あわいの宦官

ちゅうじょう えぬ

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雲朱編

22とある男の憂鬱

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 薛石炎シュエシーイエンは真っ青な顔をして部屋の中をうろうろと行ったり来たりしていた。しきりに瞬きを繰り返し、額に滲んだ汗をほとんど無意識に手で拭う。
 男がこうなっているのは、今しがた宦官より届けられた書簡に原因があった。書簡の中には何とも恐ろしい事が書かれてあったのである。
 昔は地脈の動きを読む事を生業にした卜師という役職があった。しかしながら時の皇帝は凱寧の頃に邪術であるとして、卜師どころか彼らの扱う卜占そのものを禁止して久しい。
 今上帝である戊陽皇帝は、あろう事か卜師を復活させたいので協力しろと書簡で言ってきたのである。何とも突拍子の無い勅命に危うく目を回して倒れるかと思うほどだった。
 卜師の存在が国にとっていかに重要か、そして今後も卜師や卜占を禁止し続けた結果どうなるのかを懇切丁寧に書き記し、最後には国のためにどうか貴殿の助力を求むという言葉で書簡は締めくくられている。皇帝という強い立場を使って剣のように突き刺すのではなく、網のように上から放って身動きを取れなくさせるような立ち回りはまるで薛石炎の生真面目な性格を狙い撃ちしたかのようだ。
 薛石炎は太常寺の次官で、子供も既に自立した五十代後半の官吏だ。
 生まれは南の雲朱ユンジューで十代の頃に伯父の伝手を頼って紫沈を訪れてからというもの、何とかして紫沈に留まりたいと思うようになった。それが官吏を目指したきっかけである。
 雲朱の女は元気で朗らかだが時にがさつなのがいけない。それに比べて紫沈の女のなんと淑やかな事か。やはり都で暮らす女というものは垢抜けていて品があって、男を立てるようにと幼少から言われて育つのだろう。薛石炎は紫沈の女の虜になったのだ。その原因にはひとつ、彼の幼馴染の女の気性の粗さにほとほと困らせられてきた事が影響しているだろう。
 薛石炎は父と伯父に拝み倒して貴族の端くれである伯父の養子となると、科挙を受ける準備を進めた。
 沈の官吏になるための方法は二つ。一つは官吏である父の子として生まれる事。もう一つは科挙を受けて自身の力で官吏となる二つだ。
 薛石炎の伯父は貴族ではあったものの、伯父の父、つまり薛石炎の祖父は官吏にならなかったので貴族の位だけを伯父に譲り渡してその暮らしは庶民のそれとほとんど変わらないものだった。
 それでも伯父の養子になりたがったのは、科挙を受けるために義塾へ通う必要があったからだ。義塾へは庶民よりも貴族の方が融通を利かせやすいという事情がある。
 そうして十年ばかり伯父の元で暮らしながら勉学に明け暮れる日々を過ごし、科挙に合格したのは三十代も半ばを過ぎた頃だった。
 薛石炎は官吏になるとすぐに念願だった器量はそこそこだが愛嬌のある年下の妻を娶り、数年のうちに一男一女に恵まれて、それはもう順風満帆な生活を送っていた。
 やがて子供たちが自立して夫婦二人だけの暮らしに戻ると、少々の寂しさを感じつつものんびりとした日々を得て、折を見て隠居し穏やかな余生を過ごせればそれで良いと、そんな風に考えていた。
 決して出世欲が無い訳ではなかったのだが、官吏として働くうちに自分は大した器の持ち主ではないと気付いてしまい、それからはとにかく問題を起こさず平和に自分の分に相応しいだけの仕事をこなしていればそれで満足するようになっていった。
 だから、こんな事は薛石炎は望まないのだ。皇帝の密命を受けて暗躍するなど、考えただけでも恐ろしい。
 余談だが、沈では国教が軽んじられるようになってからというもの、主に祭祀などを司る太常寺は実務が減ると共に定員も減らされて、次官とは言っても紛れもなく閑職である。
