あわいの宦官

ちゅうじょう えぬ

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宮廷編

18油断も隙もない

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 事は、玲馨が想像していたものとは些か違う様相を呈していた。
 紅桃宮の戊陽の寝室にある机に載せられたいくつかの書簡は全て桂昭グイジャオからのものだ。
 話は半日ほど遡った夜にまで戻る。二回目の妓楼へは玲馨と梅の二人で訪れていた。
「今晩は玲馨さん、それからええっと……」
「梅だよ梅。分かりやすい美形なんかより俺みたいな色男の方が女の楽しませ方を知ってるってもんだぜ?」
「ごめんなさい。覚えたわ、梅さん」
 桂茜グイチェンはそれと分かる愛想笑いを浮かべる。その笑顔には「そうは言っても宦官よね?」という台詞が透けて見えた。
 前回とは違い、翡翠よりもずっと濃い緑青色の扉がぴっちりと閉まった室内には玲馨、梅、そして桂茜の三人しか居ない。それぞれ戊陽と桂昭の仲介としてこの場に集まっている。それでいてきちんと揚げ代は取られるので相手にとっては良い商売だ。
「父から渡すよう言われました」
 一見普通の書簡を三つ、四角い盆に乗せて渡される。事前に中を検めても構わないと戊陽には言われていたので、端の一つを取って開いてみる。
「これは、告発書ですね」
 というよりは密告書か。
 確認の意味を込めて言ったのだが桂茜はゆっくりと首を左右に振った。
「私は父から中を決して見るなときつく言われていますので」
 落ち着き払って答える桂茜は、そうは答えつつも内容を概ね理解しているのだろう。「告発」という不穏な言葉を聞いて狼狽えないという事は、つまりそういう事だ。
「あの、二人は宦官だと聞きました」
 残りの二つを読んでいると、徐に桂茜が訊ねた。協力者である桂茜に別段隠すは必要は無いかと考えて頷きを返す。
「でしたらせめて、私たちの舞やお酒なんかを楽しんでいって下さいな」
 払う物は払っているのだし、彼女の言う通りにしても問題は無い。それにあまり早くに店を出て行くと事情を知らない妓女には怪しまれるかも知れない。
 逡巡していると梅が脇腹を肘で小突いて耳打ちをしてきた。「なぁそうしようぜセンパイ」期待に満ちた目が爛々と輝いている。
「……では、少しだけ」
 玲馨が了承すると桂茜はにっこり笑って扉に向かって年下の妓女を呼んだ。すぐさま声を聞きつけ幼い少女が中へと入ってくると、桂茜に言付けられてすぐまた出ていった。
 まさか廊下に待機しているとは思わず、玲馨はその平静を装った顔の下で俄に驚いていた。大した話はしていない。聞かれて困る事はなかったが、そっと桂茜を見ると目が合って、柔らかく微笑まれた。どうにも落ち着かない空気だ。
 酒が運ばれてくるとそのほとんどは梅の胃の中に消えていった。玲馨は軽く舐めるだけにとどめ、「酒はあまり得意ではなくて」という事にしておく。これでまたここに来る機会があっても酒をやり過ごす口実を得た。
 夜半、すっかり通りから人の姿が消えた月夜の下を宦官二人が妓楼からの帰途につく。なるべくなら誰それに見られたくはない現場だ。しかしこうした夜が三晩続くことになる。
 三晩のうちに桂昭から預かった密告書はしめて十件。その全てが、いわゆる高級官僚と呼ばれる汚職の数々を事細かに記したもので、これらの内容が白日の下に晒されたなら彼らは即刻罷免となるだろう。もちろん何らかの罪状もつく。
 そして、それら密告書を机に並べたところで冒頭へと戻る。




「どうなさいますか、陛下」
「どうも何も、こやつらの罪を晒すための手順は一から十まで書いてある」
「ええ、ですからお訊ねしたのです。どうなさいますか、と」
 戊陽は腕を組み、難しい顔をして低く唸る。玲馨の言葉には桂昭本人の事もどうするべきかという問いを含ませている。
 桂昭が見返りも求めず一方的に寄越してきた高官たちの悪事は、ほとんど全てが証拠付きのようなものだった。
 官吏の名、職位、悪事の内容と、その証拠となるものを見付けられる「場所」。それらが全て記載されている。
