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雲朱編
25それぞれの思い
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どれも四十路を越えた男たちがしめて十人ばかり、頭を突き合わせて卓を囲む。卓の上にはそれぞれ持ち寄った資料が乗せられていた。
場所は汀彩城の外れにある星昴の私宅である。
この事で薛石炎が最も意外だったのは、星昴が協力的だった事だ。とは言え、計画の責任は全て薛石炎に押し付けられたし知恵を貸すでもない。提供してくれたのは場所のみだ。それでも犬が西向きゃ尾は東と言うように、近い将来必ず面倒が起こるはずのこの計画に加担しているというだけで、これまでの星昴からは考えられない行動だった。
恐らく星昴が薛石炎に協力するのは、計画の背後に彼の甥である皇帝の存在があるからだろう。それにしても、二人が特別仲が良いという話は聞いた事がなかった。とにかく変わり者と評判の星昴の事なので、良いも悪いもそれ以前にといった印象なのだ。星昴は自身の興味がある事以外への関心が殊更薄いだけに、面倒事を引き受けるほどの何かが皇帝と星昴の間にあると言われても想像が出来なかった。
「薛次官、お聞きしたい事があるのですが」
計画遂行のために薛石炎が集めてきた人員のうち最も若い官吏が律儀に挙手をして言う。若いと言っても今年で四十一になる上に長男は二十歳だというので、随分と所帯じみている。官位が低い事もそう感じさせる原因の一つだろう。
「あの、薛次官が何故山芒の事情にお詳しいのでしょうか?」
集まっていた官吏のうち数名が身を固くするが男は気付かず続ける。
「卜師の必要性は概ね理解したつもりです。しかしながら、あわいを人為的に減らせる事に関して、調査報告が薛次官の元へ上がってきた理由がいまひとつ分からぬのです」
律儀、それから真面目、という印象が付け足される。そんな最年少の官吏の名は胡平という。
薛石炎はどう説明したものか考える。この中の幾名かは計画の背後に皇帝が関与している事に気付いているだろう。ずぼらで怠惰で有名な星昴が私宅を開放し、会話には混ざらずともこの場に留まっている事で概ね想像がつくはずなのだ。
「……あわいや岳川、それから北玄海に関する報告は軍部や吏部からのものだ。そこからあわいの減少の関連に気付いたのは──」
「私だよ」
官吏たちの視線が一斉に星昴へと集まる。これまで終始黙って本を読んでいた星昴が、いつの間にか卓を囲む輪に加わり資料を眺めていた。
「増水した川には豊富な地脈が流れていたのだろうね。おかげで北は浮民が暮らしていたあわいが一部縮小した。しかしそれらは専門家による調査ではないだろう? それに、沈国全てを川にしてしまう訳にもいかない。だとすれば、その『専門家』とやらを雇い、地下水を掘り当てるなどといった気の遠くなるような方法以外を模索せねばならない」
それが、皇族の務めというものだろう。
星昴がそう言葉を締めた事で、胡平もこの計画に一体どんな勢力のどんな思惑があるか漸く察したらしい。胡平の他にも気付いていなかった者たちが、揃って神妙な面持ちに変わっていく。
「納得出来たかい、若者」
「はい。愚生の考えが及ばぬあまり、星昴様を煩わせてしまいました」
「良い。疑問というものはきちんと解消していかねば、やがて不満の芽となるもの。他の者も気がかりは早々に訊くと良い」
何て事だ。あの星昴が。薛石炎を庇うなど夢にも思わなかった。
薛石炎が感動に天を仰ぎかけると、星昴は最後に「薛石炎に」と付け加えたので、薛石炎は一瞬でも星昴という男を尊敬しかけた自分を殴りたくなった。
薛石炎は気付いていないが、彼はその小心者な性格のおかげで宮廷内の人間関係や勢力図について少々詳しかった。更には個人の性格などもよく把握していたので、薛石炎の思いつく中で限りなく信頼出来る人物に声を掛けて集まったのが、この卜師復活計画の面々である。胡平だけは誰かの推薦なのか薛石炎とは面識が無かったが。
類は友を呼ぶとはよく言ったもので、星昴の私宅に集った者たちは誰も皆紹介される時に「真面目」の一言が必ずついてくるような官吏たちばかりだ。おかげで卜師についての調査や情報の共有などはごく順調に進んでいく。
「卜師が地脈を読む事の利点を上手く説明すれば、特に軍部からの反対は抑えやすいでしょうな」
「太常寺のお二方から礼部へも掛け合いやすいのでは?」
「しかし司農寺には話の取っ掛かりがありませんが……」
「これについて全くの無関係でいられる官署はありますまい。あわいを制御する方法なんてものが見つかってしまえば、人も土地も金も、想像出来ないくらい大きく動く事になりますぞ」
「仰る通りです。故にそう易々と案を通しては頂けないでしょう」
「薛次官もそれを承知しておられるから我らを集められたのだ。だが……」
胡平を除く官吏たちがそれとなく互いに顔を見合わせ急に黙っていく。順調に進んでいた会話が不意に途切れたので事情が分からない胡平は「どうなさいました?」と皆に向かって問いかける。
「胡平、この場で最も位の高い官吏は誰だと思う?」
星昴の言葉に胡平はぐるりと卓を見回してから最後に星昴のところへ戻ってくる。
「太常寺長官であられる星昴殿下で御座います」
胡平は怖じる事なく答える。もし訊ねられたのが薛石炎ならば皇族には決して相応しくない役職に就いている事を、本人の前で堂々と口にするのは憚るものだという感覚があるので、胡平のあけすけさにやや圧倒される。
「ん。では、我々九寺の官吏に共通し、三省の高官たちと決定的に違う事は何かな」
「はぁ……それは……」
顎に手を当て胡平はうーんと唸りだす。物怖じしない上にのんびりした性格のようだ。これが若さというものだろうか。四十路といっても宮仕えの官吏たちの中では十分に若手である。
「家柄……ではありませんね……。一体何でしょう?」
「権限だ」
やれやれと言いたげに何人かが頭を抱えたり嘆息したりと反応を見せる。
「我らには法案を作る権利が無いのだよ、胡平」
「それは、確かにそうですが。そこは星昴様がいらっしゃるので何とかなるのでは?」
「私は太常寺の長官だ。太常寺の長官が上奏の場で新たは法案などというものを提案すれば、白い目で見られてしまうね」
どの口が、と思ったのはきっと薛石炎だけではないだろう。皇帝が東に出向いていた際には代理皇帝を務めていた立場で、太常寺の長官がどうのという言い訳が通用するはずがない。要は星昴はこう言っているのだ。
「私がそなたらの案を上に通すのは不可能だ」
胡平は絶句してしまう。無理もない。だったら一体誰が卜師や卜占に関して上奏するのかという問題が生まれるし、胡平を除く者たちは星昴の性格を把握していたので皆消沈していたのだ。
それに問題は肝心なところで星昴が非協力的な事ばかりではない。皇族である星昴からこの案が出る事を、他でもない皇帝が望んでいないのだ。皇帝は、彼の勢力からなるべく遠いところから卜占について議題に上らせてほしいのだ。
こうして改めて状況を整理していくと、やはり何故皇帝は太常寺などにこんな役回りをさせるのか不思議に思う。真に卜占禁止を撤廃させたいのならもっと近道があるはずなのに。
それとも──戊陽皇帝にはそれだけ信の置ける人間が居ないという事だろうか。礼部と仕事の内容が重複してしまうせいで閑職と呼ばれる太常寺の、それも仕事をしないで有名な叔父を頼らざるをえないほど、皇帝の味方は少ない。
簡単な事ではないとは思っていたが、計画の達成はほとんど不可能に近いのではないだろうか。
ついついこの首が明日にも刎ねられる様を想像してしまい、薛石炎は無意識に自分の首に手を添える。
「……とにかく、卜占が有益であると証明する事が先決か」
薛石炎が呟くと、それを拾い上げた胡平が言う。
「証明するために卜師が必要なのですよね? しかし、その卜師が必要であると認めさせるには北玄海で起きた異変を岳川の陥没事故に繋げる必要がある。それにはやはり卜師が必要で……と、これでは堂々巡りです、薛次官」
そうだ、その通りなのだ。改めて指摘されると腹が立つくらいに彼の言った事に間違いはない。人手を集めてあらゆる方向から各官署を説得させる材料を揃えても、卜師が居なくては決定打を与える事が出来ない。しかし、肝心の卜師は凱寧の時代に全て処分されているせいで、現存していたとしても薛石炎たちにそれを探す術は皆無だった。
「……卜師を、でっちあげる」
ぽろ、とこぼれるようにして出てきた薛石炎の言葉が聞こえ、隣に居た初老の官吏が固い声で言う。「何ですって」
「偽の卜師に岳川と北玄海のあわいについて語らせるのです。さも関連があるように」
「そんな……そんな事が罷り通るはずがないぞ薛次官!」
「その通りです! それに一体誰に卜師のフリをさせるつもりです?」
「そうか……失敗してしまえば命は全く保証されませんね」
薛石炎の発言に一斉に数名の官吏が言葉を返してくる。当然だ。偽証など明るみになれば偽卜師だけでなくこの場に居る者たちも立場がなくなってしまうのだから。
しかし、それを強引に解決する方法が、一つだけ薛石炎の頭の中に浮かんでいた。非人道的で、普段の彼なら思いついても恐ろしくて決して口にはしないような事だ。
「……あ」
──あわいで暮らす浮民なら。
死んでも構わないかも知れない。もし咎められたなら浮民に騙されたと被害者の顔をすればいい。
「ん、それについては戊陽から言付かっているよ」
白熱しかけた議論は、しん、と水を打ったように静まった。瞬間、薛石炎は自分が酷い事を言いかけた事を自覚し、手で口元を覆った。気付けば汗が止まらなくなっている。
「卜師についてはこちらに任せてほしいそうだ」
星昴がそう言ったあと、奇妙な間があいた。誰もが言葉にするのを躊躇って、最終的に星昴と最も付き合いが深い薛石炎のもとへ視線が集中する。
薛石炎は別の事に気を取られていたのですぐには視線の意味に気付かなかったが胡平が「戊陽陛下が?」と臆面なく星昴に訊ねた事で察した。
「何だ、胡平も気付いたものと思っていたぞ。此度の計画は戊陽が私へ指示したものだ」
薛石炎は星昴と胡平の顔を見比べてから、とうとうその白髪交じりの頭を抱えこんだ。
どいつもこいつも、どうして空気というものを読まないのか。全員が皇帝の気配を察して黙っていたというのに、これでは台無しではないか!
