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完結編
33憧れの堂姐
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沈の貴族の男子ならば誰しも子供の頃に蹴鞠で遊んだことがある。あわいが広がるより前の時代には、紫沈で年に一度、四方の代表者を募って勝負事をするほどだった。
「私もやりたい!」
今年四つになったばかりの蘇智望は、従姉に手を引かれながら蹴鞠で遊ぶ子供たちを眺めて駄々をこねる。
「小望はもう少し大きくなったらみんなと一緒に遊びましょうね」
実の姉は歳が近いせいか喧嘩ばかりだが、一回り以上歳の離れた従姉にはよく懐いていた。「まだ幼いから」など誰に言われても納得しなかっただろうが、大好きな従姉に窘められれば渋々我慢した。
従姉は不服いっぱいの顔で黙り込んだ蘇智望と目線を合わせるためにしゃがみ込むと、何かを取り出して手に握らせる。
「これはなんですか?」
「糸を芯に巻き付けて作った玉なのですって。綺麗でしょう?」
この時の蘇智望にはまだ分からなかったが、玉に使われていたのは東江名産の絹の糸で、年上の子供たちが遊んでいる蹴鞠の玉よりほっぽど高価な物だった。
「舶来の品の真似をして作ったのだと絹問屋のご主人から頂いたの。ねぇ小望、これをあなたにあげるわ」
紅、橙、薄紅などいかにも女子が好みそうな暖かみのある色で染めた絹糸の玉は、幼くとも男子である蘇智望にはなんだか不似合いのような気がした。けれどもちろん、断る事はしないのである。
受け取った玉は光沢があって艶やかな手触りをしている。きっと蹴って遊ぶの物ではないだろう。これは飾る物だと、蘇智望は弱冠四つにして美術品への審美眼を備えていた。
蘇智望が十歳になる年、従姉は後宮へと入宮する事になった。
「何故です父上! 妃には慧姐がなるのではなかったのですか!」
「嬪の位が廃され、代わりに妃を五つまで増やすのだ。我が娘は幼い故まだ入宮は叶わぬからと五妃に召される事になった」
父は右の拳をきつく握りしめながら苦々しく言う。
「……まぁ良い。二十歳を越えて薹が立った女に、頑健な子が産めるとは到底思えん。代わりにうちの子が男児さえ身籠れば、次の世継ぎが我が孫という事になる」
後宮とは四王を含む貴族の娘を皇帝の妃として迎えるための鳥籠である。皇帝からの勅使があれば適齢期の女たちが召し出されるのだが、しかしながら金王には年頃の娘がいなかった。仕方なく身代わりにされたのが蘇智望の兄と婚約していた従姉だった。蘇智望の兄は数年前に病で亡くなっており、嫁ぐ前で当然子も居なかったので、入宮を許されたのだろう。
父の口振りは蘇智望の怒りを煽ったが、父に当たっても意味が無い事はよく分かっていた。
優しかった従姉が最年長でありながらも四妃の賢妃として後宮で過ごすのは、さぞ肩身が狭い思いをする事だろう。男は居ても宦官で、女ばかりの後宮は華やかなばかりではない。過去には陰惨な出来事も多くあった。
「嬪なんてなくなってよかった」歳が近い貴族の女子が言っていた。
十歳の蘇智望でも、後宮へ行く事が貴族の子女の夢にはならないのだと知っていた。
可哀想な堂姐さん。婚約者を亡くしたばかりか見知らぬ男の側室の一人にさせられるなんて。
凋落してゆくばかりの皇室に入って何を得するというのだろう。もはや都市の大きさで東江は紫沈に勝るというのに、どうして嫌だと言えないのか。
皇帝なぞさっさと亡くなってしまえばいい。寡婦となれば子さえ居なければ実家に帰される。父のように薹が立っていると馬鹿にするなら、蘇智望こそが彼女を貰い受けよう。
蘇智望は長く長く祈った。
どうか従姉に子が出来ないように。皇帝から嫌われるように。
*
血相を変えて部屋に飛び込んできた蘇智望に驚いたのも束の間、何かが起きたのだという事を一気に騒々しくなった屋敷の気配が玲馨にも伝えてきた。
東江の港、蘇智望の嘗ての別荘である豪奢な屋敷では、兵士や侍女が廊下を忙しなく行き来している。何かを急ぎ支度しなくてならない事情が出来たようだ。
羅春梅を残して蘇智望に連れられるまま屋敷を奥へ進んでいくと、寝台と小さめの円卓が置かれただけの酷く殺風景な部屋に辿り着く。
「私の部屋だ。今では寝泊まりするだけだがね」
他の調度品は売るか捨てるかしてしまったのだろうか。絨毯さえ敷かれていない部屋はとても貴人の使う部屋には見えない。
「椅子も無くてね」
そう言いながら寝台に腰掛けた蘇智望は、自分の隣をポンと一つ叩いた。その姿がどことなく戊陽の面影と重なって、玲馨は首を振る。
思えば戊陽と蘇智望とは血縁者になるのだ。蘇智望は戊陽の母の従弟であり、戊陽から見て従叔父にあたる。
蘇智望はさすがに東妃と姉弟であるからして怜悧な印象はよく似ていながらも、私的な空間では戊陽や賢妃のような柔らかな雰囲気を纏う人のようだ。
玲馨は蘇智望の前に跪こうとしたが案の定止められて「せめて前に立ってくれ」と苦笑される。仮にも金王である人を見下ろすのは忍びないが、隣に座るよりよっぽど気が楽だ。
