あわいの宦官

ちゅうじょう えぬ

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完結編

30兄と妹

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 現実が困窮していくほど、夢は反比例して幸福を描く。
 玲馨リンシンは時々目を覚ましたが、夢と現実との境が曖昧なまま再び眠るという日々を繰り返していた。
 寝台から起き上がれるほどにちゃんとした覚醒を迎えたのは倒れた日から数えて三日が過ぎた頃だ。見覚えの無い室内の景色に時折揺れる地面。ここが水の上だと自力で気付く前に、玲馨の世話をしに来た侍女に教えられた。
「では、この船は東江に向かっているのですね?」
「はい。三叉サンチャー湾の雲江ユンジャン山地の岬を越えた辺りです」
 にこりともしないが整った顔立ちの侍女は、玲馨が眠っていた間の事と蘇智望スージーワンの事を教えてくれる。
 雲朱ユンジューへは南の王郭隕グオインとの商談のために来ていた事、そこに東妃とうひの宦官である玲馨が来たため雲朱へ待《・》する事、玲馨は「紫沈からの道中」で傷を負って昏倒してしまい安静にするために船の持ち主である蘇智望の船室に運ばれた事。聞かされた事のうちいくつかは、表向きの事として事実を湾曲させてあるが、概ね自分の置かれている状況は理解出来た。
 一つ分からない事があるとすれば、ここが蘇智望の船室である理由だ。
「私どもがお世話をしやすいように、と配慮して頂きました」
 その答えもまた表向きのものだろう。そも蘇智望の侍女に玲馨の世話を任せている時点で待遇が不自然に良すぎた。牢の冷たい床に転がされるのも苦痛だったが、身分に相応しくない扱いをされるのもそれはそれで不安を煽られる。メイ風蘭フーランがどうしているかも知りたかったが、侍女は聞かされておりませんと首を振るだけだった。
 帆が張られた甲板から梯子を下りた空間を中甲板と呼ぶが、一般の船員たちは中甲板に部屋が割り当てられているようだ。一方、蘇智望の部屋は上甲板にある操舵室の隣に設けてある。船内では自由にして良いと言われたので試しに扉を開けてみると、そこには一面の海が広がっていた。
 しばし真っ青な景色に圧倒されて言葉が出なくなる。北玄海ペイシュエンハイでも港に行く機会はあったが船に乗る事はなかった。そして北玄海で遠目に見た船よりも、もっと大型の船舶のように見える。
 甲板に出てみて自由にして良いと言われた理由が分かった。逃げ出してもそこは海で、恐らく船員たちの中には弓の訓練を受けた兵士が乗り込んでいるのだろう。逃げ出したが最後、海の藻屑となるか矢で射られるか、命は無いという事だ。
 潮風の独特の匂いに吹かれながら遠洋を見はるかす。三叉湾はその名の通り三つに別れた陸地が三叉の鉾のように見える事が由来だ。湾口の先から続く外洋を行けば隣国であるクン国より更に遠くの国へ行けるというが、東江から更に西に続く沿岸部はどこも断崖絶壁で船をつける場所が無い。これだけ大量の水の中を進んでいるというのに人は海水を飲めないというから、船旅は陸路を行くよりもずっと険しく、尚且つ計画的でなければならなかった。沈の造船技術では断崖絶壁を越えるだけの船を造る事が難しい。故に昆国を通さずに外の国と国交を結ぶことは叶わず、沈は長く陸の孤島と化していた。
 余談だが北玄海の北部にあるのは国ではなく集落だ。北玄海は海向こうの集落と交易を行ってはいるが、東江と比較するには些か規模が小さすぎた。
 昆国と交流が盛んになったのはこの四十年くらいの事で、世代で言えば東妃の両親、つまり先代金王ごんのうの時代だ。昆との友好の証に互いの姫を国に嫁がせたのである。東妃と弟の蘇智望の母は昆国の貴人で、二人は沈と昆の混血になる。その生まれの特殊さから、東妃は後宮で冷遇されてきた。