 例えば、財政を管理する戸部に勤めるある官吏は、国庫に手を付け私腹を肥やしているが、その証拠は昨年の夏頃の帳簿を詳細に確認すれば見つかると書いてある。恐らく不正な支出があって、どこかで無理矢理帳尻を合わせるように記録が改竄されているのだろう。
 そんな風に他の官吏たちも罪と罪の在処、或いは証拠の所在までが記されており、後はそれに従い調査をするだけで桂昭の言う「間引き」が可能という状況が、桂昭によって作られていた。
 彼は優秀だ。桂昭のあまりの有能ぶりに末恐ろしくもなる。物によっては何年も昔の不正の記録などもあり、一体いつ頃から桂昭が他の官吏たちを監視してきたのかと思うと背筋が寒くなるようだ。
「知ったからには調べぬ訳にもいくまい。いくつかは四郎にも手伝わせて、裏取りをするぞ」
「はい」
「桂昭をどう思う?」
 書簡を片付ける手を止め戊陽を見上げる。戊陽は玲馨に訊ねながらも自分もまた考え込んでいる。
 出世欲、それとも権力欲からの行動なのだろうか。だが漠然とそれは違うという気がする。たった一度会って話しただけの、それも酔っ払いだったおかげで何一つ正確な事は言えないが、桂昭がそうした支配的な立場に関心があるというのはいまいちしっくりとこない。
 ひとつ確かな事は、何かしらの目的があってそれに皇帝を利用しようとしている事だ。
「腹の底の知れない男だと思います」
「奴の言うことを鵜呑みにするのは」
「危険ですね」
 戊陽の視線が玲馨を捉える。その目は気をつけろと言っているようだ。
「陛下、調査に四郎も使うのでしたら、必ず誰か宦官を傍に置いて下さい。肉の盾くらいにはなるでしょう」
「馬鹿な。私が人を盾に逃げると?」
「いいえ、陛下なら多少の傷くらい癒やしてしまえるでしょう。ですがあなた自身が死んでしまっては、誰も助からない」
 痛むように額に手を当てると「そんな事が起きないよう願うよ」と辟易とした様子で呟いた。




 随分気心も知れているようだしどうせなら戊陽の護衛につければ良いものを、今日も今日とてメイは玲馨の護衛として城下へと続く門の近くで待っていた。
 時刻は早朝。日が上り始める頃、城下の町並みも目覚め始める時間帯。
「なぁ、二年前の城ってのはそんなに酷かったのか?」
 戊陽に今回のことをどこまで説明されのかは知らないが、この調査が二年前に遡る黄昌暗殺を発端にしている事は聞かされたのだろう。玲馨と並んで歩く梅が何気なく訊ねる。
「黄昌陛下は皇帝の権威を回復させようと苦心なさった。黄雷帝の時代将軍によって大きく軍紀が乱れた事件あった事を受けて、禁軍の掌握を最も優先し、次に平民からの官吏登用とその地位の向上を目指しておられた。それだけでも古狸の高官たちからどう思われるかは想像に容易いだろう」
「疎まれたってか? で、殺しちまえってのはちょっと短絡的過ぎねぇか?」
「言葉が過ぎる。口を慎め」
「慎めるかよ。そのせいで俺はこんなんなっちまってんだからな」
「そのせいで? 先帝の死がなぜお前などに関係する?」
「禁軍の掌握って言ったな。そいつが原因だろうさ。町の治安維持を指示する人間が居なかったんだろ。おかげで俺は冤罪おっ被せられてこのザマよ」
 冤罪と音にせず口の中で呟く。てっきり姦通罪でも起こして捕まったのだと思っていただけに、実は無辜の民だと言われて素直に驚いてしまった。
「玲馨センパイは、自分で思ってるよりも考えが顔に出てるから気を付けた方がいいぜ」
 やれやれと言いたげに梅が肩を竦める。おどけたような仕草からして本気の言葉ではない。
「お前を相手に何を気遣う必要があるか分からないな」
「へえ! つまり気の置けない間柄って?」
「お前が勝手にそう思う分には止めない」
「おいおいもうちょっと仲良くしようぜセンパイー」
 放っておくとくだらない事ばかり言ってくるので無視して目的の場所までさっさと歩く。
 午門を抜けてすぐ右手に曲がり真っ直ぐ進むと骨董商を営む店がある。とある貴族お抱えの店のようでその敷居は高く、店の構えも比較的立派に見える。
 店の中に入ると、店主が一人で奥の椅子に座って転寝をしていた。
