諜で、恐らく東江は小杰を擁立しようとしている。奇しくも玲馨の目論見は上手く嵌っていた訳だ。
皇帝なんて柄でもない事に苦悩する戊陽を、玲馨は見ていたくなかった。もし事が成れば戊陽に恨まれるかも知れないと思いながらも、どうしても以前までの戊陽に戻ってほしかった。
皇帝になってから彼が大きく変わった訳ではない。普段接していても以前までの明るく朗らかで、少しお調子者の雰囲気は大人になっても残したままだ。だけど、時々思い出したかのように、ふ、と影が差すのだ。
出会った頃から玉座に座るまでの戊陽は、暗澹とした所の無い真っ直ぐな少年だった。挫折を知らない甘さはあっても、理解する心を忘れない人だった。だから本来なら後継争いで殺伐とする皇子同士の関係も過去に類を見ないほど良好で、だからこそ長兄が毒殺された事は戊陽にとって瑕疵となってしまった。
回ってくるなど露も思わなかった玉座に座った日、戊陽は影でこう揶揄された。「戊陽皇帝は気に入りの宦官にでも兵士をたらしこめと命令したのだろう。そして黄昌を殺せば昇進か女を約束させたのだ」
崩れかけの玉座を手に入れるのに、果たして肉親一人と若い兵士の命を奪う事は釣り合っていたのだろうか。それなのに、ありもしない悪い噂は絶えなかった。
もう、昔のようにはいかないのかも知れない。けれど、玲馨は沈の統治を他人に全部押し付けて、戊陽を宮廷から遠ざけたかった。
何もかもは全て、玲馨自身の心を満足させるためだけに。
「私は、この世は陛下に相応しくないと考えます」
長い沈黙の後、玲馨は蘇智望に向かってはっきりとそう答えた。
「世こそが相応しくないと言うか」
ふ、と笑ったのは一瞬の事だった。蘇智望もまた玲馨の視線を正面から受け止めて、微笑を消して言う。
「では、これは私からの頼み事だ。そなた、戊陽のために死んでくれるか」
*
戊陽が即位してから訪れる初めての夏だった。無理が祟って戊陽が昏倒した。
黄昌が毒殺されたのを受けて、官吏たちは影で戊陽をこう噂した。「実兄を暗殺してまで玉座に座りたかったのか」と。
噂とは、どうしてか本人のもとまで聞こえてくるものだ。兄の死でただでさえ心身ともに参っていた戊陽にとって、それは酷い仕打ちであった。
皇帝を謗るような官吏など罷免してしまえば良い。だが、仮に戊陽がそれを命じても、戊陽の言葉は煙に巻かれてうやむやにされてお終いだ。ただ、堪えるしかなかった。
それどころか、皇族としての教育は受けても天子としての教育は受けてこなかった戊陽に、政の中枢を担う三省の長官たちは好き勝手な意見を押し付け意のままに操ろうとした。本来は皇帝の支えとなるべき宰相には、文字通りの傀儡を据えて。
分からないながらにどうにか皇帝のように振る舞って、皇帝として問題にならない判断を必死で考えて。ただそれだけでも戊陽の精神は疲弊していった。
戊陽が倒れる前日の事だ。
「何だと……? 今の言葉に偽りは無いのだな!?」
「は、はい」
怯えたように肩を竦める若い兵士は牢からの伝令だった。獄中で死者が出たという。その死者は、先日黄昌毒殺の首謀者であると濡れ衣を着せられた文官で、戊陽がひとまず牢に入れるようにと指示したはずだった。
「牢へ行く」
「はい」
伝令が来たのは上奏の場が間もなく解散になるという頃だった。恐らく何某かが頃合いを見計らうよう言いつけたのだろう。おかげで外廷に居た多くの官吏たちの知るところとなってしまった。
「殺してはならぬとあれだけ……!」
壁を殴りつけそうなほどの怒りを滲ませながら、城内を早足で移動していく。それに玲馨も従う。
紛れもなく林尚書令の指示だ。文官を拷問して首謀者に仕立て、戊陽の前に引っ立てたのも彼の仕業だった。分かっているのに、林隆宸に対して何も出来ない事が戊陽は悔しくてたまらないのだ。黄昌の暗殺にも関与しているはずだというのに、戊陽がそれを訴えたところで誰が信じるだろうか。