「良いか、玲馨。落ち着いて聞きなさい。私の生家である蘇には宗家と分家があるのを知っているかな?」
「東妃様と賢妃様のそれぞれの生家ですね」
蘇智望はうんと頷きながら「賢妃は私の従姉だ」と付け加える。
「賢妃の生家は分家で、汪氏という。ここまでは周知だろう。だがこれはそなたとて知るまい。嘗ては汪氏こそが宗家であり、我が蘇氏が分家であった事を」
宗家が没落したのではなく、嫡流──本家を継ぐ家筋──が入れ替わるとはどういう事だろう。思わず怪訝な顔になる玲馨へ、蘇智望が説明を続ける。
「およそ七十年前に宰相を務めていた男は汪氏の出自であった。その者は生家どころか東江すらも裏切り、凱寧皇帝と共に私欲を満たすため沈を破滅へと向かわせたのだ」
「破滅とは、まさかあわいの事ですか……?」
「そうだ。あわいは自然に起こったものではない。四方が力を付けるのが不都合だった時の皇帝凱寧による人為的なものだ」
すぐには信じられない事など織り込み済みだったようで、蘇智望は玲馨の反応を待たず枕の下から何かを取り出してくる。
「古くて字もさほど上手くないから読みにくいかも知れないが、これを読んでご覧」
長方形の木箱を開けると中から出てきたのは料紙だ。形が不揃いな料紙の角に穴を開けて紐を通しただけの、本とも呼べない紙の束が収まっていた。
端は黄ばんで欠け始め、確かに字も綺麗ではない。それに書き言葉自体が現代と多少異なるようで、読み解くのには少しコツが必要なようだ。
玲馨は紙がこれ以上崩れてしまわないように慎重に持ちながら、文章を読み進めていく。
「……これは日記ですか?」
「七十年前に凱寧の乳母だった宮女が書き残した物だ。日付も飛んでいるし、主観的でどこまで信用して良いかも甚だ怪しいが、偽りだとする証拠もない」
とにかく読んでみろと視線で促され、紙を捲っていく。
『何て聡明なお子かと彼の方が歳を一つ重ねるごとに感動しきりであったというのに、今となってはどうだ。官吏たちは皆怯え顔色を窺うようになり、妃嬪たちもお渡りがあると聞いては体調を崩してしまう方もおられる始末』
彼の方とは凱寧の事のようだ。
『今は亡き皇太子様が生きておられたらと思わぬ日はない』
凱寧は戊陽と同じ第二皇子として生まれ、その後長男を亡くして即位した。故に名に「黄」を持たない皇帝の一人だ。
『彼の方の暴政は悪化する一方だ。この手記が見つかれば処罰は免れない。けれど、乳母の言葉がどうか少しでも彼の方に届けばいいと願う』
日記とは言っても起きた出来事の記録というよりは、その頃の乳母の感情を書き留めた物という側面が強い。
そして書き始めたのは凱寧が皇帝に即位した後からのようだ。或いはこれ以前にも別の日記があるのかも知れないが、少なくとも今手元にあるのは即位後二年以内のものらしい。
『黄麟宮の西にある離宮に出入りしている宮女が噂になっていた。宮女が出入りするという事は、その離宮に何方か、貴人が住まっているという事。宦官も何度か離宮に入っていくのを見かけている』
現在の宮城にはこの離宮は無い。昔にとある事情があって取り壊されたと聞いている。
とある事情。噂によると死臭が染み付いて消えなくなったためにやむなく壊すしかなくなったとか。その離宮のあった場所は美しい庭園に変わったが、噂のせいで近寄りたがる人は居なかった。
『離宮に出入りしている宮女と言葉を交わした。宮女は離宮で生活をしているという。それから宮女は信じられない事を言ってきた。離宮には死んだはずの彼の方の兄君が住んでいると』
日記によれば凱寧の兄は死んでから五年は経っている事になる。
『信じられる事ではなかったし、信じて良いものでもないと思った。宮女は気が触れてしまっているのだと思い込み、きっと彼の方に離宮で囲われている憐れな娘なのだと、そう自分に言い聞かせていた』
『宮女が紙の端切れを持ってきた。皇室で使う良い紙に「私はここに居る」と短く書かれてある。それを誰が書いた文字なのか想像した時ぞっとなって、私は紙を破り捨てた』
『三月ほど宮女を見ていない。以前は朝議の間、彼の方がいらっしゃらない隙を狙って黄麟宮の宮女や宦官と話していたというのに。この事が知られて、殺されてしまったのかも知れない』
『宮女は生きていた。五ヶ月ぶりに会った宮女の腹は、痩せぎすの体つきにはおかしな膨れ方をしていた。そこに何が宿っているのかを私は決して言葉にしなかった』
ここから先はお世辞にも綺麗とは言えなかった字が更に乱れている。
『私は、とんでもない事をしてしまったかも知れない。宮女は腹の子を助けてほしいと訴えてきた。ただの乳母には出来る事はないと断ってもしつこく食い下がってきた。あまりにしつこいので、妃嬪の生家とやり取りする荷物にでも紛れろと適当な事を言ったら宮女はその通りにしてしまった』
『結局、あの宮女の腹の子は誰の子だったのだろう。宮女はずっと彼の方の兄君の子だと言い張っていたけれど、私は知っている。離宮には彼の方もしょっちゅう出入りしていた。本当はどちらの子かなんて、宮女も自分で分かっていないのではないだろうか』