 物音がして振り返ると、操舵室の方から蘇智望が出てくるところだった。思わず拱手するべきか逡巡してしまい、蘇智望に悟られ先んじて「構わぬ」と言われてしまう。
「私はそなたにとって、礼儀を払うような相手では無い」
 心情的にはその通りだと言い返したいが、口にする事は出来ないので沈黙で返す。否定も肯定もしなかった玲馨をどう思ったか分からないが、蘇智望は話を続けた。
「ここから東江側の港までは一日もかからない。それまでは今暫く休むと良い」
「……部屋を、一般の船室へ移して頂けますか」
 蘇智望の目が丸くなる。しかしすぐに「侍女から聞いたか」と納得して、少し困ったような顔をする。
 そうやって人らしく表情の変化を見せられると、もともと彫刻のように整った顔の印象が途端に親しみやすく崩れていく。
「郭隕ではないが、そなたなら私の側仕えに置いても良いと思ったのだ。私の部屋なら好きに使って良い。無論、私も私の部屋ではがな」
 蘇智望は話しながら部屋の扉近くに立っている玲馨の方へゆっくりと歩いてくる。異国の血が混ざった沈には無い色彩を持った美しすぎる顔が、間近に迫る。目を閉じる事も出来ずにじっと偉丈夫の顔を見つめた。
「──ふ、ふふ」
 揶揄われたのだと分かるまでに少しかかった。知らず知らず握りしめていた拳を開くと、手のひらに滲んでいた汗が風で冷えていく。
「やはりそなたは見た目より心が自由なのだな」
「自由、ですか」
 不思議な言い回しに意味を掴みあぐね、鸚鵡おうむ返しに訊ねてしまう。
「皇帝を差し置いて力を蓄える四王が一人、閨でたぶらかして意のままに操ってやろう──とは考えもしない辺り、そなたは宦官という立場を越えて寵愛されたのだろう」
 分かったような、分からないような言葉だ。
 玲馨の中にある心というものへの認識は、幼い頃には皆無に等しいものだった。「明杰ミンジエ」は、道具だった。
 心というものを育むきっかけをくれたのは、間違いなく猿猿ホウホウだ。彼が埋もれていた心を揺さぶって心の在処ありかを教え、戊陽が大事にしてくれた。十年、「玲馨」を大事にしてくれる戊陽が共に居た事で、最早自分を道具のようだとはひとつも感じなくなった。
 過去を振り返った時、確かに明杰よりも玲馨の方が心が自由だと言えるのだろうと思った。
「腹を割ってとはいくまいが、そなたとは話す事が多くある。東江に着くまで養生すると良い」
 船を預かる船長には話を通しておくと言い残して蘇智望は船室へと入っていく。
 残った玲馨は水平線に日が沈むまで甲板でぼんやりとして過ごした。考えるべき事は多くあるというのに、まるで頭が働かなかった。
 蘇智望の思惑、東江と雲朱の関係、玲馨たちを攫う目的。玲馨たちの旅の目的である卜師探しも何とかして目途を立てたい。
 もっと蘇智望の事を疑ってかからなくてはならないのに、何故だか毒気を抜かれてしまっている。
 立ちぼうけしていた玲馨を侍女が呼びにくると、船尾側から梯子を使って中へと降りて別の部屋へと通された。蘇智望は玲馨の願いを叶えてくれたようだ。軽い食事を受け取って済ませた後は、船が岸に着くまで泥のように眠った。




 カーンカーンとけたたましい音が鳴って玲馨は飛び起きた。鐘楼の音だ。
 寝台に横になってからの記憶が全くないので、蘇智望の船室でさんざ眠った後にも関わらず、部屋を変えた後もまたしっかりと寝入ってしまったらしい。考えてみれば雲朱で牢に囚われていた間、緊張や恐怖といった感情的な理由もあるが単純に床も壁も寝るには適さない環境だったせいで、少し眠っては目を覚ますを繰り返していた。玲馨は自分で自分のことを身も心も強いとは思わないが、それでもたった数日間の牢獄生活でこれほど疲弊する程度だと知って些か落胆する。