「陛下、どうか冷静になさいませ。興奮するほど相手の思うつぼです」
「……分かっている」
分かっていても、感情は理屈とは別のところで勝手に動くものだ。それでも月並みな言葉で彼を宥めるしか出来ない事が玲馨にも悔しさを感じさせた。
牢に辿り着いたが案の定既に始末がつけられた後だったらしい。死者が出たと言う割には牢番に慌てたところが無い。文官の男が囚われていた牢へ向かったところで最早得られる情報はあるまい。
「牢番、お前の知っている事を全て話せ」
「は……は!? へ、陛下!」
「先日牢に送られてきた文官の事だ。話せ」
「は、はいっ、その男なら深夜に突然呻き出してそのまま死んだと報告が入っています」
「夜の当番は誰だ?」
「それでしたら」
脱獄者はもちろん罪人と仲間の接触が無いように牢番たちは牢のすぐ近くに設けられた仮眠室を使い交代で見張りをしている。牢番が示した先には簡単に蹴破れそうな粗末な木戸があった。
「昨晩の見張りをしていた者は起きよ」
歳の頃と上等な衣を纏っていたおかげで、戊陽が皇帝だと辛うじて判断出来たらしい。起き抜けの兵士はしきりに瞬きを繰り返しながらもどうにか抱拳礼をしてみせる。
「昨晩、奥の牢で起きた事を詳らかに話せ」
「は。奥の牢に繋いでいた文官は夜中に苦しみ出し、少しと待たずに死にました」
「何故医者を呼ばなかった」
「呼ぶ暇もなくあっという間の事でしたので」
眠たげな声の割には文章を読み上げるかのように全く言い淀む素振りがない。探りを入れられた時のために話す事を予め決めていたのだ。
「では何故報せが遅れたのだ? あの文官は決して獄中で死なせて良いような者ではなかったのだぞ」
「それにつきましては、何分陛下もお休みの頃だろうから上奏の後にお伝えすべきという上官の判断に従いました」
「上官の名を申せ」
牢に繋がれていた文官は結局医者に診てもらう機会さえ与えられず、はっきりとした死因も分からないまま遺体は処分されてしまっていた。概ね予想通りだ。上官の名を聞きはしたが戊陽が直接本人に話を聞いても徒労に終わるだろう。林隆宸に辿り着く前に身代わりとなってさらなる犠牲者が増えるだけだ。
黄麟宮に戻り、着替えのためにと言って四郎さえも部屋から追い出してしまうと、ぐったりと椅子に座って戊陽が呟く。
「私が死なせたようなものだな……」
頭が痛むのだろう蟀谷の辺りを押さえるその顔色は青白い。
「そのような事は決してありません。陛下、少し休みましょう」
戊陽が皇帝となってからというもの何度口にしたか分からない台詞だ。もしかすると、眠るのが恐ろしいと感じてるのかも知れないと考えた事もある。それでも玲馨は言うしかないのだ、休めと。
冤罪を晴らせないまま死んでいった文官は北玄海出身の男だった。戴氏という地方貴族の男で家柄もはっきりとしており、もし本当に彼が皇帝暗殺の首謀者であるとすれば家ごと取り潰さなくてはならないような重大な事柄だ。しかし終ぞ誰も文官の生家について触れる事はなかった。当然戊陽も彼が濡れ衣を着せられていると知っているからこそ生家の事を口に出すはずがない。それを逆手に取って、男一人に罪を着せて事を片付けてしまった。
悪は、黄昌の暗殺から全てを企てた誰かだ。頭では戊陽も分かっているのだろう。だけど心が責めるのだ。お前が判断を間違ったせいで人が死んだぞ、と。
いずれ必ずこの事ははっきりとさせなくてはならない。だが今はまだその時ではない。
とにもかくにも戊陽に自分自身を労わるという事に気持ちを向けてもらうのが先決だ。
「いずれは」