自分の人生は確かに幸運とはさほど縁がなかったが、その代わり不幸とも縁遠かった。それがどうして子供たちも巣立った後の余生のような今になってこんな事態に陥ってしまったのか。
ぶつぶつと口の中で文句を唱えていた薛石炎の傍に一人の男が寄ってくる。
「薛次官、ご苦労な事ですなぁ」
「ああ、これは桂昭殿。ええ全くです。上にも下にも挟まれる役職とはどうしてこう、窮屈なんでしょうね」
苦笑する桂昭とは旧知の仲である。先日反逆の罪を問われた林隆宸が私塾を開いていた頃、ほんの短い間ではあったが薛石炎もそこへ通っていた事がある。反逆は大変な重罪で今となっては林隆宸と少しでも関わりがあったなど絶対に口にしたくはないが、しかし林隆宸は数日に一度市井の民のために無償の塾を開き教鞭を執っていたのだ。誰にでも出来る行いではなく、その上本人は尚書令という国最高の官職にまで上りつめているのだから、彼の人は素晴らしい先人だった。
桂昭とは林隆宸の私塾で数回顔を合わせただけの間柄だったが、何と桂昭の方が当時の事を覚えており、十数年ぶりに宮廷で声を掛けられて驚くべき再会を果たしたのだった。
少々ひょうきんな所のある男だが、桂昭は優秀な官吏である事は間違いない。自分の身には余りすぎるような今回の皇帝からのお達しにどうにか応えようとした時、桂昭の力を借りない選択は薛石炎の中には無かった。
「八方塞がりとはこの事で御座いますよ。卜師もそう簡単には見つかりますまい。卜師が見つかるより先に私が天に召される方が早いかも知れませぬなぁ」
「はっはっはっ、面白い事を仰る。薛次官のそのつやつやの肌は健康の証でしょうよ」
つやつや、と言われて思わず頬を触る。桂昭なりの冗談だ。
「悩まれるのでしたら舵取りを少し変えてみると良いかも知れませんぞ?」
「舵取りを変える、ですか?」
指導者を変えるという意味ではないだろう。つまり桂昭が言いたいのはこの集まりの向かう先を少し見つめ直せというものらしい。
「陛下が卜師や卜占の事を調べなすっているのは何のためかを考えてみるんですよ」
「ふむ……」
薛石炎が黙って考え始めると、桂昭はにこやかに去っていった。真面目な薛石炎が背負いこみ過ぎてはいないかと、友として気遣ってくれたのかも知れない。
桂昭は何気なく言ったつもりかも知れないが、薛石炎はそれからしばらく彼の言葉を吟味していた。
*
戊陽は紙魚に食まれた痕のある黄ばんだ巻子を紐で閉じると、火を消して目を閉じる。蝋燭の薄暗い灯りだけで長く文字とにらめっこをしていたせいか、瞼がやけに重たい。
今しがた閉じた巻子は沈の建国に纏わる神話を記したものだ。巻子が記された年代ははっきりとは分かっておらず、研究者の間では四百年から五百年ほど前のものとするのが定説になっている。また、神話というが、全てが創作の御伽噺なのではなく、恐らく一部は事実も記されている。
巻子の内容はこうだ。
その昔、沈が沈という名で呼ばれるより前、この大地には五柱の神があった。五神は東西南北中央をそれぞれ領地とし治めた。
ある時旅の果てに五神が治める土地に一人の男が辿り着く。彼の者はこの土地の強い神性に気付き「ここに国を築けば安泰である」と考え国を興した。これが沈の初代皇帝である。
初代皇帝は五神と対話を繰り返し自らの忠臣と契約を結ぶに至った。五神は皇帝と彼の臣下に加護を与え沈の統治を任せると、やがて地上から姿を消す事になる。
「……『卜師』は、一体どの神の加護を与えられたんだ」
戊陽は自身の左腕に手を添える。そこには日中、李将軍と木剣で打ち合った際に出来た腫れがあった。戊陽は自らの特異な力で文字通り腫れを癒やしていく。軽い傷は少しも待たずに、すっと熱と共に引いていった。
戊陽の癒やしの力は皇族に代々受け継がれてきた力で、先人には凱寧皇帝がいる。必ずしも皇帝となる者に力が発現する訳ではないが、皇族以外に同じ力を持つ者が居たという話は聞かない。神話にならうなら、中央を治めていた神より初代皇帝に齎された力だろう。
巻子には他の四神たちも東西南北を預かる皇帝の臣下に加護を与えているとある。それは現世にも綿々と受け継がれている以上、「力」の授与については神話と一言で終わらせるべき部分ではない。
だとしたら、同じく特異な力である卜占──脈読も神から与えられた力だと考えるべきだ。
卜占は、古くを辿ると別の占いから東江に住まう血族が地脈を占うのに特化させて、今日の卜占へと変化させたと禁書室から出てきた書物には記されていた。
では卜占の力こそ西の臣下に与えられた力なのだろうかと思う所だが、残念ながらそれは違う。
軍部に一人、西の臣下である金王の遠縁の者がおり、その者は若かりし頃は戦で特異な力を発揮していたと聞く。そう、西の力は戦いにて有効な力なのだ。
ならば果たして、地脈を読むという力の起源は何なのか。
「──お前はどう思う?」
ふと、背後で気配がしたのでそちらへ向かって問いを投げかけてみる。気配は間仕切りの向こうで一瞬だけ足音を止めたが、すぐに「失礼します」と断ってから戊陽の座る椅子の後ろに控えた。
「質問の意図が分かりません」
この男は夜目が利くのだなとぼんやり考えながら教本通りの正しい姿勢で拱手する四郎のために、もう一度卓の上の燭台に火を灯した。
「禁書室で玲馨を手伝い、お前は何を考えた? 四郎」
顔を上げた四郎はいつもの表情の乗っていない顔のまま特に何も無いと答える。
「お前は西の出身だったな」
「はい」
「西に卜師は居ると思うか?」
「私などの想像には及ばぬ事です」
「誰かにそう答えるよう言われたか?」
「いいえ」
短い問答を繰り返すも四郎の様子は平時と何ら変わりない。まがりなりにも法を犯すような事に加担させたというのに、四郎はどこまでもまるで戊陽の傀儡かのように振る舞う。
彼の私は一体どこにあるのか。
「……すまなかった。これではお前を疑っているようだな」
「陛下のお立場なら当然かと」
再び教本さながらの拱手をする。戊陽の詫びの言葉は暖簾に腕押すようにして受け流されて、宙に浮いて消えていった。
四郎は決して戊陽を咎めるような発言をする事はない。戊陽は諌言に耳を貸さないような暗愚な為政者ではないつもりだが、四郎は自分の仕える皇帝が間違いを犯してもそれを正そうとする事はないのだろう。
滅私。そうでなければ、不干渉。四郎の心の中に、戊陽という一人の人間の存在は無いのかもしれない。
これまでの四郎の態度を思えば寂しさよりも納得の方が勝った。しかし、故に疑問が沸き起こる。四郎は何を見て何を感じて生きているのだろうか──。
直れと言葉で言う代わりに四郎の組んだ手に手を重ね下げさせると、持ち上がった顔にはやはり感情の起伏はひとつも表れていなかった。
「もう良い、下がれ。よく休むように」
「はい、陛下」
言われるがまま四郎は退室していく。蝋燭の灯りが届かない影に四郎の姿が消えると、まるで闇に溶けるようだった。
四郎は戊陽が物心つく頃には既に賢妃宮付きの宦官で、戊陽が初めて文字を習い始めたその日に戊陽の専属になった。以来、影の如く滅私を徹底して戊陽に付き従ってきた。
戊陽にとって四郎が傍に居るのは母が母であるのと同じくらいごく自然な事だった。その事に疑問を覚える事など一度もなく、ただ、とにかく退屈でつまらない奴だとしか幼い頃には考えなかった。
やがてある程度分別のつく年頃になり、父が早逝すると兄を支えるべく戊陽も政務に携わるようになっていく。その頃になると物分かりが良く余計な口出しをせず仕事が早く正確な四郎は、宦官として重宝すべき逸材だと思うようになった。
「っ、……」