「もし、少し話を聞きたいのですが」
 五十代くらいだろうか、半分近く白髪が混じった灰色の髪は乾いてボサボサで、敷居を上げすぎるのも考えもののようだ。
「ん……? おお、これはすいません。何かご入用で?」
「お訊ねしたい。ルー氏という元商人の貴族を知りませんか?」
 店主は首を傾げて顎を擦る。そうして暫く考えてから突然「ああ!」と声を上げた。
「塩売り貴族の呂の事ですか! もう随分昔ですよ。十年じゃきかない。塩商のくせしていっつも貧乏臭い格好をしてここらで荷車を引いてたのを覚えてます」
 店主の記憶は曖昧だが恐らく十二年前を最後に呂は紫沈から消えている。荷車を引いて歩いていたというのが本物の最後の呂氏だ。ただし、桂昭グイジャオの調べが正しければ、だが。
「呂はあなたに身分を買わないかと持ち掛ける事はありませんでしたか?」
「ああ、あったね。金に困ってたみたいですよ。それで、あなた方は一体何でしょう? お役人さんですか?」
 店主の態度がやや怪訝なものへと変わったので「そのようなものです」と答えておく。
「とある官吏の不正について調べています。呂は誰かに身分を売ったという話は聞いていませんか?」
 店主は黙り込んだ。その顔付きは明らかに先程よりも渋いものへと変わっている。貴族身分の売買は今では禁止されている。十二年前ならもちろん違法で関わっていた事が知れたら彼も罪に問われる事になるだろう。もしくは呂を買った何某かに頭が上がらないのか。
「……私は知らないよ。ただ、三件隣の小間物屋は昔えらく儲かってたって聞きますね」
 始めのにこにこした態度とは打って変わって冷ややかにそれだけ言うと、店主は立ち上がって扉を開ける。
「さぁもう今日は店仕舞いですんで、帰って頂けませんかね」




 朝日を浴びながら骨董屋を出る。後ろで大きな音を立てて扉が閉められた。梅がつまらなさそうに鼻を鳴らす。
 三件隣の小間物屋はこれまた立派な柱と屋根の店で、入り口の提灯が目印になっていた。中へ入ると男が二人、装飾品の前に立って話しているところだった。
 店の人間らしき男が玲馨たちに気付いて地面を滑るようにして歩いてくる。
「どうも、何かお探しですか?」
 まだ若い、玲馨や梅とそう変わらない年頃の男だ。
かんざしを」
「簪ならそちらの──」
「いえ、もう少し良い物を探してまして」
 店員はハッとした顔になって「少々お待ちを」と告げて奥へ引っ込んでいく。
「簪なんてどうすんだよ?」
「買いはしない。それより梅、あの男が店から出ようとしたら止めてくれ」
 先程店員と話していた男を示して言う。
「……おいおい、あれが本命とか言わねぇよな」
「そのまさかだ」
 男は官吏だ。玲馨も見覚えがある。
 桂昭からの書簡にはこうあった。
 呂氏は数十年前に没した氏族とされているが、実際にはほそぼそと子孫を繋いでいた。変わらず塩商に関わっていたものの末代の男はついにその身分を人に売り渡して市井の民へと成り果てた。
 売った相手は中央の官吏。要は科挙官僚で庶民という身分では上り詰める事の出来ない高官の地位へ憧れたが故の悪事である。
呂雄ルーシォンさんで間違いありませんね?」
 数十年も昔に呂が没したという記録があるのを良い事に、自身が身分売買を行った不正を秘匿した官吏、呂雄。男は突然背後から玲馨に呼びかけられてギョッとして振り返る。
「な、何だお前は! 私は工部の官吏である。失礼な態度を改めなさい!」
 肥えた体を揺らしながら吠えるので、玲馨は恭しく一礼してから「呂雄さん」と改めて話しかける。
「いくらかお訊ねしたい。あなたは度々この店を訪れているようですが、毎度奥様に贈り物でもなさっているのでしょうか?」
「何だと? そ、それの何が悪い!」
「いいえ何も悪い事など御座いません。三日に一度も贈り物をされては有り難みが薄れそうだと思っただけです」
 先程の骨董屋の店主と同じく自分に都合が悪くなると呂雄は鼻の頭に皺を寄せて押し黙る。
「……誰の差し金だ」
 どうやら呂雄は玲馨の正体に気付いていないらしい。でなければ出てこない質問だ。