『宮女が出ていって一月ほど経ち、離宮を掃除しに行った宦官が異臭がすると言って騒いでいた。遺体が見つかったらしい。遺体はげっそりと痩せ細って元の顔が分からないほどだったそうだ。傍には縄が一本、輪が千切れたようになって落ちていた。宦官たちによって遺体は運び出されたが、当たり前のように無縁仏として弔われた。遺体の正体を知る私はあまりに恐ろしくてたまらなかった。どうか、遺体の魂が迷う事がないように祈ろう。私に出来る事はそんな事しかない』
次が最後の日付けで、日記の始まりからおよそ二年が経っていた。
『私はきっとこういう星の巡り合わせに生まれてしまったのだと自分を慰める事しか出来ない。彼の方と宰相様は、自分たちのためにお国を割ったのだと仰っていた。隣の部屋を掃除していた私に、どうして気付いて下さらなかったのか。ただの乳母でしかないのに、知りたくない事聞きたくない事にばかり出会ってしまう。もうたくさんだ』
この後乳母は暇でも貰ったのだろうか。
紐で括られた最後の料紙は、実に粗末な紙であった。
日記を読み終えると料紙を綴じ直して蘇智望へ返す。
「これを読んで、そなたは何を考える?」
素直に答えるなら、何て情の無い乳母だろう、という事だ。一人、離宮で君子たちの相手をさせられていた宮女はどれほど辛かったか。
しかし後の世に暴君として知られる凱寧のもとで働いていたというだけでも、或いは毎日生きた心地がしないような環境だったかも知れない。みんな我が身を守るので精一杯だったろう。
それが真っ先に玲馨の感じた事だが、蘇智望に訊かれているのはそんな事ではないと玲馨も分かっている。
「この日記は、どういう経緯であなたのもとへ渡ったのですか?」
「汪家から接収したものだ。どうもこの乳母は東江の貴族の子女であったようでな。故郷に戻って日記を保管していたのだ。後年になって乳母の子孫が汪家に譲り、賢妃の兄君から私の父の手に渡ったと聞いている」
汪家はその立場から、いかなる事も宗家である蘇家に報告しなくてはならないそうだ。
「そなたに会えると思って東江の屋敷から持ち出してきた物だ。家令に見つかれば叱られるだろうね」
日記を偽装するのは難しいだろう。古い白紙の料紙は見つけられたとしても、新たに書いた墨まで褪せさせるのは一昼夜では不可能だ。
日記が本物だとしたら、書かれてある内容も本当の事だと言えるだろうか。乳母の妄想でないと、どうすれば証明出来るだろうか。
「……分かりません。凱寧皇帝は離宮に実兄を監禁して、一体何をしていたのでしょうか」
宮女はきっと兄の世話をさせるために付けていたのだろう。出入りしていたという宦官も似たような理由か、或いは凱寧が兄に何かをさせるために使い走りとして使っていたか。
「これから話す事はね、玲馨。この国では禁忌とされるものだ。私たち蘇と汪の者は、恐らくその日記の真実を知っている。いや、想像出来ると言うべきかな」
それまで穏やかだった玲馨を見上げる碧眼がひやりと冴えていた。玲馨にとってはこちらの表情の方が、正に蘇氏に連なる者という印象が強い。
「覚悟は出来ているかい」
聞けば後戻りは出来ないという事だろう。そも、聞かないという選択肢があったのかも分からない。
「お聞かせ下さい」
玲馨が答えるなりカコッと木製の蓋が開く音がした。蘇智望が日記が収めてあった木箱を開けていた。日記を元に戻すのかと思いきや、箱は二重底になっていて、底板の下から更にもう一冊本のようなものが出てくる。よくよく見ると木箱には鍵がついており、それだけ貴重な物を収めるため作られた箱のようだった。
「これを」
またしても古い、しかしとても上質で厚い紙で作られた綴じ本だった。保存状態も良く黄ばんだりしているところはない。
今度は表紙に題字がしてあった。古くて難しい文字が使われている。慎重に読み解いて、玲馨は目を瞠った。
「皇族から派生した力について詳しく記した典籍だよ」
脈読指南書──玲馨の知識が間違っていなければ、この綴じ本には確かにそう書いてある。
やはりあったのだ。脈読の発祥と言われる東江に、卜占へと繋がる手掛かりが。
「全て読む必要はない。最初に脈読の起源について書いてある部分だけを読んでみなさい」
さっと表面を指で撫でて厚い表紙を捲る。著者の名が記されており、さっきの日記とは比較にもならないほど能筆である。恐らく代筆だろう。
書き出しは蘇智望の言う通り脈読の起源となる卜占についてかと思いきや、何故か皇室に受け継がれるという異能が共に記されている。
「皇室の世嗣は地脈を読みそして繰る力を持つ。それは稟性──生まれついて──のものである」
玲馨は音読した後「繰る」と言葉を繰り返した。
蘇智望は何も言わずじっと玲馨を見ている。とにかく読み進めろという事だ。
『これは絶大な力であるが故に命を賭して行うもの。行いの良し悪しは必ずその身に反転するものと肝に銘じるべし』
その善悪は一体誰が判断するのだろう。神が見ているとでもいうのだろうか。
『脈読の祖は天子の御力である。地脈を読む力は時として市井に生まれ出づる。天賦に恵まれし子は祖への感謝と──』
どうやら神話時代の話のようで、脈読とはそもそも皇帝の力だったところを領民たちへ分け与えたものだそうだ。以来、貴賤を問わずに脈読の力を持つ者が現れるようになる。