 半時辰約一時間ほど前に帰っていった若い宦官の背中に、彼が届けた書簡を投げつけて自分には関係ない事だと怒鳴れたらどれだけ良かったか。間もなく退職を控えたような老いぼれを理由に丁重に辞退して、明日にでも宮廷から去るのでも良かった。
 しかしそれが原因で自分と同じく官吏になった息子に影を落とすような事があっては親として立つ瀬がない。同じく娘が嫁いだ宮廷官吏の夫に迷惑が掛かるのもよくない。或いは自分と妻にこそ権力の魔の手が伸びるかも知れない。そんな事をあれこれと考えていたら断る機を逸してしまったのだった。
 薛石炎は努力家で慎ましい男だったが同時にひどく小心者でもあった。そして生真面目さが災いして、こんなにも責任の重い役目を他の誰かに投げてしまう事に、悲しいかな罪悪感を覚えてしまうのである。
 皇帝である戊陽とは、面識と呼べるほどの関わりはない。戊陽が即位してから二年、公的な場面で意見を交わし合う事はなかったし、私的な事などもってのほかだ。だがしかし、薛石炎の性格を熟知したかのような書簡を戊陽が寄越してきたのは、彼に入れ知恵してきた何某かの存在を示唆していた。
 皇帝の叔父の名を星昴シンマオという。太常寺の長官という位置に収まりながら長官らしい仕事ぶりを見せた回数を数えれば片手で足りてしまうような非常に、非常に怠惰な薛石炎の上官である。
 その星昴こそが皇帝に知恵を貸したに違いなかった。
 汀彩ティンツァイ城の東側一帯である東沈ドンシェンのその一角に、太常寺が取り仕切りる祭祀の記録を保管している書庫兼執務室がある。
 城で行う祭祀の全ては太常寺が管轄しているが、それらに纏わる書物で室内は紙や木簡竹簡の海になりつつある。年に二度ある虫干しの季節になると仮病を使って休む者が続出する事で有名で、市井で喧嘩の一つも起きなければ開店休業状態の軍部に人手を手配してもらわなければならないほど室内は書物で溢れていた。
 そんな狭苦しい場所に少しでも長く居たいと思う変わり者が居る。それが星昴その人である。
 早朝にやってくる事もあれば昼過ぎにふらりと現れて日当たりのよい窓際で本を読んだりと、薛石炎が大常寺に配属されて二十年近く経つが星昴が真面目に仕事をしているところを見た事がない。
 今日も薛石炎が怒りに震える手で皺になってしまった書簡をどうにかこうにか伸ばし終えた頃になって、のらりくらりと星昴が出勤してきた。
「やぁおはよう薛石炎」
「おはようございます星昴様。しかしながら既に正午を回って一時辰約二時間が過ぎておりますが」
「ん。知っている」
 こんなのでもつい先日まで皇帝不在の代理を務めなければならなかったのだから世も末である。今の皇族はあまりに血縁が少なすぎるのだ。
 朝議で見る星昴は普段と変わらず気だるげな様子で玉座に座り、順番に上奏を聞くだけ聞いて帰っていく毎日だった。それで半月程度なら宮廷が滞る事なく機能するのだから、今の形に宮廷の仕組みを整えた何代か前の皇帝には頭が上がらない。
 今日も今日とて持参してきた本を片手にお気に入りの椅子に腰かけた星昴は、明るい窓からの明かりが差し込む机に本を広げて読書を始める。何人かの官吏が星昴の背中を恨めし気に睨んだが星昴はこれっぽっちも気付く様子はない。
 薛石炎はせっかく綺麗に伸ばした書簡を再び握りしめながら星昴の背中に声をかける。
「星昴様、少々ご相談したい事があるのですが」
 書簡の宛名は薛石炎一人に向けたものだったがこういう事は仮にも長官である星昴に相談するのが筋だ。そうしてこの面倒事に星昴を巻き込んでやろうという魂胆である。あわよくば全てを星昴に押し付け太常寺を去るつもりで。
「今時分、陛下より書簡が届けられました」
「ほう、戊陽から書簡が」
 しらじらしく答える星昴に、薛石炎の頬が引き攣る。
