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完結編
34王不見王
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風が雲を運び、雲が雨を降らせ、雨は雷鳴を轟かせる。
空が厚い雲に覆われるとたちまち大粒の雨が降り出して、沈に闇の帳が降りた。
途中二名の武官を李将軍が見つけて護衛に付け、四人で山芒から引き返す。休まず急げば二日の距離を僅かな休憩を挟んでどうにか三日のうちに紫沈まで戻ってきた。
紫沈に着くなり空は見計らったように雨を降らした。甲冑を着込みただでさえ重いというのに、ぐっしょりと水を吸った衣が追い打ちをかける。
「陛下、何やら中が騒がしいようです」
顎から滴る雫を拭いながら李将軍が城壁の向こうを見透かすように目を細める。
「ああ……剣戟が聞こえる」
威勢の良い掛け声と、悲鳴、絶叫。辛新から聞かされた事は真実だったのだ。
攻めてきたのが東江軍だと報告を受けていた戊陽たちは東江軍とかち合わないよう馬を東門に走らせる。
「へ、陛下!!」
東門の門衛が戊陽の姿を見つけると、たちまち泣きそうなほどに表情を崩れさせた。
「中はどうなっている? 報告せよ!」
「西方から侵攻してきた東江軍と禁軍が交戦中です。始めはどうにか西門付近に留めていたのですが、徐々に押されて紫沈の西部が陥落しました」
「つまり民の暮らす町が落ちたというのだな」
「はい……」
門を完全に空っぽにする訳にはいかずその場から動けない門衛は悔しげな表情で答えた。
道中、午門を破られ完全に城を占拠されている事を覚悟していたため、最悪の想定には至っていない。だが、紫沈の民が人質になったのでは最悪の次に悪いようなものだ。
一刻も早く前線の状況を直に確認したいところだが、このまま紫沈の町を西に向かって走っていく訳にはいかない。城の北側に回って裏から禁軍と合流するべきだと李将軍と相談して決めると、馬で北東の道を北に向かって進んでいく。
緊急時以外には使う事の無い城の裏手にある北門を、護衛につけていた兵士たちに強引に破らせればもう目の前には黄麟宮の屋根が見えた。
「お前たちのうち一人は後宮内の避難がどうなっているか確認し、もう一人は馬を厩舎へ」
李将軍に指示を出された二人は短く返事をして各々の目的のために離れていく。
「陛下、我々は外廷へ急ぎましょう」
「ああ」
馬では走りにくいほど狭い路地を暫く行くと見慣れた場所に出る。外廷だ。外廷前では数十から百ほどの禁軍兵が守りを固めていた。
兵士たちは戊陽と李将軍の姿を見つけると口々に「李将軍」「陛下!」と叫び戊陽たちに向かって抱拳礼をする。
「良い! お前たちは引き続き外を警戒せよ!」
李将軍が号令すると勇ましく返事をしてから元の配置に戻っていった。
状況は刻々と悪化しているようだがまだ禁軍兵たちの心は折れていない。伊達にあの厳しい事で有名な李将軍が鍛えた兵ではないという事だ。
急ぎ足で殿舎の中へと入ると、文官たちが頭を突き合わせて何やら話し合っていた。すぐに戊陽の姿を一人が見つけ「陛下が戻られましたぞ!」と叫ぶと、戊陽に気付いた文官たちはそれぞれに違った反応を見せる。
「ご無事でしたか陛下!」
この男は戊陽の帰還を喜んでいる。出身は山芒だ。
「お戻りになられてよう御座いました」
こちらは北玄海の出身で、表情の裏が読めない。計画を知らされていたなら戊陽が戻った事を不思議に思っているだろう。
「私どもではこの状況を何とするべきか判断しかねておりました」
雲朱出身のこの男はよっぽど分かりやすく眉間に皺を寄せている。自分が不満たらたらの顔をしている事を自覚していないのだろうか。
そして、西出身の官吏の一部がごっそりと消えている。その顔ぶれを思い出した時、共通するのは一体何なのか。東江の貴族でありながらこの場に留まっている者たちの表情は芳しくない。事態を知らせていたとは到底思えない反応だ。
「いや……そうか」
──分家だ。汪氏と縁の深い貴族が軒並み姿を見せていない。
やはり西側の侵略に間違いないが、西と一言に言っても蘇ではなく汪氏、つまり戊陽の母の生家が中心となって事を起こしているらしいと気付く。
賢妃の生家のある東江の状況は複雑だ。長く宗家と分家は水面下で対立しており、表向き宗家に従わなくてはならないために分家の子女であった賢妃は宗家である蘇家の後見を得られていない。そのせいで後宮内での立場も低ければ、即位した戊陽の権威も無きに等しいものだった。
それでも二年前、戊陽に玉座が回された背景には汪氏の根回しがあったのだろうと戊陽は考えていた。曲がりなりにも分家の娘が産んだ皇子とあって、東江内部の事情を悟らせないために蘇氏も黙認しているのだろうと。
しかしここに来て東江の紫沈侵攻には何の意味があるのだろうか。
「陛下、山芒へ派遣した兵はどうなさいました?」
「置いてきた」
北玄海と練族、そして汪氏は共謀していると考えるべきだ。やはり山芒の防衛は状況を決める大きな一手になりかねない。その判断は間違っていなかっただろう。
「それが良う御座います。敵は騎馬民族とて、寡兵を相手に我が故郷の戦力が劣るはずがありませぬからなぁ」
「山芒の事などこの際……陛下、どうか紫沈をお守り下さい!」
「……待て」
戊陽は玉座に向かうより先に広間全体を見渡して違和感に気付く。
「叔父上はどうした?」
戊陽が訊ねると、文官たちはさっと視線を逸らしていく。
「まさか前線に出られているのではあるまいな?」
禁軍は本来皇族を守るための戦力である。そのため指揮権を星昴に預けていた。が、それはあくまで建前であり、実際の指揮は武官が執るはずだった。
星昴は根っからの文人だ。木刀でさえ重さに耐えかね足の甲をぶつけるような人なのに、前線で指揮を執るなんてあってはならない。
「誰か答えよ!」
誰も彼もそっぽを向いて口を開こうとしないので焦れた戊陽が怒鳴ると、先程北門で別れた兵士のうち後宮の状況を確かめに行った兵士が血相を変えて外廷に走り込んで来た。
「ここは武官ごときが──」
「私が許す。申せ」
「陛下、急ぎ離宮にお出でください。星昴殿下が危篤で御座います」
危篤と聞いて思い出す景色がいくつかある。病に臥した父と燕太傅、そして、己が吐いた血に溺れるようにして事切れていた兄の遺体。
大切な者たちの命が失われていくのを何度も見た。きっとこれからも、自分が生きている限りそうして年長者たちを送り出す瞬間に立ち会う事になるのだろう。他者の命を救いたいと思う一方で、死に対してどこか諦念に似た慣れのようものを感じていたのも事実だ。