 何はともあれ雲朱到着からここに至るまでの失態をどうにか挽回しなくてはならない。気持ちを改めるように身形を軽く整えていると、ある事に気付く。玲馨たちの乗せられた船はどうやら港に到着したらしい。足元から伝わる揺れの感覚が変わっていた。
 船員たちの気配はしないので既に降りたのだろう。玲馨も船から降りるために扉を開けようとすると、それより早く外から扉を叩かれた。
「起きていらっしゃいますか。東江港へ着いたので呼びに参りました」
 あの侍女の声だ。返事をしてから扉を開けると侍女は雲朱で捕まった時に奪われていた玲馨の荷を手にしていた。剣ももちろんある。これを今ここで返してしまうとは、信頼されたのかそれとも試されているのか。疑心も疑問も何も拭えないままそれでも荷を受け取って、袋の中身を検める。
 今回の旅は紫沈からある物を持ってきていた。于雨に手紙を残すために漆器の箱を使ったため、置いておく場所がなくなった手紙だ。差出人も宛名もないそれは、書き手が手ずから相手に渡したもので。返事を書けないままこんなところまで運ばれてしまったその手紙が無事である事を確認し、玲馨はほっと胸を撫でおろす。牢の中、夢に見たあの時の記憶が、玲馨に安らぎと勇気を与えてくれる。
「金王様がお待ちです。案内致します」
 侍女は淡々と最低限の事だけを告げて前を歩き始める。ずっと誰かに雰囲気が似ていると感じていたが、そう、四郎スーランだ。この徹底した滅私ぶりと寡黙さは玲馨の先輩で今頃于雨ユーユーと接触しているかも知れないあの宦官にそっくりだった。
「あの、もし。あなたは四郎という人を知りませんか?」
 四郎という名前はごくありふれている。この場合名前といっても輩行はいこうという一種の仮称になる。沈では渾名あだなのようなもので大抵は生まれた順番がそのまま呼び名に使われた。そのため二郎アーラン三郎サンランと共に四郎と呼ばれる四男は少なくない。
「……どんな字を?」
 だから「四郎」と聞いてその字を思い浮かべない侍女の反応は少々珍しかった。
「四男の四郎です。本当に四男なのかは知りませんが、同じ宦官に輩行で呼ばれている者が居ます」
「そう。では知らない人です」
「……余計な事を訊いてしまいました」
「いいえ」
 そのにべもない話し方や言葉はますます四郎に似ていると思ったが、知らないというのならそういう事にしておくべきだろう。
 宦官とは本来城からは出られないのが定めだ。玲馨や梅のように皇帝の遣いだと言ってはあちこち飛び回るのは異例中の異例である。仮に親族だとしても二度と会う事が出来ない相手なら、知らずにいたいと思うのもおかしな事ではないのかも知れない。
 甲板に上がっても人気はなく、既に玲馨を残して全員が下船しているらしい。舷梯げんていを下りながら自分は寝過ごしてしまったのかと思うと何ともいたたまれない気分になる。
 ここは東江港と呼ばれる東江唯一の海路である。東江と雲朱を結ぶ航路として多くの商船が行き交い、山芒まで荷や人を運ぶ際にはここからユエ川の支流にまで船を出す。造船所の数も北玄海に次いで多く、この東江港は沈の中でも規模が大きく主要な港である。
 陸上であれ水上であれ主要な交易路には宿場として町のようなものを形成し発展する場合がある。ここはそのうちの一つだ。嘗てあわいが発生するより以前は宿場町というものが点在していたという。国としては町として認可していないが、宿場町は都市間の交流を潤滑にするために不可欠なものだった。
「ほとんど町のようになっているんですね」
 岬には灯台が見えた。天辺には鐘楼があるので先程の鐘はあの灯台から聞こえてきたもののようだ。
「東江まではここから徒歩で半日がかかりますから」