その後、脈読の力が政に使われ始めると、ここで東江の蓐卜占を生業にした卜師の前身が現れる。その者によって脈読はより洗練された技術となって、以来沈の祭祀には欠かせないものとなっていった。
そこから先は脈読に関する具体的な方法の説明に入っていく。
「地脈を読むのは卜師であって皇帝ではないし、地脈を操るというのは聞いた事もありません。これは歴史的な文献としてではなく今でも指南書として使われているものなのですか?」
「これは門外不出の卜師育成の書だ。凱寧の時代より以前、脈読の才を見いだされた者は皆ここ東江にて卜師としての修行を積んだのだよ」
「では、地脈を繰った皇帝も存在したと?」
「そなたは既に会っているはずだ。皇室の世嗣、その子孫に」
玲馨の脳裏に言葉があまり上手くなく、無垢な眼差しを持つ少年の姿が過ぎった。
──于雨だ。あの子に違いない。
四郎の言葉を思い出せば自ずと于雨がただ脈読の才に恵まれただけではないと導き出せる。于雨には地脈を操る、つまり繰る力があると言っていたではないか。
だとしたら。
「乳母の日記にあった凱寧皇帝の兄というのは……」
「監禁されて凱寧に利用されていたのだろうね。地脈を繰り、凱寧に都合の良い様に沈を作り変えたのだよ」
凱寧は実兄を死んだ事にして帝位を簒奪したばかりか、兄の力を、命を賭さねば使えぬ力を行使させて、沈を滅びの道へと歩ませた。全ては己が治世を確固たるものとするために。国の未来がどうなるかなど一片たりとも考えない暴虐ぶりは、愚帝や暴君という言葉だけではもはや足りないように思えた。
「──これが、皇室の真実。それも、凱寧の手によって真実は火へと焼べられ、過去を知る者はあわいによって四方の地へと封じられた。おかげで紫沈の人間は何も知らず無知蒙昧のままのうのうと日々を暮らし、四方は皇族へと恨みを募らせていった」
蘇智望の瞳の奥が暗くぎらついた。その光はとても暗いのに、彼の碧眼の中で激しく燃え上がっている。
この人は、皇族を強く憎んでいるのだ。
「金王様、あなたの目的は何です?」
訊ねる声はとても威勢が良いとは言えないものだった。どうにか喉から絞り出した問いは、答え如何によって玲馨の運命を定めるものだ。
蘇智望は于雨の事を知っている。それは四郎と蘇智望の繋がりを示すものだ。それが分かっただけでも、彼が戊陽に味方する者ではない事は明らかだった。
「玲馨私はね、ほんの少しの自由が欲しい。それだけなんだ」
*
その年は雨季が遅れた年だった。
雨の代わりに日照りが長く続き干ばつの危機が高まっていた。
「熱病が流行って子供や年寄りが次々倒れてるそうです」
「金王様、東の方の村も井戸の出が悪いって訴えが来てます」
どうしましょう、どうしますか、どうにかして下さい──。
水が乾けば乾くほど、民の心も乾きひび割れ小さな諍いが起こり始める。
沈では目下恐れるべきはあわいだが、干ばつや水害、冷害とて軽視出来ない。寧ろあわいによって他方からの応援を期待出来ないせいであらゆる災害は死に直結していた。
父の隣に座っていた若い時分の蘇智望は地方官吏に向かって訊ねる。
「川の状況はどうなっている?」
「一部の水路が干上がってます。本流の方も水位が下がって濁り始めて……とても飲み水には……」
蘇の屋敷で毎日のように会合を開き各地の水資源の状況報告を行っているが、各村や里を担当する地方官吏の顔付きは日に日に悪くなっていくばかりだった。
このまま日照りが続けば暴動が起こり、民は互いに略奪を始めてしまう。しかし事前にある程度対策が可能な水害や冷害などと比較して、干ばつだけはどうにもならない。どれだけ水を溜めても目減りしやがて干上がってしまい、雨が降らなければ乾きに喘ぐしかなくなってしまう。
誰か起死回生の妙案を思いつかないものだろうか──。
もはや天に祈るしかないと誰も口を開かなくなった時、屋敷の外から大声が響いてきた。
「誰だ! 今は会合中だ、静かにしろ!」
扉に近い方に座っていた地方官吏が苛立ちをぶつけるように怒鳴ると、報せに来た若い門衛はたちまち困ったような顔になる。
「そ、それが、紫沈からの伝令でして!」
門衛の言葉が聞こえていた蘇智望は立ち上がり扉に向かう。回廊には若い軽装の男が頭を下げて待機していた。汪家で育てた諜報を生業にしている者だ。
「手短に申せ」
「後宮におられます賢妃様ご懐妊のお知らせで御座います」
ぱきっ、と何かに罅が入ったような音が手の中からする。そうだ扇子の音だ。強く力を込めた時、短く持っていたせいで仲骨が一本折れていた。
「近く正式に発表されるものと思われます」
「それは確かなのか」
「はい。もし男児であれば第二皇子となります」
第二皇子。長男が死ねば皇帝になり、母である賢妃は皇太后に、つまり国母になるという事か。
賢妃──堂姐さんが、国母に。
「……そうか。よく報告してくれた。下がって良い」
はっ、と短く返事をして男が去っていく。
蘇智望が何かを思うよりも早く、初夏にしては冷たい風が肌を撫でた。釣られて顔を上げると空には暗雲が立ち込めており、すぐにぽつ、ぽつ、と雨粒が落ちてくる。