山芒で今まさに失われそうな命を必死になって助けながらも、隣で口を開けて待つ死の匂いを嗅いでは無理矢理意識の外へと追い出した。
今もまた、既に戦いが起こっている以上、敵味方の別なく死人が出ていると、頭では理解していた。
後宮までの道のりを雨に濡れた下草が衣の裾を汚すのも構わず進み、紅桃宮まで辿り着く。
「叔父上! 戊陽が参りました!」
叫びながら入ると気の利く宮女たちが素早く動き始め、湯や手拭いなどを用意し始める。
「ああ戊陽っ! 星昴様が……っ、どうか早く、早く診てあげて」
「ええ母上、必ず私がお救いします」
血の気が引いてしまっている賢妃を気丈な宮女が体を支える。
母と入れ替わりで寝台に寝かされている星昴を見て、賢妃が取り乱す理由が分かった。
──もう、助からない。
視線だけで侍医の姿を探すと、中年の宦官が忙しなく働く宮女たちの邪魔にならないよう端に避けてぽつ念として立っていた。
つまりそういう事だ。侍医も戊陽と同じ判断を下したのだ。
戊陽は星昴の腹に手を乗せる。
「叔父上」
体の中を巡る温かいものを掌を通して分け与えるような想像をしながら癒やしの力を使うが、手応えがまるで感じられない。向峻を治癒した時とは比べるべくもなく、まるで死人に力を向けているようだった。
「……戊陽か」
「叔父上、何か仰っしゃりたい事がおありなら、今話されませ」
息を呑む音が複数聞こえた。言葉の意味を理解して、星昴が唇を小さく震わせる。きっと、笑ったのだ。
「おまえの、兄の仇は……討った、ぞ」
かふっ、と弱々しく咳き込むと血が口の周りを汚した。それを宮女が拭おうとしたが、戊陽が止める。言葉を口にしているだけでも奇跡のような状況で、血を拭う僅かな時さえ惜しかった。
──よくこの状態で。
恐らく肺に傷が及んでいるせいで咳に血が混じるのだ。あと僅かにずれたところを刺されていれば即死だったろう。
ずれたおかげで戊陽は星昴を看取れるが、ずれたせいで星昴は苦しみながら死んでゆく。
戊陽は力を使うのをやめて、星昴の手を握った。
「あの子は、変わり者の私を、見て……っ、よく笑ったのだ。聡い子、だったが……おっ、とりし、ていた……」
人の手を握っているような感触はなく、冷たく固いものが戊陽の手の中で更に強張っていく。
「漸く解放して、やれる」
『お前はどうすれば死者を己の心から解放してやれる?』
「……戊陽、私をおまえ、の心に、閉じ込めるのは、勘弁して、くれ」
死期を悟り、死そのものを読み取ってしまう力は、ずっとずっと戊陽にとって恐ろしいもので、だけど傷も病も癒やせるこの力を持って生まれた事を恨んだ事は一度たりとて無かった。叔父らしい最期の言葉は、確かに戊陽を気遣ったものだった。どんなに分かりにくくとも、星昴は人らしい情のある人だった。
啜り泣く声を聞きながら、暫く星昴の手を握っていた。
「……ご遺体を弔わねばならない。が、そのためには東江の兵に引いてもらう必要がある」
東江の名を出した時、賢妃の目に悲しみが浮かんだ。
「母上、教えて下さい。あなたのご実家は、私のお祖父様は一体何をお考えなのです」
黄昌の仇とはどういう意味だろうか。黄昌を暗殺するよう命じたのは林隆宸ではなかったというのだろうか。
賢妃は暫く黙っていた。すぐに答えないという事は何も知らないという訳ではないのだろう。賢妃は一度ゆっくりと瞼を閉じてから、再び開く時には覚悟の決まった表情に変わっていた。
「あなたのお祖父様は、きっと過去に粛清されたあの日の思いを、忘れる事が出来なかったのです」
*
話は戊陽が紫沈へ戻るその前日まで遡る。東江軍が紫沈へと侵攻してから七日が経っていた。その間に城下の西部を東江軍に占領されてしまっていた。
紫沈を囲う城壁は地形に沿って築いたため西方に向かって円を描くように張り出している。また城下に住まう貴族たちも勢力ごとに東西南北に分かれて生活圏を築いているので、西の一帯は東江軍へ協力的だった。表向きには人質でも、実際には協力者という事だ。
西に集めた禁軍の兵力はあろうことか背後を西部に住まう汪氏の息のかかった平民に襲われて、やむなく後退を強いられる事となってしまった。そして戦況は西にある楼門を挟んで停滞する事になる。
戦況が完全に膠着状態に陥ると、星昴は東江軍に対して交渉を試みる事にした。無論それは星昴一人の考えではなく、戦線を維持するために尽力した彼の甥と部下の存在がある。
「敵は汪家の精鋭ですが、数はたったの五百。未だ他の場所からの侵入などもなく、完全に西部の貴族や民を頼りにした無謀な策だったようです」
巻子の文字を音読しているかのように報告するのは第四皇弟の亥壬だ。星昴とはまた方向性の違ういかにもな文人で、このところ目が悪くなってきているのが悩みだ。
「じゃあ奴らは一体何しに来たというんだ?」
こちらは亥壬とは全く逆に身幅も上背も兄弟の中で最も大きく育った第三皇弟で、名を緑歳という。声が大きいので隣に居た亥壬は迷惑そうな顔をして片耳を塞ぐ。
「他にも何か策はあったけど、失敗したという事ですよ」
「なら、このまま引き返していくのを待てばいいのか? 背後にあわいを抱えてたら兵站にも限界があるだろう」
「いいえ、恐らくそうはいきません」
見えにくい文字を読もうとする時のように目を険しく細めて亥壬は首を振る。
星昴率いる禁軍と紫沈の危機と聞いて参じた緑歳と亥壬は禁軍へと指示を出すために本営を軍の兵舎に置いていた。今ごろ外廷では官吏たちが雁首揃えてああでもないこうでもないと言い争っているだろうが、禁軍の指揮権は全て星昴にあるので無駄な争いである。そうした官吏たちの雑音に邪魔をされず尚且つ兵に指示を出しやすい場所となると禁軍の兵舎の他にはなかった。
「このまま戦いが長引けば必ず本軍、と呼んで良いかは分かりませんが宗家である蘇の軍が出てきます。それに、たぶん、別のところから援軍も……」
「何だよ別のところって」
「別は別ですよ」
「まさか、北玄海か?」
「……分かりません。ですが、ほら、緑歳兄上が仰っていたではないですか。淑妃様と緑歳兄上のもとに北玄海から手紙が届いたと」
「ああ、『近く都にて乱の恐れあり』という手紙だな。何の事だか分からずお前に相談したが……それが、今起きている事と関係あるのか!」
「東江側が北の水王の孫である緑歳兄上を逃がそうとするはずがないので、この事には北の水王も一枚噛んでいるとみてまず間違いないでしょう」
卓の上に広げられてた地図の上に、兵士たちの暇つぶしに使われていたのだろう象棋の駒を敵軍に見立てて置いていく。亥壬は紅の「兵」の駒を紫沈西部と東江に置き、それぞれの中央に「帥」と「仕」を置いて「兵」に囲ませる。「帥」が蘇宗家で「仕」が汪分家のつもりだ。
それから更に紅の「相」と同じく「車」を北と南に据えてやはり「兵」に囲ませる。