ちりっとした痛みが一瞬だけ蟀谷に走り、戊陽は息を詰める。兄の死については解決したはずなのに、未だ頭痛は兄の面影と共に戊陽を苛む事がある。息を大きく吸って吐き出すと痛みはすぐに和らぎ感じなくなった。
ほとんど音にならないほど小さな声音で兄の名を呼ぶ。もう頭痛が襲ってくる事はなかったが、記憶の中で毒々しいほど鮮やかに焼き付いている光景は二年経っても褪せる事はない。
「廟へ行くか……」
四郎を下げさせてしまったので誰に言うでもなく独り言をこぼし、紗で仕立てた袍を羽織り部屋を出た。
黄麟宮から廟まではさほど遠くはない。往復しても半時辰もかからず戻ってこられる。兄の事を思い出しながら歩いていれば、やがてすぐに廟の扉を照らす篝火が見えてくる。
沈では本来、服喪の期間は三年と国教によって定められているが、父の早逝を受けた黄昌の治世は漸く黄昌のもとで纏まろうとした矢先の急逝だった。そのため戊陽には三年も喪に服す余裕などなく一年に縮小されて、即位式に至っては盛大に執り行う事無く非常に慎ましやかに済まされた。せめて霊廟だけでもそれらしくしようという事で、本来の服喪期間の間中は毎夜欠かさず火が焚かれるのだ。
蝋のような頼りなげな光とは違い、周辺を煌々と照らす篝火の向こうに人影が揺らめくのを見つける。すぐに叔父の星昴だと分かると、彼が扉に手をかけるより先に叔父を呼んだ。
「おや戊陽、こんな所で出くわすとは奇遇だね」
「そっくりそのままお返ししますよ、叔父上」
二人は共に廟の中へと入っていく。
戊陽は先日まで城を空けていた際に星昴に代理を頼んでいたのだが、直接礼をしていなかった事を思い出し、その事を話題にしながら中を進む。
廟の奥には紫沈を守護する龍である黄龍の彫像があり、その前には人の背丈ほどもある大きな香炉から線香が煙をくゆらせている。
「西へは戊陽の宦官に行かせたのだったな?」
「はい、玲馨に。何か些細な手掛かりでも見つけてくれたら良いのですが」
「ん、そちらを行かせたのか」
「と言いますと……?」
訊き返しても返事は無かった。昔から変わったところのある星昴が問いに答えない事くらいでいちいち悩んでいては、彼の相手は務まらない。恐らく四郎の方を行かせたと星昴は考えていたのだろうと勝手に推測する。
「四郎に里帰りをさせてやるというのも考えました。しかし、西を知らず先入観の無い玲馨の方が調査には適役かと考え直しまして」
「そうか」
短く淡々とした返事は四郎と似ているようで全く異なるのだと今になってやっと分かるようになった。
星昴は博識で大変賢い人だ。燕太傅には及ばずとも、彼の人も認めた才子である。
星昴は常に物事を己の頭の中で思考し、相手に伝えるべき事柄を繊細に吟味している──というのは燕太傅の星昴に対する評価だ。怠惰であるが故に扱いが難しいが、星昴にとっては兄で、戊陽にとっては父となる黄雷が存命の頃には、良き臣下となる事を期待されていた。
そんな星昴が「話さない」事を選択するなら、きっとそれが正しいのだろう。正しくなくとも、彼は淡白なようで情のある人なので、或いは戊陽を思っての事だと想像が出来た。
対して四郎はあくまで「滅私」を貫いているだけだと戊陽は思う。徹底して殺してしまわねばならないほどの私が、どうしても彼の胸の奥底に仕舞われているような気がしてならないのだ。そうでなければ四郎は何のために生きているのかと虚しい事を考えなくてはならなくなる。
線香を上げてから、暫く二人の間に会話はなかった。死者を悼む静かな空気だけが煙と共に流れていった。
「父上や兄上が生きていてくれたらと、今でもたまに考えてしまいます」
気付けば玲馨を相手にしても出てこないような弱音が、悔恨と共に口を衝いて出ていた。廟の静謐でどこか寂しげな気配が感傷的にさせるのかも知れない。その上、隣にはたまにしか顔を見る事が出来ない身内が居る。守るべき対象である玲馨、そして政を知らない母を相手には決して覗くことのない戊陽の弱い部分が星昴を前にすると顕になってしまう。
「私の力は愛する二人のためには何の役にも立たなかったのです」
父は病死だった。今際の際には決して戊陽が気に病む事が無いようにと重ねて自分の死を「天命」だと繰り返した。
そして兄は、毒殺された。
戊陽が黄昌を見つけた時には既に事切れていた。毒のせいで黒く変色した顔と、吐血で胸元が真っ赤に染まった黄昌の姿は、思い出すと時折戊陽に頭痛を起こさせる強い記憶となって残っている。
あとほんの少しでも早く黄昌の部屋へと行っていたなら、戊陽は兄を救えていたかも知れなかった。そう思うほどに悔恨は今なお募る。
「私は──」
彼らの死に報いるためには何が出来るだろう。
卜師を探す事は真に正しい事なのか。
向青倫を、戊陽の力で御する事は無謀なのではないか。
宮廷から遠退き力を蓄える四方は何を考えている。
沈はこの先、どうなってしまうのか。
「戊陽」
疑問と不安が次から次へと溢れ出して止まらなくなると、それを星昴の柔らかく芯のある声音が押し留めた。
「お前はどうすれば死者を己の心から解放してやれる?」
「解放、ですか?」
「死者はこの世を去った。だが未だ鮮烈な死者の影はお前の心に楔を打つのだろう? 故、解放してやるのだ。お前なりの手段を見つけてな。死者とて戊陽に辛苦を与える事を良しとはすまいよ」
「手段なんて」
そんなものがあれば苦労はないと反論しかけて戊陽は思いとどまる。星昴とて彼にとっての兄と、幼少期に目をかけた甥が先に逝ってしまったのだ。
「叔父上は、解放出来たのですか?」
「そう上手く己の心を操れるものではなかろう」
「……叔父上、そういう事を言行相反と言うのです」
「ん? 少し見ない間に賢くなったな戊陽」
「叔父上には敵いませんよ」
先に廟を出ていく星昴の背中を見つめる。
彼は解放するたの「手段」を見つけたのだろうか。だとしたら、それは一体どんな方法なのだろう。
戊陽は時がこの思いを風化させてくれるのを待つしかないと考えている。それ以外にこの行きどころを失った思いの捌け口は無いのだと。
再び弱音が首を擡げないうちに、戊陽もさっさと廟を後にする。
日中よりも涼やかな夜風が、篝火の火を煽りパチパチと火の粉を舞い上がらせた。
*
于雨の手の中には漆塗りの箱に金で装飾された瀟洒な箱が収まっている。大きさは于雨がいつも使っている硯をちょうど二つ並べたくらいだ。
于雨はしばしその美しい細工が施された箱をしげしげと眺めてから、于雨の手で握りこんでしまえるほど小さな鍵を取り出す。
箱の蓋には鍵に似合いの小さな錠前がついていた。鍵の先端を穴に通してみると、抵抗なく中へと入っていく。
回すのには少しの勇気が必要だった。
何故なら、玲馨の様子がいつもと違ったような気がしたからだ。
玲馨は少々厳しいところもあるが良き先輩であり、同時に于雨にとっては師でもある。玲馨が手隙の時だけだが于雨は特別に彼から勉強を教わる事があった。おかげで不得手な算術が少しだけ身につき、文字や言葉も新しく覚える事が出来た。玲馨が教えるのは算術そのものというより、それらを学び覚えていくためのコツが主だった。そうした彼の教え方が教練房で教鞭を執る宦官のそれよりも于雨に合っていたのだろう。
それから玲馨には大恩があった。
于雨は後から知る事になるのだが、玲馨よりもずっと年上の先輩から貞操を狙われた事があった。当時はそうとは知らず、何故か急に部屋替えが行われたとだけ認識していた。だがやがて噂話に疎い于雨であっても閉鎖的な環境のおかげで「永参」という宦官の悪辣ぶりが耳に届く事になる。