「あっ……雨だ……! おい、雨だ! 雨が降ってきたぞー!!」
誰かが歓喜に叫び喜びの声が次々と上がっていくのを、蘇智望はどこか遠くで聞いていた。
「私もやりたい!」
今年四つになったばかりの蘇智望は、従姉に手を引かれながら蹴鞠で遊ぶ子供たちを眺めて駄々をこねる。
「小望はもう少し大きくなったらみんなと一緒に遊びましょうね」
実の姉は歳が近いせいか喧嘩ばかりだが、一回り以上歳の離れた従姉にはよく懐いていた。「まだ幼いから」など誰に言われても納得しなかっただろうが、大好きな従姉に窘められれば渋々我慢した。
従姉は不服いっぱいの顔で黙り込んだ蘇智望と目線を合わせるためにしゃがみ込むと、何かを取り出して手に握らせる。
「これはなんですか?」
「糸を芯に巻き付けて作った玉なのですって。綺麗でしょう?」
この時の蘇智望にはまだ分からなかったが、玉に使われていたのは東江名産の絹の糸で、年上の子供たちが遊んでいる蹴鞠の玉よりほっぽど高価な物だった。
「舶来の品の真似をして作ったのだと絹問屋のご主人から頂いたの。ねぇ小望、これをあなたにあげるわ」
紅、橙、薄紅などいかにも女子が好みそうな暖かみのある色で染めた絹糸の玉は、幼くとも男子である蘇智望にはなんだか不似合いのような気がした。けれどもちろん、断る事はしないのである。
受け取った玉は光沢があって艶やかな手触りをしている。きっと蹴って遊ぶの物ではないだろう。これは飾る物だと、蘇智望は弱冠四つにして美術品への審美眼を備えていた。
蘇智望が十歳になる年、従姉は後宮へと入宮する事になった。
「何故です父上! 妃には慧姐がなるのではなかったのですか!」
「嬪の位が廃され、代わりに妃を五つまで増やすのだ。我が娘は幼い故まだ入宮は叶わぬからと五妃に召される事になった」
父は右の拳をきつく握りしめながら苦々しく言う。
「……まぁ良い。二十歳を越えて薹が立った女に、頑健な子が産めるとは到底思えん。代わりにうちの子が男児さえ身籠れば、次の世継ぎが我が孫という事になる」
後宮とは四王を含む貴族の娘を皇帝の妃として迎えるための鳥籠である。皇帝からの勅使があれば適齢期の女たちが召し出されるのだが、しかしながら金王には年頃の娘がいなかった。仕方なく身代わりにされたのが蘇智望の兄と婚約していた従姉だった。蘇智望の兄は数年前に病で亡くなっており、嫁ぐ前で当然子も居なかったので、入宮を許されたのだろう。
父の口振りは蘇智望の怒りを煽ったが、父に当たっても意味が無い事はよく分かっていた。
優しかった従姉が最年長でありながらも四妃の賢妃として後宮で過ごすのは、さぞ肩身が狭い思いをする事だろう。男は居ても宦官で、女ばかりの後宮は華やかなばかりではない。過去には陰惨な出来事も多くあった。
「嬪なんてなくなってよかった」歳が近い貴族の女子が言っていた。
十歳の蘇智望でも、後宮へ行く事が貴族の子女の夢にはならないのだと知っていた。
可哀想な堂姐さん。婚約者を亡くしたばかりか見知らぬ男の側室の一人にさせられるなんて。
凋落してゆくばかりの皇室に入って何を得するというのだろう。もはや都市の大きさで東江は紫沈に勝るというのに、どうして嫌だと言えないのか。
皇帝なぞさっさと亡くなってしまえばいい。寡婦となれば子さえ居なければ実家に帰される。父のように薹が立っていると馬鹿にするなら、蘇智望こそが彼女を貰い受けよう。
蘇智望は長く長く祈った。
どうか従姉に子が出来ないように。皇帝から嫌われるように。
*
血相を変えて部屋に飛び込んできた蘇智望に驚いたのも束の間、何かが起きたのだという事を一気に騒々しくなった屋敷の気配が玲馨にも伝えてきた。
東江の港、蘇智望の嘗ての別荘である豪奢な屋敷では、兵士や侍女が廊下を忙しなく行き来している。何かを急ぎ支度しなくてならない事情が出来たようだ。
羅春梅を残して蘇智望に連れられるまま屋敷を奥へ進んでいくと、寝台と小さめの円卓が置かれただけの酷く殺風景な部屋に辿り着く。
「私の部屋だ。今では寝泊まりするだけだがね」
他の調度品は売るか捨てるかしてしまったのだろうか。絨毯さえ敷かれていない部屋はとても貴人の使う部屋には見えない。
「椅子も無くてね」
そう言いながら寝台に腰掛けた蘇智望は、自分の隣をポンと一つ叩いた。その姿がどことなく戊陽の面影と重なって、玲馨は首を振る。
思えば戊陽と蘇智望とは血縁者になるのだ。蘇智望は戊陽の母の従弟であり、戊陽から見て従叔父にあたる。
蘇智望はさすがに東妃と姉弟であるからして怜悧な印象はよく似ていながらも、私的な空間では戊陽や賢妃のような柔らかな雰囲気を纏う人のようだ。
玲馨は蘇智望の前に跪こうとしたが案の定止められて「せめて前に立ってくれ」と苦笑される。仮にも金王である人を見下ろすのは忍びないが、隣に座るよりよっぽど気が楽だ。
「良いか、玲馨。落ち着いて聞きなさい。私の生家である蘇には宗家と分家があるのを知っているかな?」
「東妃様と賢妃様のそれぞれの生家ですね」
蘇智望はうんと頷きながら「賢妃は私の従姉だ」と付け加える。