紅の駒がずらりと並べられた地図上に、黒の駒は汀彩城の「将」と山芒の「士」とそれぞれを囲む「兵」だ。
「何も駒が二色しかないから仕方なくこうしている訳ではないんです。既に大局は二分されてしまっていると見た方が良いと僕は思います」
紫沈にとって山芒以外は全て敵に回ったというのが亥壬の見立てで、彼は星昴たちと合流した時から禁軍を西門全てにぶつけるのではなく、一部は城の周辺の警戒に回した方がいいという事を強く提案し実行させていた。
「何でこんな事になってしまうんだ? 南の雲朱の事は誰も知らない」
「雲朱は昔から東江を仲介にして昆国と貿易をしていますからね。黄昌兄上は亡くなり母君である皇太后は病を患っておられる。東江に逆らう力なんてとても……」
亥壬は自分の言った事にハッとなって思わず緑歳の顔を見つめると「昆ですよ」とこの世の終わりのような顔で呟く。
「そうだ、何故今まで気づかなかったんだろう。どれだけ勢いがあると言っても禁軍は我が国を誇る最大の戦力です。四方の軍を合算して漸くトントンといった具合で、あの小杰の叔父御……いえ、東妃の弟君である蘇の金王がこんな無茶な作戦に打って出るはずがありません」
一人、頭の中で沈の勢力図を描き終えた亥壬は両手を卓についてがっくりと項垂れる。
やんごとなき方々の作戦会議になど是が非でも参加したくなかった薛石炎は遠巻きに会話を聞いていたが、雲朱が東江と協力しているという予想には同意だった。
薛石炎の故郷は雲朱である。養子に入り生父母も世を去って久しいが雲朱との交流が全くなくなった訳でもない。聞くところによると熔岩鉱山の採掘場の一つの閉鎖が決まっており、酒池肉林に溺れた領主が大口の取引先である東江の手を放すはずがないのである。皇帝側から雲朱に対して何も働きかけていないとなると、雲朱が皇帝側につくのは絶望的だろう。良くて静観、悪くて援軍の派兵、だ。
一方、雲朱の情勢にはある程度精通していた薛石炎でも亥壬が呟いた昆国については分からない。他国が沈の内乱に干渉してくるという事だろうか。
「何だか面倒だな。とにかく全部倒せばいいじゃないか」
「緑歳兄上、この七日間の攻防の何を見ておられたのですか……」
「膠着状態を突破する策を練るのが軍師の務めだろう、なぁ亥壬!」
「僕は軍師ではありませんよ!」
第三、第四皇弟は生まれた日が僅かに数十日しか違わないので互いに物言いに遠慮がない。薛石炎を含む周囲を取り囲む兵士たちはハラハラとしながら皇弟たちが話し合うのを聞いていたが、星昴だけは静かに地図を眺めて思案に耽っていた。
「──ん、そろそろ交渉を持ちかけるのに良い頃合いか」
やいのやいのと皇弟たちが言い合う中、不思議と星昴の声は通って聞こえた。
「叔父上、交渉とは? 何かお考えがあるのですね!」
短絡的な思考をしている緑歳は現状を打開出来ると勝手に思い込んでは色めきだつ。
「汪家が独断で侵攻してきたなら蘇家に合流されては困る事情があるのであろう。ならば、兵糧が尽きるよりも蘇家が現れるよりも疾くこちらが彼奴らの願いを叶えてやれば良いのだ」
「おお……おお! さすがです叔父上!」
絶対分かってないだろう、という意味の誰かの溜息が聞こえた気がした。
亥壬は八角形をした蓋つきの黄銅製の箱から駒を一つ掴む。二つ目の紅駒の「帥」だ。片付けを面倒がった兵士が駒をまとめて箱に入れてしまったのだろう。本当なら「帥」の駒は一つの盤に対し一つだけ使う。
「小杰を引き渡すおつもりではありませんよね、叔父上」
紅の「帥」を握った亥壬は、それをそっと汀彩城の上に置く。ちょうど後宮があろうという場所だ。黒が味方なら紅は敵なので、この場合後宮に敵勢力が居るという事になるが。
「汪家は交渉で小杰を欲すると思うか、亥壬」
武人である兵士たちが詰める兵舎で、文人筆頭の二人が睨み合う。兵士たちはその迫力に押されて固唾を飲んだ。今この時ばかりは彼らの気迫が武器よりも遥かに力を持っていただろう。
「小杰が目的だと仰ったのは叔父上ではありませんか」
「ん、そうだな。だが彼奴らの欲しいものはもう一つある。──力だ」
そんなものを求めて汪家は一体何をしようというのか。
薛石炎と武官たちの心が一つになると、その答えは予想外のところから降ってきた。
「そうか! 分家が宗家を見返すんだなぁ!」
ポンッと鷹揚に拳で手のひらを叩いたのは緑歳で、呆気に取られる亥壬に対して星昴は深く頷いた。薛石炎としては亥壬の反応に大いに同意する。
「燕太傅くらいの老人たちなら皆知っている事で、私の世代ならば親に聞く話だ。蘇と汪はお家騒動の末に宗家と分家の立場が入れ替わっているのだ」
この事実をどうやら亥壬は知らなかったらしい。複雑な表情で何かを考えるように目を泳がせる。
「七十年ほど昔の話だ。知らずとも無理はない。さて亥壬。東江の領主を代々務める家系の過去を知った上で、改めて何を考えるかい?」
分家にとって宗家の女が産んだ小杰は味方ではなく邪魔者である。小杰を亡き者にすれば戊陽の世は安泰に一歩近づくが、果たして今の皇族にどれほどの価値があろうか。腐っても鯛だが、腐った部分は取り除かねば皿の上には載せられない。
だとすれば、一体どこを腐ったものとして処理するのが合理的か。そして、処理するために必要な手段と方法とは何か。
「腐りきっているのは政そのものでしょう。四方と中央の力関係も壊れに壊れてまるで機能していません。これを是正していくには相当の時間を掛けるか、或いは強い力で強引にまとめ上げるか。汪家が力を求めるというなら後者です。ですが……僕にはその『力』とやらが何なのか全く見当がつきません」
「うん、私もだ、亥壬」
「はい?」
「私も汪家がどんな力を求めてこの紫沈に攻め入ったのかまでは知らぬよ」
がっくと肩を落としたのはもちろん亥壬ばかりではない。話をいまひとつ掴めていない緑歳はさておき、薛石炎も開いた口が塞がらなくなってしまう。
「だが問題はない。交渉の場に汪軍の総大将さえ引きずり出せたら、後は私が何とかしてみせよう」
そんな無茶苦茶な。
今度は星昴と緑歳だけを除いた全員の気持ちが一つとなった瞬間である。
既に開戦して七日も経過し互いの兵士が近づくだけでも矢を射かけられる状況では、交渉を持ちかけるために遠くから銅鑼でも何でも鳴らして敵の気を引くしかない。後は肺活量自慢の兵士にでも大声で叫ばせてこちらの意図を伝えるか。原始的な上に水面下で話をつける事も出来ない以上、相手がこれに乗ってくるかは賭けだった。
伝令役には自分が行くと言って聞かなかった緑歳が数名の武官を連れて馬に跨り、紫沈西部が見下ろせる物見にまで向かっていった。星昴たちは兵舎にて彼が無事に戻ってくる事を祈るしかない。