 書簡の内容は一歩間違えれば政争を巻き起こすようなもので、よもや長官の頭を飛び越えて次官である薛石炎の元に伝えられてよいものではなかった。勤勉実直な薛石炎はとにもかくにも脅しに弱く小心者だったが、今回ばかりは長官の仕事を肩代わりしてやる訳にはいかなかった。貪官汚吏たんかんおり跋扈ばっこする宮廷において、薛石炎は大変清らかな仕事ぶりで一部からは煙たがられている事を本人は知らない。
「こちらをご覧ください。私が口で説明するより早いかと」
 と言って手渡した書簡は薛石炎が握りしめたおかげですっかり皺くちゃになってしまっているが、そんなことを気にする星昴なら書物だらけの埃っぽい部屋に居着きはしないだろう。案の定皺には一言も言及する事なく素早く書簡に目を通していった。
「事情は分かったが、薛石炎は私に何をしろと言うのかい?」
「何を、ですか」
 怒りとは限界に達すると眩暈を起こすものらしい。言うに事欠いて長官としてあるまじき主張に薛石炎の血圧は限界に達する。
 普段ならここで薛石炎が折れているところだが、今回ばかりは譲る訳にはいかない。
「陛下の真意は分かりませんが、私などが書簡に書かれたような事を提言しても一蹴されて無かった事にされます」
 それどころか薛石炎の名も名簿から消されるだろう。それで済めば安いくらいだ。
「ならば太常寺の官吏たちの連名で上奏すれば良いではないか」
「太常寺から数名の官吏の名が消え、残った者たちの首が締まる結果に終わりましょう」
 いっそ星昴以外の太常寺の官吏の全員を巻き込んでみようか。そうすればこの男一人に太常寺の仕事全てが伸し掛かる。近く第五皇弟の半元服の儀も迫っているというのに星昴一人で祭儀を執り行えるはずもなく、星昴は西の勢力から恨まれる事になるだろう。第五とはいえ母である東妃の生家は宮廷の中で大きな力を持っているのだ。
「では、他の官署に呼びかけ徒党を組むのはどうだ?」
「他の官署……と言いますと?」
 最終的には法案として成立させるために中書省という宰相──お飾り宰相として有名だが──が属する官署にまで話を通さなくてはならないが、まさかこの段階で宰相の周辺に声を掛けろというのではあるまい。
 三省と呼ばれる宮廷を取り仕切る三つの最上位の官署に属するのは貴族の中の貴族の貴い人間ばかりで、養子になったとはいえ貴族の端くれである薛石炎にはまず人脈というものがない。それこそ星昴ならば三省の人間に呼びかける事も可能だが、この自堕落が形を取って歩いているような人間がそんな事をするはずがない。仮に星昴が声を掛けたところで星昴の宮廷内での評判は地に落ちているので誰も真剣に取り合わないだろうが。
「卜占は、昔は太常寺の管轄ではあったが、事は軍部にも及ぶだろう。ややもすると戸部も他人事ではいられぬのではないか?」
 軍部とはつまり禁軍を指し、戸部は土地や戸籍の管理をしている官署だ。なぜ卜占がその二つにまで影響するのか考えても分からず、薛石炎は怒りも忘れてまじまじと星昴を見つめる。
「お前は卜占に詳しくないのか? それで私を頼ろうと考えたのか?」
 星昴は手に持った書簡をひらりと揺らす。暗にきちんと中身を確認したのかとただしているのだ。
 書簡には確かに卜占に纏わる事が書かれてあったが、それと星昴の考えを理解するのとは別の事だ。
 しかし、小さく肩を窄めるしかないのが薛石炎という男が小心者たる所以だ。
「いえ、その……」
 確かに改めて自分の言葉で卜占が具体的にどういうものかを説明出来るほどには、薛石炎は卜占を分かっていない。今ではそれについて研究する事さえも禁止された邪術としか知らず、凱寧が徹底して排除した口に出すのも憚られるようなものと認識している。
 しかしそれだけを知っていれば十分で、薛石炎のような身分の低い官吏は自分の身を守るために決して卜占などに触れようとは考えない。だから星昴に書簡の事を話したのだ。皇帝もこの話が結局のところ回りまわって星昴の元へ戻ってくる事は織り込み済みだっただろう。