「そう訊かれるという事は心当たりがあるようですね。この店の店主と共に自ら罪を告白する事をおすすめしますよ」
 呂雄の表情がますます忌々し気に歪んだ時だった。店の奥から物音がして店員が戻ってきたのかとそちらを振り返ると、大きな影が玲馨の視界に飛び出してきてギィンと嫌な音を立てた。
「玲馨そっちは任せたぜ!」
 想定外の事態だ。先ほどの若い店員が包丁か何かを持ち出して来ており、玲馨を狙った一突きを梅が剣で受け止めていた。
 呂雄は素早く身を翻して逃げの姿勢に入っていたが、扉に手をかけるよりも一歩早く玲馨の剣が呂雄の頬を掠めて扉の雷文模様に傷をつけた。
「こ、殺さないでくれ、頼むっ」
「殺しませんよ。大事な証人ですから」
「何を話せばいい? どうすれば逃がしてもらえる? 金か!? 金ならいくらでも出すぞ!!」
 刃物をちらつかせただけで一気に取り乱した呂雄に対し、玲馨を切りつけようとした小間物屋の店員は梅に両腕を拘束されながら悔しげに呂雄の事を睨んでいた。
 話を聞くならどちらからが良いか、火を見るよりも明らかだ。
「呂雄さん、あなたはこの店を使って随分と儲けたようだ。官吏になるより商人になる方が向いていたのでは?」
 玲馨の顔に呂雄はさっと色をなして「黙れ!」と怒鳴りつけた。
「何が商人だ! 儲ける事しか頭にない金の亡者など私には相応しくない!!」
「ですがご実家は商家だったのでしょう? そのおかげであなたは科挙を受けられた。にも拘わらず、身内に官吏のうまい汁を啜られるのを嫌って絶縁した。しかしあなたは所詮は商人の家の息子だ。貴族ではない。それがあなたの出世の障害になったんです」
 呂雄はつらつらと自身の経歴を玲馨に明かされて「それは」とか「いや」と口を挟もうとするが、ひとつとして間違っていなかったのだろう。やがて怒りも萎えて再び扉に突き立てられた刃物の存在を思い出したようだった。
「上手い事あなたの元に呂という男が身分を売りたがっているという話が舞い込んできたのは、生家に由来した人脈だったのでしょう。そして金を工面するために呂の塩を利用する事にした」
「も、もう分かった。分かったからやめてくれ」
「ではお訊きします。あなたはこの店をどう利用したのです?」
「私の代わりに、み、身分を、買わせた」
「それから?」
「……」
 玲馨は呂雄の答えが鈍ると雷文から剣を僅かに引き抜く。その動きに合わせて陽光がきらりと刃を光らせた。
「っし、塩を売ったんだ! 呂が持っていた場商や運商をそのまま引き継いで、裏で、売っていた」
「二年前の事もあなたが計画なさったんでしょう?」
 そんな事まで知っているのかという驚愕の表情を浮かべた後で、呂雄は観念したようにぎゅっと目を閉じて語りだす。その額や首筋にはびっしょりと汗が垂れている。
「塩が、見つかりそうになったんだ。仕方なかった。倉庫から塩を運び出して盗難に遭ったという事にした。犯人は、つ、捕まった。私の知らない、確か自警団の男だと聞いたが、本当に知らない! 替え玉は私が手配したわけではないんだ!」
「……いいでしょう。他に隠している事も含めて、ちゃんとした場所でどうか全てを曝け出して下さい。あなたはそれだけの事をしています。自覚がなくとも、あなたの行いで奪われたものがあったのですから」
 呂雄ががっくりと項垂れると汗が垂れて地面に染みを作った。太りすぎの官吏を縄で後ろ手に縛りあげる。
「梅、出るぞ。……梅?」
 梅の方も店員を同じように縛っていたが玲馨の呼び掛けに反応がなかった。一体何を気にしているのか、店の奥の方に顔を向けたままじっとして微動だにしない。
「梅」
 剣を収めて梅に近づき、その肩に触れると梅はビクッと体を跳ねさせた。
「どうした?」
 梅は短く息を吐き、何かを諦めるように首を左右に振って答える。
「は……いや、こいつは、違うだろ。十二年前なんて毛も生えそろってねぇようなガキだぜ? そこの太っちょ官吏と手を組んだってんならこいつの親父だろうさ」
 確かにそうだ。店側はどちらかというと呂雄に利用された側面が強いのであまり気にしていなかったが、小間物屋にも問うべきものはある。
 玲馨が奥を確かめようとすると、店員の男が焦ったように身を捩り叫んだ。