「亥壬」
誰もが緊張の面持ちで緑歳の帰りを待つ中、星昴は四番目の甥を人気の無い兵舎の奥へ連れていく。
「山芒へ行かせた早馬が上手く着いていれば戊陽は今日明日中にも紫沈へ戻るだろう。それまでは私が禁軍を指揮するが、交渉の席で何があるとも分からぬからな。その時は、お前に後の事を任せたい」
「何をお話かと思えば、滅多な事を仰らないで下さい。宗家を出し抜こうとする奴らの事ですから、確かに何をしてくるか分からない厄介さはありますが、交渉の席を血で汚すなんて卑怯な真似はしないでしょう」
交渉とは互いの信用の上に行うものだ。それが戦時であったとしても、だ。仮に決裂したとて互いの交渉役が自陣に戻るまでは手出し無用というのが暗黙の了解である。
星昴は叔父に対し怒る亥壬に向かって笑いかける。
「叔父上……」
初めてとは言わないが、珍しい物を見て亥壬は毒気を抜かれてしまう。昔から星昴は表情に乏しくていまひとつ考えている事が分かりにくいところがあった。幼い頃はそれが少し不気味で叔父の優秀さを分かってはいても近寄り難く感じていた。他方、長兄の黄昌は星昴によく懐いていた事を思い出す。
「私はね、亥壬。あわいによって内乱が消えた時代に生まれて育った無法者なのだ」
それは亥壬も同じだ。乱なんてものは市井の喧嘩くらいしか聞いた事が無い。だがそれが何故「無法者」になるのか。ひょっとして亥壬や緑歳も無法者なのだろうか。
星昴の言葉の真意を量りあぐねるも、言うだけ言ってすっきりした星昴は亥壬を置いて元の部屋へと戻っていってしまう。
それからほどなくして緑歳が汪軍を交渉の席につける事に成功する。これより一時辰の後、西の楼門と汀彩城南の午門のちょうど中央で互いの交渉役が会う事に決まった。
太陽が傾き始めるより少し早い頃になると両軍の交渉役が約束の場所へと介した。
互いに護衛の兵士は二人のみ。どうしたって叔父の護衛をすると言うので一人は緑歳がついてきていた。
相手方の交渉役は老人だった。髪も長い顎鬚も真っ白なおかげで相当な年長に見える。存命ならば燕太傅と同じかもっと上かといった具合だ。優に七十は超えている。
「私は汪家頭首の王宵白と申します。そちらにおわしますのはどなたで御座いましょう」
とても強硬策に打って出たとは思えない丁寧な口調と拱手に鼻白んだのは緑歳だけだった。
「私は戊陽、この国の皇帝である」
相手は既に知っているだろうが当然戊陽の不在を明らかにする訳にはいかない。星昴が正体を偽るので顔には決して出すなと亥壬が緑歳に言い含めていたおかげで、緑歳はどうにか直立不動で堪えきった。
「ほう、これは陛下御自らが交渉の場にいらっしゃるとは。早速本題を窺いましょう」
緑歳が何て気の早い爺だという顔をしたが王宵白は何も言わなかった。
交渉をするならその日のうちにと打診してきたのは汪家側からだった。そのため急ごしらえの交渉の場には卓も椅子も無いどころかそもそも屋外である。事は国の中枢に及ぶ事だというのに何ともみすぼらしい光景だった。
護衛の持った槍が届かない距離まで二人の将が進み出る。緊張感に押し負けて、どちらかの護衛の甲冑がカチカチと小さく震えるような音を立てた。
「王宵白、私たちは残念だがお前の求むる『人』を渡す訳にはいかぬ。だがお前たちも紫沈に対してここまでの事を仕出かしたのだ。手ぶらで帰るという訳には参らぬだろう」
王宵白は星昴の真意を見抜こうと、その白く濁りが混じった灰の瞳で星昴を見据えた。
「どうかな、代わりに『力』を持っていかぬか」
矢をつがえ、獲物に狙いをつけるが如く、王宵白の灰眼が眇められる。
「『力』で御座いますか。……如何様な物か、この老いぼれにお話しして下さらぬか」
「そうだな。お前の野望を果たせる力、とでも言おうか」
「それはそれは、何とも興味深い。して、私の野望とは何の事でしょうな?」
腹の探り合いに慣れない緑歳はもはや二人の間で一体どんな攻防が繰り広げられているのか全く分からない。他の護衛たちも皆緑歳と似たような表情をしていた。
「汪家の粛清の事は、この紫沈にも届いているぞ、汪宵白」
一瞬にして汪宵白の目の色が変わる。これまでの軽妙だった空気も同時に払われて、交渉は佳境が迫っていた。
「何故『人』を惜しまれるのです?」
「仮にも血を分けた弟だ」
確かに、戊陽ならそう答えるだろう。仮に小杰の身を汪に渡す事で戊陽の立場が良くなるのだとしても、実弟に死なせるような非道を戊陽は選ばない。
「陛下は何をお望みなので御座いましょう?」
「目下はお前たちの撤退だが……私の母の事を忘れた訳ではあるまい。お前の実の娘の事だ」
脂肪がなくなり弛んでいた老人の瞼が大きく見開かれる。
星昴はそんな汪宵白の目をまっすぐに見つめた。
「私の与える『力』によって目的が成された後は、その『力』を以って私に仕えよと申している」
その言葉が決定打となった。
予め亥壬と薛石炎で作っておいた文書を開き、汪宵白に確認させる。
「花押などこの場にはなかろう。代わりにお前の名を記し血判を捺すと良い。懐剣を貸そう」
星昴が腰帯に差していた小ぶりな剣の柄に手をかけた。
「お前の血でこの紙が真っ赤に染まるほど、しっかりと傷を付けるが良い」
果たして今起きた事を、護衛たちのうち一人でも予想し得た者は居ただろうか。
互いの将が互いに剣で腹を差し違え、鮮血を散らして交渉の場を穢すなどと、誰が考えただろう。
話し合いは無事に終わるかのように見えていたに違いない。どこで何を間違えたのか。それとも端から交渉を進める気など双方に無かったのか。
護衛たちは血を見た瞬間即座に己が武器を抜いていた。斬り結んだのはせいぜい三合ばかりで最後に立っていたのは緑歳ただ一人であった。
血塗れの星昴を抱えて急ぎ兵舎に戻った緑歳は、しきりに侍医を呼べと叫び、事態を把握出来ないまま半ば混乱しながらも亥壬は星昴を手当てする。
「星昴様」
救護を手伝いながら薛石炎は静かに呼び掛ける。
「何故この様な重大なお役目をご自分でなさってしまうのです」
外は既に日暮れである。交渉が決裂した以上、明日から再び戦いに戻るのだ。
しかし、たった五百の兵で紫沈西部を押さえ続けていられたのは、きっと汪宵白の手腕に違いない。それが失われた今、禁軍の勝利は明白だった。
「いつも面倒臭がってばかりで何もかもを私に押し付けてしまわれるのに、老い先短い人生に花を持たせてくれると仰ったではありませんか。あんまりです、星昴様」
ずっと苦しげに呼吸するだけだった星昴が、薛石炎の呼び掛けに応えるようにうっすらと目を開けた。
「薛、石炎。お前は、伝えねばならない。桃の木を、あわいの、消し方を」
それ以上の大義など無いのだから──。
翌日、大雨の中戊陽が紫沈へ到着する頃に戦いは最も激化していた。