 星昴はこの件についてあてがう人材を間違えたのだ。皇帝に相談されたところで星昴がいつも通り知らぬ存ぜぬを貫き通していれば、薛石炎もこんなにも頭を悩ませる事はなかったというのに。
「ん、まぁ無理からぬ事だ。卜占とは決して邪術などではない事をまずは知っておくと良い」
「はぁ」
「卜占は地脈を占う技術だ。地脈とは人の体に影響を及ぼすもので、地脈が活発な土地は人も元気になる。地脈の動きが分かれば戦に行商に民の住まう土地まで管理がしやすくなるもの。ん、とすると、工部や太府寺からも意見を得やすいか?」
 星昴は薛石炎に教えるというよりも自分の考えを整理するようにしてぶつぶつと言葉を唱えていく。なまじ本ばかり読んでいないので地脈などという管轄外の事にも詳しいらしい。
「とまぁ、これだけの官署から人手を募れるのであれば、お前一人の肩に責任が乗る事もあるまいよ」
 複数の底辺官吏の肩を寄せ集めるよりも、星昴一人の広い肩に責任を乗せた方が上手くいくはずなのだが、星昴には一切そのつもりはないらしい。どこまでいっても怠惰で無責任な上官に期待するのはもうとっくの昔に諦めているので今更ではあるが、改めてこの男を心底憎いと思った。
「つまり、卜占禁止を撤廃する案について太常寺だけで留め置くなと仰られるのですね」
 人の口に戸は立てられないので、他の官署の人間に一人でもこの話をすれば噂はあっという間に広まるだろう。そうなった時にこの件の首謀者が薛石炎であると思われるのは非常にまずい。一昼夜のうちに薛石炎の席がなくなる。いやそれで済めばよっぽどマシといえる。
「しかし私は所詮、太常寺の次官に過ぎません。事が事ですので、私が勝手に動けば越権行為であると見做されてもおかしくないでしょう。そうするとお困りになるのは戊陽陛下では御座いませんか? 私のせいでますます卜占への風当たりが強くなっては元も子もありません」
「んん……。薛石炎にしては随分食い下がるな。普段は二つ返事で私の仕事をこなしてくれるというのに」
 薛石炎が血気盛んな武官であったら今頃星昴の頭に向かって拳を振りぬいていただろう。
「しかし、私の名前を使われるのもなぁ。良くない。んんー……致し方あるまい。戊陽の名を使え、薛石炎」
「星昴様……」
 呆れて言葉も出ない薛石炎に対して星昴はどこ吹く風で、机に置いた書簡の皺を伸ばすなどしている。早くもこの話題に飽き始めたのだ。
「星昴様、愚拙ながら申し上げますが、陛下の御名を騙っては本末転倒で御座います」
 戊陽の名で事を進められるのなら、何も面識の無い太常寺の次官などを頼りはしなかっただろう。皇帝は外堀を埋めようとしているのだから、卜占禁止の撤廃はさも他者の口から出てきたものと見せかけなくてはならない。
「だが私の名を出して誰が信用する? 実際にお前が動くのだから私の名を使ったところで皆薛石炎こそがこの件の黒幕だと考えるぞ」
 星昴のその自己評価もいかがなものかと思うが、確かに彼の言う通りに違いない。星昴の自堕落ぶりは宮廷内の知るところなので、卜占に関する法案を星昴の名で出したところで結局火の粉は薛石炎に降りかかるだろう。
 では、何が最善か。どうすれば薛石炎は平和的に一線を退き宮廷から去る事が出来るのだろうか。
「一世一代の大勝負ではないか、薛石炎よ」
 手持無沙汰に本を開いては閉じてを繰り返していた星昴がのんびりとした口調でとんでもない事を言い始めるので、薛石炎は開いた口が塞がらなくなる。
「お前は少々、平々凡々とした人生を歩み過ぎたのだ。私は前々からお前の能力には不相応な地位だと思っておった。歳も歳だから、これが最後の出世の機会であるぞ」
 いい加減を言っている。今更おだてて木に登ると思われているのだろうか。だとしたら随分と侮られたものだ。
 仮に薛石炎が出世欲にまみれた人間だったとしても星昴の言葉だけは信用しなかっただろう。ついさっき星昴も自分の事をそんな風に評価しておいて、今更お世辞が通用するはずかないのに。