本人に確かめた事はないが、きっと玲馨が手を回して于雨を助けてくれたのだろうと思っていた。
于雨は玲馨を慕い、そして恩を感じている。そんな玲馨がこの手紙を残したのだから是が非でも読まなくてはならないのだが──。
一体どんな事が書いてあるのだろう。あの日、于雨を見舞ってくれた玲馨は、どこか焦っているような、切羽詰まっているような雰囲気があった。
于雨は意を決し、鍵を回す。鍵穴の奥で小さく音が鳴った後、鍵を引き抜けば蓋はちゃんと持ち上がった。
玲馨が言っていた通り、中身は手紙だ。于雨はそれを取り出すとそっと開いて、黙って読み始めた。
最後まで読み終えると、于雨は首を傾げる。書いてある事の意味が上手く理解出来ないのだ。
于雨はじっと考えていたがやはり分からないので、もう一度手紙を頭から読み直してみる。
普段の玲馨は于雨にも分かりやすい言葉で話してくれるし、字も美しく丁寧だ。しかし手紙に使われている言葉は些か難解で、ところどころ走り書きしたかのように文字が流れている部分があった。かと思えば墨だまりが出来て文字が太く潰れているものもある。手紙には玲馨の強い焦燥と苦悩が滲んでいた。
長い時間をかけて于雨はどうにか手紙の内容を自分なりに噛み砕く事が出来た。
玲馨の手紙には于雨の持つ特異な力について書かれてあった。
于雨には特別な力がある。それは于雨もよく知っており、玲馨には地脈で酔った際にたまらず相談した事が、彼に知られるきっかけとなった。
今も意識を集中すると遠くのどこかで何か悍しいようなものが出たり消えたりしているのが分かる。方角は宿舎から見て宮城側、南の方だ。城よりももっとずっとずっと遠く、きっと妖魔と呼ばれているものが徘徊しては消えていく気配だろう。
于雨はそれら地脈にまつわるものを感じる力があるのだが、それは行き過ぎると目眩と頭痛がしてきて最終的には嘔吐してしまう事が昔からたまにあった。
玲馨の手紙によると、于雨の力について詳しく教えてくれる人物がいるという事だった。
于雨の力は特別で、それは于雨の想像がつかないほどとても強い力で、悪い人間に使われてしまう前に于雨自身が力について知った方が良い。しかし玲馨にも力の詳細は分からず、またその教えてくれる人物を信じて良いかも分からない。何かあれば必ず助けるが、于雨が自分で何某かを訪ねるかどうかしっかり考えて決めてほしい──。
とても難しい事を言われているような気がする。何某かに会いなさいと言ってくれたらとても簡単なのに、まず会うかどうかを考えろと玲馨は言う。その何某かがどんな人かも于雨は分からないというのに。
「あっ」
于雨は短く声を上げると、手紙を灯明皿の火に近付ける。読んだ後は手紙を燃やせと言われた事を思い出したのだ。手紙の文末にも読んだら燃やすようにと短く書かれてある。
力の事はどうにか出来るなら願ったり叶ったりだ。気が付けば人には無い妙な力があって、今のように制御を覚える前は勝手に何かを感じ取っては于雨を苦しませてきた。いっそ失くしてしまいたいが、果たしてその何某は──いつか于雨を訪ねてきた「石を持った宦官」は于雨の願いを叶えてくれるだろうか。
油の燃える匂いに紙が燃える匂いが混ざって部屋に充満していく。玲馨の文字が乗った手紙が徐々に灰になっていくのを眺めながら、于雨は一生懸命考えていた。
ゆらゆらと闇の中で踊る炎にどこか恍惚としていた于雨の意識を引き戻したのは、廊下の床が軋む音だった。
扉の向こうに向かって誰何するととてもか細い声が「珠子だよ」と告げてくる。
「子珠」
「あ、于雨。て、手拭いを、持ってきたよ」
「うん」
部屋に入ってくると水の入った桶を卓に置きながら子珠が鼻を鳴らした。紙が燃えた匂いが残っていたのだと気付き、于雨はドキドキしながら子珠をうかがっていたが、特に訝られる事はなかった。
ほっと胸を撫でおろす于雨の一方で、そんな彼の動揺など知らない子珠は于雨に寝台に横になるよう言う。
「あんまり無理しちゃ駄目だよ于雨」
「うん」
病室から宿舎に戻ってきたとはいえ、于雨はまだまだ療養の身である。子珠は于雨の看病を買って出てくれたらしく、毎晩于雨と玲馨の部屋を必ず手拭いを持って訪れた。
子珠は丁寧に于雨の体を拭ってやる。まだ熱を持った患部はいっそう優しく拭き清め、その傷跡を見ては苦しげな表情を浮かべた。
「……ごめんね、子珠」
「えっ?」
「自分でするの、怖くて」
何より見るのが恐ろしかった。そこがどんな風に変わってしまったのかを、于雨はまだ自分の目で確かめていない。
子珠は勢いよく首を振ると于雨を安心させるためにか頬を上げて見せる。
「こ、こういうのは、お互い様なんだよ」
「ありがとう」
「ううん」
全身を拭い終えると暫く手拭いを桶で洗う水の音だけがしていた。いつもならここで子珠はすぐに退室していく。しかし今夜は桶の水面をじ、と見つめたまま心が水底に沈んでしまったかのように動かなくなってしまう。
「……子珠?」
寝台に寝そべった于雨の視点からは子珠の背中が見えた。着付けが緩んでしまった仕事着から子珠の項全体が顕になってしまっている。そこに、何か赤い線のようなものを見つけ、于雨はそっと手を伸ばしてみた。
「痛いっ……!!」
ぱちん、と乾いた音を立てて振り払われて暫し驚きに固まっていたが、自分が触ろうとしていたものが傷だと察すると于雨は謝罪を口にする。それから訊ねた。
「……永参先輩に、されたの?」
子珠はハッとしたようになって、それからみるみるうちに目に涙を溜め始める。それはすぐに頬を伝って桶の中へと吸い込まれるように落ちていった。
「ぶ、ぶたれるの、上手く出来ないと、背中を、い、痛くて」
途切れ度切れの言葉でも悲痛な響きの訴えに于雨の胸が詰まったように苦しくなる。
「泣くと、もっと怒られる……もう、やだよぉっ、僕、あの部屋いやだぁ……っ」
子珠の涙声に、ふと思い付くものがあった。もしかすると、子珠は于雨の代わりだったのではないか。
宦官の宿舎での子供たちの部屋は基本的に大部屋で雑魚寝だ。しかし優秀な者や先輩宦官から目をかけてもらっている子は四人部屋や二人部屋を与えられる事がある。それらはほとんど先輩からの指名制で、寝台で眠りたいがために先輩に気に入られようとする子も少くない。
于雨は永参と同室になるところを、同室者が急に玲馨へと変更された。そして于雨が玲馨の同室になってから一月後に入ってきた子珠が、永参に指名されて二人部屋を使うようになった。
あの変更が無ければ今も于雨が永参と同室だったのかも知れない。そして于雨が子珠の代わりに鞭を打たれていた。
だがそれが分かったところで于雨にしてあげられる事はない。永参に直談判しても、或いは別の先輩に相談しても無駄だろう。この宿舎で永参に逆らえる宦官はそうは居ない。彼はもう随分古参の宦官だった。
「子珠、軟膏が抽斗にあるから取って」
中々泣きやまない子珠だったが言われた通り軟膏を取ってくる。深めの小さな皿に入った蓋もついていないような物だが、ちょっとした傷や皹にはよく効いた。
子珠が衣を脱ぐと、于雨は短い間絶句した。想像以上に背中に広がる鞭の痕が酷かったのだ。
こんな傷を抱えて日中は仕事をこなし、夜には自分の面倒を見に来ていたのかと思うと、于雨は言葉にならないもので胸がいっぱいになる。
少し触れただけでも子珠が逃げるように背中を反らせるので、子珠がしてくれたように于雨も丁寧に優しく軟膏を塗っていった。
「……あ、ありがとう、于雨」
「うん」
于雨がしてあげられる事は薬を塗ってあげる事くらいだ。だけどもし、于雨に力があったら? 子珠を助けられるくらい強い力があったら?