汪宵白が陣中にて斃れ、拮抗していた戦況は徐々に禁軍優勢となっていく。
空が厚い雲に覆われるとたちまち大粒の雨が降り出して、沈に闇の帳が降りた。
途中二名の武官を李将軍が見つけて護衛に付け、四人で山芒から引き返す。休まず急げば二日の距離を僅かな休憩を挟んでどうにか三日のうちに紫沈まで戻ってきた。
紫沈に着くなり空は見計らったように雨を降らした。甲冑を着込みただでさえ重いというのに、ぐっしょりと水を吸った衣が追い打ちをかける。
「陛下、何やら中が騒がしいようです」
顎から滴る雫を拭いながら李将軍が城壁の向こうを見透かすように目を細める。
「ああ……剣戟が聞こえる」
威勢の良い掛け声と、悲鳴、絶叫。辛新から聞かされた事は真実だったのだ。
攻めてきたのが東江軍だと報告を受けていた戊陽たちは東江軍とかち合わないよう馬を東門に走らせる。
「へ、陛下!!」
東門の門衛が戊陽の姿を見つけると、たちまち泣きそうなほどに表情を崩れさせた。
「中はどうなっている? 報告せよ!」
「西方から侵攻してきた東江軍と禁軍が交戦中です。始めはどうにか西門付近に留めていたのですが、徐々に押されて紫沈の西部が陥落しました」
「つまり民の暮らす町が落ちたというのだな」
「はい……」
門を完全に空っぽにする訳にはいかずその場から動けない門衛は悔しげな表情で答えた。
道中、午門を破られ完全に城を占拠されている事を覚悟していたため、最悪の想定には至っていない。だが、紫沈の民が人質になったのでは最悪の次に悪いようなものだ。
一刻も早く前線の状況を直に確認したいところだが、このまま紫沈の町を西に向かって走っていく訳にはいかない。城の北側に回って裏から禁軍と合流するべきだと李将軍と相談して決めると、馬で北東の道を北に向かって進んでいく。
緊急時以外には使う事の無い城の裏手にある北門を、護衛につけていた兵士たちに強引に破らせればもう目の前には黄麟宮の屋根が見えた。
「お前たちのうち一人は後宮内の避難がどうなっているか確認し、もう一人は馬を厩舎へ」
李将軍に指示を出された二人は短く返事をして各々の目的のために離れていく。
「陛下、我々は外廷へ急ぎましょう」
「ああ」
馬では走りにくいほど狭い路地を暫く行くと見慣れた場所に出る。外廷だ。外廷前では数十から百ほどの禁軍兵が守りを固めていた。
兵士たちは戊陽と李将軍の姿を見つけると口々に「李将軍」「陛下!」と叫び戊陽たちに向かって抱拳礼をする。
「良い! お前たちは引き続き外を警戒せよ!」
李将軍が号令すると勇ましく返事をしてから元の配置に戻っていった。
状況は刻々と悪化しているようだがまだ禁軍兵たちの心は折れていない。伊達にあの厳しい事で有名な李将軍が鍛えた兵ではないという事だ。
急ぎ足で殿舎の中へと入ると、文官たちが頭を突き合わせて何やら話し合っていた。すぐに戊陽の姿を一人が見つけ「陛下が戻られましたぞ!」と叫ぶと、戊陽に気付いた文官たちはそれぞれに違った反応を見せる。
「ご無事でしたか陛下!」
この男は戊陽の帰還を喜んでいる。出身は山芒だ。
「お戻りになられてよう御座いました」
こちらは北玄海の出身で、表情の裏が読めない。計画を知らされていたなら戊陽が戻った事を不思議に思っているだろう。
「私どもではこの状況を何とするべきか判断しかねておりました」
雲朱出身のこの男はよっぽど分かりやすく眉間に皺を寄せている。自分が不満たらたらの顔をしている事を自覚していないのだろうか。
そして、西出身の官吏の一部がごっそりと消えている。その顔ぶれを思い出した時、共通するのは一体何なのか。東江の貴族でありながらこの場に留まっている者たちの表情は芳しくない。事態を知らせていたとは到底思えない反応だ。
「いや……そうか」
──分家だ。汪氏と縁の深い貴族が軒並み姿を見せていない。
やはり西側の侵略に間違いないが、西と一言に言っても蘇ではなく汪氏、つまり戊陽の母の生家が中心となって事を起こしているらしいと気付く。
賢妃の生家のある東江の状況は複雑だ。長く宗家と分家は水面下で対立しており、表向き宗家に従わなくてはならないために分家の子女であった賢妃は宗家である蘇家の後見を得られていない。そのせいで後宮内での立場も低ければ、即位した戊陽の権威も無きに等しいものだった。
それでも二年前、戊陽に玉座が回された背景には汪氏の根回しがあったのだろうと戊陽は考えていた。曲がりなりにも分家の娘が産んだ皇子とあって、東江内部の事情を悟らせないために蘇氏も黙認しているのだろうと。
しかしここに来て東江の紫沈侵攻には何の意味があるのだろうか。
「陛下、山芒へ派遣した兵はどうなさいました?」
「置いてきた」
北玄海と練族、そして汪氏は共謀していると考えるべきだ。やはり山芒の防衛は状況を決める大きな一手になりかねない。その判断は間違っていなかっただろう。
「それが良う御座います。敵は騎馬民族とて、寡兵を相手に我が故郷の戦力が劣るはずがありませぬからなぁ」
「山芒の事などこの際……陛下、どうか紫沈をお守り下さい!」
「……待て」
戊陽は玉座に向かうより先に広間全体を見渡して違和感に気付く。
「叔父上はどうした?」
戊陽が訊ねると、文官たちはさっと視線を逸らしていく。
「まさか前線に出られているのではあるまいな?」
禁軍は本来皇族を守るための戦力である。そのため指揮権を星昴に預けていた。が、それはあくまで建前であり、実際の指揮は武官が執るはずだった。
星昴は根っからの文人だ。木刀でさえ重さに耐えかね足の甲をぶつけるような人なのに、前線で指揮を執るなんてあってはならない。
「誰か答えよ!」
誰も彼もそっぽを向いて口を開こうとしないので焦れた戊陽が怒鳴ると、先程北門で別れた兵士のうち後宮の状況を確かめに行った兵士が血相を変えて外廷に走り込んで来た。
「ここは武官ごときが──」
「私が許す。申せ」
「陛下、急ぎ離宮にお出でください。星昴殿下が危篤で御座います」
危篤と聞いて思い出す景色がいくつかある。病に臥した父と燕太傅、そして、己が吐いた血に溺れるようにして事切れていた兄の遺体。
大切な者たちの命が失われていくのを何度も見た。きっとこれからも、自分が生きている限りそうして年長者たちを送り出す瞬間に立ち会う事になるのだろう。他者の命を救いたいと思う一方で、死に対してどこか諦念に似た慣れのようものを感じていたのも事実だ。
山芒で今まさに失われそうな命を必死になって助けながらも、隣で口を開けて待つ死の匂いを嗅いでは無理矢理意識の外へと追い出した。
今もまた、既に戦いが起こっている以上、敵味方の別なく死人が出ていると、頭では理解していた。