「賢妃の生家は分家で、汪氏という。ここまでは周知だろう。だがこれはそなたとて知るまい。嘗ては汪氏こそが宗家であり、我が蘇氏が分家であった事を」
宗家が没落したのではなく、嫡流──本家を継ぐ家筋──が入れ替わるとはどういう事だろう。思わず怪訝な顔になる玲馨へ、蘇智望が説明を続ける。
「およそ七十年前に宰相を務めていた男は汪氏の出自であった。その者は生家どころか東江すらも裏切り、凱寧皇帝と共に私欲を満たすため沈を破滅へと向かわせたのだ」
「破滅とは、まさかあわいの事ですか……?」
「そうだ。あわいは自然に起こったものではない。四方が力を付けるのが不都合だった時の皇帝凱寧による人為的なものだ」
すぐには信じられない事など織り込み済みだったようで、蘇智望は玲馨の反応を待たず枕の下から何かを取り出してくる。
「古くて字もさほど上手くないから読みにくいかも知れないが、これを読んでご覧」
長方形の木箱を開けると中から出てきたのは料紙だ。形が不揃いな料紙の角に穴を開けて紐を通しただけの、本とも呼べない紙の束が収まっていた。
端は黄ばんで欠け始め、確かに字も綺麗ではない。それに書き言葉自体が現代と多少異なるようで、読み解くのには少しコツが必要なようだ。
玲馨は紙がこれ以上崩れてしまわないように慎重に持ちながら、文章を読み進めていく。
「……これは日記ですか?」
「七十年前に凱寧の乳母だった宮女が書き残した物だ。日付も飛んでいるし、主観的でどこまで信用して良いかも甚だ怪しいが、偽りだとする証拠もない」
とにかく読んでみろと視線で促され、紙を捲っていく。
『何て聡明なお子かと彼の方が歳を一つ重ねるごとに感動しきりであったというのに、今となってはどうだ。官吏たちは皆怯え顔色を窺うようになり、妃嬪たちもお渡りがあると聞いては体調を崩してしまう方もおられる始末』
彼の方とは凱寧の事のようだ。
『今は亡き皇太子様が生きておられたらと思わぬ日はない』
凱寧は戊陽と同じ第二皇子として生まれ、その後長男を亡くして即位した。故に名に「黄」を持たない皇帝の一人だ。
『彼の方の暴政は悪化する一方だ。この手記が見つかれば処罰は免れない。けれど、乳母の言葉がどうか少しでも彼の方に届けばいいと願う』
日記とは言っても起きた出来事の記録というよりは、その頃の乳母の感情を書き留めた物という側面が強い。
そして書き始めたのは凱寧が皇帝に即位した後からのようだ。或いはこれ以前にも別の日記があるのかも知れないが、少なくとも今手元にあるのは即位後二年以内のものらしい。
『黄麟宮の西にある離宮に出入りしている宮女が噂になっていた。宮女が出入りするという事は、その離宮に何方か、貴人が住まっているという事。宦官も何度か離宮に入っていくのを見かけている』
現在の宮城にはこの離宮は無い。昔にとある事情があって取り壊されたと聞いている。
とある事情。噂によると死臭が染み付いて消えなくなったためにやむなく壊すしかなくなったとか。その離宮のあった場所は美しい庭園に変わったが、噂のせいで近寄りたがる人は居なかった。
『離宮に出入りしている宮女と言葉を交わした。宮女は離宮で生活をしているという。それから宮女は信じられない事を言ってきた。離宮には死んだはずの彼の方の兄君が住んでいると』
日記によれば凱寧の兄は死んでから五年は経っている事になる。
『信じられる事ではなかったし、信じて良いものでもないと思った。宮女は気が触れてしまっているのだと思い込み、きっと彼の方に離宮で囲われている憐れな娘なのだと、そう自分に言い聞かせていた』
『宮女が紙の端切れを持ってきた。皇室で使う良い紙に「私はここに居る」と短く書かれてある。それを誰が書いた文字なのか想像した時ぞっとなって、私は紙を破り捨てた』
『三月ほど宮女を見ていない。以前は朝議の間、彼の方がいらっしゃらない隙を狙って黄麟宮の宮女や宦官と話していたというのに。この事が知られて、殺されてしまったのかも知れない』
『宮女は生きていた。五ヶ月ぶりに会った宮女の腹は、痩せぎすの体つきにはおかしな膨れ方をしていた。そこに何が宿っているのかを私は決して言葉にしなかった』
ここから先はお世辞にも綺麗とは言えなかった字が更に乱れている。
『私は、とんでもない事をしてしまったかも知れない。宮女は腹の子を助けてほしいと訴えてきた。ただの乳母には出来る事はないと断ってもしつこく食い下がってきた。あまりにしつこいので、妃嬪の生家とやり取りする荷物にでも紛れろと適当な事を言ったら宮女はその通りにしてしまった』
『結局、あの宮女の腹の子は誰の子だったのだろう。宮女はずっと彼の方の兄君の子だと言い張っていたけれど、私は知っている。離宮には彼の方もしょっちゅう出入りしていた。本当はどちらの子かなんて、宮女も自分で分かっていないのではないだろうか』
『宮女が出ていって一月ほど経ち、離宮を掃除しに行った宦官が異臭がすると言って騒いでいた。遺体が見つかったらしい。遺体はげっそりと痩せ細って元の顔が分からないほどだったそうだ。傍には縄が一本、輪が千切れたようになって落ちていた。宦官たちによって遺体は運び出されたが、当たり前のように無縁仏として弔われた。遺体の正体を知る私はあまりに恐ろしくてたまらなかった。どうか、遺体の魂が迷う事がないように祈ろう。私に出来る事はそんな事しかない』