 つまり領都と港の往来を楽にしようとしたら、ここに居住区が出来上がっていったと言いたいらしい。いっそ四郎よりも淡白で言葉が足りないくらいだ。
 船を下り、少し歩くと大きな屋敷が見えてくる。向青倫シャンチンルンや郭隕の屋敷には到底及ばないが、ここにはそれなりの地位か、或いは財を成した者が住んでいるとすぐに分かる。
 躊躇いなく門を抜けて敷地へ入っていく侍女に些か気後れしつつ玲馨もまた門を潜る。
 下働きというよりは使用人という表現が適切だろうか。体力自慢の船乗りが集まる港には不釣り合いな格式ばっていて上品な感じのする男が二人を迎えて、すぐに屋敷の中へ通される。
 廊下を抜けてある一室へ案内されると、小柄な姿が椅子から驚いて立ち上がり、玲馨へと駆け寄った。
「玲馨兄さん!? 良かった会えた!!」
「風蘭……!」
 ほんの数日間、偶然から旅を共にしただけの少年だが、見知らぬ人間ばかりに囲まれていたせいか風蘭の顔を見るなり玲馨の強張っていた心がふと緩んでいく。ここは決して味方の土地とは言えない。警戒しなくてはとすぐさま気を引き締める。
「梅はどうした」
「オレも知らない。あの後すぐに牢屋から出されて、何かすごく広い部屋に閉じ込められてたんだよ!」
 牢から出された?
 自分との待遇の違いに首を傾げたが、風蘭の異能の力の事を思い出す。蘇智望がどうやって風蘭の力を知ったのかは不明だが、風蘭の異能をきっかけにこの子が自分の血縁だと知ったのだろう。だとすれば、風蘭を保護しようとする事に一応の説明はつく。蘇家の醜聞にさえ目を瞑れば、だが。風蘭は十中八九、蘇家に連なる人間の婚外子だ。
「やっぱり嘘なんてつくから……」
 風蘭に言われて思い出す。関虎グワンフーという男に名乗れと言われて梅は咄嗟に自分こそが玲馨だと宣った。庇われたという事なのだろう。蘇智望にはあっさり玲馨の正体が看破されていたので無駄に終わったが。玲馨は梅の事が好きではないが、あの男の行方も確かめてやらねばならないだろう。梅には常義の事も聞かなくてはならないというちゃんとした理由もある。
 二人が再会した屋敷の一室。派手すぎず品の良い調度品を設えられたここは恐らく客室で、風蘭はともかく玲馨まで客のような扱いを受けている事が不思議でならない。
 しかし完全に客とみなされていない事は部屋の中に風蘭についているらしい侍女が監視役に残った事で分かる。四郎似の侍女はいつの間にか居なくなっていた。
 風蘭と話をしたいところだがそうもいかず奇妙な緊張感が漂っていた。風蘭がそわそわと室内を見回し始めると、風蘭の侍女が「あの」と思い切ったように声を掛けてきた。
「皇帝陛下にお仕えしているんですよね」
 玲馨に向けた質問だ。どこでそれを聞かされたのかは知らないが隠すほどの事でもない。玲馨が頷くと、侍女の表情が切羽詰まったものに変わる。
「兄を、羅清ルオチンを知りませんか!」




 羅清の妹だという侍女に、現在は「梅」と名乗る宦官がかつて同じ名だったと話すと、侍女はその場で泣き出してしまった。落ち着くのを待ってから話を聞いていく。
 侍女は羅春梅ルオチュンメイと名乗った。兄は自警団をしていたが、ある時同じ自警団の男に罠に嵌められて、ありもしない罪を着せられた。以来、東江で婚儀を済ませた羅春梅は兄を謀った男の情報を得るために、蘇智望のもとに侍女として忍び込み今に至るそうだ。
 思いがけず玲馨が後宮に仕える宦官だと知って万に一つ兄が生きて宮刑にされている可能性に賭けた問いに、兄の生存という答えが返ってくれば感極まってしまうのも無理からぬ事だった。
 それにしても蘇智望の侍女になるとは。兄の分まで幸せになるという生き方もあったろうに何とも大胆な行動に驚かされる。
 羅春梅の話は続く。