「父はもう居ない! 病気で死んだんだ。罪を償えというなら俺がやる」
「へぇ……? 死んだ? 二年前まで自警団ででかい面してたあのおっさんが病気ねぇ?」
「自警団だからっていつまでも生きてるはずないだろ。いいから、俺を連れていけ」
 梅は胡乱に店員を見下ろして、それから玲馨を見遣った。判断は任せるという事だろう。
「……やはり奥を──」
 確認してこよう、と続くはずの言葉は勢いよく開け放たれた扉と男の声によって阻まれる。
「おはようございます! おやおや何だか物々しい空気の小間物屋があったもんですねぇ」
「桂昭」と玲馨は口の中で再来した闖入者の名を呟く。朝議の最中は極力人目を引かないよう振る舞っているくせに、本来は目立ちたがりなのかも知れない。扉を開けるために上げていた腕を仰々しく胸の前で組んで深々と頭を下げる仕草は、道化じみていて誠意に欠けた。
「どうしてここへ? と言いたそうな顔をなさってますよお二人さん。当然、必要でしょう? 悪者を捕まえるための人手が」
 桂昭の後ろには数名の自警団が控えており、桂昭の合図でわらわらと店内に入ってくる。
「なん、何なんだ放せっ! 不敬だぞ貴様ら!!」
 ばたばたと巨体を揺らして暴れる呂雄だったが縛られた状態ではろくな抵抗にもならずすぐに二人の自警団に取り押さえられた。自警団のうち半分は梅が拘束していた店員の方へ向かう。
 玲馨の立っていた場所からでは自警団側の表情は見えなかった。梅に対して特に反応した素振りはない。しかし一方で、梅は頬を固く強張らせながらも、自警団の人間を睨むような或いはどこか羨むようにも見える目で追っている。彼が元自警団だと知ってしまったからそんな風に見えるのかも知れないが。
「お前ら……」
 店員が絶望して自警団を見上げる。それに対し「悪いな」と自警団は答え、短いやり取りの末彼らは店の奥へと上がり込んでいく。
「やめろ! その奥には何もない! 勝手に入るんじゃねぇよ!!」
 店員は血相を変えて力の限り叫んでいたが、それでは何かがあると言っているも同然だった。
 自警団は奥に何があるのかを予め知っていたのだろう。その足取りに迷いはなく、二人がかりで両脇から体を支えて一人の男──老人を連れて出てきた。
「あ、ああ……親父……っ」
 店員の若い見た目に反して彼が父と呼んだ男は随分と歳を取って見えた。ひょっとすると実年齢はもっと若いのかも知れないが、見た目には六十以上に見える。
 頬は痩せこけ視点は定まらず、開いた口の端からは涎が垂れたままになっている。何かの病に罹っている事は一目瞭然だ。
 きっと二年前の姿は見る影もなくなっていたのだろう、梅の顔にも隠しきれない驚愕が滲んでいた。しかしその目に労るような様子はない。まるで仇が知らぬ間に自滅していたかのような、老いさらばえた姿をどこか嘲弄するようだった。
 最初に呂雄が、続いて店主が外に連れ出され、父親が捕らえられた事でとうとう観念したのか一言も話さなくなった店員は自警団に軽く縄を引かれただけで自らの足で歩き出て行った。
 店内に痛いくらいの沈黙が下りる。それを破ったのは一人場違いに明るく話す桂昭だ。
「ご苦労様でした。陛下は良い宦官をお持ちだ」
「いえ。あなたの協力があったからこそです。──それで、私たちに説明は頂けるのでしょうか?」
 酒に酔っていない素面の状態の桂昭と対するのはこれが初めてだ。酒の影響がなくなった桂昭からは人間らしい隙のようなものが消え失せて、底知れない気味の悪さを覚える。
「私が話すまでもないようですねぇ。そちらの宦官は概ね察しがついているようですよ?」
 そちら、と言って桂昭は視線を梅に投げる。水を向けられた梅は「げっ」というような顔をした後に「まぁ」と曖昧に頷いた。
「この場に居合わせたのは、市井に見張りを立たせていたからですよ。この近辺の座商を調べる人間が現れたらその者たちに協力し、私を呼ぶようにお願いしていました」
 手柄を確実に自分のものにするため? それなら自警団についていき、呂雄たちを禁軍に引き渡す時に桂昭自ら事情を説明しに行くだろう。