 しかし、実際には薛石炎がこの件を主導するしか今のところ選択肢は無い訳で。
 ガンガンする頭とキリキリし始めた胃をさすりながら、薛石炎は諦めたように頭を垂れた。
「……この薛石炎、陛下のために老骨に鞭を打ってでも卜占禁止の撤廃及び卜師の復位に尽力致しましょう」
 涙交じりの薛石炎の言葉を、星昴は至極退屈そうに聞いて「良きに計らえ」と手を振るのであった。





 東西南北を領有する四人の王たちに吸収されてしまった皇帝の権威を再び取り返そうとした時、まずどこからその牙城を突き崩していくかと言われたら刺史と節度使になるだろう。皇帝の一任で決める事が出来る二つの官職は、間に宰相だの何だのと余計な人間を挟まずに動かす事が出来るので面倒が少なく済む。
 その代わり間に挟まって管理する人間も居ないために、皇帝との信頼関係が失われたら後は刺史たちが好き勝手に地方でその権限を振るうだけになる。それも実際には四王の力が強いので、彼らにおもねる形で下に付き、地方の監察とは名ばかりになって久しい。
 思いがけず北と東の刺史を罷免する事は出来たが、地方軍を監察する節度使はどちらも未だ現地で皇帝を無視し続けている。
 東は辛新を遣わしてこれを改善させるつもりだが、北に相応しい人材はまだ見つからない。西と南に至っては、刺史も節度使も二年間音沙汰無しなので、やはりここは北と東の時のように現地調査が手っ取り早いだろう。
「と、いう訳だ玲馨」
 先日、太常寺の薛石炎という男に宛てて卜占についての書簡を出したが、叔父の星昴によると彼は苦労性らしい。そうなってしまったのは十中八九、自由人過ぎる星昴が原因だろうが、今頃星昴に丸め込まれて更に苦労を重ねている事だろう。その苦労の一因を戊陽も担ってしまっているため、薛石炎とはいずれ直接会話してねぎらってやりたいところだ。
 一方玲馨の苦労に関しては戊陽に全ての責任がある訳だが、果たして玲馨の働きにはどう報いてやれば釣り合いが取れるか難しいところだ。もし彼が一介の宮女ならどんな反対意見も押し退けて皇后にしてやるところだが、今の戊陽にはそれだけの力が無いので妃にすら迎えてやれなかったろう。結局、ひっそりと愛を育むしか道は無いのだから、玲馨は宦官で良かったのかも知れない。
「宦官の身分で沈一周旅行が叶いそうですね」
「随分好意的な言い方をするな」
「皮肉ですよ」
「まぁそう怒るな。私とてお前にばかり負担を強いて申し訳ないとは思っている」
「いいえ、陛下のお役に立つ事が私の使命ですから」
 とは言うものの、玲馨の柳眉から山が消え平坦になる時は何か不満がある時の顔だと戊陽はよく知っている。
 こういう時、上手い言葉を見つけてご機嫌を取ってやれたら良いのだろうが、戊陽は昔から情緒や風情といったものが欠けていると揶揄されてきた。「きっと戊陽殿下は女心に苦労なさいますよ」とは詩作が面倒で投げ出した時に乳母から言われた言葉だ。未だに桃以外の花の名もろくに言えないなら、美しいものを美しいと呼ぶ以外の言葉を持ち合わせない。
 すっかり衣替えの季節を迎えた紅桃宮はこれからしばらく緑の季節が続く。花とはまた一年の間お別れだ。黄麟宮では年中花が咲くのだが、幼少から眺めてきた桃の木が植え替えられた紅桃宮の方が思い入れが強いせいか、黄麟宮に咲く花の色も定かではない。
「玲馨が気になるのは東妃の事か?」
 目尻がツンと伸びた目が微かに大きくなる。これは驚きつつも肯定している顔だ。
「長く城を空けたせいで嫌味でも言われたか?」
「小杰殿下には寂しがられました。東妃様は何も。ただ、あまり良い顔をされないのは確かです」
 紅桃宮に仕えている宮女と宦官は数が少なく、泊まっていくのでもなければ戊陽の執務室や寝所に断りなく人が近付く事はない。だがそれでもどこに耳があるか分からないと考えているのだろう、玲馨の態度にはどこか硬さがある。つまり、東妃の様子は玲馨が口でいうより悪い訳だ。もしくは、もっと別の気掛かりがあるか。