「全てはあの男、常義チャンイーが企てた事なんです!」
 常義──。その名を聞いた途端、玲馨の目が眇められる。常義への憤りよりも、常義の正体にすぐに気付けなかった自分に対する不甲斐なさがそうさせた。
 黄雷の時代には禁軍内に派閥があった。もちろんそれはいつの世も貴族たちで軍を作る以上垣根が無くなる事はないが、当時の禁軍は先祖から続いた派閥闘争が極まった時代であった。その中心となったのが常家だ。自身の将軍としての座を確固たるものとすべく他家の兵士を煽り、殺し合いにまで発展させた。その後常家は禁軍から全て除隊、騒動を起こさせた者は将軍を筆頭に何名かが死罪になっている。
 もし常義が当時の決着に納得がいかず何かを目論んでいるのだとしたら、梅はそれに巻き込まれてしまったのだろう。
「常義は東江の貴族と繋がっています。私確かに聞いたんです!」
「少し落ち着いて下さい。どこに耳があるか分かりません。私は決して客人などではないのですから、難癖をつけて殺してしまう事なんて簡単ですよ」
「あ……」
 それはただの侍女でしかない自分も同じであると羅春梅も立場を思い出したようだ。
 静かになった羅春梅を改めて見てみてもあまり梅と似ているところは無い。大柄な梅に対して羅春梅は子供の風蘭と背丈が変わらないくらいで、素朴な面立ちや真面目そうな性格も、兄妹だと言われなければ思いもしないだろう。
「一つ一つ整理していきましょう。まず常義が繋がっているという東江の貴族の名は分かりますか?」
「はい。『胡安フーアン』と言っていました。私、常義に捕まっていた事があるんです。その時、胡安の命令がどうだという話をしていたのを確かに聞きました」
「胡安……吏部の、尚書長官と同じ名です」
 胡も安も沈ではありふれた名だ。だが、官吏の中で同じ名を探して二人と居るかどうか。
 何より零落したとはいえ常家とて貴族であり、嘗ては一族から将軍を配した事のある由緒ある氏族だったのだ。それが大人しく下級貴族の下につくとは思えない。その点、尚書まで上り詰めた者が相手ならば、常家もへりくだりやすいというもの。常義が関係を築く相手として胡安は申し分ない人間だと言えた。
「なぁ玲馨兄さん、吏部って?」
「宮廷の人事を司っている。やろうと思えば好きな人間を宮廷で働かせる事が出来るだろうな」
 実際にはそんな単純な話ではないが、下級官吏や閑職になら自分に都合の良い人間を誰に怪しまれる事もなく紛れさせる事は容易だろう。
 常義は、或いは文官として城に仕えるつもりなのかもしれない。町の自警団から宮廷内の官吏ともなれば出世どころの話ではなかった。
「じゃあその胡安ってのが梅兄さんを騙すよう命じたって事?」
「いや……しがない町人を、曲がりなりにも吏部の長官が貶めても利は無い」
 玲馨の言葉を受けて羅春梅が考え込むようにして呟く。
「兄は、誰かの身代わりをさせられたのかも……」
「身代わりって? 誰の?」
 風蘭がぐっと身を乗り出すようにして訊ねると、羅春梅は困ったように玲馨と風蘭の顔を見比べた。彼女が風蘭についてどう聞かされているのか分からないが、風蘭から羅春梅の正体や目的が外に漏れてしまう心配をしているのだろう。
 玲馨は少し考えてから、羅春梅に頷いた。そんな事はしないと信じたいが、席を外させた逆恨みでどこかの誰かに告げ口される方がよっぽど面倒だ。
「誰かまでは分かりませんが、あの当時強盗や殺人という物騒な事件が続いていたのは本当なんです。私の幼馴染も、それで……」
 言葉を切った羅春梅の表情は暗く、その先に続く言葉は察せられた。
「てっきり自警団は犯人を捕まえられないから代わりに兄を犯人に仕立て上げたんだと思っていました。けど、もしも常義が初めから犯人の事を知っていたんだとしたら」