于雨は迷わず子珠を助けるために、その力を振るうだろう。
「ごめんね、泣いちゃって。ぼ、僕帰るね。早くしないと永参先輩また、怒るから」
「うん。また、明日」
子珠は桶を抱えると自信なさげに背中を丸めて出ていった。その後ろ姿にどうしてか、いけない事をしてしまったような気になってしまい、その日はうまく寝付く事が出来なかった。
そして翌晩。どれだけ待っても子珠が桶を抱えて部屋を訪ねてくる事はなかった。
場所は汀彩城の外れにある星昴の私宅である。
この事で薛石炎が最も意外だったのは、星昴が協力的だった事だ。とは言え、計画の責任は全て薛石炎に押し付けられたし知恵を貸すでもない。提供してくれたのは場所のみだ。それでも犬が西向きゃ尾は東と言うように、近い将来必ず面倒が起こるはずのこの計画に加担しているというだけで、これまでの星昴からは考えられない行動だった。
恐らく星昴が薛石炎に協力するのは、計画の背後に彼の甥である皇帝の存在があるからだろう。それにしても、二人が特別仲が良いという話は聞いた事がなかった。とにかく変わり者と評判の星昴の事なので、良いも悪いもそれ以前にといった印象なのだ。星昴は自身の興味がある事以外への関心が殊更薄いだけに、面倒事を引き受けるほどの何かが皇帝と星昴の間にあると言われても想像が出来なかった。
「薛次官、お聞きしたい事があるのですが」
計画遂行のために薛石炎が集めてきた人員のうち最も若い官吏が律儀に挙手をして言う。若いと言っても今年で四十一になる上に長男は二十歳だというので、随分と所帯じみている。官位が低い事もそう感じさせる原因の一つだろう。
「あの、薛次官が何故山芒の事情にお詳しいのでしょうか?」
集まっていた官吏のうち数名が身を固くするが男は気付かず続ける。
「卜師の必要性は概ね理解したつもりです。しかしながら、あわいを人為的に減らせる事に関して、調査報告が薛次官の元へ上がってきた理由がいまひとつ分からぬのです」
律儀、それから真面目、という印象が付け足される。そんな最年少の官吏の名は胡平という。
薛石炎はどう説明したものか考える。この中の幾名かは計画の背後に皇帝が関与している事に気付いているだろう。ずぼらで怠惰で有名な星昴が私宅を開放し、会話には混ざらずともこの場に留まっている事で概ね想像がつくはずなのだ。
「……あわいや岳川、それから北玄海に関する報告は軍部や吏部からのものだ。そこからあわいの減少の関連に気付いたのは──」
「私だよ」
官吏たちの視線が一斉に星昴へと集まる。これまで終始黙って本を読んでいた星昴が、いつの間にか卓を囲む輪に加わり資料を眺めていた。
「増水した川には豊富な地脈が流れていたのだろうね。おかげで北は浮民が暮らしていたあわいが一部縮小した。しかしそれらは専門家による調査ではないだろう? それに、沈国全てを川にしてしまう訳にもいかない。だとすれば、その『専門家』とやらを雇い、地下水を掘り当てるなどといった気の遠くなるような方法以外を模索せねばならない」
それが、皇族の務めというものだろう。
星昴がそう言葉を締めた事で、胡平もこの計画に一体どんな勢力のどんな思惑があるか漸く察したらしい。胡平の他にも気付いていなかった者たちが、揃って神妙な面持ちに変わっていく。
「納得出来たかい、若者」
「はい。愚生の考えが及ばぬあまり、星昴様を煩わせてしまいました」
「良い。疑問というものはきちんと解消していかねば、やがて不満の芽となるもの。他の者も気がかりは早々に訊くと良い」
何て事だ。あの星昴が。薛石炎を庇うなど夢にも思わなかった。
薛石炎が感動に天を仰ぎかけると、星昴は最後に「薛石炎に」と付け加えたので、薛石炎は一瞬でも星昴という男を尊敬しかけた自分を殴りたくなった。
薛石炎は気付いていないが、彼はその小心者な性格のおかげで宮廷内の人間関係や勢力図について少々詳しかった。更には個人の性格などもよく把握していたので、薛石炎の思いつく中で限りなく信頼出来る人物に声を掛けて集まったのが、この卜師復活計画の面々である。胡平だけは誰かの推薦なのか薛石炎とは面識が無かったが。
類は友を呼ぶとはよく言ったもので、星昴の私宅に集った者たちは誰も皆紹介される時に「真面目」の一言が必ずついてくるような官吏たちばかりだ。おかげで卜師についての調査や情報の共有などはごく順調に進んでいく。
「卜師が地脈を読む事の利点を上手く説明すれば、特に軍部からの反対は抑えやすいでしょうな」
「太常寺のお二方から礼部へも掛け合いやすいのでは?」
「しかし司農寺には話の取っ掛かりがありませんが……」
「これについて全くの無関係でいられる官署はありますまい。あわいを制御する方法なんてものが見つかってしまえば、人も土地も金も、想像出来ないくらい大きく動く事になりますぞ」
「仰る通りです。故にそう易々と案を通しては頂けないでしょう」
「薛次官もそれを承知しておられるから我らを集められたのだ。だが……」
胡平を除く官吏たちがそれとなく互いに顔を見合わせ急に黙っていく。順調に進んでいた会話が不意に途切れたので事情が分からない胡平は「どうなさいました?」と皆に向かって問いかける。
「胡平、この場で最も位の高い官吏は誰だと思う?」
星昴の言葉に胡平はぐるりと卓を見回してから最後に星昴のところへ戻ってくる。
「太常寺長官であられる星昴殿下で御座います」
胡平は怖じる事なく答える。もし訊ねられたのが薛石炎ならば皇族には決して相応しくない役職に就いている事を、本人の前で堂々と口にするのは憚るものだという感覚があるので、胡平のあけすけさにやや圧倒される。
「ん。では、我々九寺の官吏に共通し、三省の高官たちと決定的に違う事は何かな」
「はぁ……それは……」
顎に手を当て胡平はうーんと唸りだす。物怖じしない上にのんびりした性格のようだ。これが若さというものだろうか。四十路といっても宮仕えの官吏たちの中では十分に若手である。
「家柄……ではありませんね……。一体何でしょう?」
「権限だ」
やれやれと言いたげに何人かが頭を抱えたり嘆息したりと反応を見せる。
「我らには法案を作る権利が無いのだよ、胡平」
「それは、確かにそうですが。そこは星昴様がいらっしゃるので何とかなるのでは?」
「私は太常寺の長官だ。太常寺の長官が上奏の場で新たは法案などというものを提案すれば、白い目で見られてしまうね」
どの口が、と思ったのはきっと薛石炎だけではないだろう。皇帝が東に出向いていた際には代理皇帝を務めていた立場で、太常寺の長官がどうのという言い訳が通用するはずがない。要は星昴はこう言っているのだ。
「私がそなたらの案を上に通すのは不可能だ」
胡平は絶句してしまう。無理もない。だったら一体誰が卜師や卜占に関して上奏するのかという問題が生まれるし、胡平を除く者たちは星昴の性格を把握していたので皆消沈していたのだ。
それに問題は肝心なところで星昴が非協力的な事ばかりではない。皇族である星昴からこの案が出る事を、他でもない皇帝が望んでいないのだ。皇帝は、彼の勢力からなるべく遠いところから卜占について議題に上らせてほしいのだ。
こうして改めて状況を整理していくと、やはり何故皇帝は太常寺などにこんな役回りをさせるのか不思議に思う。真に卜占禁止を撤廃させたいのならもっと近道があるはずなのに。
それとも──戊陽皇帝にはそれだけ信の置ける人間が居ないという事だろうか。礼部と仕事の内容が重複してしまうせいで閑職と呼ばれる太常寺の、それも仕事をしないで有名な叔父を頼らざるをえないほど、皇帝の味方は少ない。
簡単な事ではないとは思っていたが、計画の達成はほとんど不可能に近いのではないだろうか。
ついついこの首が明日にも刎ねられる様を想像してしまい、薛石炎は無意識に自分の首に手を添える。
「……とにかく、卜占が有益であると証明する事が先決か」
薛石炎が呟くと、それを拾い上げた胡平が言う。
「証明するために卜師が必要なのですよね? しかし、その卜師が必要であると認めさせるには北玄海で起きた異変を岳川の陥没事故に繋げる必要がある。それにはやはり卜師が必要で……と、これでは堂々巡りです、薛次官」
そうだ、その通りなのだ。改めて指摘されると腹が立つくらいに彼の言った事に間違いはない。人手を集めてあらゆる方向から各官署を説得させる材料を揃えても、卜師が居なくては決定打を与える事が出来ない。しかし、肝心の卜師は凱寧の時代に全て処分されているせいで、現存していたとしても薛石炎たちにそれを探す術は皆無だった。
「……卜師を、でっちあげる」
ぽろ、とこぼれるようにして出てきた薛石炎の言葉が聞こえ、隣に居た初老の官吏が固い声で言う。「何ですって」
「偽の卜師に岳川と北玄海のあわいについて語らせるのです。さも関連があるように」
「そんな……そんな事が罷り通るはずがないぞ薛次官!」
「その通りです! それに一体誰に卜師のフリをさせるつもりです?」
「そうか……失敗してしまえば命は全く保証されませんね」
薛石炎の発言に一斉に数名の官吏が言葉を返してくる。当然だ。偽証など明るみになれば偽卜師だけでなくこの場に居る者たちも立場がなくなってしまうのだから。
しかし、それを強引に解決する方法が、一つだけ薛石炎の頭の中に浮かんでいた。非人道的で、普段の彼なら思いついても恐ろしくて決して口にはしないような事だ。
「……あ」
──あわいで暮らす浮民なら。
死んでも構わないかも知れない。もし咎められたなら浮民に騙されたと被害者の顔をすればいい。
「ん、それについては戊陽から言付かっているよ」
白熱しかけた議論は、しん、と水を打ったように静まった。瞬間、薛石炎は自分が酷い事を言いかけた事を自覚し、手で口元を覆った。気付けば汗が止まらなくなっている。
「卜師についてはこちらに任せてほしいそうだ」
星昴がそう言ったあと、奇妙な間があいた。誰もが言葉にするのを躊躇って、最終的に星昴と最も付き合いが深い薛石炎のもとへ視線が集中する。
薛石炎は別の事に気を取られていたのですぐには視線の意味に気付かなかったが胡平が「戊陽陛下が?」と臆面なく星昴に訊ねた事で察した。
「何だ、胡平も気付いたものと思っていたぞ。此度の計画は戊陽が私へ指示したものだ」
薛石炎は星昴と胡平の顔を見比べてから、とうとうその白髪交じりの頭を抱えこんだ。
どいつもこいつも、どうして空気というものを読まないのか。全員が皇帝の気配を察して黙っていたというのに、これでは台無しではないか!