次が最後の日付けで、日記の始まりからおよそ二年が経っていた。
『私はきっとこういう星の巡り合わせに生まれてしまったのだと自分を慰める事しか出来ない。彼の方と宰相様は、自分たちのためにお国を割ったのだと仰っていた。隣の部屋を掃除していた私に、どうして気付いて下さらなかったのか。ただの乳母でしかないのに、知りたくない事聞きたくない事にばかり出会ってしまう。もうたくさんだ』
この後乳母は暇でも貰ったのだろうか。
紐で括られた最後の料紙は、実に粗末な紙であった。
日記を読み終えると料紙を綴じ直して蘇智望へ返す。
「これを読んで、そなたは何を考える?」
素直に答えるなら、何て情の無い乳母だろう、という事だ。一人、離宮で君子たちの相手をさせられていた宮女はどれほど辛かったか。
しかし後の世に暴君として知られる凱寧のもとで働いていたというだけでも、或いは毎日生きた心地がしないような環境だったかも知れない。みんな我が身を守るので精一杯だったろう。
それが真っ先に玲馨の感じた事だが、蘇智望に訊かれているのはそんな事ではないと玲馨も分かっている。
「この日記は、どういう経緯であなたのもとへ渡ったのですか?」
「汪家から接収したものだ。どうもこの乳母は東江の貴族の子女であったようでな。故郷に戻って日記を保管していたのだ。後年になって乳母の子孫が汪家に譲り、賢妃の兄君から私の父の手に渡ったと聞いている」
汪家はその立場から、いかなる事も宗家である蘇家に報告しなくてはならないそうだ。
「そなたに会えると思って東江の屋敷から持ち出してきた物だ。家令に見つかれば叱られるだろうね」
日記を偽装するのは難しいだろう。古い白紙の料紙は見つけられたとしても、新たに書いた墨まで褪せさせるのは一昼夜では不可能だ。
日記が本物だとしたら、書かれてある内容も本当の事だと言えるだろうか。乳母の妄想でないと、どうすれば証明出来るだろうか。
「……分かりません。凱寧皇帝は離宮に実兄を監禁して、一体何をしていたのでしょうか」
宮女はきっと兄の世話をさせるために付けていたのだろう。出入りしていたという宦官も似たような理由か、或いは凱寧が兄に何かをさせるために使い走りとして使っていたか。
「これから話す事はね、玲馨。この国では禁忌とされるものだ。私たち蘇と汪の者は、恐らくその日記の真実を知っている。いや、想像出来ると言うべきかな」
それまで穏やかだった玲馨を見上げる碧眼がひやりと冴えていた。玲馨にとってはこちらの表情の方が、正に蘇氏に連なる者という印象が強い。
「覚悟は出来ているかい」
聞けば後戻りは出来ないという事だろう。そも、聞かないという選択肢があったのかも分からない。
「お聞かせ下さい」
玲馨が答えるなりカコッと木製の蓋が開く音がした。蘇智望が日記が収めてあった木箱を開けていた。日記を元に戻すのかと思いきや、箱は二重底になっていて、底板の下から更にもう一冊本のようなものが出てくる。よくよく見ると木箱には鍵がついており、それだけ貴重な物を収めるため作られた箱のようだった。
「これを」
またしても古い、しかしとても上質で厚い紙で作られた綴じ本だった。保存状態も良く黄ばんだりしているところはない。
今度は表紙に題字がしてあった。古くて難しい文字が使われている。慎重に読み解いて、玲馨は目を瞠った。
「皇族から派生した力について詳しく記した典籍だよ」
脈読指南書──玲馨の知識が間違っていなければ、この綴じ本には確かにそう書いてある。
やはりあったのだ。脈読の発祥と言われる東江に、卜占へと繋がる手掛かりが。
「全て読む必要はない。最初に脈読の起源について書いてある部分だけを読んでみなさい」
さっと表面を指で撫でて厚い表紙を捲る。著者の名が記されており、さっきの日記とは比較にもならないほど能筆である。恐らく代筆だろう。
書き出しは蘇智望の言う通り脈読の起源となる卜占についてかと思いきや、何故か皇室に受け継がれるという異能が共に記されている。
「皇室の世嗣は地脈を読みそして繰る力を持つ。それは稟性──生まれついて──のものである」
玲馨は音読した後「繰る」と言葉を繰り返した。
蘇智望は何も言わずじっと玲馨を見ている。とにかく読み進めろという事だ。
『これは絶大な力であるが故に命を賭して行うもの。行いの良し悪しは必ずその身に反転するものと肝に銘じるべし』
その善悪は一体誰が判断するのだろう。神が見ているとでもいうのだろうか。
『脈読の祖は天子の御力である。地脈を読む力は時として市井に生まれ出づる。天賦に恵まれし子は祖への感謝と──』
どうやら神話時代の話のようで、脈読とはそもそも皇帝の力だったところを領民たちへ分け与えたものだそうだ。以来、貴賤を問わずに脈読の力を持つ者が現れるようになる。
その後、脈読の力が政に使われ始めると、ここで東江の蓐卜占を生業にした卜師の前身が現れる。その者によって脈読はより洗練された技術となって、以来沈の祭祀には欠かせないものとなっていった。
そこから先は脈読に関する具体的な方法の説明に入っていく。