「犯人を庇うために、梅が捕らえられた、と」
 身代わり──。
 その時、はっと閃くものがあった。元尚書令の林隆宸リンロンチェンの情報を集めていた時の事だ。呂雄ルーシォンという官吏が不正を犯しているというので梅と共に捕らえに行ったのだが、あの場での梅の様子がおかしかった事を思い出したのだ。呂雄は城下のとある小間物屋と結託して金を作っていたばかりか他にも数々の不正を働いていた悪徳官吏で、小間物屋と梅の間には因縁があるようだった。
『犯人は、つ、捕まった。私の知らない、確か自警団の男だと聞いたが、本当に知らない!』
 自分の罪を暴かれて、やぶれかぶれになった呂雄が放った言葉だ。
 ──梅は呂雄の罪を被せられたのか。
「梅兄さんはたまたま巻き込まれたのか? 常義に目ぇ付けられたばっかりに?」
「いいえ、いいえ! きっと常義は兄を憎んでいました!」
 長い髪を振り乱して、羅春梅は憎しみを抑えるように両手を合わせ握りしめた。
「常義と兄は、幼少の頃に短い間でしたが同じ道場で剣術を学んでいたんです。比較的大きな道場で、平民にも門戸を開いて下さっていて、兄もそこへ。自警団で昔の馴染みに再会したと、常義の事を私に話してくれたのを覚えています。兄は剣の腕が立ちましたからきっと──」
「入りますよ」
 話に集中していた時に突然扉の向こうから声が掛かり、羅春梅が慌てて口を塞ぐ。四郎似の侍女の声だ。
様、蘇智望様がお待ちです」
 ギッ、と荷車の車輪が軋むようにして風蘭の表情が固まる。
「い、行かなきゃ駄目?」
「はい」
 子供を相手に容赦というものを知らない返事につい昔を思い出す。やはり彼女の振る舞いはその端々が四郎と被った。
 風蘭は心底嫌そうにしながら渋々椅子から立ち上がり、侍女の後に続いて部屋を出ていった。
「あの子の事は、何と?」
 風蘭が出て行った扉を見つめながら思わず疑問が零れていた。図らずも四郎スーラン似の侍女が風蘭を蘇蘭スーランと呼ぶのは不思議な感覚だった。発音がそっくりな二つの名は状況によっては聞き間違える事もあるかも知れない。
「蘇智望様の遠縁にあたると聞いてます。風蘭とお呼びだったのは、渾名か何かですか?」
「ええ、まぁ……そんなところです」
 風蘭という名は一応世を忍ぶための仮の名だったので渾名と言えば渾名のようなものだ。それでも「蘭」という名を残したのは、彼の本名にも蘭の字が入っていたからだろう。どうやら蘇智望は風蘭を一族に迎え入れるつもりのようだ。彼にどんな計画があるかは分からないが、風蘭の持つ力を貴重な戦力と判断しての事かも知れない。
 風蘭が出て行ってしまうと、話を再開させるきっかけをなくして沈黙が下りる。羅春梅は考え事をしているのか、固く握りしめた両手に視線を落として黙り込んでいた。玲馨もまた自然と思考に耽り、考えを整理し始める。
 先の話と玲馨の知っている情報をまとめると、こうだ。
 胡安は呂雄の罪を隠すためにその処理を常義に任せた。常義は呂雄の代わりに梅を犯人だと言って捕縛し、結果梅はありもしない罪を着せられて投獄された。
 呂雄は先代皇帝を暗殺した呂憲ルーシエンの戸籍上の養父という事になっている。呂憲を呂雄の養子にしたのはあの林隆宸で、これらを庇おうとしたという事はつまり胡安もまた東江に与しているという事だ。
 常義の動かす自警団は既に胡安という官吏の私兵も同然だろう。紫沈の町を守るはずの自警組織が東江に向かってこうべを垂れているという事だ。
 もはや紫沈に、安息の地はない。気付かぬうちに、紫沈は戊陽にとって敵だらけになってしまっている。
 そこまで考えて、玲馨はたまらず自嘲した。
 何が敵だらけかと。戊陽は即位した頃から既に孤立無援だった。あの頃との違いは、敵の顔がはっきりと分かったというだけだ。