自分の人生は確かに幸運とはさほど縁がなかったが、その代わり不幸とも縁遠かった。それがどうして子供たちも巣立った後の余生のような今になってこんな事態に陥ってしまったのか。
ぶつぶつと口の中で文句を唱えていた薛石炎の傍に一人の男が寄ってくる。
「薛次官、ご苦労な事ですなぁ」
「ああ、これは桂昭殿。ええ全くです。上にも下にも挟まれる役職とはどうしてこう、窮屈なんでしょうね」
苦笑する桂昭とは旧知の仲である。先日反逆の罪を問われた林隆宸が私塾を開いていた頃、ほんの短い間ではあったが薛石炎もそこへ通っていた事がある。反逆は大変な重罪で今となっては林隆宸と少しでも関わりがあったなど絶対に口にしたくはないが、しかし林隆宸は数日に一度市井の民のために無償の塾を開き教鞭を執っていたのだ。誰にでも出来る行いではなく、その上本人は尚書令という国最高の官職にまで上りつめているのだから、彼の人は素晴らしい先人だった。
桂昭とは林隆宸の私塾で数回顔を合わせただけの間柄だったが、何と桂昭の方が当時の事を覚えており、十数年ぶりに宮廷で声を掛けられて驚くべき再会を果たしたのだった。
少々ひょうきんな所のある男だが、桂昭は優秀な官吏である事は間違いない。自分の身には余りすぎるような今回の皇帝からのお達しにどうにか応えようとした時、桂昭の力を借りない選択は薛石炎の中には無かった。
「八方塞がりとはこの事で御座いますよ。卜師もそう簡単には見つかりますまい。卜師が見つかるより先に私が天に召される方が早いかも知れませぬなぁ」
「はっはっはっ、面白い事を仰る。薛次官のそのつやつやの肌は健康の証でしょうよ」
つやつや、と言われて思わず頬を触る。桂昭なりの冗談だ。
「悩まれるのでしたら舵取りを少し変えてみると良いかも知れませんぞ?」
「舵取りを変える、ですか?」
指導者を変えるという意味ではないだろう。つまり桂昭が言いたいのはこの集まりの向かう先を少し見つめ直せというものらしい。
「陛下が卜師や卜占の事を調べなすっているのは何のためかを考えてみるんですよ」
「ふむ……」
薛石炎が黙って考え始めると、桂昭はにこやかに去っていった。真面目な薛石炎が背負いこみ過ぎてはいないかと、友として気遣ってくれたのかも知れない。
桂昭は何気なく言ったつもりかも知れないが、薛石炎はそれからしばらく彼の言葉を吟味していた。
*
戊陽は紙魚に食まれた痕のある黄ばんだ巻子を紐で閉じると、火を消して目を閉じる。蝋燭の薄暗い灯りだけで長く文字とにらめっこをしていたせいか、瞼がやけに重たい。
今しがた閉じた巻子は沈の建国に纏わる神話を記したものだ。巻子が記された年代ははっきりとは分かっておらず、研究者の間では四百年から五百年ほど前のものとするのが定説になっている。また、神話というが、全てが創作の御伽噺なのではなく、恐らく一部は事実も記されている。
巻子の内容はこうだ。
その昔、沈が沈という名で呼ばれるより前、この大地には五柱の神があった。五神は東西南北中央をそれぞれ領地とし治めた。
ある時旅の果てに五神が治める土地に一人の男が辿り着く。彼の者はこの土地の強い神性に気付き「ここに国を築けば安泰である」と考え国を興した。これが沈の初代皇帝である。
初代皇帝は五神と対話を繰り返し自らの忠臣と契約を結ぶに至った。五神は皇帝と彼の臣下に加護を与え沈の統治を任せると、やがて地上から姿を消す事になる。
「……『卜師』は、一体どの神の加護を与えられたんだ」
戊陽は自身の左腕に手を添える。そこには日中、李将軍と木剣で打ち合った際に出来た腫れがあった。戊陽は自らの特異な力で文字通り腫れを癒やしていく。軽い傷は少しも待たずに、すっと熱と共に引いていった。
戊陽の癒やしの力は皇族に代々受け継がれてきた力で、先人には凱寧皇帝がいる。必ずしも皇帝となる者に力が発現する訳ではないが、皇族以外に同じ力を持つ者が居たという話は聞かない。神話にならうなら、中央を治めていた神より初代皇帝に齎された力だろう。
巻子には他の四神たちも東西南北を預かる皇帝の臣下に加護を与えているとある。それは現世にも綿々と受け継がれている以上、「力」の授与については神話と一言で終わらせるべき部分ではない。
だとしたら、同じく特異な力である卜占──脈読も神から与えられた力だと考えるべきだ。
卜占は、古くを辿ると別の占いから東江に住まう血族が地脈を占うのに特化させて、今日の卜占へと変化させたと禁書室から出てきた書物には記されていた。
では卜占の力こそ西の臣下に与えられた力なのだろうかと思う所だが、残念ながらそれは違う。
軍部に一人、西の臣下である金王の遠縁の者がおり、その者は若かりし頃は戦で特異な力を発揮していたと聞く。そう、西の力は戦いにて有効な力なのだ。
ならば果たして、地脈を読むという力の起源は何なのか。
「──お前はどう思う?」
ふと、背後で気配がしたのでそちらへ向かって問いを投げかけてみる。気配は間仕切りの向こうで一瞬だけ足音を止めたが、すぐに「失礼します」と断ってから戊陽の座る椅子の後ろに控えた。
「質問の意図が分かりません」
この男は夜目が利くのだなとぼんやり考えながら教本通りの正しい姿勢で拱手する四郎のために、もう一度卓の上の燭台に火を灯した。
「禁書室で玲馨を手伝い、お前は何を考えた? 四郎」
顔を上げた四郎はいつもの表情の乗っていない顔のまま特に何も無いと答える。
「お前は西の出身だったな」
「はい」
「西に卜師は居ると思うか?」
「私などの想像には及ばぬ事です」
「誰かにそう答えるよう言われたか?」
「いいえ」
短い問答を繰り返すも四郎の様子は平時と何ら変わりない。まがりなりにも法を犯すような事に加担させたというのに、四郎はどこまでもまるで戊陽の傀儡かのように振る舞う。
彼の私は一体どこにあるのか。
「……すまなかった。これではお前を疑っているようだな」
「陛下のお立場なら当然かと」
再び教本さながらの拱手をする。戊陽の詫びの言葉は暖簾に腕押すようにして受け流されて、宙に浮いて消えていった。
四郎は決して戊陽を咎めるような発言をする事はない。戊陽は諌言に耳を貸さないような暗愚な為政者ではないつもりだが、四郎は自分の仕える皇帝が間違いを犯してもそれを正そうとする事はないのだろう。
滅私。そうでなければ、不干渉。四郎の心の中に、戊陽という一人の人間の存在は無いのかもしれない。
これまでの四郎の態度を思えば寂しさよりも納得の方が勝った。しかし、故に疑問が沸き起こる。四郎は何を見て何を感じて生きているのだろうか──。
直れと言葉で言う代わりに四郎の組んだ手に手を重ね下げさせると、持ち上がった顔にはやはり感情の起伏はひとつも表れていなかった。
「もう良い、下がれ。よく休むように」
「はい、陛下」
言われるがまま四郎は退室していく。蝋燭の灯りが届かない影に四郎の姿が消えると、まるで闇に溶けるようだった。
四郎は戊陽が物心つく頃には既に賢妃宮付きの宦官で、戊陽が初めて文字を習い始めたその日に戊陽の専属になった。以来、影の如く滅私を徹底して戊陽に付き従ってきた。
戊陽にとって四郎が傍に居るのは母が母であるのと同じくらいごく自然な事だった。その事に疑問を覚える事など一度もなく、ただ、とにかく退屈でつまらない奴だとしか幼い頃には考えなかった。
やがてある程度分別のつく年頃になり、父が早逝すると兄を支えるべく戊陽も政務に携わるようになっていく。その頃になると物分かりが良く余計な口出しをせず仕事が早く正確な四郎は、宦官として重宝すべき逸材だと思うようになった。
「っ、……」
ちりっとした痛みが一瞬だけ蟀谷に走り、戊陽は息を詰める。兄の死については解決したはずなのに、未だ頭痛は兄の面影と共に戊陽を苛む事がある。息を大きく吸って吐き出すと痛みはすぐに和らぎ感じなくなった。