「納得してないような顔ですなぁ。あんた方が罪人を連れて行ったとして、出自やら今の職業やら聞かれても答えられますまい?」
 その通りだ。もちろん事前にそれらしい言い訳は考えてきてある。要は戊陽の名前を出してしまえば皇帝直属の機関である禁軍は玲馨や梅を捕らえる訳にはいかなくなる。しかし、どんなに皇帝の直属と言っても情報は必ず洩れるもので、「呂雄を捕らえた裏には皇帝の影あり」などという噂が広まれば戊陽はその一派から恨みを買う事になるのだ。今回の桂昭の機転はそれを未然に防いだという事になる。
「私はね、陛下のお考えに深く、それはもう深く賛同したんですよ」
 口元には笑みを湛え、手慰めに自分の顎鬚を擦る。その目には獲物を狙う獣のような鋭さが宿っていた。
「陛下の御世に不要な人間を取り除く。それくらいしか私には能がありません。陛下が政をなさる上で、多少穴がある方が玉座からの見晴らしも良いというもんでしょう」
 その空いた穴に据える後釜まで桂昭の頭の中にはあるのだろうか。その人間たちは皆桂昭の息のかかった官吏たちなのだろうか。
 この男は、新たな「林隆宸」に、尚書令の座に座りたいという野望を抱えているのだろうか──。疑問は尽きないが男に直接問いただす訳にもいかない。
「さて、そろそろお暇致しましょうか。朝議を無断で抜けてしまったので上司に怒られますなぁ」
 はっはっはと豪快に笑って男は去っていく。終始芝居じみた言動は最後まで桂昭の真意を探らせなかった。




 城へと戻る道中で、梅は今回の事で彼の知っている事を玲馨に話した。
 小間物屋の店主は嘗て自警団に居た男で、年齢と自警団としての経歴の長さから威張り散らして若手を威圧し自分の配下に置いていたという。店は専ら妻と息子に任せきりで、店主はろくな成果を挙げるでもなく長年自警団の癌となっていた。
 今回の事で自警団が桂昭に協力したのは、小間物屋の店主に対して個人的な恨みを募らせていた連中が中心となって独自に動いたもの。一官吏に自警団を動かすような権限などあるはずがないので、互いに利益を得るための一時的な協力関係だったのだろう。
「あの顎鬚官吏にとっちゃ、太っちょ官吏だけ捕まえて小間物屋が残り続けるのはまずかったんだろうさ」
 塩を売って得た金は呂雄に入り続ける可能性があるからだ。また、金とは時に力にもなる。貴族でありながら商いにも手を付けているというのは存外厄介な存在なのだろう。
「ところで、二年前の窃盗事件とは何の事だ? 塩が盗まれたように見せかけたという自作自演の。あれも今回の事に何か関係しているのか?」
「それは……関係無ぇんじゃねぇか? あの太っちょが勝手にべらべら口を滑らせただけだろう」
 梅の口調は淡々としている。
「もしかして、お前の冤罪は──」
「んな事より、顎鬚官吏、あいつはまずいだろ」
 あからさまに話題を逸らされたが、梅の過去を悪戯に暴く必要はないだろうと考えて彼の話に乗ってやる事にする。
「どうまずい?」
「何で俺の事なんざ知ってんのかって事よ。俺は一応表向きは罪を犯して取っ捕まって宮刑になったただの下級宦官だぜ? なのにあのおっさんは俺が元自警団で小間物屋の店主と面識があるって事まで知ってやがった。まずくないはずねぇだろ」
 まさか宦官を全て把握しているという訳ではないだろう。特定の範囲に絞って調べているのだとしたら──。
「陛下の周辺を調査しているのだろうな」
 梅は「へっ」と鼻で笑うようにして吐き捨てる。面倒な事に巻き込まれたとでも考えているのかもしれない。事情はどうあれ冤罪の過去を他人に暴かれるのも良い気分ではないだろう。
 戊陽の周辺を調査している人間は、恐らく桂昭だけではない。少なからず日々勢力争いのような事は朝議の場で行われているのだから、敵味方問わず情報はあるだけ有利に働く。これをもっと縮小して更に感情的にさせたものは後宮の中にだってあったのだから、今更と言えば今更だった。
 そうだとしても、桂昭の持つ情報の幅広さは、やはり正体の見えない大きな闇を相手にしているようで不気味だった。
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