 紅桃宮の執務室は、机に紙や墨など必要最低限の物だけが用意された部屋で、室内の景色は味気ない。やはり玲馨の事を寝所に呼ぶべきだったなと思いつつ、自分から「待つ」と言った事を思い出した。
 数日の内に玲馨は戊陽の指示で西へ発つ事になる。また半月から一ヶ月の滞在になるはずだ。その間に玲馨の懸案が解消される事はきっとないのだろう。だが時は待ってくれない。一ヶ月後には小杰の半元服が迫っていた。
 戊陽は自分の左手に小さく跳ねた墨の汚れを見つけて、何気なくそこを指で擦る。と、すぐに玲馨が手巾を取り出しどうぞと差し出してくる。
「拭いてくれ」
 手巾を手にした玲馨の手の前、触れない位置まで戊陽が左手を持っていくと、玲馨は驚いた顔になる。そういう顔をすると少しあどけなくなって、凛とした雰囲気が甘くなる。その顔が、戊陽は好きだ。
「子供のようですよ」
「子供で構わん。玲馨」
 急かすように名を呼べば困ったように眉を下げながらも戊陽の手を取り手巾で墨の部分をそっと拭き始める。
 決して傷がつかないように抑えられた力はほとんど皮膚の表面を撫でるだけで、それでは汚れは落ちないだろう。彼の手付きが、少しでも長く触れていたいと思った裏返しならどれだけ嬉しいか。だが至って真剣な表情の玲馨に、結局それはそれで愛いと思ってしまうのだから戊陽は玲馨が玲馨なら何だって良いのだ。
「小杰の半元服の後の話だが」
 甲斐甲斐しく動いていた玲馨の手が戊陽の言葉に反応して短い時間止まった。その反応で、既に玲馨の耳にも入っているのだと確信する。執務室に入ってきた時からあった硬い空気は、それが原因だ。
「お前を小杰付きにする」
「……はい。東妃様から、陛下に打診すると聞いておりました」
 手元に視線を落としたまま完全に拭うのをやめてしまった玲馨の手を、手巾ごと握り締めた。
「こんな風に思ったのは初めてだ」
 握った手を顔の前まで引き寄せ祈るように、或いは懺悔するように目を閉じる。たじろぐような気配が瞼の向こうにあったが、抵抗はされなかった。
「お前の事を誰にも見つからない所に隠しておけば良かったと、恐ろしい事を考えてしまった」
 溜息を吐くような音がする。それからすぐに息を吸ったようだが言葉は返らない。けれどその代わりというように、玲馨は戊陽の手を強く握り返してきた。
 弾かれたように顔を上げて瞼を開けると、頑なだった表情がすっかり崩れて泣き出しそうな顔をした玲馨がそこに居た。たまらず手を伸ばして玲馨の背に腕を回そうとしたが、はっと平静を取り戻した玲馨が僅かに身を捩るような仕草をする。
 玲馨は逃げようとしたのだと分かると、戊陽の動きはすぐさま止まり一寸も先へ進まなくなる。
「そ、の……いえ、今のは、嫌だったとか、そういう訳ではなく……」
 珍しく玲馨が激しく動揺する。もはやあのどこか怜悧な空気を纏う彼はそこになく、まるで迷子の子供のように頼りなげで、幼少の頃の玲馨を彷彿とさせた。
「何だ、言ってくれ。気になる事でもあるのか?」
「いえ、何も。何も、ありませんから」
 誤魔化すのがこんなにも下手になるほど動揺しているくせに最後の砦を崩せないとなると戊陽も意地が出てくる。
 玲馨の手は捉えたままじ、と目を見つめているとやがて玲馨は小さく息を吐き出し観念した。究極のところで玲馨は絶対に戊陽に負けてくれるのだ。
「妃を迎えると聞きました」
「……ん?」
「東の向公主だと」
 戊陽の反応が芳しくないので玲馨が怪訝な顔をする。
「……もしや間違った話だったのでしょうか?」
「正しい情報だ。だが何故今それを……」
 いや待てよと戊陽は半月以上前、向峰を妃に迎えると話した朝議の日を思い出す。あの日は確か、玲馨は同席していなかったのではないか。向峰の事は半ば勢いで決めた事だったので事前に話す暇も無く、玲馨は他人の口から又聞きして妃の入宮の話題を耳にしたのだろう。