後宮までの道のりを雨に濡れた下草が衣の裾を汚すのも構わず進み、紅桃宮まで辿り着く。
「叔父上! 戊陽が参りました!」
叫びながら入ると気の利く宮女たちが素早く動き始め、湯や手拭いなどを用意し始める。
「ああ戊陽っ! 星昴様が……っ、どうか早く、早く診てあげて」
「ええ母上、必ず私がお救いします」
血の気が引いてしまっている賢妃を気丈な宮女が体を支える。
母と入れ替わりで寝台に寝かされている星昴を見て、賢妃が取り乱す理由が分かった。
──もう、助からない。
視線だけで侍医の姿を探すと、中年の宦官が忙しなく働く宮女たちの邪魔にならないよう端に避けてぽつ念として立っていた。
つまりそういう事だ。侍医も戊陽と同じ判断を下したのだ。
戊陽は星昴の腹に手を乗せる。
「叔父上」
体の中を巡る温かいものを掌を通して分け与えるような想像をしながら癒やしの力を使うが、手応えがまるで感じられない。向峻を治癒した時とは比べるべくもなく、まるで死人に力を向けているようだった。
「……戊陽か」
「叔父上、何か仰っしゃりたい事がおありなら、今話されませ」
息を呑む音が複数聞こえた。言葉の意味を理解して、星昴が唇を小さく震わせる。きっと、笑ったのだ。
「おまえの、兄の仇は……討った、ぞ」
かふっ、と弱々しく咳き込むと血が口の周りを汚した。それを宮女が拭おうとしたが、戊陽が止める。言葉を口にしているだけでも奇跡のような状況で、血を拭う僅かな時さえ惜しかった。
──よくこの状態で。
恐らく肺に傷が及んでいるせいで咳に血が混じるのだ。あと僅かにずれたところを刺されていれば即死だったろう。
ずれたおかげで戊陽は星昴を看取れるが、ずれたせいで星昴は苦しみながら死んでゆく。
戊陽は力を使うのをやめて、星昴の手を握った。
「あの子は、変わり者の私を、見て……っ、よく笑ったのだ。聡い子、だったが……おっ、とりし、ていた……」
人の手を握っているような感触はなく、冷たく固いものが戊陽の手の中で更に強張っていく。
「漸く解放して、やれる」
『お前はどうすれば死者を己の心から解放してやれる?』
「……戊陽、私をおまえ、の心に、閉じ込めるのは、勘弁して、くれ」
死期を悟り、死そのものを読み取ってしまう力は、ずっとずっと戊陽にとって恐ろしいもので、だけど傷も病も癒やせるこの力を持って生まれた事を恨んだ事は一度たりとて無かった。叔父らしい最期の言葉は、確かに戊陽を気遣ったものだった。どんなに分かりにくくとも、星昴は人らしい情のある人だった。
啜り泣く声を聞きながら、暫く星昴の手を握っていた。
「……ご遺体を弔わねばならない。が、そのためには東江の兵に引いてもらう必要がある」
東江の名を出した時、賢妃の目に悲しみが浮かんだ。
「母上、教えて下さい。あなたのご実家は、私のお祖父様は一体何をお考えなのです」
黄昌の仇とはどういう意味だろうか。黄昌を暗殺するよう命じたのは林隆宸ではなかったというのだろうか。
賢妃は暫く黙っていた。すぐに答えないという事は何も知らないという訳ではないのだろう。賢妃は一度ゆっくりと瞼を閉じてから、再び開く時には覚悟の決まった表情に変わっていた。
「あなたのお祖父様は、きっと過去に粛清されたあの日の思いを、忘れる事が出来なかったのです」
*
話は戊陽が紫沈へ戻るその前日まで遡る。東江軍が紫沈へと侵攻してから七日が経っていた。その間に城下の西部を東江軍に占領されてしまっていた。
紫沈を囲う城壁は地形に沿って築いたため西方に向かって円を描くように張り出している。また城下に住まう貴族たちも勢力ごとに東西南北に分かれて生活圏を築いているので、西の一帯は東江軍へ協力的だった。表向きには人質でも、実際には協力者という事だ。
西に集めた禁軍の兵力はあろうことか背後を西部に住まう汪氏の息のかかった平民に襲われて、やむなく後退を強いられる事となってしまった。そして戦況は西にある楼門を挟んで停滞する事になる。
戦況が完全に膠着状態に陥ると、星昴は東江軍に対して交渉を試みる事にした。無論それは星昴一人の考えではなく、戦線を維持するために尽力した彼の甥と部下の存在がある。
「敵は汪家の精鋭ですが、数はたったの五百。未だ他の場所からの侵入などもなく、完全に西部の貴族や民を頼りにした無謀な策だったようです」
巻子の文字を音読しているかのように報告するのは第四皇弟の亥壬だ。星昴とはまた方向性の違ういかにもな文人で、このところ目が悪くなってきているのが悩みだ。
「じゃあ奴らは一体何しに来たというんだ?」
こちらは亥壬とは全く逆に身幅も上背も兄弟の中で最も大きく育った第三皇弟で、名を緑歳という。声が大きいので隣に居た亥壬は迷惑そうな顔をして片耳を塞ぐ。
「他にも何か策はあったけど、失敗したという事ですよ」
「なら、このまま引き返していくのを待てばいいのか? 背後にあわいを抱えてたら兵站にも限界があるだろう」
「いいえ、恐らくそうはいきません」
見えにくい文字を読もうとする時のように目を険しく細めて亥壬は首を振る。
星昴率いる禁軍と紫沈の危機と聞いて参じた緑歳と亥壬は禁軍へと指示を出すために本営を軍の兵舎に置いていた。今ごろ外廷では官吏たちが雁首揃えてああでもないこうでもないと言い争っているだろうが、禁軍の指揮権は全て星昴にあるので無駄な争いである。そうした官吏たちの雑音に邪魔をされず尚且つ兵に指示を出しやすい場所となると禁軍の兵舎の他にはなかった。
「このまま戦いが長引けば必ず本軍、と呼んで良いかは分かりませんが宗家である蘇の軍が出てきます。それに、たぶん、別のところから援軍も……」
「何だよ別のところって」
「別は別ですよ」
「まさか、北玄海か?」
「……分かりません。ですが、ほら、緑歳兄上が仰っていたではないですか。淑妃様と緑歳兄上のもとに北玄海から手紙が届いたと」
「ああ、『近く都にて乱の恐れあり』という手紙だな。何の事だか分からずお前に相談したが……それが、今起きている事と関係あるのか!」
「東江側が北の水王の孫である緑歳兄上を逃がそうとするはずがないので、この事には北の水王も一枚噛んでいるとみてまず間違いないでしょう」
卓の上に広げられてた地図の上に、兵士たちの暇つぶしに使われていたのだろう象棋の駒を敵軍に見立てて置いていく。亥壬は紅の「兵」の駒を紫沈西部と東江に置き、それぞれの中央に「帥」と「仕」を置いて「兵」に囲ませる。「帥」が蘇宗家で「仕」が汪分家のつもりだ。
それから更に紅の「相」と同じく「車」を北と南に据えてやはり「兵」に囲ませる。
紅の駒がずらりと並べられた地図上に、黒の駒は汀彩城の「将」と山芒の「士」とそれぞれを囲む「兵」だ。
「何も駒が二色しかないから仕方なくこうしている訳ではないんです。既に大局は二分されてしまっていると見た方が良いと僕は思います」