ほとんど音にならないほど小さな声音で兄の名を呼ぶ。もう頭痛が襲ってくる事はなかったが、記憶の中で毒々しいほど鮮やかに焼き付いている光景は二年経っても褪せる事はない。
「廟へ行くか……」
四郎を下げさせてしまったので誰に言うでもなく独り言をこぼし、紗で仕立てた袍を羽織り部屋を出た。
黄麟宮から廟まではさほど遠くはない。往復しても半時辰もかからず戻ってこられる。兄の事を思い出しながら歩いていれば、やがてすぐに廟の扉を照らす篝火が見えてくる。
沈では本来、服喪の期間は三年と国教によって定められているが、父の早逝を受けた黄昌の治世は漸く黄昌のもとで纏まろうとした矢先の急逝だった。そのため戊陽には三年も喪に服す余裕などなく一年に縮小されて、即位式に至っては盛大に執り行う事無く非常に慎ましやかに済まされた。せめて霊廟だけでもそれらしくしようという事で、本来の服喪期間の間中は毎夜欠かさず火が焚かれるのだ。
蝋のような頼りなげな光とは違い、周辺を煌々と照らす篝火の向こうに人影が揺らめくのを見つける。すぐに叔父の星昴だと分かると、彼が扉に手をかけるより先に叔父を呼んだ。
「おや戊陽、こんな所で出くわすとは奇遇だね」
「そっくりそのままお返ししますよ、叔父上」
二人は共に廟の中へと入っていく。
戊陽は先日まで城を空けていた際に星昴に代理を頼んでいたのだが、直接礼をしていなかった事を思い出し、その事を話題にしながら中を進む。
廟の奥には紫沈を守護する龍である黄龍の彫像があり、その前には人の背丈ほどもある大きな香炉から線香が煙をくゆらせている。
「西へは戊陽の宦官に行かせたのだったな?」
「はい、玲馨に。何か些細な手掛かりでも見つけてくれたら良いのですが」
「ん、そちらを行かせたのか」
「と言いますと……?」
訊き返しても返事は無かった。昔から変わったところのある星昴が問いに答えない事くらいでいちいち悩んでいては、彼の相手は務まらない。恐らく四郎の方を行かせたと星昴は考えていたのだろうと勝手に推測する。
「四郎に里帰りをさせてやるというのも考えました。しかし、西を知らず先入観の無い玲馨の方が調査には適役かと考え直しまして」
「そうか」
短く淡々とした返事は四郎と似ているようで全く異なるのだと今になってやっと分かるようになった。
星昴は博識で大変賢い人だ。燕太傅には及ばずとも、彼の人も認めた才子である。
星昴は常に物事を己の頭の中で思考し、相手に伝えるべき事柄を繊細に吟味している──というのは燕太傅の星昴に対する評価だ。怠惰であるが故に扱いが難しいが、星昴にとっては兄で、戊陽にとっては父となる黄雷が存命の頃には、良き臣下となる事を期待されていた。
そんな星昴が「話さない」事を選択するなら、きっとそれが正しいのだろう。正しくなくとも、彼は淡白なようで情のある人なので、或いは戊陽を思っての事だと想像が出来た。
対して四郎はあくまで「滅私」を貫いているだけだと戊陽は思う。徹底して殺してしまわねばならないほどの私が、どうしても彼の胸の奥底に仕舞われているような気がしてならないのだ。そうでなければ四郎は何のために生きているのかと虚しい事を考えなくてはならなくなる。
線香を上げてから、暫く二人の間に会話はなかった。死者を悼む静かな空気だけが煙と共に流れていった。
「父上や兄上が生きていてくれたらと、今でもたまに考えてしまいます」
気付けば玲馨を相手にしても出てこないような弱音が、悔恨と共に口を衝いて出ていた。廟の静謐でどこか寂しげな気配が感傷的にさせるのかも知れない。その上、隣にはたまにしか顔を見る事が出来ない身内が居る。守るべき対象である玲馨、そして政を知らない母を相手には決して覗くことのない戊陽の弱い部分が星昴を前にすると顕になってしまう。
「私の力は愛する二人のためには何の役にも立たなかったのです」
父は病死だった。今際の際には決して戊陽が気に病む事が無いようにと重ねて自分の死を「天命」だと繰り返した。
そして兄は、毒殺された。
戊陽が黄昌を見つけた時には既に事切れていた。毒のせいで黒く変色した顔と、吐血で胸元が真っ赤に染まった黄昌の姿は、思い出すと時折戊陽に頭痛を起こさせる強い記憶となって残っている。
あとほんの少しでも早く黄昌の部屋へと行っていたなら、戊陽は兄を救えていたかも知れなかった。そう思うほどに悔恨は今なお募る。
「私は──」
彼らの死に報いるためには何が出来るだろう。
卜師を探す事は真に正しい事なのか。
向青倫を、戊陽の力で御する事は無謀なのではないか。
宮廷から遠退き力を蓄える四方は何を考えている。
沈はこの先、どうなってしまうのか。
「戊陽」
疑問と不安が次から次へと溢れ出して止まらなくなると、それを星昴の柔らかく芯のある声音が押し留めた。
「お前はどうすれば死者を己の心から解放してやれる?」
「解放、ですか?」
「死者はこの世を去った。だが未だ鮮烈な死者の影はお前の心に楔を打つのだろう? 故、解放してやるのだ。お前なりの手段を見つけてな。死者とて戊陽に辛苦を与える事を良しとはすまいよ」
「手段なんて」
そんなものがあれば苦労はないと反論しかけて戊陽は思いとどまる。星昴とて彼にとっての兄と、幼少期に目をかけた甥が先に逝ってしまったのだ。
「叔父上は、解放出来たのですか?」
「そう上手く己の心を操れるものではなかろう」
「……叔父上、そういう事を言行相反と言うのです」
「ん? 少し見ない間に賢くなったな戊陽」
「叔父上には敵いませんよ」
先に廟を出ていく星昴の背中を見つめる。
彼は解放するたの「手段」を見つけたのだろうか。だとしたら、それは一体どんな方法なのだろう。
戊陽は時がこの思いを風化させてくれるのを待つしかないと考えている。それ以外にこの行きどころを失った思いの捌け口は無いのだと。
再び弱音が首を擡げないうちに、戊陽もさっさと廟を後にする。
日中よりも涼やかな夜風が、篝火の火を煽りパチパチと火の粉を舞い上がらせた。
*
于雨の手の中には漆塗りの箱に金で装飾された瀟洒な箱が収まっている。大きさは于雨がいつも使っている硯をちょうど二つ並べたくらいだ。
于雨はしばしその美しい細工が施された箱をしげしげと眺めてから、于雨の手で握りこんでしまえるほど小さな鍵を取り出す。
箱の蓋には鍵に似合いの小さな錠前がついていた。鍵の先端を穴に通してみると、抵抗なく中へと入っていく。
回すのには少しの勇気が必要だった。
何故なら、玲馨の様子がいつもと違ったような気がしたからだ。
玲馨は少々厳しいところもあるが良き先輩であり、同時に于雨にとっては師でもある。玲馨が手隙の時だけだが于雨は特別に彼から勉強を教わる事があった。おかげで不得手な算術が少しだけ身につき、文字や言葉も新しく覚える事が出来た。玲馨が教えるのは算術そのものというより、それらを学び覚えていくためのコツが主だった。そうした彼の教え方が教練房で教鞭を執る宦官のそれよりも于雨に合っていたのだろう。
それから玲馨には大恩があった。
于雨は後から知る事になるのだが、玲馨よりもずっと年上の先輩から貞操を狙われた事があった。当時はそうとは知らず、何故か急に部屋替えが行われたとだけ認識していた。だがやがて噂話に疎い于雨であっても閉鎖的な環境のおかげで「永参」という宦官の悪辣ぶりが耳に届く事になる。
本人に確かめた事はないが、きっと玲馨が手を回して于雨を助けてくれたのだろうと思っていた。
于雨は玲馨を慕い、そして恩を感じている。そんな玲馨がこの手紙を残したのだから是が非でも読まなくてはならないのだが──。
一体どんな事が書いてあるのだろう。あの日、于雨を見舞ってくれた玲馨は、どこか焦っているような、切羽詰まっているような雰囲気があった。