 しかしそれが何故今になって玲馨が話題に持ち出すのか理由が分からない。
 玲馨を見つめたまま首を傾げると、玲馨は気まずそうに「忘れて下さい」などと言い出した。その姿を見て閃く。
「まさか……嫉妬か、玲馨」
 す、と視線を逸らされる。誤魔化したいが嘘は付きたくないという反応だ。
 今度こそ戊陽は我慢しなかった。玲馨の体を引き寄せその腕に閉じ込めてしまうと、自身の肩口に玲馨の顔をうずめさせる。
「玲馨……」
 待ちたくない、と本音が喉まで出かかっている。それを必死に押し殺して細い体を強く抱き締めた。
「向公主の事は心配するな。周囲の目を誤魔化すために宮を訪ねはするが、夜伽はせぬ」
「それは……ですが、向公主も入宮するからにはお役目を果たしたいとお考えになるのでは?」
「さてな。公主には他に一緒になりたい男が居るようだから、こちらにその気が無いと知れば安心するかも知れぬ」
 真実そうなのかは本人にでも確かめなければ分からないが、辛新の反応を見るに互いに想い合っていると踏んで良いだろう。
 玲馨は戊陽の胸をそっと押し返して顔を上げると、何故か眉を下げて申し訳なさそうな表情をする。
「玲馨、やはりお前、向公主の事情について知っておったのだな」
「も、申し訳御座いません」
「何故私に話さなかった?」
「その……」
 今日の玲馨はいつになく愛らしい姿ばかり見せる。しどろもどろになりながらどうにか言葉を繕おうとしているが、先程嫉妬していた事が分かったのだから答えは簡単だ。
「お手つきの女なら、女の方が体を許さないのではないかとでも思ったのだろう?」
 しかしこの事が公になれば向峰の入宮は御破算になる。だから戊陽にさえも黙っていた。冷酷なようで他人を見捨てられないところもあるから、辛新を庇う意図もあったかも知れないが。
 玲馨は今度こそいたたまれないような顔になって離れていこうとするので、戊陽はしっかりと背中と腰を抱く手に力を込める。
「良い。気にするな。寧ろお前が思った以上に私を好いてくれているのだと思うと、たまらない気持ちになる」
「……も、もう勘弁して下さい、陛下」
「良いではないか。たまには存分に照れてみせろ。お前は昔はおどおどして可愛らしい少年だったのに、いつの間にか俺のお目付け役が板についてまるで恐妻家になったようだった」
「恐妻家だなどと、宦官相手に嘘でも仰らないで下さい」
「はは、何だかいつもの調子が戻ってきてしまったな」
 紅潮が引いていく頬に手を添え親指でなぞる。
 玲馨の瞳は光が差し込んでも奥の深いところまで黒が染み込んでいて、黒い金剛石のようにチラリと光を反射させる。唇は薄く赤く、頬や首筋は絹のように滑らかで白い。東妃が求めるのはではないと分かっていても、ひょっとすると玲馨の美しさに欲が出てしまったのではないかと考えてしまうほど。
 いっそそうだったなら戊陽は東妃の要望をきっぱり断っていた。だがそうではないと、あの賢い女なら何かしら裏があると思うからこそ、この手を離さなくてはならない。
 後ろ髪引かれる思いで玲馨の体を解放すると、玲馨もまた名残惜しいような顔をする。そう見えるのは戊陽の願望がそうさせているのかも知れないが、戊陽が下心満載で触れても一切拒むような素振りを見せないのだからつけあがらせているのは玲馨本人だ。
「玲馨、恐らく西の東江は、北玄海や山芒とはまたお前への待遇が異なるだろう。努々忘れてくれるな」
「はい」としっかと頷いてみせた玲馨は部屋を下がっていく。この後は東妃宮に行くのだろうと思うと、振り返った背中を捕まえ引き留めたい衝動に駆られる。
 玲馨の足音がすっかり聞こえなくなるまで、戊陽はずっと玲馨が出て行った扉をじっと見つめたままだった。
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