紫沈にとって山芒以外は全て敵に回ったというのが亥壬の見立てで、彼は星昴たちと合流した時から禁軍を西門全てにぶつけるのではなく、一部は城の周辺の警戒に回した方がいいという事を強く提案し実行させていた。
「何でこんな事になってしまうんだ? 南の雲朱の事は誰も知らない」
「雲朱は昔から東江を仲介にして昆国と貿易をしていますからね。黄昌兄上は亡くなり母君である皇太后は病を患っておられる。東江に逆らう力なんてとても……」
亥壬は自分の言った事にハッとなって思わず緑歳の顔を見つめると「昆ですよ」とこの世の終わりのような顔で呟く。
「そうだ、何故今まで気づかなかったんだろう。どれだけ勢いがあると言っても禁軍は我が国を誇る最大の戦力です。四方の軍を合算して漸くトントンといった具合で、あの小杰の叔父御……いえ、東妃の弟君である蘇の金王がこんな無茶な作戦に打って出るはずがありません」
一人、頭の中で沈の勢力図を描き終えた亥壬は両手を卓についてがっくりと項垂れる。
やんごとなき方々の作戦会議になど是が非でも参加したくなかった薛石炎は遠巻きに会話を聞いていたが、雲朱が東江と協力しているという予想には同意だった。
薛石炎の故郷は雲朱である。養子に入り生父母も世を去って久しいが雲朱との交流が全くなくなった訳でもない。聞くところによると熔岩鉱山の採掘場の一つの閉鎖が決まっており、酒池肉林に溺れた領主が大口の取引先である東江の手を放すはずがないのである。皇帝側から雲朱に対して何も働きかけていないとなると、雲朱が皇帝側につくのは絶望的だろう。良くて静観、悪くて援軍の派兵、だ。
一方、雲朱の情勢にはある程度精通していた薛石炎でも亥壬が呟いた昆国については分からない。他国が沈の内乱に干渉してくるという事だろうか。
「何だか面倒だな。とにかく全部倒せばいいじゃないか」
「緑歳兄上、この七日間の攻防の何を見ておられたのですか……」
「膠着状態を突破する策を練るのが軍師の務めだろう、なぁ亥壬!」
「僕は軍師ではありませんよ!」
第三、第四皇弟は生まれた日が僅かに数十日しか違わないので互いに物言いに遠慮がない。薛石炎を含む周囲を取り囲む兵士たちはハラハラとしながら皇弟たちが話し合うのを聞いていたが、星昴だけは静かに地図を眺めて思案に耽っていた。
「──ん、そろそろ交渉を持ちかけるのに良い頃合いか」
やいのやいのと皇弟たちが言い合う中、不思議と星昴の声は通って聞こえた。
「叔父上、交渉とは? 何かお考えがあるのですね!」
短絡的な思考をしている緑歳は現状を打開出来ると勝手に思い込んでは色めきだつ。
「汪家が独断で侵攻してきたなら蘇家に合流されては困る事情があるのであろう。ならば、兵糧が尽きるよりも蘇家が現れるよりも疾くこちらが彼奴らの願いを叶えてやれば良いのだ」
「おお……おお! さすがです叔父上!」
絶対分かってないだろう、という意味の誰かの溜息が聞こえた気がした。
亥壬は八角形をした蓋つきの黄銅製の箱から駒を一つ掴む。二つ目の紅駒の「帥」だ。片付けを面倒がった兵士が駒をまとめて箱に入れてしまったのだろう。本当なら「帥」の駒は一つの盤に対し一つだけ使う。
「小杰を引き渡すおつもりではありませんよね、叔父上」
紅の「帥」を握った亥壬は、それをそっと汀彩城の上に置く。ちょうど後宮があろうという場所だ。黒が味方なら紅は敵なので、この場合後宮に敵勢力が居るという事になるが。
「汪家は交渉で小杰を欲すると思うか、亥壬」
武人である兵士たちが詰める兵舎で、文人筆頭の二人が睨み合う。兵士たちはその迫力に押されて固唾を飲んだ。今この時ばかりは彼らの気迫が武器よりも遥かに力を持っていただろう。
「小杰が目的だと仰ったのは叔父上ではありませんか」
「ん、そうだな。だが彼奴らの欲しいものはもう一つある。──力だ」
そんなものを求めて汪家は一体何をしようというのか。
薛石炎と武官たちの心が一つになると、その答えは予想外のところから降ってきた。
「そうか! 分家が宗家を見返すんだなぁ!」
ポンッと鷹揚に拳で手のひらを叩いたのは緑歳で、呆気に取られる亥壬に対して星昴は深く頷いた。薛石炎としては亥壬の反応に大いに同意する。
「燕太傅くらいの老人たちなら皆知っている事で、私の世代ならば親に聞く話だ。蘇と汪はお家騒動の末に宗家と分家の立場が入れ替わっているのだ」
この事実をどうやら亥壬は知らなかったらしい。複雑な表情で何かを考えるように目を泳がせる。
「七十年ほど昔の話だ。知らずとも無理はない。さて亥壬。東江の領主を代々務める家系の過去を知った上で、改めて何を考えるかい?」
分家にとって宗家の女が産んだ小杰は味方ではなく邪魔者である。小杰を亡き者にすれば戊陽の世は安泰に一歩近づくが、果たして今の皇族にどれほどの価値があろうか。腐っても鯛だが、腐った部分は取り除かねば皿の上には載せられない。
だとすれば、一体どこを腐ったものとして処理するのが合理的か。そして、処理するために必要な手段と方法とは何か。
「腐りきっているのは政そのものでしょう。四方と中央の力関係も壊れに壊れてまるで機能していません。これを是正していくには相当の時間を掛けるか、或いは強い力で強引にまとめ上げるか。汪家が力を求めるというなら後者です。ですが……僕にはその『力』とやらが何なのか全く見当がつきません」
「うん、私もだ、亥壬」
「はい?」
「私も汪家がどんな力を求めてこの紫沈に攻め入ったのかまでは知らぬよ」
がっくと肩を落としたのはもちろん亥壬ばかりではない。話をいまひとつ掴めていない緑歳はさておき、薛石炎も開いた口が塞がらなくなってしまう。
「だが問題はない。交渉の場に汪軍の総大将さえ引きずり出せたら、後は私が何とかしてみせよう」
そんな無茶苦茶な。
今度は星昴と緑歳だけを除いた全員の気持ちが一つとなった瞬間である。
既に開戦して七日も経過し互いの兵士が近づくだけでも矢を射かけられる状況では、交渉を持ちかけるために遠くから銅鑼でも何でも鳴らして敵の気を引くしかない。後は肺活量自慢の兵士にでも大声で叫ばせてこちらの意図を伝えるか。原始的な上に水面下で話をつける事も出来ない以上、相手がこれに乗ってくるかは賭けだった。
伝令役には自分が行くと言って聞かなかった緑歳が数名の武官を連れて馬に跨り、紫沈西部が見下ろせる物見にまで向かっていった。星昴たちは兵舎にて彼が無事に戻ってくる事を祈るしかない。
「亥壬」
誰もが緊張の面持ちで緑歳の帰りを待つ中、星昴は四番目の甥を人気の無い兵舎の奥へ連れていく。
「山芒へ行かせた早馬が上手く着いていれば戊陽は今日明日中にも紫沈へ戻るだろう。それまでは私が禁軍を指揮するが、交渉の席で何があるとも分からぬからな。その時は、お前に後の事を任せたい」