 蘇智望。なんて恐ろしい人だろうか。どこからどこまでがあの男の策略なのだろう。
 林隆宸の事を思い出す過程で、必然桂昭グイジャオの事も思い出していた。あの優秀で狡猾な男が真に仕えているのはきっと蘇智望に違いない。宮廷内での東江勢力の筆頭だった林隆宸の教え子だったのだから、桂昭が東江と関係していないとするのはあまりにも甘い考えだった。
 単なる自警組織と言えど武力は武力。それを手中に収め、力を持ち過ぎた林隆宸を排斥した。今や宮廷内の東江勢力は蘇智望のもと一丸となっていると考えて良いだろう。いざ事を起こそうとした時、宮廷の多くの人間が蘇智望を味方する。最大の権力者であった林隆宸をいとも容易く排除してしまったという事は、もはや宮廷のほとんどは蘇智望についているのかも知れない。これだけ中央の足場固めをした、蘇智望の目的は。
 ──改革、か。
 蘇智望は恐らく、この国を改革しようとしている。そのために周到に人を配置して、勢力を増し、後はその時を見極めるばかりのようにも見える。
 蘇智望の行う改革とは、一体何だろうか。蘇智望は戊陽をどうするつもりだろうか。
 玲馨は確かにあの砂で出来た玉座から戊陽を下ろしたいと思っていた。だがそれは小杰に帝位を譲り戊陽には退位させるという最も平和的な方法によってだった。
 だが果たして、蘇智望が玲馨の思うような平和的な改革を実行してくれるものだろうか。そう都合よく玲馨の望む通りに事が進んでいいくものだろうか。考えれば考えるほど、胸の中に嫌な感覚が育っていく。
 それにしても──。
 玲馨は一度羅春梅の顔を見てから、次に美しく磨き上げられた大理石の卓を見つめる。そこには玲馨の顔がぼんやりと反射して、難しい顔をしていた。
 関虎に捕らえられた時、梅が玲馨を庇ったおかげで一旦は梅が玲馨という体で連行したはずだ。しかし郭隕の愛妾の可憐クーリエンは玲馨を玲馨と知って牢から出した。
『その顔で一体どれだけの男を騙してきたのでしょうね?』
 玲馨を牢から出した時の可憐の台詞を思い出す。自分が最も美しいと過信しているせいで玲馨に嫉妬したのかと思ったが、玲馨を見分けるために伝えられた特徴の中に「顔の美しい宦官」というものがあったのかもしれない。常義が玲馨の顔をじっと見つめてきたのにも合点がいく。
 常義は梅と風蘭が起こした騒動の犯人を捜していると言っていたが、初めから玲馨の方を捜していたのかもしれない。皇帝陛下付きの宦官が、東江へ渡るという情報を元に。
 戊陽の密命はもちろん間に伝令などを挟んだりはしない。直接戊陽から受けたものだ。これを知る事が出来る人物となると、ごく限られてくる。
 ──四郎。
 あの寡黙な宦官の事を思い浮かべずにはいられなかった。彼は卜占が出来ることをひた隠しにして戊陽の傍に十年以上も侍り続けた男だ。そして四郎は「国の栄枯に関わる力」を持つかも知れない于雨をずっと探していた。
 では何か。四郎は蘇智望の配下だったとでもいうのか?
 不思議な事にまるで玲馨の推測を認めるかのように、あの四郎に似た侍女の姿が脳裏に浮かんでくるのだ。姉か妹かも分からないが、兄妹揃って蘇智望に仕えているのだとしたら東江で四郎に似た顔に出会うのは何もおかしな事ではない。
「……春梅さん、一つ訊きたいことが。今回私が東江へ来るという情報を蘇智望はどこから得ていたか分かりますか?」
「えっと、確実な事は言えないのですが、中央との連絡には蘇夫人が協力しているみたいです」
 蘇夫人とは東妃の事だ。後宮の外と連絡を取る手段はいくつかあり、どれも必ず検閲が入る。良からぬ企みを事前に阻止する目的があるが、荷物の中に手紙を忍ばせるなどやり様はいくらでもあるだろう。
 四郎は東妃を介して連絡していた? 十年以上も誰にも見つからずに?