緩慢に椅子から立ち上がり、戊陽がぽつりと零す。着替えるのだろうと思って玲馨も動き出す。
「母上の生家の事も、どうにかしなくてはと思っている」
どうにか、の内容を具体的には話さない。
「私はずっと、母上が後宮で寂しい思いをされているのは何か行き違いがあるのだと思っていた」
賢妃の従妹である東妃は昆人との混血児である事を理由に口さの無い者たちの良い的となってしまっているが、一方で生家からの支援は手厚い。東江を拝領する金王の実の姉なのだから当然だ。
しかし、金王の従姉であるはずの賢妃は長らく生家から冷遇されている。戊陽はそれとなく賢妃に訊ねようとしたが賢妃が生家について詳細に話す事は終ぞ無かったのだ。
今や皇帝の母であり国母となった賢妃だが、変わらず生家との仲は冷え切ったままだ。
何かがあるのだろう、東江に。だがその何かを賢妃から知る事は出来そうにない。
「もし、もしも……。母上さえもあの尚書令に加担しているとしたら、俺は──」
瞠目した戊陽のきらりと光る金の虹彩を見て玲馨はハッとなる。思わず戊陽の手を掴んでしまっていた。
「も、申し訳ございません」
「良い謝るな。玲馨、どうした?」
実母の裏切りなどあるはずもない。だから咄嗟に言葉の続きを言わせてはならないと思って、ただそれだけだった。
「……陛下には、今少し休養が必要かと」
賢妃の事を疑うなど、本当に疲れているのだ。しかし戊陽の表情は曇ってしまう。休め休めと耳に胼胝が出来るほど言われるその気持ちは玲馨とて分かっている。
「お顔の色が優れません。どうか、少しだけでも政務を休まれては」
「休めるものか」
ぴしりと拒絶するように冷たく返されてたじろぐ。戊陽がこんな風に感情的になって他者を拒むところなど見た事がなかった。
「休めば誰かが問題を解決してくれるのか? 尚書令たちが心底から私に傅くとでも!?」
ジジ、と短く蝉の鳴き声が間近でして、図らずも戊陽の言葉は遮られた。それから顔を片手で覆い低く「すまない」と呟く。
「……言い過ぎた、忘れてくれ」
横から見た戊陽の顔色はいっそう血の気が引いてしまっていた。しかし、今彼を構おうものなら今度こそ激昂するのではという恐怖があった。
そう、玲馨はこの時、初めて戊陽に対して恐怖した。大人の男性の怒鳴る声は、耳の奥から響いてこちらの意思を麻痺させてしまう。恐ろしいからその声に従わなくてはならないという気にさせられる。
縮こまった玲馨の体は、しばらくの間寝所に向かう戊陽を追いかける事が出来なかった。
恐ろしいという感覚が消える頃、急いで戊陽の後を追おうとすると、爪先に軽く何かが当たって床を滑っていった。視線をそちらへ向けると、それは蝉の死骸だった。蝉は最後の鳴き声を振り絞って、短い命を終えていた。
腹を上向けぴくりとも動かなくなった蝉に、何故か言い知れない寒気のような物を感じていた。あれだけ煩い蝉も死んでしまえばこんなにも静かで、ゾッと背筋が冷たくなっていく。
いても立ってもいられなくなって、玲馨は走るようにして部屋を出た。
その翌日である。戊陽は朝議を終えた後、黄麟宮に戻るなり昏倒する事になる。その間、玲馨はとても生きた心地がしなかった。目の前であえかな呼吸を繰り返し、小さく上下する胸を見続けなければ、気が触れそうだった。
あの時からだろう。戊陽をこのままにしておく事は出来ないと考え始めたのは。
何より、戊陽に対して一度でも恐怖を感じた自分が信じられなかった。
こんな事になってしまったのは、全ては宮廷に蔓延る魔が原因だ。魔を退ける術がないのなら、戊陽をここから逃がせばいい──。
玉座は、きっと戊陽には相応しくなかったのだ。
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