「地脈を読むのは卜師であって皇帝ではないし、地脈を操るというのは聞いた事もありません。これは歴史的な文献としてではなく今でも指南書として使われているものなのですか?」
「これは門外不出の卜師育成の書だ。凱寧の時代より以前、脈読の才を見いだされた者は皆ここ東江にて卜師としての修行を積んだのだよ」
「では、地脈を繰った皇帝も存在したと?」
「そなたは既に会っているはずだ。皇室の世嗣、その子孫に」
玲馨の脳裏に言葉があまり上手くなく、無垢な眼差しを持つ少年の姿が過ぎった。
──于雨だ。あの子に違いない。
四郎の言葉を思い出せば自ずと于雨がただ脈読の才に恵まれただけではないと導き出せる。于雨には地脈を操る、つまり繰る力があると言っていたではないか。
だとしたら。
「乳母の日記にあった凱寧皇帝の兄というのは……」
「監禁されて凱寧に利用されていたのだろうね。地脈を繰り、凱寧に都合の良い様に沈を作り変えたのだよ」
凱寧は実兄を死んだ事にして帝位を簒奪したばかりか、兄の力を、命を賭さねば使えぬ力を行使させて、沈を滅びの道へと歩ませた。全ては己が治世を確固たるものとするために。国の未来がどうなるかなど一片たりとも考えない暴虐ぶりは、愚帝や暴君という言葉だけではもはや足りないように思えた。
「──これが、皇室の真実。それも、凱寧の手によって真実は火へと焼べられ、過去を知る者はあわいによって四方の地へと封じられた。おかげで紫沈の人間は何も知らず無知蒙昧のままのうのうと日々を暮らし、四方は皇族へと恨みを募らせていった」
蘇智望の瞳の奥が暗くぎらついた。その光はとても暗いのに、彼の碧眼の中で激しく燃え上がっている。
この人は、皇族を強く憎んでいるのだ。
「金王様、あなたの目的は何です?」
訊ねる声はとても威勢が良いとは言えないものだった。どうにか喉から絞り出した問いは、答え如何によって玲馨の運命を定めるものだ。
蘇智望は于雨の事を知っている。それは四郎と蘇智望の繋がりを示すものだ。それが分かっただけでも、彼が戊陽に味方する者ではない事は明らかだった。
「玲馨私はね、ほんの少しの自由が欲しい。それだけなんだ」
*
その年は雨季が遅れた年だった。
雨の代わりに日照りが長く続き干ばつの危機が高まっていた。
「熱病が流行って子供や年寄りが次々倒れてるそうです」
「金王様、東の方の村も井戸の出が悪いって訴えが来てます」
どうしましょう、どうしますか、どうにかして下さい──。
水が乾けば乾くほど、民の心も乾きひび割れ小さな諍いが起こり始める。
沈では目下恐れるべきはあわいだが、干ばつや水害、冷害とて軽視出来ない。寧ろあわいによって他方からの応援を期待出来ないせいであらゆる災害は死に直結していた。
父の隣に座っていた若い時分の蘇智望は地方官吏に向かって訊ねる。
「川の状況はどうなっている?」
「一部の水路が干上がってます。本流の方も水位が下がって濁り始めて……とても飲み水には……」
蘇の屋敷で毎日のように会合を開き各地の水資源の状況報告を行っているが、各村や里を担当する地方官吏の顔付きは日に日に悪くなっていくばかりだった。
このまま日照りが続けば暴動が起こり、民は互いに略奪を始めてしまう。しかし事前にある程度対策が可能な水害や冷害などと比較して、干ばつだけはどうにもならない。どれだけ水を溜めても目減りしやがて干上がってしまい、雨が降らなければ乾きに喘ぐしかなくなってしまう。
誰か起死回生の妙案を思いつかないものだろうか──。
もはや天に祈るしかないと誰も口を開かなくなった時、屋敷の外から大声が響いてきた。
「誰だ! 今は会合中だ、静かにしろ!」
扉に近い方に座っていた地方官吏が苛立ちをぶつけるように怒鳴ると、報せに来た若い門衛はたちまち困ったような顔になる。
「そ、それが、紫沈からの伝令でして!」
門衛の言葉が聞こえていた蘇智望は立ち上がり扉に向かう。回廊には若い軽装の男が頭を下げて待機していた。汪家で育てた諜報を生業にしている者だ。
「手短に申せ」
「後宮におられます賢妃様ご懐妊のお知らせで御座います」
ぱきっ、と何かに罅が入ったような音が手の中からする。そうだ扇子の音だ。強く力を込めた時、短く持っていたせいで仲骨が一本折れていた。
「近く正式に発表されるものと思われます」
「それは確かなのか」
「はい。もし男児であれば第二皇子となります」
第二皇子。長男が死ねば皇帝になり、母である賢妃は皇太后に、つまり国母になるという事か。
賢妃──堂姐さんが、国母に。
「……そうか。よく報告してくれた。下がって良い」
はっ、と短く返事をして男が去っていく。
蘇智望が何かを思うよりも早く、初夏にしては冷たい風が肌を撫でた。釣られて顔を上げると空には暗雲が立ち込めており、すぐにぽつ、ぽつ、と雨粒が落ちてくる。
「あっ……雨だ……! おい、雨だ! 雨が降ってきたぞー!!」
誰かが歓喜に叫び喜びの声が次々と上がっていくのを、蘇智望はどこか遠くで聞いていた。
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