 それは少し現実的ではない気がする。四郎は戊陽に仕えて長いので戊陽について城内のあちこちを回る事になる。連絡手段は恐らく他にもあるのだろう。
 四王だけに限らず貴族たちは宮廷と後宮の情勢を探るためにあらゆる手段を用いて情報を集めては王に報告している。だからこんな事は殊四郎に限った話ではないはずだ。
 それは分かっていても長い間傍で働いていた人間が、戊陽を裏切っていたかも知れないと思うとあまりにやるせない。于雨の事も気掛かりだ。
 玲馨は頭を抱えたくなった。これまで見聞きしてきた情報の何もかもが東江の、もっと言えば蘇智望のもとに帰結していく。とてつもなく強大な相手だ。それを理解した上で戊陽を守る術を考えるなどただの宦官でしかない玲馨には不可能だ。
「あの」と、考え込んでいた玲馨に羅春梅が気を遣うように声を掛けて来た。玲馨は気持ちを切り替えて返事をする。
「兄の事なんですが……玲馨様に頼むのは筋違いかも知れません。だけど、兄の事をどうか、よろしくお願いします」
 助けて欲しいとは羅春梅は言わなかった。それは玲馨にも出来ない事だと分かっているのだろう。
 どうにかして蘇智望から梅の事を聞き出さなくてはならない。その機会はきっと訪れるはずだ。そのためにも東江について羅春梅が知っている事を少しでも聞いておく必要があるだろう。
 玲馨が話を進めようとした時だった。けたたましい銅鑼の音が玲馨の声を遮って、屋敷の外から響き渡った。
 窓に駆け寄り外を見ると、埠頭に人の列が見えた。ただの人ではない。甲冑を着込んだ兵士だ。
 旗手が掲げている軍旗には白地に白虎の絵が描かれている。それは東江軍を示す軍旗だ。東江兵が目算でも千人ほど隊列を組んでいる。
「何が、始まるんだ」
 玲馨の胸の中で育った嫌な予感が、今まさに形をとって現実になろうとしているのではないか。
「……戦です」
「どこと?」
 詳しい事は分からないと羅春梅は首を振る。
「紫沈への街道に大量の兵士が送られていると聞きました」
「紫沈への街道とは、まさか……」
 玲馨たちが雲朱を経由する原因になった街道の事に違いない。東江は、軍を配備するために紫沈と東江を繋ぐ街道を封鎖していたのだ。
「──玲馨!!」
 バンッ、と勢いよく音を立てて扉が開けられると羅春梅が慌てて窓から離れながら拱手した。そこには、これまでの涼しげな印象からは想像しにくいほど血相を変えた蘇智望が立っていた。
「東江に到着した後でそなたに話をするつもりであったが、少々事情が変わった。今すぐ私の部屋へ、さぁ玲馨」
 有無を言わさぬものがそこにはあった。
「はい」といくらか萎縮した様子で、しかしはっきりと答えて玲馨は蘇智望について部屋を出た。
 機会が巡ってきたのだ。確かめなくてはならない。蘇智望の思惑を。
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霧乃ふー  短編
BL
夏休み中に隣の部屋の夫婦が長期の旅行に出掛けることになった。俺は信頼されているようで、夫婦の息子のゆきとを預かることになった。 実は、俺は催眠を使うことが出来る。 催眠を使い、色んな青年逹を犯してきた。 いつかは、ゆきとにも催眠を使いたいと思っていたが、いいチャンスが巡ってきたようだ。 部屋に入ってきたゆきとをリビングに通して俺は興奮を押さえながらガチャリと玄関の扉を閉め獲物を閉じ込めた。

隣の親父

むちむちボディ
BL
隣に住んでいる中年親父との出来事です。

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