于雨は意を決し、鍵を回す。鍵穴の奥で小さく音が鳴った後、鍵を引き抜けば蓋はちゃんと持ち上がった。
玲馨が言っていた通り、中身は手紙だ。于雨はそれを取り出すとそっと開いて、黙って読み始めた。
最後まで読み終えると、于雨は首を傾げる。書いてある事の意味が上手く理解出来ないのだ。
于雨はじっと考えていたがやはり分からないので、もう一度手紙を頭から読み直してみる。
普段の玲馨は于雨にも分かりやすい言葉で話してくれるし、字も美しく丁寧だ。しかし手紙に使われている言葉は些か難解で、ところどころ走り書きしたかのように文字が流れている部分があった。かと思えば墨だまりが出来て文字が太く潰れているものもある。手紙には玲馨の強い焦燥と苦悩が滲んでいた。
長い時間をかけて于雨はどうにか手紙の内容を自分なりに噛み砕く事が出来た。
玲馨の手紙には于雨の持つ特異な力について書かれてあった。
于雨には特別な力がある。それは于雨もよく知っており、玲馨には地脈で酔った際にたまらず相談した事が、彼に知られるきっかけとなった。
今も意識を集中すると遠くのどこかで何か悍しいようなものが出たり消えたりしているのが分かる。方角は宿舎から見て宮城側、南の方だ。城よりももっとずっとずっと遠く、きっと妖魔と呼ばれているものが徘徊しては消えていく気配だろう。
于雨はそれら地脈にまつわるものを感じる力があるのだが、それは行き過ぎると目眩と頭痛がしてきて最終的には嘔吐してしまう事が昔からたまにあった。
玲馨の手紙によると、于雨の力について詳しく教えてくれる人物がいるという事だった。
于雨の力は特別で、それは于雨の想像がつかないほどとても強い力で、悪い人間に使われてしまう前に于雨自身が力について知った方が良い。しかし玲馨にも力の詳細は分からず、またその教えてくれる人物を信じて良いかも分からない。何かあれば必ず助けるが、于雨が自分で何某かを訪ねるかどうかしっかり考えて決めてほしい──。
とても難しい事を言われているような気がする。何某かに会いなさいと言ってくれたらとても簡単なのに、まず会うかどうかを考えろと玲馨は言う。その何某かがどんな人かも于雨は分からないというのに。
「あっ」
于雨は短く声を上げると、手紙を灯明皿の火に近付ける。読んだ後は手紙を燃やせと言われた事を思い出したのだ。手紙の文末にも読んだら燃やすようにと短く書かれてある。
力の事はどうにか出来るなら願ったり叶ったりだ。気が付けば人には無い妙な力があって、今のように制御を覚える前は勝手に何かを感じ取っては于雨を苦しませてきた。いっそ失くしてしまいたいが、果たしてその何某は──いつか于雨を訪ねてきた「石を持った宦官」は于雨の願いを叶えてくれるだろうか。
油の燃える匂いに紙が燃える匂いが混ざって部屋に充満していく。玲馨の文字が乗った手紙が徐々に灰になっていくのを眺めながら、于雨は一生懸命考えていた。
ゆらゆらと闇の中で踊る炎にどこか恍惚としていた于雨の意識を引き戻したのは、廊下の床が軋む音だった。
扉の向こうに向かって誰何するととてもか細い声が「珠子だよ」と告げてくる。
「子珠」
「あ、于雨。て、手拭いを、持ってきたよ」
「うん」
部屋に入ってくると水の入った桶を卓に置きながら子珠が鼻を鳴らした。紙が燃えた匂いが残っていたのだと気付き、于雨はドキドキしながら子珠をうかがっていたが、特に訝られる事はなかった。
ほっと胸を撫でおろす于雨の一方で、そんな彼の動揺など知らない子珠は于雨に寝台に横になるよう言う。
「あんまり無理しちゃ駄目だよ于雨」
「うん」
病室から宿舎に戻ってきたとはいえ、于雨はまだまだ療養の身である。子珠は于雨の看病を買って出てくれたらしく、毎晩于雨と玲馨の部屋を必ず手拭いを持って訪れた。
子珠は丁寧に于雨の体を拭ってやる。まだ熱を持った患部はいっそう優しく拭き清め、その傷跡を見ては苦しげな表情を浮かべた。
「……ごめんね、子珠」
「えっ?」
「自分でするの、怖くて」
何より見るのが恐ろしかった。そこがどんな風に変わってしまったのかを、于雨はまだ自分の目で確かめていない。
子珠は勢いよく首を振ると于雨を安心させるためにか頬を上げて見せる。
「こ、こういうのは、お互い様なんだよ」
「ありがとう」
「ううん」
全身を拭い終えると暫く手拭いを桶で洗う水の音だけがしていた。いつもならここで子珠はすぐに退室していく。しかし今夜は桶の水面をじ、と見つめたまま心が水底に沈んでしまったかのように動かなくなってしまう。
「……子珠?」
寝台に寝そべった于雨の視点からは子珠の背中が見えた。着付けが緩んでしまった仕事着から子珠の項全体が顕になってしまっている。そこに、何か赤い線のようなものを見つけ、于雨はそっと手を伸ばしてみた。
「痛いっ……!!」
ぱちん、と乾いた音を立てて振り払われて暫し驚きに固まっていたが、自分が触ろうとしていたものが傷だと察すると于雨は謝罪を口にする。それから訊ねた。
「……永参先輩に、されたの?」
子珠はハッとしたようになって、それからみるみるうちに目に涙を溜め始める。それはすぐに頬を伝って桶の中へと吸い込まれるように落ちていった。
「ぶ、ぶたれるの、上手く出来ないと、背中を、い、痛くて」
途切れ度切れの言葉でも悲痛な響きの訴えに于雨の胸が詰まったように苦しくなる。
「泣くと、もっと怒られる……もう、やだよぉっ、僕、あの部屋いやだぁ……っ」
子珠の涙声に、ふと思い付くものがあった。もしかすると、子珠は于雨の代わりだったのではないか。
宦官の宿舎での子供たちの部屋は基本的に大部屋で雑魚寝だ。しかし優秀な者や先輩宦官から目をかけてもらっている子は四人部屋や二人部屋を与えられる事がある。それらはほとんど先輩からの指名制で、寝台で眠りたいがために先輩に気に入られようとする子も少くない。
于雨は永参と同室になるところを、同室者が急に玲馨へと変更された。そして于雨が玲馨の同室になってから一月後に入ってきた子珠が、永参に指名されて二人部屋を使うようになった。
あの変更が無ければ今も于雨が永参と同室だったのかも知れない。そして于雨が子珠の代わりに鞭を打たれていた。
だがそれが分かったところで于雨にしてあげられる事はない。永参に直談判しても、或いは別の先輩に相談しても無駄だろう。この宿舎で永参に逆らえる宦官はそうは居ない。彼はもう随分古参の宦官だった。
「子珠、軟膏が抽斗にあるから取って」
中々泣きやまない子珠だったが言われた通り軟膏を取ってくる。深めの小さな皿に入った蓋もついていないような物だが、ちょっとした傷や皹にはよく効いた。
子珠が衣を脱ぐと、于雨は短い間絶句した。想像以上に背中に広がる鞭の痕が酷かったのだ。
こんな傷を抱えて日中は仕事をこなし、夜には自分の面倒を見に来ていたのかと思うと、于雨は言葉にならないもので胸がいっぱいになる。
少し触れただけでも子珠が逃げるように背中を反らせるので、子珠がしてくれたように于雨も丁寧に優しく軟膏を塗っていった。
「……あ、ありがとう、于雨」
「うん」
于雨がしてあげられる事は薬を塗ってあげる事くらいだ。だけどもし、于雨に力があったら? 子珠を助けられるくらい強い力があったら?
于雨は迷わず子珠を助けるために、その力を振るうだろう。
「ごめんね、泣いちゃって。ぼ、僕帰るね。早くしないと永参先輩また、怒るから」
「うん。また、明日」
子珠は桶を抱えると自信なさげに背中を丸めて出ていった。その後ろ姿にどうしてか、いけない事をしてしまったような気になってしまい、その日はうまく寝付く事が出来なかった。
そして翌晩。どれだけ待っても子珠が桶を抱えて部屋を訪ねてくる事はなかった。
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