「何をお話かと思えば、滅多な事を仰らないで下さい。宗家を出し抜こうとする奴らの事ですから、確かに何をしてくるか分からない厄介さはありますが、交渉の席を血で汚すなんて卑怯な真似はしないでしょう」
交渉とは互いの信用の上に行うものだ。それが戦時であったとしても、だ。仮に決裂したとて互いの交渉役が自陣に戻るまでは手出し無用というのが暗黙の了解である。
星昴は叔父に対し怒る亥壬に向かって笑いかける。
「叔父上……」
初めてとは言わないが、珍しい物を見て亥壬は毒気を抜かれてしまう。昔から星昴は表情に乏しくていまひとつ考えている事が分かりにくいところがあった。幼い頃はそれが少し不気味で叔父の優秀さを分かってはいても近寄り難く感じていた。他方、長兄の黄昌は星昴によく懐いていた事を思い出す。
「私はね、亥壬。あわいによって内乱が消えた時代に生まれて育った無法者なのだ」
それは亥壬も同じだ。乱なんてものは市井の喧嘩くらいしか聞いた事が無い。だがそれが何故「無法者」になるのか。ひょっとして亥壬や緑歳も無法者なのだろうか。
星昴の言葉の真意を量りあぐねるも、言うだけ言ってすっきりした星昴は亥壬を置いて元の部屋へと戻っていってしまう。
それからほどなくして緑歳が汪軍を交渉の席につける事に成功する。これより一時辰の後、西の楼門と汀彩城南の午門のちょうど中央で互いの交渉役が会う事に決まった。
太陽が傾き始めるより少し早い頃になると両軍の交渉役が約束の場所へと介した。
互いに護衛の兵士は二人のみ。どうしたって叔父の護衛をすると言うので一人は緑歳がついてきていた。
相手方の交渉役は老人だった。髪も長い顎鬚も真っ白なおかげで相当な年長に見える。存命ならば燕太傅と同じかもっと上かといった具合だ。優に七十は超えている。
「私は汪家頭首の王宵白と申します。そちらにおわしますのはどなたで御座いましょう」
とても強硬策に打って出たとは思えない丁寧な口調と拱手に鼻白んだのは緑歳だけだった。
「私は戊陽、この国の皇帝である」
相手は既に知っているだろうが当然戊陽の不在を明らかにする訳にはいかない。星昴が正体を偽るので顔には決して出すなと亥壬が緑歳に言い含めていたおかげで、緑歳はどうにか直立不動で堪えきった。
「ほう、これは陛下御自らが交渉の場にいらっしゃるとは。早速本題を窺いましょう」
緑歳が何て気の早い爺だという顔をしたが王宵白は何も言わなかった。
交渉をするならその日のうちにと打診してきたのは汪家側からだった。そのため急ごしらえの交渉の場には卓も椅子も無いどころかそもそも屋外である。事は国の中枢に及ぶ事だというのに何ともみすぼらしい光景だった。
護衛の持った槍が届かない距離まで二人の将が進み出る。緊張感に押し負けて、どちらかの護衛の甲冑がカチカチと小さく震えるような音を立てた。
「王宵白、私たちは残念だがお前の求むる『人』を渡す訳にはいかぬ。だがお前たちも紫沈に対してここまでの事を仕出かしたのだ。手ぶらで帰るという訳には参らぬだろう」
王宵白は星昴の真意を見抜こうと、その白く濁りが混じった灰の瞳で星昴を見据えた。
「どうかな、代わりに『力』を持っていかぬか」
矢をつがえ、獲物に狙いをつけるが如く、王宵白の灰眼が眇められる。
「『力』で御座いますか。……如何様な物か、この老いぼれにお話しして下さらぬか」
「そうだな。お前の野望を果たせる力、とでも言おうか」
「それはそれは、何とも興味深い。して、私の野望とは何の事でしょうな?」
腹の探り合いに慣れない緑歳はもはや二人の間で一体どんな攻防が繰り広げられているのか全く分からない。他の護衛たちも皆緑歳と似たような表情をしていた。
「汪家の粛清の事は、この紫沈にも届いているぞ、汪宵白」
一瞬にして汪宵白の目の色が変わる。これまでの軽妙だった空気も同時に払われて、交渉は佳境が迫っていた。
「何故『人』を惜しまれるのです?」
「仮にも血を分けた弟だ」
確かに、戊陽ならそう答えるだろう。仮に小杰の身を汪に渡す事で戊陽の立場が良くなるのだとしても、実弟に死なせるような非道を戊陽は選ばない。
「陛下は何をお望みなので御座いましょう?」
「目下はお前たちの撤退だが……私の母の事を忘れた訳ではあるまい。お前の実の娘の事だ」
脂肪がなくなり弛んでいた老人の瞼が大きく見開かれる。
星昴はそんな汪宵白の目をまっすぐに見つめた。
「私の与える『力』によって目的が成された後は、その『力』を以って私に仕えよと申している」
その言葉が決定打となった。
予め亥壬と薛石炎で作っておいた文書を開き、汪宵白に確認させる。
「花押などこの場にはなかろう。代わりにお前の名を記し血判を捺すと良い。懐剣を貸そう」
星昴が腰帯に差していた小ぶりな剣の柄に手をかけた。
「お前の血でこの紙が真っ赤に染まるほど、しっかりと傷を付けるが良い」
果たして今起きた事を、護衛たちのうち一人でも予想し得た者は居ただろうか。
互いの将が互いに剣で腹を差し違え、鮮血を散らして交渉の場を穢すなどと、誰が考えただろう。
話し合いは無事に終わるかのように見えていたに違いない。どこで何を間違えたのか。それとも端から交渉を進める気など双方に無かったのか。
護衛たちは血を見た瞬間即座に己が武器を抜いていた。斬り結んだのはせいぜい三合ばかりで最後に立っていたのは緑歳ただ一人であった。
血塗れの星昴を抱えて急ぎ兵舎に戻った緑歳は、しきりに侍医を呼べと叫び、事態を把握出来ないまま半ば混乱しながらも亥壬は星昴を手当てする。
「星昴様」
救護を手伝いながら薛石炎は静かに呼び掛ける。
「何故この様な重大なお役目をご自分でなさってしまうのです」
外は既に日暮れである。交渉が決裂した以上、明日から再び戦いに戻るのだ。
しかし、たった五百の兵で紫沈西部を押さえ続けていられたのは、きっと汪宵白の手腕に違いない。それが失われた今、禁軍の勝利は明白だった。
「いつも面倒臭がってばかりで何もかもを私に押し付けてしまわれるのに、老い先短い人生に花を持たせてくれると仰ったではありませんか。あんまりです、星昴様」
ずっと苦しげに呼吸するだけだった星昴が、薛石炎の呼び掛けに応えるようにうっすらと目を開けた。
「薛、石炎。お前は、伝えねばならない。桃の木を、あわいの、消し方を」
それ以上の大義など無いのだから──。
翌日、大雨の中戊陽が紫沈へ到着する頃に戦いは最も激化していた。
汪宵白が陣中にて斃れ、拮抗していた戦況は徐々に禁軍優勢となっていく。
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